若年寄・京極備前守高久
長谷川平蔵のうしろ楯だったと『鬼平犯科帳』に書かれている丹後峰山藩主・京極備前守高久(1万千余石)には、不明なところが多い。
というのも、城下町の峰山町が1927年の丹後大震災による火災で全町が焦土と化したとき、郷土史編纂中だった郷土史家が集めていた貴重な史料もろとも焼死、その後の郷土史編纂事業がきわめて困難な状態になったからだ。
そんな状況のもとで編纂された『峰山郷土史』は、高久が天明8年(1788)6月に60歳で若年寄に召されて政務に参与することになったことを告げたあと、
「寛政2年(1790)11月22日になって、急に病気を口実に、若年寄の職を辞退してしまった。将軍家斎は、高久の実直を惜しんで、侍医に命じて診断させたが、出仕にさしつかえる程ではなかったので、同職の堀田摂津守(近江堅田藩主。1万石。33歳)をして内々様子をさぐらせたところ、いつかの登城の際、何か重大な落度があって、幕府の重職にいては武士道が立たぬという事情がわかった(詳細は不明)」
と書いている。
『峰山郷土史』が不明としている高久の辞職願いの真相を、彼を若年寄に抜擢した老中筆頭・定信の隠密の報告書『よしの冊子』が、同年8月20日の大嵐の日に登城時、下乗のところで定信の駕籠がやってきたので、あわてて桐油合羽のまま駕籠を降りたが中に刀を忘れた。
かつて三浦志摩侯(下野壬生藩主。2万5千石。寛永期の若年寄)が自邸に刀を忘れて辞職した前例があり、ことが表立てば辞職しなければすまないと考えたとする説と、10月14日に定信が何ごとかを評議するために若年寄を召集したとき、京極高久へは声がかけられなかったことを不服とした仮病説がある。
後者とすると、そのふてくされは筋ちがいといえそう。この日の議題は、書院番頭・石川大隅守(4千石。37歳)の与頭(くみがしら)の欠員補充に鵜飼左京(不明)をあてるか、瀬名孫助(廩米 300俵。40歳)か、だった。
孫助は高久の実弟だったので定信があえて高久に召集をかけなかったのだ。
病気を表向きの理由にした高久の逼塞のことを聞いた長谷川平蔵がかたわらの与力へもらした。
「いったいに峰山侯(高久)は若年寄の地位をかさに、身内の立身におこだわりになりすぎる。大岡家(千石)へ養子に入られたご次弟・次郎兵衛直往(なおみち)どのの息・直孝(34歳)どのを放鷹のお供へ推薦したり、ご舎弟で池田新兵衛(廩米 300俵)方へ養子にお入りになった富郷(とみさと。39歳)どのを大番へ押しこんだり…。まわりの目は予想以上にこのことにこだわるものだから、身内びいきはほどほどにしておかないと、な」
小企業主で一族は雇わないと公約、従業員の信頼をえている友人もいる。彼らがやる気をなくするのは、同族がポストを独占しているときだ。
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