カテゴリー「080おまさ」の記事

2012.06.30

おまさ、[誘拐](12)

誘拐]の1年前――すなわち[炎の色]でのお(なつ)、およびおまさに、いろんな意味でかかわりがありそうなあたりに網をはってみた。

えっ? どうして松平伊豆守信明(のぶあきら 35歳 三河・吉田藩主 7万石)がおおまさとかかわりがあるの?……訊ないでほしかったなあ。

2、3日前に書いたとおり、松平定信(さだのぶ 36歳=寛政5年 白河藩主 11j万石)が前年――寛政5年(1793)7月23日に将軍補佐と老中首座を解職されたので、平蔵(へいぞう 50歳=寛政7年)としては功績をゆがめて評価する上役がいなくなり、頭上の重っくるしい黒雲が晴れた気分になっていたところであった。

その分、おまさ救出のためにめぐらす案が、なんの制約もなしに立てられたとおもうのだが----。

それはともかく、いささか不安なのは伊豆守信明の寛政6年の年齢である。
寛政重修l諸家譜豊橋市史』は側室が産んだ男子なので幕府にとどけなかったとし、当主・信礼(のぶまや 享年34歳)が若死したので、幕府に「丈夫届」をだして菊之丞(のち信明)を世子としたと。
「上部届」の委細は下記【参照】を。

参照】2012年1月6日[「朝会」の謎] (

(のぶあきら 32歳 三河・吉田藩主 7万石)が正しい。

が、伊豆守信明が36歳であろうと33歳であろうと、おまさの気持ちにはまったくかかわりはない。


炎の色]で〔峰山〕一味と〔荒神〕のお一味が醤油酢問屋〔野田屋〕卯兵衛方を襲うという夜、

寝床へ入って両眼を閉じたとき、おまさの胸の内は、
(荒神のお頭だけは、御縄にかけたくない)
このおもいが、込みあげてきて、消えなくなってしまった。
捕らえられれば、いかに女といえども盗賊の首領だ。
打ち首は、まぬがれまい。
(けれど、到底、逃げることはできないだろう)
おまさは知らず知らず、左手て゛右の二の腕を摩(さす)っていた。
お夏に摩られていたときの感触とは、まるでちがう。(文庫巻23[炎の色]p254 新装版p  )


そのうちにおまさは自分の乳房をつかんでいた。
おまさの心の動揺であった。


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2012.06.29

おまさ、[誘拐](11)

当ブログ[『鬼平犯科帳』Who's Who]を立ち上げて3、4年のうちはのんびりとすすめていた。

しょっちゅ、わき道へそれては落ち穂でも拾うみたいに、銕三郎(てつさぶろう)の育った時代を横見しいしい楽しんで歩くことも辞さなかった。
2006年11月26日前後には雑史書『甲子夜話』なんかも大真面目で立ち読みしている。

参照】2006年11月26日[『甲子夜話』巻1―26] 

大石慎三郎さんは『田沼意次の時代』(岩波文庫)で、「田沼時代を知るには好適の史料とされ、田沼時代を語る場合には必ずといってよいほど引用されている史料である」が、「問題の多い史料」であって、とくに田沼関連の文章には要注意---とする。

その根拠として、「彼の叔母、戸籍上では妹は、本多弾正大弼忠籌(ただかず 陸奥・泉藩主 2万石)の室(妻)となっている」「この本多忠籌は、田沼意次の政敵である松平定信の最大の〔信友〕」であった。

「さらに、彼自身の室松平氏伊豆守信礼が女となっている」が、その兄は松平伊豆守信明(のぶあきら 三河・吉田藩主 7万石)で、「忠籌と並んで松平定信を支えた二本柱」

そんなわけで、静山の筆が田沼意次におよぶときには、公正さを欠くと。いや、悪意に満ちた捏造があるといったほうが、より実体にちかいかもしれない。

などとつぶやいている。

大石慎三郎さんの親身なご忠告を高澤憲治さんもそのまま服膺「松平定信政権崩壊への道筋――松平定信と一橋治済・松平信明・本多忠籌との関わり方を中心に―― 」( 国史学 第164号 1998.10)に、定信信明の関係を次のように紹介している。


松平信明(三河吉田七〇〇〇〇石)は、家祖の信綱および三代あとの信祝が老中を勤めた名門に生まれた。

この誕生秘話については、

参照

だが、信祝の子信復は無役、孫で信明の父である信礼は奏者番で死去したこことや、信明の婚約者および彼女の死後正室に迎えた女性の父が老中経験者(酒井忠恭、井上正経)であることは、彼の老中就任への同家の熱い期待をうかがわせる。


このあたり、学者の紀稿文にしては想像力がなまなましい。
大名家の婚姻の利得の一つは、たしかに将来の地位であちたのであろう。
それを史料と史料のあいだにこのようにずばっと挿入される高澤憲治先生の文章には胸がすく。
深井雅海先生の緻密な構成力、硬質文章とともに愛好しているゆえん。

さて余談は措いて――。


天明4年(1784)10月24日に奏者番に就任して老中への第一歩を踏み出したが、同5年に定信や忠籌らのグループに加盟した。


これは危険といえば危険な加盟であったかもしれない。
というのは前年の奏者番への指名は、今風の用語でいうと、田沼意次のチルドレンがための意味があった。
もし、御三家、一橋のクーデターじみた家治の臨終かくしが成功していなかったら、たいへんな報復をうけたかもしれない。

参照】2012年1月6日[朝会の謎] (
2012年3月7日[小笠原若狭守信喜(のぶよし)]) (

ここからが大石慎三郎さん説の踏襲――。


定信は信明に①忠籌の甥(肥前平戸藩主松浦 清)の室が信明の妹であり、②信明は田沼政権下で役職に就任したが、養母(父信礼の正室)の養父である駿河田中城藩主本多正珍は、田沼が関わった郡上騒動の審理で老中を罷免されており、③「才は徳にまさ」り「子にはことに服」す、ことから好感を抱いたとおもわれる。

参照】2007年8月12日~[徳川将軍政治権力の研究] () () () () () () () () () (10) (11) 


当ブログ、8年近く、延々ときてひょんなところで本多伯耆守正珍侯や郡上八幡事件、さらには松平伊豆守信明侯との糸がむすばれようとは、ちゅうすけ自身もえにしの妙に驚いている

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2012.06.28

おまさ、[誘拐](10)

文庫巻24[誘拐]に先だつ[炎の色]の舞台であった寛政6年(1794)にいささかこだわっているのは、この年は平蔵(へいぞう 49歳)にとって幸運のきざしがみえた時期とおもうからである。

平蔵が火盗改メ・本役を拝命して7年目に入って徳川幕府270年間に100名を超える幕臣が火盗改メ・本役に任じられている。
火災の多い冬場の助役(すけやく)も加えると火盗改メの経験者は250名以上にもなるが、この際は本役にかぎって話をすすめる。

本役を務めた仁で、平蔵以上に永くこの職にあった人物はいない。
平蔵がこの役に適していたという見方もあるが、ちゅうすけは同意しつつ反論する。

ありようは平蔵田沼意次(おきつぐ)派とおもわれたために、寛政5年7月23日まで老中首座であった松平定信(さだのぶ 白河藩主 11万石)に嫌われ、懲戒の意味もあり、あしかけ9年間も火盗改メに塩づけされたのであった。

いや、塩づけてすんでよかったかも知れない。
というのは、平蔵は番方(ばんかた 武官系)で政治・行政には縁遠かった。
役方(やくかた 行政官)であったらああいうアイデアの塊りみたいな気質だから、難癖をつけられて無役ではすまず、閉門あるいは半知(知行地半分召し上げ)くらいは食らっていたかも。

平蔵自身は、
(これほど盗賊を捕縛して市井の安穏につくしたのだから、つぎは町奉行━━)
と期待していたらしい風評ものこされている。 

その定信をご三家と組んで老中へ推しあげたのは一橋治済(はるさだ 37歳=天明7年)であったが、高澤憲治さん「松平定信政権崩壊への道筋━━松平定信と一橋治済・松平信明・本多忠籌との関わり方を中心に━━
( 国史学 第164号 1998.10)は、治済の驕慢な要求を定信が老職としてぴしゃりと拒否したことから溝がはじまったと先行きを暗示している。

その後も幕府からの借入金に対する一橋家の大幅な返済遅れとか、治済の子女の行儀作法教育の粗雑さなどについて定信の意見じみた書簡もあったりして、双方の対立は大きくなるばかりであった。

一方の定信(36歳=寛政5年)は、寛政改革をすすめる過程での辞職願いの多発を逆用されて寛政5年7月23日に受理されてしまった。

高澤さんの論及は題名どおり、寛政改革の3本柱といわれたほど 濃い盟友であった本多弾正将監忠籌(ただがず 55歳=寛政5年 陸奥・泉藩主 1万5000石)との対立、期待をかけていた松平伊豆守信明(のぶあきら 33歳=寛政5年 三河・吉田藩主 7万石) 不信感の訴えといった上下左右できしみを生じていたときの解任であった。

老中に首座なしでは決裁がすすまない。
家柄からいっても所領高からいっても信明がその任にふさわしいとおもわれていた。

信明平蔵に特別な先入観はもっていなかった。
盗賊逮捕のために下屋敷に2刻(4時間)ほど待機させてほしいと頼まれれぱ、家臣を派遣して手伝うほどの熱意であった。

辰蔵(たつぞう 25歳)が事件後に年長の妻・於:( ゆき 33歳/公けには26歳)へ自慢した。
「さすがは宰相どのの下屋敷だった。
三ッ半(真夜中1時)まではまがありましょうと、もてなしにだされた酒がなんと、駿府の銘酒〔老宿梅〕であったのには、一同おどろろいた。同心の木村忠吾さんなどは一生のうちにお目にかかるのはこのときだけと興奮状態だし、長岡藩の浪人・丹羽庄九郎どのは、これで並み以上の働きができると小柳さんの分にまで手をのばしていたよ」

「お義父(ちち)上のおかげですよ」
胸のうちで於:は声なしでいいながら、口から笑顔でこぼしていた言葉は、
「それはよろしゅうございましたなあ」
であった。

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2012.06.27

おまさ、[誘拐](9)

〔峰山(みねやま)〕の初蔵(はつぞう 50男)一派と〔荒神(こうじん)〕のお(なつ 25歳)一派が、箱崎町2丁目の醤油問屋〔野田屋〕卯兵衛方を襲う文庫巻23の中の長編[炎の色]を、このブログがその続編[誘拐]を書くというので、再読なさったファンの方々も多いと予想している。

もちろん、楽しみ方はそれぞれだから、聖典と離れた伸転をしているブログはブログ━━と割りきってお考えの向きの方もすくなくはあるまい。

たとえば、〔峰山〕組は2艘の荷舟に初蔵以下15人は入り堀へ、先発した〔荒神〕組17人は表戸から侵入するはずであったが、表戸組は向かいの松平伊豆守(信明 のぶあきら)の下屋敷(聖典旧版p262に中屋敷とあるのは近江屋板のミス。下屋敷)からあらわれた同心・小柳安五郎木村忠吾松永弥四郎岸井左馬之助丹羽庄九郎辰蔵に斬りまくられた。

峰山〕組は、平蔵(へいぞう 49歳)独りに、「貴様だけは許さぬ」と逃げる肩から背中を袈裟がけに割られた初蔵は堀へ、あとの賊たちも腕や片足を斬りおとされ、あげくのはてに船手方・向井将監(しょうげん)配下によって熊手などで全員捕らえられた。

なに、船手方━━平蔵(へいぞう 49歳)の内室・久栄(ひさえ 42歳)の父・大橋惣兵衛親英(ちかふさ 83 歳 200石)が7年前に船手頭で布衣の祝いをしたことを報告くしたっけ。
あのご老躰、いつまで船手頭を勤めていたのかな?

参照】2012年5月1日[義父・大橋与惣兵衛親英が布衣(ほい) ]

疑念を質(ただ)すために『寛政譜』をあらためてみたら、なんとこの事件の2年後の寛政8年春まで現役を勤めていたではないか。
平蔵から依頼され、

「婿どのの勇み姿を拝ませてもらおう」

老骨に鞭うち、直接に指揮をとったかもしれない。
そうおもって読むのも一つのたのしみであろう。

もっとも、ちゅうすけは、事件の年代からいって、平蔵を軽視していた松平定信が解職された翌年のこの事件、宰相の地位に就いた伊豆守平蔵をどう遇したかのほうに興味がある。
病室から外へでられるようになったら、図書館がよいをして調べてみたいことの一つである。

参照】松平伊豆守信明の個人譜は、2012年1月7日[「朝会」の謎] (

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2012.06.26

おまさ、[誘拐](8)

(りょう 享年33歳)という不思議なキャラのことを書こうとして、わき道へそれてしまった。

銕三郎(てつさぶろう 23歳=当時)は、盗賊の軍者(ぐんしゃ)をしていたお(29歳=当時)がお(かつ 27歳=当時)の立ち役であることはこころえていたから、そういう色模様抜きでおの知恵を借りようと、向島の寮を訪問したときのことであった。

明和3年(1766)のことであったから、いまの寛政7年(1795)からいうと30年ちかくも前のことで、銕三郎は先ゆき、〔荒神(こうじん)〕のお(なつ)に2度もかかわるなどと予見もしていなかった。

参照】20081116~[宣雄の同僚・先手組頭]() () () () (

変な表現だが、銕三郎はおの最初の男になってしまった。
もちろん、最後の男でもあった。

文庫巻23の[炎の色]でおまさ五郎蔵に語ったおの印象をまた聴きをすると、一瞬にしておをおんなおとこと推察したが五郎蔵にはふせ、五郎蔵の義理の父にあたる〔形(ふながた)〕の宗平(そうへえ 70代)にいいつけ、物乞い姿で弥勒寺門前に張りこませた。

門前のお(くま 70歳近い)の茶店〔笹や〕に寄留しているおまさを訪ねてくるに違いないおの本性をたしかめさせるためであった。([炎の色]p149 新装版p   )

訪ねてきたおは、おまさの右腕を両手でつかみ、ゆっくりと摩(さす)った。

おまさの躰が、かっと熱くなった。([炎の色]p146 新装版p   )
おまさ、37歳。
、25歳。

お腹がすいたというおのためにおまさが菜飯をつくっているそぱで、おは袂(たもと)からだした紙を引き裂(さ)き、竈から火を移しては燃えつきる炎のさまをうっとりと眺めていた。

それからしばらく措いた(旧暦)7 月初めの晩、奥方久栄(ひさえ 42歳)は、夫・平蔵が紙を細長く裂いて火鉢に落とし、めらめらと燃え上がるさまをむずかしい顔で瞶(み)つめている姿を見た。

二度目におの〔笹や〕へあらわれたおが、袖口からいれた指先で大胆にもおまさの乳房をなぶり、いまの仕事(つとめ)が終わった来年には、上方(かみがた)でいっしょに暮らそうと口説いたことは、たいていの鬼平ファンは記憶していよう。

 

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2012.06.24

おまさ、[誘拐](6)

未完の長編[誘拐]でのおまさの救出という場面を実現するにあたり、もっとも関連がありそうな〔荒神(こうじん〕のおなつ 26歳)という〔おんなおとこ〕のものの考え方に影響をおよぼしたとおもわれる人物たちの周囲をめぐっている。

の父親は、〔荒神こうじん)〕の助太郎(すけたろう)という盗賊の首領であった。
助太郎は、[炎の色]事件の13年ほど前に病死している。
寛政6年(1794)の夏が、13回忌にあたっていたらしい。

助太郎という首領(かしら)はいっぷう変わっていた。
旅が好きで、北は蝦夷(えぞ)から南は九州まで、そのときどきに応じて旅をしがてら――ということは好奇心が旺盛で土地々々の風土、人情、習慣に触れては楽しむとともに、つとめをするのにふさわしい商家を選別(えら)んでいた。

「こんどは東海道の上り筋、駿府と掛川だ」
「宇都宮から日光----もっともおいしい道筋に盗人宿はもうけてある」
こう告げるときの助太郎の采配ぶりは、まことに颯爽ちるものであったという。

もっとも、候補に立てても実際に押しいったのはその中の、1割あるかなしで、やりとげるまでの手だて――要員の人選から引きこみの潜入、連絡(つなぎ)の手配と実行季節、退路の道順や収穫の分配などを空想するのを楽しんでいたともいえる。

-盗まれて難儀するものへは、手を出さぬこと。
-つとめをするとき、人を殺傷せぬこと。
-女を手ごめにせぬこと。

三ヶ条を守りながらの押しいりだとそんなに頻繁には実行できない。

選出した店舗は、昼間の店頭の情景から、どうやって探りだすのか、金蔵の場所から部屋々々の配置ぐあいまで懐帳面に描いていた。
そんな帳面を土地々々の盗人宿の奥の床の間の天井裏に秘蔵していた。

の母親を、ちゅうすけはお賀茂(かも)と決めこんできたが、まったくの人違いをやっていたかもしれないし、あたっていたかもしれない。
池波さんが編集者に洩らした形跡はない。

参照】2008年3月27日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (10

ただ、手がかりは、おは「隠し子」であったというひと言だけだ。([炎の色] p73 新装版p )

ただ、おんなおとこについては、聖典の文庫巻12[白蝮]に津山薫という先走雌馬がいる。

神保町にそれ専門の書店があると聴いたが、外出もままならなくなったいま、関連本を探しにでることもできなくなった。

銕三郎がこのブログでいっとう最初に出会った盗賊の首領が〔荒神〕の助太郎であったことは、偶然のようで案外的を射ていたかもしれないと、最近ではおもうようになった。

2人目は〔蓑火()〕の喜之助(きのすけ)であったか〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう )であったか、ちょっとはっきりしない。
(いや、検索すればわかるはずだが、コンピューターはその手の検索には弱い。
ま、いずれ分明しよう)

参照】22008年7月25日[明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)] (

このとき銕三郎喜之助から、煙草の益を説かれるが、結局、一生、煙管を手にしないですませた。
ちゅうすけ喜之助から人の育て方を学んだ。

納得してもらえまいが、ちゅうすけは、もう一つの毎日ブログの[創造と環境]で紹介している、20世紀の世界の広告革命の偉業を果たしたビッグ・ネイム――ビル・バーンバックさんを喜之助に投影した。

意外におもう人は、[創造と環境] http://d.hatena.ne.jp/chuukyuu/ にアクセスしてごらんください。

話がわき道へそれた。
本道へ戻ろう。

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2012.06.23

おまさ、[誘拐](5)

平野屋源助と茂兵衛は、峰山の初蔵について知るところはなかったが、荒神の助太郎の名は知っていた。
「なかなか立派な、ものの道理をわきまえたお頭だったようですよ」と茂兵衛がいえば、源助も、
「私が京で引退(ひき)祝いをいたしましたときに、会ったことはございませんが、使いのものをよこしてくれましてな、金五十両(800万円)の祝(いわ)い金(がね)を贈ってくれましてございます」
「つきあいもないのにか」
「はい。向こうは向こうで、私の評判をいろいろと耳にしていて、私を好(す)いていてくれたからでございましょう」
「なるほど。荒神の助太郎とは、そうした男であったか……」([炎の色]p93 新装版p )


末尾の一行は平蔵(へいぞう 49歳)の感嘆であった。

そういえば、このブログで平蔵(へいぞう 28歳)を称してからは、助太郎(すけたろう)を目にしていない。

じかに会話をかわしたのは14歳のときに箱根宿の芦の湖畔でと、18歳の小田原城下で透頂香「ういろう」の店の前であった。

あとは、〔荒神(こうじん)〕一味とおもわれる賊が押し入った形跡を探ったのと、じかに助太郎に会って風貌をおぼえていた下僕・太作(たさく)が宇都宮城下で見かけて手くばりしたのと、息・辰蔵(たつぞう 13歳)が、お賀茂(かも)とおもわれるおんなと大塚吹上(ふきあげ)の富士見坂上の茶菓子舗〔高瀬川〕ですれちがったぐらいであった。

西久保の京扇の店〔平野屋〕の番頭・茂兵衛(もへえ 40がらみ)は、かつては大盗・〔帯川(おびかわ)〕の源助(げんすけ 70歳前後)の敏腕の軍師であり右腕の〔馬伏まぶせ)〕の茂兵衛どんとして一目(いちもく)おかれていた。

その茂兵衛が「ものの道理をわきまえたお頭」ということが納得できる風評をなにか耳にしたのであろう。

「ものの道理」とは、約束を守り、金銭の貸し借りが清らかで、分をわきまえて出しゃばらず、長幼の序をたがえず、要するにはた迷惑をかけない――といったところであろうか。
いや、上の一つだってきちんと行うのはかなりむつかしいのだが。

源助の評価はかなり具体的である。
相手を認める、重んじる、喜びを共にする――とりわけ、〔帯川〕や〔荒神〕のような職業(?)の場合は、無事に引退できた、畳の上で死ねたというのは最高の人生だったのはず。
そのことを心底から銘じあっている同士――としての祝い金(がね)の交歓であったろう。

もっとも、源助のほうが、13年前に香典を届けたかどうかはわからないとしても……。
(引退祝いに50両は納得できるが、香典はいくらであろう? 50両の香典というのは、いくらなんでも道理にはす゜れているとおもうが――)
一瞬の妄想を平蔵は打ちけし、源助主従にほほえんだ。

志――あるいは人生哲学が似ている、尊敬しあえる、という先輩、同輩、後輩がいるだけでも、生まれてよかったと思える。
幸せである。

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2012.06.22

おまさ、[誘拐](4)

「〔三河そごう)の定右衛門(さだえもん)という盗賊の首領について、引き継がれている留め書きをのこらずに集めさせておいてくれ」
平蔵(へいぞう 49歳)が(たて) 伊蔵(いぞう 40歳 5年前に朔蔵改め)筆頭与力に命じたのは、[炎の色]で密偵・おまさ(37歳)が〔荒神こうじん)のお( なつ 25歳)にあった翌日の夕刻であった。

平蔵が〔三河〕の定右衛門に興味をもったのは、〔荒神(こうじん)〕の二代目に就いたおが、定右衛門の下で盗(つとめ)の修行を積んだと、おまさに打ちあけたからであった。(文庫巻23[炎の色] p146  新装版p142)

ちゅうすけからのお願い】このコンテンツは有明の緩和ケアの入院病室でしたためています。2週間の缶詰(予定)です。新装版を手元に持参していません。新装版でそろえていらっしゃるファンの方、新装版の当該ページをコメント欄へご教示のほどを。

鬼平犯科帳』を楽曲にたとえると、文庫24巻を通してあるときは強く、あるときは静かに流れている旋律の一つに、盗人(つとめにん)の3ヶ条の掟があるといえようか。

一、盗まれて難儀するものへは、手を出さぬこと。
一、つとめをするとき、人を殺傷せぬこと。
一、女を手ごめにせぬこと。

読み手はまず、この盗賊の頭は3ヶ条を守りとおしているかどうかで、その仁への好悪・愛憎の度合い決めてかかることが多い。

三河〕の定右衛門は3ヶ条を守りとおしてきたらしいが、寛政5年(1793)に病死し、息子が二代目を称しているものの、3ヶ条を踏襲しているかどうかは不明。

それというのも、初代・〔三河〕の定右衛門は、将軍の住まいがある江戸で盗み(つとめ)をするのは怖れおおいといい、府内はもちろん、駿府から東へは足をふみいれていないから、業績がほとんど記録されていなかった。

しかし、その薫陶を受けた〔荒神〕のおは、昨年の[炎の色]事件では〔峰山(みねやま)の初蔵(はつぞう)と組んで江戸での盗みに手をつけた。

と二代目・〔三河〕の定右衛門とのあいだはどうなっているのであろうか?

おまさの誘拐に二代目はかかわっているのか?

荒神〕の助太郎の教えは、おにどれくらいの影響をのこしているか?

ここでちゅうすけの判断に迷いの粉をふりかけたのが、元盗賊・〔帯川おびかわ)〕の源助(げんすけ)こと、平野屋源助の〔荒神〕の助太郎観であった。(文庫巻24[炎の色]p93 新装版p91)

源助は、ちゅうすけのとはいささか異なる見方をしていた。

   

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2012.06.21

おまさ、[誘拐](3)

盗賊・〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう)と平蔵銕三郎 てつさぶろう)とのかかわりは、ざっと昨日、さらえておいた。

聖典『鬼平犯科帳』に、助太郎のむすめの〔荒神(こうじん)〕のお(なつ 25歳)が登場してくるのは、文庫長編[炎の色]をもって嚆矢(こうし)とする。p138 新装版p133

ちゅうすけのつぶやき】おが、「通り名(呼び名ともいう)」を変えてくれていたら、出生の地とか、いろいろ類推ができるのだが、〔荒神〕では、近衛河原の荒神口の店の〔荒神屋〕で生まれたか育ったかしたとしかおもえない。それだと、一味の者たちに隠しておけなかったとも邪推してしまう。

だけではなく、父親の助太郎当人が顔をみせるのも[炎の色]が最初である。

読み切り短編の連作形式である『犯科帳』とすると、どれが先、どれが次という見方は不自然で、次から次へとユニークな盗人(つとめにん)をくりだす池波さんの創作力に、読み手としては感嘆していればいいことはいうまでもない。

そうなのだが、おまさ助太郎のえにし、おおまさのきっかけのつくり方にも目を配っておくべきであろう。

おまさは17歳のときに、〔盗人酒屋〕の店主の父親・〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 享年51歳)と死別する。

参照】2009年11月30日~[おまさが消えた] () (

「流れづとめ」の忠助はかつてのゆかりで、盗賊の首領・〔法楽寺ほうらくじ)〕)の直右衛門(なおえもん)と親しくしていたので、忠助の歿後、おまさ直右衛門の手くばりで〔乙畑(おつばた)〕の源八(げんぱち)一味の引きこみとして鍛えられた。

一人前のおんな賊になったおまさは、銕三郎がいた京都にあこがれ、荒神さんへの参道口に木綿類の店〔荒神屋〕をかくれ蓑にしていた助太郎のところに身を寄せ、名古屋での仕事のときに、連絡(つなぎ)役・〔夜鴉(よがらす)〕の仙之助(せんのすけ)にしびれ薬入れの酒で躰の自由を奪われ、レイプされたという、まさに唾棄したいような記憶があった。

荒神〕の助太郎一味にいたのは16,7年前だから、もしかしたら当時10歳になるかならぬかの少女であったおに会っていたかもしれないが、おまさにはその記憶がない。

参照】2009年9月13日~[同心・加賀美千蔵] () () () () () (


とすると、おは別腹の子だったのであろうか。
いつ、どのようにして「おんなおとこ」に転じたのであろうか。
男を受けいれなくなるのは、まるでボロ人形でも抱いていめような無残なあつかいをうけた結果であることが多いとはいわれているが……。
[炎の色]に描かれている世をすねたような人生観は、どこからきたのであろうか。

本格派の初代・〔三河そごう)〕の定右衛門(さだえもん)に鍛えられたというが、どんなしつけであったのだろう?

疑念と興味はつきない。

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2012.06.20

おまさ、[誘拐](2)

さて、聖典『鬼平犯科帳』でおまさが誘拐されたのは、寛政なん年であったろう?

この特定は、じつは、難事である。

史実の長谷川平蔵は、寛政7年(1795)5月10日(旧暦)に50歳で歿したと、菩提寺の戒行寺の霊位簿にある。

寛政重修諸家譜』には同年同月19日となっているが、これは公けの忌日である。
平蔵は現役の火盗改メ(先手・弓の2番手組頭)のまま病死しているから、退職願いを幕府に提出し、許可された日が公の歿日として認められ、記録されるきまりであった。

聖典『犯科帳』の130余篇の物語を、書かれている季節を追って並べていくと、寛政7年(1795)5月の事件は、文庫巻13の[熱海みやげの宝物]がその時期にあたる。
ということは、[熱海みやげの宝物]以降の物語は、じつは、平蔵歿後のことになり、未完の[誘拐]も当然以降にはいる。

というわけで、平蔵の[誘拐]での年齢を50歳とすると、おまさは38歳となり、平蔵の死の前年49歳の篇とみなすとおまさは37歳でなければならない。

熱海みやげの宝物]以後の篇で作中キャラクターは、加齢しては理があわなくなる。

そういう事情だから、平蔵49~50歳、おまさ37~38歳として考察をすすめることにしたい。
ほかのキャラも上にならえ! 


誘拐]では、〔荒神(こうじん)〕のおなつ)当人はまだ姿をあらわしていない。
が、前篇の[炎の色]で25歳とあるから、[誘拐]では26歳とみておく。

聖典では、〔荒神〕のおの父・助太郎(すけたろう)は13年前に歿したことになってい、その残党でおをかついで関東の盗賊{峰山みねやま)〕の初蔵(はつぞう)一味と組む、〔夜鴉(よがらす)〕の仙之助(せんのすけ)、〔袖巻(そでまき)〕の半七(はんしち)らは一網打尽、処刑されてしまう。

当ブログでは、未完[誘拐]とのかかわりを前提にして、〔荒神〕の助太郎銕三郎を34年前に会わせた。

参照】2007年7月14日~[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] () (
2007年7月16日[仮初(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)〕
2007年7月17日~[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] () (
2007年12月28日~[与詩をむかえに]  () () (10) (11) (12
2007年7月14日~〔荒神〕の助太郎] (5) (6) (7) (8) () (10

2022年2月23日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎の

助太郎にこだわったのは、おのおとこおんなの性癖が母親・賀茂(かも)の血をひいているのではないかと推察したからであった。

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