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2005.02.05

〔帯川(おびかわ)〕の源助

『鬼平犯科帳』文庫巻11の[穴]で、盗みの血がおさまらず、隣家の化粧品店〔壺屋〕(史実は菓子舗で白粉もあつかった)へ、穴づたいに忍び込み、盗んだ金をそっくり、また返しにし忍んで行った引退盗賊。かつては、〔帯川〕一味を率いて西国でかせぎまくった首領。
長編巻15[雲竜剣]などでも、火盗改メに協力している。

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年齢・容姿:70がらみ。鶴のように痩せ、白髪。湯あがりのようにつやつやしい顔色。
生国:信濃国伊那郡南原村和合帯川郷(現・長野県下伊那郡阿南町和合 帯川)
阿南町の帯川を見つけたのは、学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス1期生の堀眞治郎さんである。かつての南原村地区と推定した根拠は、『旧高旧領』の知久頼鎌の知行地に「阿島村」と「南原村」があり、合併して「阿南町」となったのであろうと見た(史実は、1957年7月1日に大下条村、旦開(あさげ)村(明治8年帯川を合併)、和合村、富草村が合併した町制施行)。
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南北に長い阿南町 帯川郷は最下から次の赤スポット

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阿南町部分拡大 赤スポット---下から新野、帯川、早稲田郷

探索の発端:西の久保の菓子舗〔壺屋〕の盗難ともいえない不可思議な事件に疑問を抱いた鬼平が、密偵・彦十を〔壺屋〕へ住み込ませたところ、床下から隣家の京扇店〔平野屋〕の主人・源助の部屋の押入れへ通じていることがわかった。

つぶやき:〔平野屋〕源助が、金を返しに行くとき、三方に金とともに、麦藁細工のねずみと、ねずみがかじったような跡をつけた川越産のさつまいもを載せた。その麦藁づくりのねずみは、大森の名産で、川崎大師へ参詣した帰途に求めたものだが、池波さんは、そのねずみを『江戸名所図会』の[大森の麦藁細工]の絵から拾った。

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0132大森の麦藁細工(『江戸名所図会』 塗り絵師:西尾 忠久)

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店内の向かって右隅棚にねずみが5匹

本郷3丁目の菓子舗〔壺屋〕が、その後の移転先---とは、店主・入倉芳郎さんの言。

学習院〔鬼平〕クラスの堀さんにとどいた、 「帯川関所」を解説した阿南町教育委員会のメール。

帯川関所について
遠州街道は、飯田市~下條村~阿南町新野~愛知県東栄町本郷へ通じる道です。
現在の国道 151号は遠州街道を沿った形になります。
帯川関所は現在の阿南町和合帯川地区にありました。昔の遠州街道です。
現在は畑になっており関所跡という看板しかありません。
寒川関所は、現在の阿南町和合心川地区にあり、昔の帯川村から現在の長野県平谷村へ通ずる道にありました。
以下は、『阿南町史』に記載の内容の抜粋です。

「知久規直 6歳の時、家康に謁し大久保忠世に預けられ、13才の時に廩米 300俵を給せられるようになり、22歳の時は関ヶ原の役に参戦し、慶長6年(1601)伊那郡本領の内3000石を給せられた。
そこで規直は、田村に入部し、後に阿嶋屋敷に移住する。
さらに、元和6年(1620)9月には、浪合・小野川・帯川・心川の4関を幕府から預かるようになった。
これは、江戸の守りとして、近江以東に55の関所が設けられ、主要道路はもちろん脇往還である三州街道や脇道等まで厳しく微行者を取り締まったのである。
阿南地区では和合・日吉・帯川の3ケ村が知久氏の預かり地となり支配されるようになり、延宝5年(1777)まで続いたのである。
以来知久氏はこれを支配して、明治維新に至った」

〔平野屋〕源助の番頭で、かつての配下〔馬伏〕の茂兵衛については、
(参照: 〔馬伏(まぶせ)〕の茂兵衛の項)
(参照: 鍵師(かぎし)の助治郎 の項)

2005年06月07日、下伊那郡阿南町を訪れた。松本駅前のバス・ターミナルを飯田行急行バスで朝6時40分発、。飯田駅からJR飯田線で天竜峡経由で天竜川ぞい、11時半近くに温田(ぬくた)駅下車。

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JR飯田線「温田(ぬくた)駅」

町役場総務課・町づくり推進室の澤田室長の車で天竜川に架かる南宮橋を西へわたり、起伏のはげしい山ぞいの舗装路151号線を上り下りしながら10分(3キロほど)南下し、右へ折れて帯川への斜面にへばりつくように点在している帯川集落へ。いまでは戸数10戸前後と。

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帯川集落の対岸から帯川をのぞむ。手前は作業小屋

かつての村高は正保4年(1647)にわずか10石。そんな耕地の少ない集落から源助のような飄々とした性格の仁が、よくもまあ、生まれたものである。
集落の西はずれの小平地に、かつての遠州往還に接して帯川関所跡の銘板が立てられていた。

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遠州往還の帯川関所跡の銘板 この右手が遠州往還跡

銘板の文章は、
「阿南町史跡 帯川関所跡
武田信玄西進にあたり、弘治2年(1556)遠州街道を押さえるため関所を作る。
関所跡は前方右側の畑にあり、面積畝18歩、江戸時代は、知久宇治あずかり、明治2年廃止となる」

司馬遼太郎さんの『覇王の家』は、信玄は通行料をとるためにいたるところに関所を設けたとある。これにたいして信長は中世的な遺物ともいえる関所を廃し、楽市楽座を設けて庶民を喜ばせたと。

余談を記すと、帯川関所跡の銘板のある小平所のすぐ下の家が、国語教育学者・西尾 実さんの生家と、澤田室長に教えられた。

阿南町のURL
http://www.town.anan.nagano.jp/

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コメント

帯川の源助
先生の話は面白いが、「現在は畑になっており関所跡という看板しかありません」と現場を実査しなければ判らないなと感心しています。
 ビデでは帯川の源助を坂上二郎さんが演じていますが「鶴のように痩せた」ではありませんが雰囲気をよく出しています。
 「鬼平犯科帳」の中では斬った張ったのないとても好きな話です。源助は捕まってから密偵としても活躍していますね。

投稿: edoaruki | 2005.02.05 09:33

edoaruki さん

そうでしたね。ビデオの〔穴〕の源助は、たしかに坂上二郎さんでした。

『鬼平犯科帳』の盗人の中でも、ユーモラスな点では5指に入る仁を、坂上さんはきちんと演じていますね。
あとは、〔伊砂〕の善八に扮した故フランキー堺さん。
それから、〔蓑火〕の喜之助の島田正吾さん。

「帯川関所」---「現在は畑になっており関所跡という看板しかありません」でも、ぜひ、訪ねてみたいところの一つです。教育委員会へ、最寄駅を問い合わせてみましょう。

投稿: ちゅうすけ | 2005.02.05 11:25

「帯川関所」は今は畑になってるんですね。
調べてみたら、帯川関所の跡には明治24年に帯川分教場というものが建てられたとか。
その後は移転/統合されて、現在の和合小学校になったようです。

何か資料残ってないのかしら・・・と考えてみたり。

投稿: KEI | 2005.02.08 12:55

KEIさん
さすがのリチーチ力ですね。

なるほど、帯川関所の跡を見つけるには、帯川分教場跡をさがせばいいのですね。

春になり、雪が解けたら、KEIさんのご教示を帯して、撮影に行ってきましょう。

もっとも、それ前に、地元の鬼平ファンの同志から写真がとどけは、もっとうれしいのですが。

投稿: ちゅうすけ | 2005.02.09 09:06

帯川の源助が居たとは時代小説の事と思います。国道151号線はその昔と違い関所跡を通らずに新野から売木川と和合川合流の和知野堰堤先までトンネルがぬけて居ます。他の時代小説には和知野城の事が書かれて居るのを読んだ記憶が有ります。西尾実先生の祖先はどこの出なのでしょうか。分教場は有りました。昭和28年正月新野雪祭りの帰りにそのそばの売木川にバスがスリップして落ち犠牲者が出た事が有りました。

投稿: 近藤 得 | 2008.09.14 22:52

>近藤 得さん
西尾 実先生のウィキペディアには、長野県出身としかありませんね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E5%AE%9F

車で案内してくださった町役場の総務課長さんに、ご生家は、寒川関所跡の標識板のある、すぐ下の家と、教えられました。

その時、寒川郷の戸数も、たしか5軒とか。

投稿: ちゅうすけ | 2008.09.15 13:48

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