〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛(3)
3日目。
まだ陽のあるうちに、高崎へ入り、城に近いあら町の旅籠〔豊田屋〕に部屋をとった、
高崎藩からは、参勤交代の往来のほとんどない季節で、本陣格の〔大黒屋〕九兵衛が空(す)いているからとすすめられていたが、あえて避けた。
〔大国屋〕には、一日先行していた火盗改メ方の同心・多田伴蔵(ばんぞう 41歳)が宿泊していた。
平蔵(へいぞう 32歳)は、〔豊田屋〕の一番番頭に、1刻(2時間)ほどのあいだでよいから、藩や多田からの問い合わせには、
「まだ、お着きではない」
と答えるように命じ、独りでふらりと町へでかけた。
蓮雀町、元紺屋町、田町を北へぬけ、九蔵町(くぞうまち)の塩売り店で、
「九蔵どのに、江戸の長谷川が参ったとお伝えありたい」
前もっていわれていたらしく、小僧がすっとんで奥へかけこみ、すぐに戻ってき、脇の三和土(たたき)の内通路から庭の離れへ導いた。
〔九蔵屋〕の九蔵は、平蔵と同じくらいの年配だが、相撲取りのような巨躯で、首の脂肪のせいか声がかん高かった。
「〔音羽(おとわ)の重右衛門(じゅうえもん 51歳)どんからいいつかっとりやす」
5両(80万円)のつつみをだし、
「手みやげ代わりにもならないほどのもので、かえって〔音羽〕の元締のお顔をつぶすようで、お恥ずかしいかぎりだが、お納め願いたい」
「お気づかい、痛みいりやす。高崎にご滞在中は、自分の家の者同様に、こき使ってくだせえ」
「お言葉にあまえ、この20日の警備、なにぶんともに---」
「委細は、〔音羽〕のから申しつかっておlやす。おまかせを---」
三国街道口であり、安中への中山道口でもある札の辻の高札をあらため、〔豊田屋〕へ戻ると、すでに多田同心と藩の南町奉行所の矢島同心が待っていた。
高崎藩の町奉行所は、江戸を見習い、南北に分かれて月ごとに交替で開いてい、それぞれ留役1、同心5が勤めていた。
ほかに牢屋同心3、助郷人馬改方2。
この月は、南が月番であった。
暗くならないうちにと、烏川の川原しつらえられた処刑場の矢来(やらい)囲いを下検分に誘った。
割り竹を組んだ矢来の柵が2重にしつらえられており、一方の端は袋の底のようにつながり、それより先へは行けなくなっていた。
つまり、入り口が出口をかねていたのである。
平蔵がうなずいた。
矢島同心が、磔(はりつけ)柱は明日のその時刻に運びこむこと、その後ろの矢来にかける黒い幕もその時に張ることになっていると告げた。
平蔵が訊いた。
「各町内の顔役たちの手くばりも、ぬかりないでしょうな?」
矢島同心ずうなずき、
「町方の顔役は組頭(くみがしら)といい、町内のほとんどの組子と顔なじみです。捕り方の人数も十分に集めてあります」
「けっこう。矢来の外側の見張りは、〔九蔵屋〕の手のものがあたるから、奉行所側の捕り方は、出口をしっかり固めていただきたい」
【参照】2010年8月27日~[〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛] (1) (2) (4) (5)
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