カテゴリー「003長谷川備中守宣雄」の記事

2010.05.25

亡父・宣雄の三回忌(3)

「腹の中の子に、障(さわ)りはないのか?」
自分の位置に枕を置き、するりとはいってきた久栄(ひさえ 23歳)の腹に、掌(たなごころ)をあてて平蔵(へいぞう 30歳)がたしかめた。

亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)の三回忌の供養が終わり、親類たちも引きあげ、辰蔵(たつぞう 6歳)、(はつ 3歳)も寝入り、平蔵もほっとして横になっていたときであった。

「お隣りの松田さまの於千華(ちか 40歳)さまから、5手ほど教わっております。今夜はその3で---」
「その5までも、あるのか? しかし、於千華どのは、新三郎どの一人しか産んではいないのに、ずいぶんと究めたものだな」
「このことが好きおなごなら、とことん究めます」
久栄、お前は好きなのか」
「はい。好きで好きでたまりませぬ」
平蔵の手首をとり、指をみちびいた。

しぱらく、お互いの指でじゃれあっている。

「ご本家の於佐兎(さと 60歳)大伯母さまが、そっとお洩らしなりましたが、あちらは、いまでもだそうでございますよ」
「いつの間に、そんな話を交わしたのだ?」
「お水をご所望で、調理場へごあんないしたときに---」
「油断も隙もあったものではない」

「於佐兎大伯母さまは、お姑さまのことを、脇腹を断ちきったとお誉めでしたが、お舅どのはずっと、お姑さまだけでしたのでしょうか?」
久栄は、どう見ている?」
「長谷川家の血---というより、武家方は、子が多いほどよろしいのですから---」
「長谷川家の血?」
「よそに、お子だけはおつくりになりませぬよう。(てつ)さまのお子は、私が、もういい、といわれるほど産みますゆえ---」

息づかいが荒くなってきていた久栄が、薄い上がけの布団をはぎすて、寝衣の裾をからげ、うつ伏せになるとひざで支えて尻をあげ、
「その3でございます」

_360_4
(国芳『江戸錦吾妻文庫』部分 イメージ)

平蔵がその3を終え、久栄にかぶさった。

横になって向きあい、互いの躰をゆっくりと撫ぜあいながら、
「お舅どのは、このことよりも、もっとご興味のあることがおありになったのでしょう」
「いや。わしはそうはおもわぬ。わしが生まれ前に、ことが過ぎたので、飽いたのであろうよ」
(てつ)さまは、まだ、お飽きになりませぬか?」
「その4と、その5を試み終えれば、飽きてくるかもな」
「では、明晩、その4を---」
「急ぐには及ばぬ」
「お、ほほほ。本音がでました」
「あ、はははは」
「お飽きになるのを、いつまででもお待ち申しあげております」

「よい、三回忌の供養であった」
「いいえ、1回きりでございました。三回忌なら、その4、その5を終えませぬと---」
「わかっておる」

| | コメント (0)

2010.05.24

亡父・宣雄の三回忌(2)

小野どのも日光へ供奉(ぐぶ)なさるのでしょうな?」
本家の当主で、先手・弓の7番手の組頭の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 67歳 1450石)が、同じ8番手の次席与力・小野史郎(しろう 50歳)に問いかけた。

太郎兵衛正直の組も、史郎の組と言うより、組頭・嶋田弾正政弥(まさはる 39歳 2500石)も、来年4月に挙行される将軍・家治(いえはる 39歳)が念願の日光社参の供に選ばれた。

本丸に30組ある先手からは、弓が10組中、5組、20組ある鉄砲組からは10組の組頭に参列警護の内示があった。

太郎兵衛正直としては、先手組頭の足かけ13年におよぶ在任中のもっとも晴れがましい任務であったから、機会さえあれば話題にする。
この夕べも、昨年、勤めを辞した長谷川久三郎正脩(まさむろ 65歳 4070石)はともかくとして、この家の主婦である久栄(ひさえ 23歳)の実家・大橋与惣兵衛親英(ちかひで 62歳 200俵)にはその内示がなかったのであるから、日光まわりの話題は控えるべきであった。

しかし、弓・八番手の嶋田組内山与力の顔をみて、おさえきれなかった。
一旦、口に出してしまったものは、ひっこめるわけにはいかない。

供奉のことを訊いたのは、選抜された組の組下全員が参列するわけではなく、1組の与力10人、同心30人から半数前後が筆頭与力と次席によってふるいにかけられる。
組とすれば、綱紀粛正の一つとしてとらえていた。

もっとも、太郎兵衛正直の7番手は、与力は10騎だから5騎は参加できるが、嶋田組の8番手の与力は5名だから参列は3騎にかぎられる。
それで、
小野どのも日光へ供奉(ぐぶ)なさるのでしょうな?」
という、一応は敬意をこめた問いかけになった。

「はい。筆頭の秋山どのが、ここ1,2年、体調がおすぐれにならないので、手前が組をまとめることになっております」
小野次席の声も、どことなく弾(は)ずんでいた。

が、先手の与力(寄騎)といっても、その人数に間に合うだけの馬が調達できないから、同心と同じく与力は徒歩であった。

備中守宣雄 享年55歳=安永2年)どのも、あと3年、長生きをしておられれば、晴れの行進に参加できたものを---」
太郎兵衛正直の室・於佐兎(さと 60歳)が、宣雄の内妻・(たえ 50歳)に気づかって言葉をつないだが、は、
「いいえ。あの人は、荒々しい火盗改メより、京都町奉行のほうが性(しょう)にあっておりましたろう」

一同、仏壇に眸(め)をやり、合点(うなず)いた。
ひとり、平蔵(へいぞう 30歳)だけは、腹の中で、つぶやいていた。
(父上のことだ、お上(かみ)も下(しも)も勝手(財政)元が苦しいときに、無理算段しての参詣を、大権現さまは笑っておられよう、とおっしゃったろう)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010.05.23

亡父・宣雄の三回忌

(旧暦)安永4年(1774)6月12日は、現代なら7月中旬であろう。
江戸は、梅雨が明けきり、まぶしく輝く入道雲が盛り上がっている季節であった。

その七ッ(午後4時)すぎ---。

東本所三ッ目通りの長谷川平蔵では、読経を終えた妙典山戒行寺からから招かれた日選(にっせん)老師が、駕篭に身をあずけ、参会客たちの見送りのあいさつをうけていた。

八代当主であった備中守宣雄(のぶお 享年55歳)の三回忌の経をあげ終え、帰るところであった。

老僧の駕篭が正門をくぐり、新大橋へ通じている通りのほう、左へ折れたのを見とどけると、一同は仏間へ引きとり、門扉が音をたてて閉ざされた。
武家方では、ふつうは表門扉は閉めておく。
公儀筋の使者を迎えたときなどでないと、ふだんは大扉は開かない。

仏間へ参集しているのは、本家・太郎兵衛正直(まさなお 67歳 1450石 先手・弓の7番手組頭)夫妻、分家の大身で納戸町の久三郎正脩(まさむろ 65歳 4070石)夫妻、久栄(ひさえ 23歳)とその実家・大橋与惣兵衛親英(ちかひで 62歳 200俵)夫妻など、親しい親戚にかぎられていた。

本妻同様であった妙(たえ 50歳)の実家の兄で、上総国武射郡(むしゃごおり)寺崎村の村長(むらおさ)・戸村五左衛門(ござえもん 58歳)は、お経料がとどけていた。
寺崎村には、長谷川家の知行地(220石余)があった。

宣雄の終焉の地が京都であったために、西町奉行所からは、事前に与力一同よりとして線香がとどいていただけであった。

いくつかの記録に差違のある宣雄の命日については、すでに解説しているので、下の【参照】をおあらためいただきたい。

参照】2009年11月20日~[京都町奉行・備中守宣雄の死] () () () () () () (

平蔵が用人・松浦与助(よすけ 59歳)に目顔で合図すると、それぞれの前に酒と料理が配膳された。

後家のが下座から参会への謝辞を述べ、低頭しおわり、平蔵(へいぞう 30歳)と内室・久栄(ひさえ 23歳)が全員に酌をしてまわっていた。

本家の当主・太郎兵衛正直の室・於佐兎(さと 60歳)が、
「しかし、おどのは偉い。こちらの分家にかぎらず、長谷川家は脇腹に子を産ませることに長(た)けた当主どのが多かったが、そなたさまは宣雄どのの首に綱をつけ、伝統をぴたりと断ちきりなされた」

内室たちが賛辞をおくり、当主たちは目を交わしあい、白けた表情をとったところへ、松浦用人が、
「殿が京へご栄転になるまで組頭をお勤めになっておられました、先手・弓の8番手から、次席与力の小野史郎(しろう 50歳)さまが焼香だけとおっとしゃって、お見えでごいます」

平蔵がすぐに出迎えに立ち、案内してきた。
「用務のため、遅れて申しわけございませぬでした」
香華料を供え、焼香をすますと、お膳が用意されており、久栄が銚子を手に、待ちかまえていた。

小野与力は、そのまま帰れなくなり、着座して、懐からだした用箋を示し、
「長谷川組頭どのの五分(ごぶ)目紙といわれ、組下全員が持たされていた碁盤目でございます」

話題が脇腹子から転じそうなのを察した太郎兵衛正直が乗りだした。
「なんでござるかな」

参照】2007年12月18日~[平蔵の五分(ごぶ)目紙] () () (

故・平蔵宣雄が、小十人頭から、先手・弓の8番手の組頭へ栄転してきたのは明和2年(1765)、47歳のときであった。
前職に就いたのが40歳の壮年時で、細かな文字も自在に読めたから、この五分目紙を板刻し、書類は枡目紙を下敷きにし、升目にあわせて書き、紙の節約を図かった。
そのまま、先手8番手にも応用した。
宣雄が京都へ栄転、後任の島田弾正政弥(まさはる 2500石)も36歳という若さでの着任であったから、五分目紙はそのまま引きつがれた。

しかし、いまでは筆頭与力・秋山善之進が54歳、小野次席が50歳となり、細字がかすむようになったので、
「今夕は、五分目紙を仏前にお返しするお許しを乞いに、参じました次第でございます」

これには、老父夫妻たちが声をあげて笑った。
備中どのの名案も、齢には勝てぬな」
(てつ)どの。備中は京都町奉行所でも、五分目紙を使わせていたのかの?」
「存じませぬ」
「55歳じゃったから、いかに鉄人・舅どのも、それはなかったろう」
大橋親英が仏壇をふりむいてつぶやいた。


| | コメント (0)

2009.11.26

京都町奉行・備中守宣雄の死(7)

この[宣雄の死]の項の(4)に引いた、江戸時代の初期から幕末までの幕府役人の任免記録を役職別に分類した『柳営補任』の記録を、ふたたび引く。

長谷川平蔵宣雄(備中守)
明和9年(1771)10月15日御先手加役ヨリ
安永2年(1772)7月17日卒


山村十郎右衛門良旺(信濃守)
安永2年(1772)7月18日御目付ヨリ
同  7年(1777)7月20日御勘定奉行 

参照】2009年11月23日[京都町奉行・備中守宣雄の死] (4)

ちゅうすけ注】山村十郎右衛門良旺(たかあきら 45歳 500石)に信濃守に叙されたのは、京都着任後の9月1日付であった。
山村信濃守良旺の【個人譜

宣雄の卒日が、6月でなく、1ヶ月近くもずれていることも指摘しておいたが、これだと、後任の山村十郎右衛門良旺は、卒日の翌日に着任してきたようにこみえないこともない。
いや、正確にいうと、内示があってから発令とみ、内示の段階で上洛の準備をはじめたとしても、正式の申し下しがなければ、江戸でのあいさつ廻りができまい。

2日でそれをすませたとして、行列を組んで東海道を順調にのぼって14日、千本通りの役宅へはいったのは、早くて8月10日---じっさいは、それよりも少し遅かったのではあるまいか。

その到着まで、銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、役宅を整理しながら待っていたのであろうか?
なんのために?
引継ぎ?

彼は、正式に嫡子であるが、父の京都・町奉行の職務とは、表向きにはかかわりはない。
引き継ぎは、京都在住の与力・同心たちが全員、そのまま居座っており、筆頭与力が中心となっておこなうであろう。

ちゅうすけとしては、役宅の整理を手早くすませ、内与力格で働いていた桑島友之助(とものすけ 40歳)を山村新奉行への応対にのこし、遺跡(400石)相続の呼び出しがいつあってもいいように、早ばやと京をあとにしたのではなかろうか。
少なくとも、残暑のきびしい6月晦ごろには京を発したとみる。

銕三郎の遺跡相続の申しわたしは、同じ年(安永2年)の9月8日であったことは、[宣雄の死]の項の(1)に記しておいた。

参照】2009年11月20日[京都町奉行・備中守宣雄の死] (1)

銕三郎は、久栄に言った。
「去年の初冬、父上とともに京へのぼるときには東海道であったろう。帰府には中山道というのは、どうかな?」
(てつ)さまが、そうなさりたいのでしょう?」
「歩いたことがないゆえ、この機会の目におさめておけば、今後の勤めに役立つようにおもえるのだ」
「東海道の宿場々々のおなじみのおんな衆へのごあいさつが欠けますが、それておよろしいのでしたら、中山道といたしましょう」
「こいつめ---」
「う、ふふふふ」

柳営補任』の誤記を鵜呑みにした書き手がいたらしい。
着任した山村良旺が、帰府する銕三郎の世話をあれこれしたというふうなことを書いていた。
ところが、いま、その文章をあちこち探しているのだが、どこへまぎれこんだのか、みつからない。

明記しなくても、まあ、どうってこともないか。

気になったので、あれこれ検索していたら、3年前の当ブログ---2006年7月27日[今大岡とはやされたが]にぶつかった。
なんのことはない、自分で書いていたのである。(笑)
なにを読んでそう記したか、やはり記憶はない。

(始まってきたのかな---?)

| | コメント (0)

2009.11.25

京都町奉行・備中守宣雄の死(6)

京都町奉行の交替の期間差を調べることで、幕閣の動き方や幕府枢要・所司代間の連絡などがのぞけたらとおもい、長谷川備中守宣雄(のぶお 享年55歳)から10人ほど前の京・町奉行の任免の年月日を『柳営補任』でたしかめている。
メモのつもりでおつきあいいただければ幸い。

きょうは、東町奉行---。

山口安房守直重(なおしげ 2000石)
正徳3年(1713)2月29日(64歳)禁裏付ヨリ
享保6年(1721)正月22日辞(72歳)


河野勘右衛門通重(みちしげ 豊前守 500石)
享保6年(1721)2月15日(70歳)佐渡奉行ヨリ
500石加増
享保9年(1724)12月18日卒(73歳)


小浜六之助久隆(ひさたか 志摩守 900石)
享保10年(1724)1月18日(50歳)佐渡奉行ヨリ
ちゅうすけ注】『柳営補任』は享保9年としていたが、訂正しておいた。
享保12年(1727)9月8日卒(56歳)


永田三右衛門元隣(もとちか 越中守 680石)
享保12年(1727)10月22日(50歳)御目付ヨリ
300石加増
享保17年(1732)3月1日(55歳)小普請奉行


向井兵庫政暉(まさてる 伊賀守 900石)
享保17年(1732)3月1日(49歳)先手組頭加役ヨリ
元文4年(1739)7月2日卒(56歳)


馬場宮内尚繁(なおしげ 讃岐守 2000石)
元文4年(1739)7月19日(43歳)先手組頭加役ヨリ
延享3年(1746)7月21日(50歳)町奉行


永井監物尚方(なおかた )
延享3年(1746)7月22日(44歳)小普請支配ヨリ
宝暦2年(1752)d)正月11日(50歳)勘定奉行

土屋長三郎正方(まつかた 越前守 700石)
宝暦2年(1752)2月15日(57歳)駿府町奉行ヨリ
同  3年(1753)12月24日(58歳)町奉行


小林甚五左衛門春郷(はるさと 伊予守 400石)
宝暦3年(1753)12月24日(57歳)町奉行ヨリ
明和3年(1766)9月12日普請奉行(70歳)


石河庄九郎政武(まつたけ 土佐守 2700石)
明和3年(1766)9月12日(43歳)御目付ヨリ
同  7年(1770)閏6月3日(47歳)持弓頭


酒井善左衛門忠高(ただたか 丹波守 1000石)
明和7年(1770)閏6月3日(61歳)奈良奉行ヨリ

在府の現職が京都へ赴任すばあいは、期間差がみじかいのかと予想していたが、それもみごとにはずれた。
前例を大事にすると諸書にあるが、そういうものでもないみたいだ。

ちゅうすけのつぶやき】年齢の割り出しに時間をとられる。
これが安永以前だから、9割9分の人が没しているので、没年から数え齢が逆算できるが、平蔵宣以と同世代の幕臣だし、『寛政譜』ではまだ生存している確率が5割前後だから、こういう年齢つきのリストりの作成は困難をきわめる。

| | コメント (0)

2009.11.24

京都町奉行・備中守宣雄の死(5)

長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳 400石)の役務中の死にことよせて、遠国奉行の筆頭ともいえる、京都町奉行の交替の期間差をみている。
幕政のしきたりの一端がうかがえるかもしれないとおもってのこころみである。

宣雄から10人ほどもさかのぼれば、ある提示の傾向が知れようか。
では、まず、西町奉行すから---。


水谷弥之助勝阜(かつおか 信濃守 1700石)
元禄12年(1699)9月28日(40歳)御目付ヨリ
丹波国氷上郡に500石加増
宝永2年(1705)8月4日(46歳)辞
ちゅうすけ注】『寛政譜』8月3日と。
なお、水谷は(みずのや)と読み、この本家の伊勢守勝久が宣以が書院番にあがったときの番頭。


中根宇右衛門正包(まさかね 摂津守 1000石)
宝永2年(1705)8月5日(45歳)書院番与頭ヨリ
同         9月28日500石加増
正徳4年(1714)8月15日(57歳)辞


諏訪七左衛門頼篤(よりあつ 肥後守 500石)
正徳4年(1711)8月15日(54歳)小姓組与頭ヨリ
丹波国氷上郡に500石加増
享保8(1723)7月24日(66歳)町奉行
ちゅうすけ注】前任の奉行が辞任の場合は、前もって届けているから、同日後任が発令されている。
また、このころは、京都町奉行になると、500石加増が例であったらしい。
役高が1500石格と定まつたのは吉宗の享保からか?


本多勘右衛門忠英(ただひで 筑後守 1200石)
享保8(1723)7月28日(56歳)小姓組与頭ヨリ
元文2年(1737)3月10日(70歳)御旗奉行


島 角左衛門正詳(まささだ 長門守 1000石)
元文2年(1737)3月10日(51歳)駿府奉行ヨリ
同  5年(1740)12月28日(54歳)町奉行


三井采女良竜(よしたつ 下総守 1000石)
元文5年(1740)12月28日(43歳)御目付ヨリ
寛延2(1751)7月6日(52歳)御勘定奉行


稲垣精右衛門正武(まさたけ 出羽守 600石)
寛延2(1751)7月23日(51歳)御目付ヨリ
宝暦6年(1756)10月28日(58歳)御普請奉行


松前隼人順広(としひろ 筑前守1500)
宝暦6年(1756)11月3日(43歳)駿府奉行ヨリ
明和元年(1764)閏12月15日(57歳)御旗奉行
ちゅうすけ注】


太田三郎兵衛正房
(まさふさ 400石 播磨守)
明和元年(1764)閏12月15日(50歳)御目付ヨリ
同  9年(1772)10月8日(59歳)小普請奉行


長谷川平蔵宣雄(のぶお 備中守 400石)
明和9年(1772)10月15日(54歳)先手組頭加役ヨリ

こうしてみてみると、引継ぎの期間差には、この50年近くには、さしたる法則性はないようにもおもえる。
明日は、東町をあたってみよう。

(ふうー、くたびれた。4日ついやしての作業であった)

| | コメント (2)

2009.11.23

京都町奉行・備中守宣雄の死(4)

(旧暦)安永2年6月22日

幕府が10数年がかりで編纂した『寛政重修l諸家譜』に記されている、京・西町奉行・長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳)の逝去日であることは、これまで何度も告げてき、さらにこれが実際の卒日ではなく、幕府への諸手続きをとどこおりなくすますための公けの歿日であることも報じてきた。

実際の歿日を推測するただ一つの手がかりは、香華寺・戒行寺(新宿区須賀町9)の霊位簿にある、

6月12日歿

これがもっとも史実に近いとおもわれるが、宣雄が歿したのは江戸においてではなく京師であり、戒行寺には、後日、納骨された。

いちおう、一鬼平ファンとしては、6月12 日で納得しておきたい。

想像するに、銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、<この日の亥の刻(夜10~12時)>として、江戸の三ッ目通りの屋敷で留守宅を守っていた備中守宣雄の内妻・(たえ 48歳)と、本家の当主・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 63歳 先手・弓組頭)には、早飛脚でことを報せたろう。

忌日をめぐって、ずっとこだわっていることがある。


江戸時代の初期から幕末まで、幕府役人の任免記録を役職別に分類した『柳営補任』の記録がそれである。

長谷川平蔵宣雄(備中守)
明和9年(1771)10月15日御先手加役ヨリ
安永2年(1772)7月17日卒


山村十郎右衛門良旺(信濃守)
安永2年(1772)7月18日御目付ヨリ
同  7年(1777)7月20日御勘定奉行 

ちゅうすけ注】(  )内の官名は町奉行着任後に贈られたもの。

なんと、宣雄の卒日が『寛政譜』のそれよりも1ヶ月近くも遅らされている。
後任・山村十郎右衛門良旺(たかあきら 45歳 500石)の発令の前日である。

備中守宣雄が卒したことは、『徳川実紀』には記されていないが、山村良旺の発令は、『柳営補任』どおりに記載されている。

それで、京で任期中に卒した町奉行の忌日はそのようにしているのかと、あたってみた。

もっとも近いのは、備中守宣雄と同時期に東町奉行だった酒井丹波守忠高(ただたか 没年62歳 1000俵)である。

酒井然右衛門忠高(丹波守)
明和7年(1770)閏6月3日奈良奉行ヨリ
安永3年(1773)3月6日卒


赤井越前守忠晶
安永3年(1773)3月20日御先手加役
天明2年(1782)1月25日御勘定奉行

赤井越前守忠晶(ただあきら 45歳=着任時 1700石)の発令は『寛政譜』のとおりであり、酒井忠高の公式卒日から17日後である。
その間に、継飛脚が往復はする余裕は十分にあった。

もう1例、あげよう。
備中守宣雄と同じ西町奉行である。

井上太左衛門正貞(志摩守 重次)
延宝7年3月4日御先手ヨリ
元禄2年11月12日卒


小出淡路守守秀strong>(守里)
元禄3年1月11日御書院番与頭ヨリ
同  9年5月25日辞

寛政譜】とつきあらせたところ、井上志摩守(丹波守)重次(しげつぐ 没年60歳 3000石)の歿日は22日となっていたが、それにしても、後任の発令まで2ヶ月近くある。

宣雄の分だけが遅らせられた理由は、依然として不明である。

| | コメント (0)

2009.11.22

京都町奉行・備中守宣雄の死(3)

このタイトルの項(1)で、鬼平こと平蔵宣以(のぶため 享年50歳)の死後、家督した宣義(のぶのり 30歳=寛政11年)が『寛政重修l諸家譜』編纂の基材として上呈した[先祖書]を引き、備中守宣雄(のぶお 享年55歳)が逝去前に、銕三郎(てつさぶろう 28歳)への家督相続を老中に願っていたかのように記していたことをとりあげた。

父・備中守宣雄、京都(西)町奉行を相勤めておりました節、
安永2年(1773)癸巳(みずのとみ)6月21日、京都のご役宅で卒、
同年9月8日、父が願いおきましたとおり、跡目菊之間で
(老中)板倉佐渡守(勝清 68歳 上野国安中藩主 2万石)より
伝えられた。

備中守宣雄の逝去のとき、辰蔵は4歳であったから、経緯のはっきりした記憶はなかったろう。
成人するどの段階かで、父・平蔵宣以か母・久栄から聞かされていたのを、[先祖書]の記したとおもわれる。

_100滝川政次郎先生『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(朝日選書 のち中公文庫)は、京都在住の牢人・岡藤利忠が書いた『京兆府尹記事』を引き、宣以の機転と利発のあかしとされている。
長くなるが、現代語に置き換えて資として供してみる。

(宣雄が逝去したとき)息子・銕三郎は父に同伴する形で京都にいた。(中略=原著)

まだ、跡目顔いを呈していなかったので、家士たちが銕三郎に、「末期願いの取りはからいを相役の東町奉行の酒井丹波守忠高(ただたか 62歳 1000俵)どのにお願いしました」ことを告げた。(中略=同)

末期願いは、死去の節は、継嗣のだれそれへ跡式を継がされたくと願いおくことで、それにはお目付役の判元見届が必要なので、「酒井奉行どのが入来されます」と。(中略)

ちょうど、在京している目付役が大坂へ出張中であったので、相役・酒井丹州が判元見届けにやってきた。

ちうすけ注】東・西の京都町奉行の役宅は、3丁と隔たってはいない。

そこで、家士が銕三郎にすすめた。
「判元見届けをする役を、誰にかお申しつけになってください」
銕三郎は十三歳(原文のまま)であったが才智抜群で、凡慮の者は及ばないほどであった。
銕三郎は笑って言い放った。
「実子がいるのに、どうして見届の人を臥床へ入れる理由があるものか。拙みづからが応対しよう」

そうはいっても、幼年の銕三郎の言い分なので、家士たちは安堵せず、再度、説得ほ試みたが、聞き入れない。 

仕方なく、ことの次第を東町奉行宅へ参じて酒井丹州に告げた。
「長谷川家のためをおもってのおのおの方の忠告とこころえた。悪くははからわないから安心しておられい」

酒井奉行は西町奉行の役宅に来、
「判元を見届けいたそう」
言いながら案内を求めた。

麻裃で式台で迎えた銕三郎は、
「父の名代として、ここで印形をいたしましょう」
「なるほど。実子どの調印なさるのであれば子細はないが、先例では本人の臥床にいたり、調印を見とどけることになっておりますぞ。それゆえ、この度もそのように致されませぬと、ことが荒立ちます。ご幼年ゆえに案じておられるのであろうが、この丹州を信用なされて、おまかせあれ」

「先例にそむいたときはご役義がはたされないとのお言葉、一見、理があるやに聞こえますが、臥床にいらっしゃっても、お役義が勤まるとは申せませぬ。父・備中守が死去しているので、夜具の袖から代人が印形を捺したものをお持ちになると、後日、そのことが発覚しましたならば、丹州さまのお手落ちということになって、お家がとりつぶされるやもしれませぬ。それより、実子が代印したので、 一応、備中守へは挨拶だけしておいたとお届けになれば、後日露顕しても、、私の不調法ということですみ、丹州さまへはおとがめはありませぬ」

丹州は横手を打って、
「才子なるかな。その明智に従うべし」
といい、13歳平の銕三郎に教られ、60歳を超えていた丹州も、その言葉に従い、遺願書を持ちかえって、所司代・土井大炊頭利里(としさと 52歳 古河藩主)へ届けた。


このとき、著者・岡藤牢人は銕三郎を13歳としているが、われわれは28歳であったことを熟知している。
岡藤がなぜ銕三郎の年齢を間違えたか、この際、いくら詮索しても解明できはしない。
それよりも、末期(まつご)願いの手続きを学んだほうがよかろう。

ちゅうすけは、酒井丹波守がもともと、銕三郎に好意をいだいていたため>の処置であったと解しているのだが。


参照】2009年9月7日[備中守宣雄、着任] (

| | コメント (0)

2009.11.21

京都町奉行・備中守宣雄の死(2)

京都西町奉行・長谷川備中守宣雄(のぶお 55歳)の逝去日については、いくつかの記述がある。

まず、『寛政重修l諸家譜』の安永2年(1773)6月22日説。

_360
(『寛政譜』 長谷川家より宣雄の項)

これの基となったはずの、孫・平蔵宣義(のぶのり 『鬼平犯科帳』時代では辰蔵)が幕府に上呈した[先祖書]では、安永2年(1773)6月22日と読める。

_360_3

同じ[先祖書]で、本稿(1)に披露した平蔵宣以の項でも、6月21日になっていたが、どちらにしても、公式の命日で、実際の逝去日ではない。
公式の---とは、幕府に対しての諸届け・手続きをすますための命日の意である。

幕臣の任免・辞職の詳細を記した『柳営補任』にいたっては、安永2年7月17日卒と、半月以上も遅らせている。

長谷川平蔵宣雄(備中守)
明和9年(1771)10月15日御先手加役ヨリ
安永2年(1772)7月17日卒


山村十郎右衛門良旺(信濃守)
安永2年(1772)7月18日御目付ヨリ
同  7年(1777)7月20日御勘定奉行


それで、京都と江戸とのあいだを結ぶ、公用の継飛脚のことをかんがえた。
どれほどの日数で、備中守宣雄の死が、管轄している老中へ届き、後任が選ばれるのかと。
継飛脚でもっとも早いのは、70時間であったとWikipediaにある。

それに近い至急便で、宣雄の死は、老中へ告げられたろう。
秘密の要務---禁裏役人の不正摘発のこともあった。
老中たちは、後任の登用に意をつくしたとみるが、この推測は後日にまわしたい。

いや、推察はもう一つある。
京都へ付随しないで、江戸の留守宅を守っていた、宣雄の非公式の奥方で、銕三郎(てつさぶろう 28歳)にとっては実母の(たえ 48歳)のもとへの知らせは、どれほどの日数で達したか。
早くて7日後か。

陰暦の6月中・下旬といえば新暦の7月下旬で、酷暑の季節であり、遺骸の傷みも早かろう。
の上洛を待って葬儀というわけにもいかなかったろう。
もちろん、遺骸を江戸の菩提寺・戒行寺へ移送して葬るわけにもいかない。

葬儀は、『寛政譜』にあるとおり、京・千本通り出水(でみず)の華光寺(けこうじ)で行われた。
戒名も華光寺が贈った。
叙太夫・従五位下の宣雄にふさわしく、泰雲院殿夏山日晴大居士

参照】2006年5月27日[聖典『鬼平犯科帳』のほころび] (
2005年3月25日[女盗(にょとうおたか(お豊)]

長谷川本家の末・雅敏(まさとし)さんが華光寺へ問い合わせた結果は、すでに記している。

参照】2007年4月14日~[寛政重修諸家譜] (10)おたか(お豊

肝要な史料なので、煩瑣をいとわず、再掲示する。

_300

これには、西町奉行の示寂(じじゃく 死」)は、6月17日亥刻いのこく 午後10~11時代)となっている。

葬儀は23日の酉刻(とりのこく 午後5時)からだが、晩夏なのでもだ明るかった。
所司代に次ぐ要職である京・町奉行の現役の葬儀であるから、弔問者は多かったろう。

進行・整理には、浦部源六郎・彦太郎父子をはじめ、奉行所の同心や小者や、彦十(ひこじゅう 38歳)らがあたったことも想像がつく。

ただし、遺族席に、内妻・の姿はなかった。

回向帳に、化粧指南師・お(かつ 33歳)の名があり、〔狐火きつび)〕の勇五郎(ゆうごろう 53歳)は骨董商・〔風炉(ふろ)屋〕勇五郎と記名していた。

参照】2009年7月20日~[〔千歳(せんざい〕のお豊)] () (

祇園一帯の香具師の元締・〔左阿弥(さあや)〕の父子は、はっきりと屋号と名を記帳していた。

葬儀がおわり、香典をあらためた西町奉行所の同心たちが首をかしげたのは、四条通り麩屋j町の〔紅屋〕平兵衛が1両(16万円)つつんでいたことであった。
「お奉行は、口紅の〔紅屋〕と、どんなかかわりがおありになったのか?」
ひとしきり、隠しおんなの詮索を話題にしてみたものの、けっきょく、わからずじまいで話がつきた。


| | コメント (0)

2009.11.20

京都町奉行・備中守宣雄の死

平蔵宣以(のぷため いわゆる鬼平)の没後4年---寛政11年(1799)12月20日に、嫡男・平蔵宣義(のぶのり 30歳 辰蔵の家督後の継承名)が幕府に提出した[先書祖]を、にらんでいる。

_300
(平蔵宣義(辰蔵)が上呈した[先祖書]の表紙)

先祖書]は、先の老中首座・松平定信の発案で企画されたもので、お目見(みえ)以上の幕臣、および大名に提出が下達されていた。

12月20日は、締め切りぎりぎりともいえる期日であった。

5,200余家から上提された[先祖書]は、編纂役人たちの照合をへて、13,年後の文化9年(1812)に完成をみた。

参照】『寛政重修諸家譜

にらんでいるのは、『寛政譜』の基となった[先祖書]のほうである。

その[先祖書]は、長谷川本家の末裔である長谷川雅敏氏が国立公文書館からコピーしてきたものが、研究家・釣 洋一氏iにわたり、氏がワープロ活字化したのと、原文のコピーをいただき、おりにふれてにらんできた。

いや、〔にらんでいる〕のは、もっぱら、ワープロ活字化されたほうである。
それの、八代目・平蔵宣以の冒頭部分。

ブログでは、銕三郎(てつさぶろう 27歳)は京都にいる。
在・京都の条をアップにしてみよう。

_360_2

1行目の最初の5文字は、前の事項のしっぽだから無視。

父・備中守宣雄、京都(西)町奉行を相勤めておりました節、
安永2年(1773)癸巳(みすのとみ)6月21日、京都のご役宅で卒、
同年9月8日、父が願いおきましたとおり、跡目菊之間
(老中)板倉佐州(佐渡守勝清 68歳 上野国安中藩主 2万石)より
小普請支配・長田備中守の組へ入ると伝えられた。

ちゅうすけ注宣雄の歿年月日について別の日にふれるので、いまは、ここには立ちどまらない。
小普請支配・長田備中守も、管見では『寛政譜』に見あたらない。
長田(おさだ)越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)の誤記とみる。

眸(め)を凝らしているのは、

(父が願いおきましたとおり、跡目---)

この1行である。

いつ、願いおいたのであろう?
病床にあり、回復がままならぬと自覚し、急遽、継飛脚便を発したのであろうか。
そのとき、備中守宣雄の胸中には、25年前、病弱だった6代目の従兄・宣尹(のぶただ 没年35歳)の死の前後の末期(まつご)継嗣の手続きのあわただしさ---というより、一種の偽装がよみがえっていたろうか。

参照】2007年4月14日~[寛政重修l諸家譜] (14) (15) (16)(17) (18
2007年5月2日[柳営補任〕の誤植

それで、まだ生きているうちに、願書を江戸へ送ったのかもしれない。
あるいは、死の日時を糊塗し、あたかも生前に願い出たようにしたか。

宣雄が病床にあった期間はどれほどであっか。
病名はなんであったか。
記録はまったくのこされていない。

明和19年(1772)10月15日に京都西町奉行を拝命し、8ヶ月と7日ばかりの、短すぎた病死であった。
備中守宣雄までの京都町奉行で、これほど勤務年月が短かった奉行はいない。


| | コメント (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

001長谷川平蔵 | 002長谷川平蔵の妻・久栄 | 003長谷川備中守宣雄 | 004長谷川平蔵の実母と義母 | 005長谷川宣雄の養女と園 | 006長谷川辰蔵 ・於敬(ゆき) | 007長谷川正以 | 008長谷川宣尹 | 009長谷川太郎左衛門正直 | 010長谷川家の祖 | 011将軍 | 012松平定信 | 013京極備前守高久 | 014本多家 | 016三奉行 | 017幕閣 | 018先手組頭 | 019水谷伊勢守勝久 | 020田沼意次 | 021佐嶋忠介 | 032火盗改メ | 041酒井祐助 | 042木村忠吾 | 043小柳安五郎 | 044沢田小平次 | 045竹内孫四郎 | 051佐々木新助 | 072幕臣・大名リスト | 074〔相模〕の彦十 | 075その他の与力・同心 | 076その他の幕臣 | 078大橋与惣兵衛親英 | 079銕三郎・平蔵とおんなたち | 080おまさ | 081岸井左馬之助 | 082井関録之助 | 083高杉銀平 | 088井上立泉 | 089このブログでの人物 | 090田中城かかわり | 091堀帯刀秀隆 | 092松平左金吾 | 093森山源五郎 | 094佐野豊前守政親 | 095田中城代 | 096一橋治済 | 097宣雄・宣以の友人 | 098平蔵宣雄・宣以の同僚 | 099幕府組織の俗習 | 101盗賊一般 | 103宮城県 | 104秋田県 | 105山形県 | 106福島県 | 107茨城県 | 108栃木県 | 109群馬県 | 110埼玉県 | 111千葉県 | 112東京都 | 113神奈川県 | 114山梨県 | 115長野県 | 116新潟県 | 117冨山県 | 118石川県 | 119福井県 | 120岐阜県 | 121静岡県 | 122愛知県 | 123三重県 | 124滋賀県 | 125京都府 | 126大阪府 | 127兵庫県 | 128奈良県 | 129和歌山県 | 130鳥取県 | 131島根県 | 132岡山県 | 133広島県 | 136香川県 | 137愛媛県 | 139福岡県 | 140佐賀県 | 145千浪 | 146不明 | 147里貴・奈々 | 148松造・お粂・お通・善太 | 149お竜・お勝・お乃舞・お咲 | 150盗賊通り名検索あ行 | 151盗賊通り名検索か行 | 152盗賊通り名検索さ行 | 153盗賊通り名索引た・な行 | 154盗賊通り名検索は・ま行 | 155盗賊通り名検索や・ら・わ行 | 156〔五鉄〕 | 157〔笹や〕のお熊 | 158〔風速〕の権七 | 159〔耳より〕の紋次 | 160小説まわり・池波造語 | 161小説まわり・ロケーション | 162小説まわりの脇役 | 163『鬼平犯科帳』の名言 | 165『鬼平犯科帳』と池波さん | 169雪旦の江戸・広重の江戸 | 170その他 | 172文庫 第2巻 | 173文庫 第3巻 | 174文庫 第4巻 | 175文庫 第5巻 | 176文庫 第6巻 | 177文庫 第7巻 | 178文庫 第8巻 | 190文庫 第20巻 | 195映画『鬼平犯科帳』 | 197剣客 | 199[鬼平クラス]リポート | 200ちゅうすけのひとり言 | 201池波さんの味 | 205池波さんの文学修行 | 208池波さんの周辺の人びと | 209長谷川 伸 | 211御仕置例類集 | 212寛政重修諸家譜 | 213江戸時代制度の研究 | 214武家諸法度 | 215甲子夜話 | 216平賀源内 | 217石谷備後守清昌 | 219参考図書 | 220目の愉悦 | 221よしの冊子 | 222[化粧(けわい)読みうり]