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2007.10.19

養女のすすめ(6)

平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人組頭)が養女に迎えるといった女の子の父親・三木忠大夫忠任(ただとう)の主は、どうやら、前の高崎藩主・松平右京大夫輝規(てるのり)らしい---というところまでは、『寛政譜』をくって推定した。

で、高崎教育委員会に三木忠任なる藩士を問い合わせたが、「該当者が見当たらない」との返事。松平家は享保2年(1717)から明治までずっと高崎の藩主だったから、ここの教育委員会以外に尋ねるところはない。
藩士名簿はどのクラスまで残っているのか、確認しなかったのが、手落ちといえば手落ち。

『三百藩家臣人名事典』(新人物往来社 1988)の高崎藩も見たが、三木姓の高級藩士は載ってなかった。
つまり、さほど家格の高くない藩士で、江戸の藩邸にずっと詰めており、引き続き前藩主に従っていたとすると、小納戸組で、家禄は100石前後か。

この武士と宣雄がどこで知り合ったかは、改めて推理するとして、きょうのところは、養女に来た女の子---仮に名を多可(たか)としておこう---多可は何歳であったろろうか。
推理の史料として、嫁に行った水原(みはら)近江守保明(やすあきら)の『寛政譜』を開いてみよう。
後妻とある。

しかも、継嗣・善次郎---のちの保興(やすおき)を産んでいる。
保興のお目見は明和6年(1769)6月28日とある。
長谷川家に養女に来たのを宝暦(ほいうりゃく)9年(1759)と仮定すると、10年後である。
多可長谷川家での序列は銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以)の妹となっている。
とすると、もっともゆとりをみて、銕三郎と同年とし、17歳で水原近江守保明(その時、40歳)の後妻にはいったとすると、善次郎のお目見は5歳前後ということになる。
なんだか、変だ。裏がありそうな気がしてならない。

ところで、善次郎改め保興だが、『寛政譜』によると、博奕(ばくち)もやり、それにかかわる小者を屋敷に居住させたというので、遠島になっているが、男子を2人ももうけており、上の子は父親の罪をせいで追放。
成人してない---つまり15歳になっていないの処分は、その年齢に達するまで猶予されるように記憶している。

保興の処罰は、天明8年(1788)8月9日。宝暦9年から29年後。その年の晩秋、平蔵宣以が火盗改メ・本役につき、小説では鬼平として大活躍をはじめている。
多可は生きていれば、43歳か。
しかし、夫の保明は、三人目の妻を迎えているから、保興を産んでまもなく没したとも推理できる。

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