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2008.06.28

平蔵宣雄の後ろ楯(13)

これは、真の長谷川平蔵ファンであれば、きっと面白がるにちがいない、長谷川家3代にわたる、史実を基にした因縁話である。
池波さんに話してあげたら、きっと喜ばれたであろうが、ちゅうすけが気がついたのが、つい最近なのだ。

池波さんとちゅうすけの関係は、そう、いまから25年ほど前から10数年間、読売新聞社がやっていた「映画広告賞」の審査員をいっしょにやり、年に1回の審査会で顔があうとよもやま話に興じた。
その一端は、同じく審査員だった落合恵子さんが拙著『剣客商売101の謎』(新潮文庫 2003.3.1 絶版)の解説に書いてくださっている。
そのころ、ちゅうすけは、『鬼平犯科帳』の研究家ではなく、コピーライターの現役をしていた。

鬼平犯科帳』には顔は見せないが、鬼平---長谷川平蔵には、強力なライヴァルが2人いた。
一人が森山源五郎孝盛(たかもり 400石相当)で、平蔵が死の床にあって生涯を終えるという間際に、火盗改メの代役をもぎとり、そのまま居座って、平蔵流の捕追の仕方を著書で批判しまくった。『(あま)の燒藻(たくも)』がそれである。

参照森山源五郎孝盛がらみのコンテンツは、このブログのファースト・ページの左手のサブ・ウィンドゥのカテゴリーから[森山源五郎孝盛]を指定。

もう一人は、松平(久松)左金吾定寅(さだとら 2000石)で、時の宰相・松平定信とも姻戚関係にあった。どういうわけか、平蔵を敵視して、平蔵が火盗改メの本役に就くや、2000石という大身のくせに、自ら1500石格の先手組頭に降り、火盗改メ・助役となって平蔵を監視した。

たぶん、松平定信が、『よしの冊子(ぞうし)』で報告されれていた初期の平蔵評をまともにうけとって、従兄ともいえる定寅に命じたのかもしれない。

参照】『よしの冊子(ぞうし)』の平蔵がらみの200項目以上を、現代語訳してこのブログに収録してある。
このブログのファースト・ページの左手のサブ・ウィンドゥのカテゴリーから[現代語訳 よしの冊子]を指定。

平蔵
が没するや、定寅は、平蔵が組頭として、火盗改メの職務で8年も鍛え上げた先手・弓の2番手の組頭に着任、平蔵色の払拭につとめた。

参照】松平左金吾定寅の気質や性癖がらみのコンテンツは、当ブログのトップ・ページの左手サブ・ウィンドゥのカテゴリーから[松平左金吾定寅]を指定。

森山孝盛も松平定寅も、平蔵宣以にからんでいるだけだから、長谷川家3代というからには、父・宣雄(のぶお)と伯父・権十郎宣尹(のぶただ)が関係してくる。

34歳で逝った長谷川家六代目当主・権十郎宣尹は病気がちであった。
両番(書院番と小姓組)に入れる格の家柄だったのに、病欠が多かったから、あまりいい幕臣とはいえなかった。
生前最後の勤めは、、6ヶ月勤務した西丸の小姓組・一番組、番頭(ばんかしら)は久松松平長門守定蔵(ながもち)。当時(延享4年 1747)45歳。

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(松平長門守定蔵の個人譜)

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(長門守定蔵と左金吾定寅)

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(久松松平家 ただし一家のみ 『寛政譜』)

屋敷は麻布桜田町。2000坪ほど。現在は中国大使館。

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(久松松平長門守定蔵の麻布の屋敷。切絵図は時代的に左金吾名になっている 池波さん愛用の近江
屋板)

与頭(くみかしら 組頭とも表記)は、牟礼清左衛門葛貞(かつさだ 53歳 800石)。屋敷は、牛込築土下五軒町。
神保新五左衛門長勝(ながかつ 31歳 900石)。屋敷は、小川町雉子橋通り横町神保小路。

あまりにしばしばの権十郎宣尹の病欠届けなので、用人・松浦恭助や若侍・桑嶋左門ばかりでは失礼になると、宣雄が直接に当主に会って謝罪することもあった。

そのうちに、年齢も近いせいもあり、神保葛長とは友人のような付き合いになった。
書院番、小姓組の与頭への推薦の弁も葛長はやってくれていたらしい。

もちろん、組頭・長門守定蔵宣雄の温和な人柄と深い教養には好意をもっていたが、この仁は、家柄がよすぎて、人の希望を察して世話を焼くという気くばりが苦手らしかった。

家庭にあっても、息子の扱いに気をくばることも少なかった。
そのせいか、兄の死によって継嗣となった左金吾定寅は、自己を肥大させた仁に育ったようである。

もちろん、宣雄と顔をあわせたことはない。

もし、定信が宰相になっていなければ、定寅は江戸の片隅のお山の大将で終わったはずである。

ちゅうすけのつぶやき】森山源五郎孝盛の家禄を400石相当と書いたが、実際は300石と廩米100俵。しかし、100俵は知行地の100石に相当するから、本文中では、あえて省略した書き方をした。知行地の100石からの収入は年間100両と概算する。廩米100俵も大雑把にいうと100両見当である。

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