平蔵と佐野与三郎政親(2)
くどいようだが、佐野豊前守政親(まさちか 56歳=天明7年 1100石 元・大坂西町奉行)は、平蔵(へいぞう 42歳)の少青年時代――銕三郎に強い影響をおよぼした実在の人物として、ちゅうすけが肩入れしている一人である。
このブログで鬼平を、ともに造形している鬼平ファンには、できるかぎり佐野政親にいっしょに深入りしていただきたいのである。
父を早くに失った与次郎(よじろう 与八郎の幼名)は祖父に育てられ、11歳でその遺跡を継いだ。
そのあたりのことは考察の結果をきのうのコンテンツにすでにあちこちへリンクしている。
きょう、探索してみたいのは、藤田 覚さん『田沼意次』( ミネルヴァ書房)に書かれている、奥医・河野仙寿院通頼(みちより 74歳 500石)とのかかわりかたの深さである。
佐野豊前守政親の正妻が、幕臣・河野豊前守通喬(ちみたか 享年64歳=宝暦6 1000石)の八男七女の末むすめであることもかつて記した。
【参照】2010年9月20日~[佐野与八郎の内室] (1) (2) (3) (4) (5)
母親の実家(さと)の縁で豊前守の嫡子・政敷(まさのぶ)は、河野一門の奥医師・仙寿院法眼の三男四女の末女を嫁(めと)っている。
この嫁が、仙寿院法眼の正妻――幕臣・河野豊前守通喬( ちみたか 享年64歳=宝暦6 1000石)の八男七女の五女――が産んだという史料はないとしても、家譜の上では母娘であり、父が法眼であることにかわりはない。
――が。
佐野政敷に嫁(とつ)いだ河野仙寿院法眼のむすめは、一女二男をもうけたあたりで永世したらしい。
夫・与八郎政敷がいくつのときか不詳である。
実母の実家は、幕臣・河野豊前守通喬(みちたか 享年64歳=宝暦6 1000石)の八男七女で末むすめ。
たぶん、次男の産後あたりに他界したように察しているが、香華寺の一つである赤坂の道教寺(港区赤坂7丁目4)は確認していない。
いや、道教寺も不確かな情報である。
佐野家の家譜には、政親の祖父が葬られているのは、雑司ヶ谷の大行寺と記されている。
同家の『寛政譜』 に記録されている葬地は、道教寺と大行寺の2寺だけであるが、大行寺が現存しているかどうかはわからない。
河野一門はそのむかし、四国の豪族であったが、まさか、政親の最初の内室の実家が河野氏だから、四国に葬られたとはとうていおもえない。
そのことは、ま、ともかくとして天明のころにはまだ未初見の身分であった政敷への、河野家からの内室はすでに亡いのに、その亡妻の実家との交流がどの程度維持されていたろう、継室の手前もあろう、想像しかねる。
備前守政親の大坂東町奉行解任は、藤田 覚さんのみるとおり、田沼政権による大坂の富商への御用金算段の交渉を担当させられていたことが定信政権の忌避にふれたのであろう。
大坂の豪商からの定信への働きかけも想像できる。
『続徳川実紀』の天明7年10月6日の文面の息づかいは、尋常ではない。
○ 十月六日 大坂町奉行・佐豊前守政親、職務御免ありて寄合とせられる。
大坂の富商、両替商たちの新幕閣への手回しの速さとみるか、『続実紀』編纂者への工作の手厚さと読むか。
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