カテゴリー「094佐野豊前守政親」の記事

2012.05.20

平蔵と佐野与三郎政親(2)

くどいようだが、佐野豊前守政親(まさちか 56歳=天明7年 1100石 元・大坂西町奉行)は、平蔵(へいぞう 42歳)の少青年時代――銕三郎に強い影響をおよぼした実在の人物として、ちゅうすけが肩入れしている一人である。

このブログで鬼平を、ともに造形している鬼平ファンには、できるかぎり佐野政親にいっしょに深入りしていただきたいのである。

父を早くに失った与次郎(よじろう 与八郎の幼名)は祖父に育てられ、11歳でその遺跡を継いだ。
そのあたりのことは考察の結果をきのうのコンテンツにすでにあちこちへリンクしている。

きょう、探索してみたいのは、藤田 覚さん『田沼意次』( ミネルヴァ書房)に書かれている、奥医・河野仙寿院通頼(みちより 74歳 500石)とのかかわりかたの深さである。


佐野豊前守政親の正妻が、幕臣・河野豊前守通喬(ちみたか 享年64歳=宝暦6 1000石)の八男七女の末むすめであることもかつて記した。

参照】2010年9月20日~[佐野与八郎の内室] () () () () (

母親の実家(さと)の縁で豊前守の嫡子・政敷(まさのぶ)は、河野一門奥医師・仙寿院法眼の三男四女の末女を嫁(めと)っている。

この嫁が、仙寿院法眼の正妻――幕臣・河野豊前守通喬( ちみたか 享年64歳=宝暦6 1000石)の八男七女の五女――が産んだという史料はないとしても、家譜の上では母娘であり、父が法眼であることにかわりはない。

――が。

佐野政敷に嫁(とつ)いだ河野仙寿院法眼のむすめは、一女二男をもうけたあたりで永世したらしい。

夫・与八郎政敷がいくつのときか不詳である。
実母の実家は、幕臣・河野豊前守通喬(みちたか 享年64歳=宝暦6 1000石)の八男七女で末むすめ。
たぶん、次男の産後あたりに他界したように察しているが、香華寺の一つである赤坂の道教寺(港区赤坂7丁目4)は確認していない。

いや、道教寺も不確かな情報である。
佐野家の家譜には、政親の祖父が葬られているのは、雑司ヶ谷の大行寺と記されている。
同家の『寛政譜』 に記録されている葬地は、道教寺と大行寺の2寺だけであるが、大行寺が現存しているかどうかはわからない。

河野一門はそのむかし、四国の豪族であったが、まさか、政親の最初の内室の実家が河野氏だから、四国に葬られたとはとうていおもえない。

そのことは、ま、ともかくとして天明のころにはまだ未初見の身分であった政敷への、河野家からの内室はすでに亡いのに、その亡妻の実家との交流がどの程度維持されていたろう、継室の手前もあろう、想像しかねる。

備前守政親の大坂東町奉行解任は、藤田 覚さんのみるとおり、田沼政権による大坂の富商への御用金算段の交渉を担当させられていたことが定信政権の忌避にふれたのであろう。
大坂の豪商からの定信への働きかけも想像できる。

続徳川実紀』の天明7年10月6日の文面の息づかいは、尋常ではない。

○ 十月六日 大坂町奉行・佐豊前守政親、職務御免ありて寄合とせられる。

大坂の富商、両替商たちの新幕閣への手回しの速さとみるか、『続実紀』編纂者への工作の手厚さと読むか。

参照】2009年7月11日[佐野与八郎政親
2010年2月8日[火盗改メ・庄田小左衛門安久

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2012.05.19

平蔵と佐野与三郎政親(1)

平蔵(へいぞう)―― というより銕三郎(てつさぶろう 28歳までの幼名)と佐野与八郎政親(まさちか 45歳で備後守を授爵、のち豊前守  1100石)、それに田沼意次(おきつぐ 相良藩主)とのあいだがらについては、これまでに何度もふれてきている。

銕三郎佐野与八郎のつながりには、元老中・本多伯耆守忠珍(まさよし 駿河・田中藩元藩主 4万石)がからんでいた。
藤枝の田中城の城主が長谷川家の先祖で、三方ヶ原で戦死した紀伊(きの)守正長(まさなが 37歳)であったという因縁で、宣雄(のぶお 享年55歳)が近づきになった。
もちろん、これには宣雄と同じ時期に先手の組頭をしていた本多一門の采女紀品(のりただ 2000石)の仲だちがあった。

老中職であった本多忠珍を隠居に追いこんだのが、当時側衆をつとめていた田沼主殿頭意次で、本多侯の中屋敷で紀品宣雄政親銕三郎と面識し、木挽町(こびきちょう)の中屋敷にも顔をみせるように誘ったという次第。

史実にのこっている平蔵佐野与八郎政親のつながりは、天明7年(1787)の大坂、江戸、駿府、甲府などの打ちこわしから3年後の、寛政2年(1790)11月に政親が火盗改メ・助役(すけやく)に任じられたときかぎりである。

しかし、宣雄宣以(のぶため)父子と、佐野政親の家譜をつきあわせていくと、これまで記したような密接なかかわりが読みとれた。

参照】2007年6月3日[田中城の攻防] (
2007年6月4日~[佐野与八郎政信] () (
2007年6月5日[佐野与八郎(政親)]
2007年6月8日[佐野大学為成] 
2008年11月7日~[西丸目付・佐野与八郎政親] () () (

もっとも、ちゅうすけが佐野豊前守政親平蔵との永いつきあいに気がついたのは、それほど古いことではない。
(もともと、『鬼平犯科帳』を読み始めたのは20年ほど前のことで、専用ワープロによってデータを集めることに興味がわいたからであった)

集めていたデータが『夕刊フジ』のIT担当のS記者の目にとまり、連載がはじまった。
その連載の1枠の[尊敬しあえる徳をもつ]という項に、以下のような記事を書いた。
いまからおもうと冷や汗1斗のコンテンツであった。

参照】2010年9月20日~[佐野与八郎の内室] () (

体調がすぐれず、キーを打つ意欲が高まらないので、高揚していた時期の過去記事のクリックを多くしてしまった。
ぜひ、クリックし、『鬼平犯科帳』には登場していない史実の人物とのからみで、未完了に終わった『犯科帳』の埋め合わせの一助としていただきたい。

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2010.09.24

佐野与八郎の内室(5)

藤田 覚さん『田沼意次』(ミネルヴァ書房)を非難しているのではないし、その意図もまったくない。

ただ、同書が上梓された2007年夏、さっそくにあがない、次のくだりに首をかしげた。
第1章 権力掌握の道のり の、「意次の子供」の項である。

意次の三女が結婚した西尾忠移(ただゆき)は、遠江横須賀3万5000石の譜代大名である。忠移は、天明4年(1784)に奏者番(そうじゃばん)になっている。忠移は、天明7年12月、意次の居城であった相良城の破却と武器の保管を命じられた。相良と横須賀の距離が近いということもあろうが、この姻戚関係にも意味があったろう。

相良城の破却に西尾隠岐守忠移も動員されたことは、すでに記している。

参照】2006年12月7日[相良城の請け取り

それよりも、西尾隠岐守忠移の内室だった、意次(おきつぐ 享年70歳=天明8年)の3女・於千賀(ちが)だが、意次が失脚する14年前の安永3年(1775)11月23日に歿している(20歳)。忠移28歳。
このことを、著者はご存じあったかどうか。

ついでに書くと、生前に男子・千次郎を産んでいるが、この子も3歳で夭折。

参照】2007年1月20日[西尾隠岐守忠移の内室
2007年1月21日[意次の三女・千賀姫の墓]

千賀という名前から、千賀道有を連想するが、そのことはおいて、忠移への輿入れを18歳のときと仮定すると、意次が側用人取次となった翌年ごろであろうか。

ともあれ、著書は、事項だけで即断していくところがないでもない。

佐野備後守政親(まさちか)の名が2度目に出るのは、大坂西町奉行であった第三章 幕府全権掌握期の政治 の「幕府財政と御用金」のところである。

天明三年(1783)、大坂町奉行所は、大坂の有力な両替商である鴻池(こうのいけ)など一ー軒を融通方(ゆうずうかた)に指名し、金繰(かねぐ)りに苦しむ大名への金融にあたらせた。(略)
両替商は、大名からの融資の申込みをうけると、年利八パーセントの範囲内で貸し付け、受け取った利息のうち年利五パーセント分を益金)(えききん)として幕府に上納する。幕府は、上納金のうちから年利ニ・五パーセントを両替商に戻す。(略)
この融通貸付策を担当したのが、大坂西町奉行の佐野政親)(まさちか)だった。佐野政親の妻は、河野通隆(みちたか)の娘である。幕府奥医として権勢があり、意次と深い仲の河野通頼(みちより 仙寿院)の妻も通喬の娘である。佐野政親と河野仙寿院は、妻を介した義兄弟で、さらに佐野政親の息子の政敷(まさのぶ)の妻も河野通頼の娘であり、河野仙寿院とかなり濃い関係を結んでいた。

たしかに、閨閥といえるし、徳川時代にかぎらず閨閥は強い。

しかし、河野仙寿院と田沼意次との関係が、同著ではさほど具体的でない。

さらに、第五章 田沼時代の終焉 『田沼意次の失脚」に、家治の臨終の月日をめぐる記述で、

それまで、将軍の信用の厚い奥医師、河野仙寿院が薬を調合していたが、一向に快方に向かわなかった。そこで八月十五日に医師を代え、奥医師の大八木伝庵が診察した。さらに十六日には、町医者の日向陶庵と若林敬順が、意次の推薦により新規に召し出され、お目見え医師になり家治の治療に加わった。

意次と河野仙寿院の仲はまずくなっていたのであろうか。

大坂町奉行に東・西、2人制であった。
1500石高、役料1500俵。
佐野備後守政親が西町奉行として融通貸付策にかかわったときの、東町奉行は小田切土佐守直年であった。

佐野備後守政親(50歳 1100石)
天明元年(1781)5月26日堺奉行ヨリ
天明7年(1787)10月6日御役御免

小田切土佐守直年(なおとし 45歳 2930石)
天明3年(1783)4月19日駿府町奉行ヨリ
寛政4年(1792)正月19日町奉行

佐野政親の内室は、女子1、男子(政敷 まさのぶ)をもうけたのみであった。
葬地は雑司ヶ谷の日蓮宗の大行院だが、現存していないので、歿年は確認できない。


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(小田切土佐守直年の個人譜)

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2010.09.23

佐野与八郎の内室(4)

いつもと違い、[佐野与八郎の内室]の項にかぎり、歳月を無秩序に行き来している。

藤田 覚さん『田沼意次』に書かれている---

幕府奥医師で将軍家治の信任が厚く、勢力のあった河野仙寿院(せんじゅいん  通頼)の関係者などがいる。天明元年(1781)から同7年まで大坂西町奉行を務めた佐野政親(まさちか)は、その妻が仙寿院の妻と姉妹であり、政親の子の妻は仙寿院の娘、という関係にある。
佐野の家には、堺奉行から大坂町奉行になるような出世をした人物はいないし、天明7年10月に罷免されているので、政親が仙寿院--意次という人脈上の人物だったことは疑いない。
姻戚関係に限らず意次の人脈上の人物を探せば、佐野政親のような事例がかなり存在するのではないか。

学者でもないのに、上の当否に近づこうなどと、身のほど知らずなことをおもいついている。。

河野仙寿院(せんじゅいん 通頼 みちより)の「仙寿院」は、父・通休(みちやす)医師が、将軍・吉宗から賜った称号である。

これは、紀伊大納言頼宣の生母・おの方が赤坂の中屋敷内に祀った小庵にちなむ庵号でもある。
小庵はその後、千駄ヶ谷へ移され、法雲山仙寿院という日蓮宗の山梨の本遠寺の末寺となったが、境内の景観が日暮里に似ているところから、新日暮里(しんひぐらしのさと)とも呼ばれた。
千手(せんじゅ)観音の語呂にあわせたものであろうか。

仙寿院通頼(49歳)が家治の篤い信頼を得たのは、宝暦11年(1761)に御台所・五十宮倫子の不予を快癒させたことによると『寛政譜』に記載されている。

このころ、田沼意次(おきつぐ 44歳)は、1万5000石を領して相良藩主、御側御用取次であった。
佐野与八郎政親(まさちか 31歳)は、家治の本丸入りにしたがって小姓組番士として本丸へ出仕していたし、河野通喬(みちたか)の末女を妻(めと)って8年が経っていた。
長谷川銕三郎宣以(のぶため)は17歳で、初見は7年後のこと。

意次が側用人にすすんだのは、この5年後の明和4年(1767)7月1日であった。

家治に見込まれた佐野与八郎は、宝暦12年(1762)の年末には西丸へ返され、家基に仕えた。
使番、目付を経て、堺奉行を拝命したのは、15年後の安永6年7月15日、46歳。内室は42,3歳になっていたろう。

さて、佐野与八郎政親の前任10人中、目付(1000石高)から堺奉行(1000石高)へ転じた仁を書き出してみよう。

桑山三郎左衛門一慶(かずよし 44歳~ 1200石)
宝永3年(1706)正月11日目付ヨリ
正徳元年(1711)5月1日大坂町奉行

山田十大夫利延(としのぶ  37歳~ 2000石)
寛保2年(1742)5月28日西丸目付ヨリ
延享4年(1751)2月2日普請奉行

池田修理政倫(まさとも 40歳 900石)
宝暦6年(1756)9月15日西丸目付ヨリ
   8年(1758)12月7日大目付

石野八大夫範至(のりとを 70歳 1100石)
安永元年(1772)4月28日西丸目付ヨリ
   6年(1777)7月8日卒

佐野与八郎政親(まさちか 46歳 1100石)
安永6年(1777)7月26日西丸目付ヨリ 
天明元年(1781)5月26日大坂町奉行

10人中、佐野与八郎政親を含めて5人が目付から転じている事実があるから、与八郎政親は決して異例ではない。

さらにつけたすと、池田修理政倫の「個人譜」には、大坂町奉行が参府していたあいだその代理をつとめたとあるから、堺奉行には、そういう職務もあったらしい。

佐野与八郎政親の後任も書き添えておく。

山崎四郎左衛門正導(まさみち 61歳 1000石)
天明元年(1781)5月26日駿府町奉行ヨリ     
   4年(1784)7月26日京都町奉行 

京都町奉行も大坂町奉行とおなじく1500石高であった。 

佐野豊前守政親の大坂町奉行は、ほとんど本人の力量によるといってもいいのではなかろうか。

もっとも、松平定信側の幕閣が、政親田沼派と断じたことと、本人の力量・人柄とは無縁である。

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2010.09.22

佐野与八郎の内室(3)

このブログでは、佐野与八郎政親(まさちか 27歳=宝暦8年 1100石)を長谷川平蔵宣雄(のぶお 40歳=-宝暦8年 400石)に引きあわせたのは、宣雄が小十人組頭に抜擢された宝暦8年(1758)で、仲立ちしたのは本多采女(うねめ)紀品(のりただ 44歳=宝暦8年 2000石)とした。

確たる史料があってのことではない。

本多紀品と前・田中藩主の本多正珍(まさよし 49歳)とのあいだがらから推測した。

宣雄は、、佐野与八郎の人柄を見こみ、一人っ子の銕三郎(てつさぶろ 14歳)の精神的な支柱である兄者となって振るまってほしいと頼んだ。
一人きりの弟・与三郎を早くに逝かせていた与八郎は、二つ返事で引きうけた。

さて、藤田 覚さんの『田沼意次』(ミネルヴァ書房)の、佐野与八郎田沼と近づくために、奥医師・河野仙寿院通頼(みちより)夫人の妹を娶ったという推測の当否を検証するために、ながながと、『江戸の中間管理職・長谷川平蔵』(文春ネスコ)を引用したわけではない。

藤田 覚さんも、あからさまに田沼意次に「近づく」ためにとは書いてはいない。
推測をうながした史料も明かされてはいない。

ただ、与八郎政親の西丸・目付から堺奉行、さらには大坂西町奉行への栄転が異例であることを指摘しているのと、田沼意次が失脚した天明7年(1787)8月27日をおっかけるように、(田沼派とみなされて)10月7日に大坂町奉行を解職と書いている。

寛政譜』は、

天明元年(1781)5月26日大坂の町奉行にすすみ、天明7年10月7日職をゆるされ、寄合に列し、寛政2年(1790)8月24日御先鉄砲の頭となり、10月7日より盗賊追捕の事を役し、3年3月17日これをゆるさる。

もちろん、田沼派とみられたから大坂町奉行を罷免---などと『寛政譜』が記すはずはない。

ところで、与八郎政親が奥医師・河野仙寿院通頼(みちより)夫人の妹を娶ったのはいつか? 
寛政譜』に拠(よ)って推理してみよう。

手がかりは、長子・与八郎(幼名 元服名=政敷 まさのぶ)の生年である。
初見の寛政2年(1790)35歳から逆算すると、宝暦6年(1756)の生まれである。
父・政親は25歳、西丸の小姓組番士として出仕3年目、このときの西丸の主は家治(いえはる 20歳 幼名・竹千代)であった。 

番頭(年齢は宝暦4年)は、1の組---
三枝土佐守守応(もりまさ 44歳 7500石)
2の組---
藪 主膳正忠久(ただひさ 40歳 5000石)
3の組---
松平内匠頭康詮(やすあきら 52歳 3000石)
4の組---
横田備中守清松(きよとし 56歳 9500石)

どの組であったかは、記録が見あたらない。
三枝家横田家は、武田系
藪家紀州系で、このあと10数年間は影響力をもっていたと推察できる。

ちゅうすけ注】別の史料『柳営補任 三』の使番の項に、

大久保因幡守忠翰
宝暦13年正月11日西丸御小姓組大久保因幡守組ヨリ
同年7月上州厩橋城松平大和守修復見分御用
明和4年12月朔日西丸御目付

とあり、大久保因幡守忠翰(ただなり 44歳=宝暦13年 5000石)は西丸4の組の番頭であった。


佐野政親の長子は宝暦6年に誕生と書いた。
内室の年齢の推測には、河野豊前守通喬(みちたか 1000石)の8男7女の末女だから、すぐ上の末兄で大久保家(1300石)へ養子にはいった康寛(やすひろ)の宝暦6年の年齢を『寛政譜』によって計算すると、23歳。
政親の内室が、佐野家へ帰嫁したのを出産の前年とすると、宝暦6年は23歳以下、20歳前後か。

その宝暦6年に、河野仙寿院と内室はいく歳であったろう?
夫の仙寿院は没年(80歳)が分明しているから、逆算すると43歳。
内室のすぐ上の兄の清和(きよかず)が、養子先・桑山家(1000石)の家譜から、この年には31歳、また、すぐ下の弟・国英(くにひで)は、養子先・小菅家(1500石)の『寛政譜』から29歳であったこともわかる。

兄と同年か30歳、あるいは弟と同年ということもあろうが、それにしても、仙寿院との年齢差がありすぎるのがくせもの。

というのは、この内室の子であるらしい金之丞は早世しているが、某女が産んだ第2子で、のちに家督した平次郎通久(みちひさ)が宝暦6年には16歳だから、早世した子を14歳か15歳で産んだ計算になる。

年齢調べをしたのは、仙寿院の政治的な力量を推測してみたかったから。


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(再録:仙寿院と佐野政親の内室の実家・河野通喬の個人譜)


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(大久保因幡守忠翰の個人譜)


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2010.09.21

佐野与八郎の内室(2)

佐野与八郎政親(まさちか 46歳 1100石)は、小姓組から32歳で使番に抜擢(ばってき)されてすぐ、17万石の厩橋藩の水災のありようの監察に派遣され、居城を利根川から遠い川越へ移すように藩主の松平大和守親愛(ちかよし)へすすめたとして老中から賞されて以来、幕臣仲間のあいだでは、明察の仁、といいつたえられていた。

が、政親はそのことを、ちらとも表にださなかった。

早くに父を失い、祖父から家督を継いだのは与次郎と呼ばれていた12歳のとき。
以来、肩には家名の重みがずっとかかっていたのだ。

このとき---安永6年(1777)から13年後、堺奉行のときに豊前守を受叙、大坂町奉行をへた政親は先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭となり、火盗改メ・助役をつとめた。
本役は、長谷川平蔵であった。

相手の長所だけを見ることを課した自律の半生といえた。
平蔵(へいぞう 32歳)のような天性をまるまる発揮してなお魅力を失わず、部下からも慕われる器量のもち主を友にできたことに感謝した。
平蔵も、豊前守から謙虚さを学んだ。
もちろん自分には身につかない美徳とあきらめはしたが。

_120_2助役(すけやく)の組頭は、組下の者たちが出役のときに羽織る役羽織へつけている組頭の家紋はこれこれ、と町々へふれさせるのが従来からの慣習(しきたり)だったが、佐野豊前守は秘した。

「丸に剣木瓜(もっこう)……わが家の紋どころは、いかめしくもなければおもしろくもない。だいいち、助役の家紋など、町方へ知られていないほうが、なにかと都合がよろしい」(丸に剣木瓜)

なるほど助役の任期は半年だから通達が行きわたるころにはお役ご免になっている。

長谷川平蔵の受けとめ方はちがった。
世間に対しても本役を立ててくれていると感じた。
豊前守の組の者が神田の岡っ引きである勘太を捕らえたとき、長谷川組の同心たちは所轄ちがいの所行といきまくのを、平蔵は、
豊前どののやりようを学ぶによい機会だわ」
笑ってとりあわなかった。

所轄ちがい……とは、本役の所轄は日本橋から北、助役(すけやく)は日本橋の南を担当、ときまっていたことによる。
神田は本役の管轄内だ。

長年岡っ引きをやっていた勘太は、商店からむしりとった金て米屋株を買ったり、箸にも棒にもかからないような男たちを中間として番所や見付などへ口入れしている悪(わる)との評判をとっていた。
平蔵も、いずれ引っ捕らえるつもりだった。

豊前守はまず、中間の1人を博打の現行犯で捕らえ、その後見……身元引き受け人というふれこみで、勘太が偽の名主や大家をこしらえて豊前守方へ出頭してきたところを入牢させてしまった。

「あれで終わらせるような豊前どのではあるまい」
平蔵が与力同心たちへいった三日もしないうちに、佐野組勘太を放免した。
「うちの長官も焼きがまわったかな」
組下たちのこんなささやきがつづいていたとき、佐野組はもう中間に化けて見附へもぐりこんでいる盗賊たちを引きたてはじめた。
勘太の密告(さし)によった。

「あの仁の悪の使いぶりは、おれ以上だよ」
誉言(ほうげん)をおしまない平蔵から、長谷川組の配下たちは敬意のささげようを学ぶ。


堺奉行や大坂町奉行の前歴を生かした豊前守は、組の与力同心をてきぱきと指揮して裁きをすすめ、幕府の最高裁である評定所へは1件も量刑を伺っていない。
火盗改メとしては異例といえる。

ぼくたちは、佐野豊前守政親のもう一つの顔を知っておきたい。

天明4年(1784)3月24目、殿中で若年寄の田沼山城守意知に斬りつけた500石どりの佐野善左衛門政言(まさこと)は、山城守が出血多量で死に、切腹を申しつけられ、家は断絶。
ひとびとは彼を「世なおし善左衛門」とほめそやして墓前に紫煙のたえることはなかった。

政親は本家筋の大伯父にあたる。
善左衛門のことはほとんど話題にしない豊前守だったが、平蔵には洩らした。
「あの者のとり柄は正義感---したが、強すぎたがゆえに扇動に乗りやすい。あれの父の伝左衛門が50をすぎてからの子なので甘く育てられたうえ、産んだのは美人が自慢の芸者で自分が中心になりたがりました。それを継いでいたので、反田沼派にたくみに利用され……」


政親を清廉の士とちゅうすけが断じたのは、以下の史料を目にとめたからであった。

贈りものの多い堺や大坂の町奉行をしていたにもかかわらず、蓄財していない。
わずか半年間、火盗改メの助役をやっただけで400両(6,400万円)もの借財をつくったと史料にある。
家禄1100石で400両の借りをかえすには数年はかかる。

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2010.09.20

佐野与八郎の内室

与八郎。西丸の目付は何年になるかの?」
問うたのは、元・田中藩主の本多正珍(まさよし 68歳 4万石)老侯であった。
宝暦8年(1758)に老職(老中)の辞任を強(しい)られ、藩主の座もゆずることになってから19年になる。
隠居所ともなっている、芝・二葉町の中屋敷の庭にのぞんだ一ト間には、浜風はとおっているが、蝉の声がうるさかった。

おりよく非番がかさなった佐野与三郎政親(まさちか 46歳 1100石)と平蔵(へいぞう 32歳)が申しあわせ、久しぶりにご機嫌うかがいに伺候していた。

正珍の継嗣・紀伊守正供(まさとも 享年32歳)が先月亡じ、孫・三弥正温(まさはる 14歳)が遺領を継いでいたが、諸事は宿老たちにまかせ、正珍は藩政には口を容喙(はさん)でいなかった。

「11年にあいなります」
政親が応えたが、
「蝉めの恋歌がうるさいのにもてっきて、予の耳がかすんできおっての---何年と申されたかの?」
声を大きくし、
「足かけ、11年になりましてございます」
「西丸の少老はどこを見ておるのかのう、長すぎるわな」
「手前がいたりませぬゆえ---」
人柄そのままに恐縮した。

仙寿院通頼(みちより 500石)法印どののご前妻は、たしか、与八郎のご内室の姉ごであったな?」

佐野与八郎の内室は、伊予・越智氏の河野((こうの)庶流のひとつ、豊前守通喬(みちたか 享年64歳=宝暦6年 1000石)の7女であった。
正珍が話題にした仙寿院法印は、同じ河野庶流だが、奥医師が家職であった。

この河野仙寿院とのかかわりについて、藤田 覚さんは『田沼意次』(ミネルヴァ書房)に、田沼意次(おきつぐ 60歳=安永6年)との姻戚関係はないものの、きわめて親しい関係を取りむすんだ人物として、


幕府奥医師で将軍家治の信任が厚く、勢力のあった河野仙寿院(せんじゅいん 通頼)の関係者などがいる。天明元年(1781)から同7年まで大坂西町奉行を務めた佐野政親(まさちか)は、その妻が仙寿院の妻と姉妹であり、政親の継嗣の妻は仙寿院の娘、という関係にある。
佐野の家には、境奉行から大坂町奉行になるような出世をした人物はいないし、天明7年10月に罷免されているので、政親が仙寿院--意次という人脈上の人物だったことは疑いない。
姻戚関係に限らず意次の人脈上の人物を探せば、佐野政親のような事例がかなり存在するのではないか。


ことわっておくが、藤田 覚さんのこの著書の刊行は、2007年7月10日である。
このブログで、佐野与八郎政親を初めて登場させたのは、2007年6月3日だったように記憶している。

参照】2007年6月3日[田中城の攻防] (3) (4) (5) (6)
2007年6月4日[佐野与八郎政信] () (
2007年6月5日[佐野与八郎政親]

このはるか前、『夕刊フジ』に平成11年10月5日から12月4日まで、[江戸の中間管理職 長谷川平蔵]のタイトルで連載した中に、佐野政親を紹介した。
もとネタは『よしの冊子』である。

夕刊フジ』の連載は、2000年4月288に文春ネスコから単行本として刊行された。

2回にわけて、こその「尊敬しあえる徳をもつ」を引用しよう。


「いや、長谷川どのはわれらなどがもつことがかなわぬ体験をへておられる。うらやましい」
鉄砲(つつ)16番手の組頭である1100石どり佐野豊前守政親が、火盗改メの助役(すけ)に任じられたあいさつにきた寛政2年(1790)10月のことだ。
この仁は46歳で堺の町奉行、50歳で大坂西町奉行に就いたぐらいだから、能吏、出来ぶつとの噂が高かった。
助役発令の前後にも、
「ここのところの先手組頭で、加役(助役)を仰せつけるとすれば、佐野をおいてほかにいない」
と殿中でささやかれていた。
そんな豊前守政親の真意をはかりかねた平裁は、
 「なんの、なんの」
 ことばを濁した。
 [お若いころの遊蕩のことですよ。人なみに遊びたいと思っていても、上への聞こえをおそれるわれらは、よう遊びませなんだ。
8年間つとめた大坂の町奉行を病いをえて退き、3年があいだ療養していて、ハタと悟りましてな。人生には無用の用というものがあり、それを体した者が大器になりえると」
 「遊蕩が資すると……?」
 「いかにも。人にもよりましょうが……は、ははは」
旗本の家に生まれ、それなりにしつけられはしたものの、番方(武官)としての出仕前……若いころの遊蕩の価値を、14歳も年長の先達に認められたのだから、平蕪も悪い気はしない。

両人の親交がはじまった。
豊前守はなにかにつけて[長谷川どのは先任者……]
「本役は平蔵どの……」
を口にしては、火盗改メのしきたりについて教えを乞う。
ことごとに対立した松平左金吾のあとだけに、豊前守のソフトな対応はよけいにうれしかった。
平蔵も、
[豊前どのこそ人生の先輩……]
立てた。
菊川(いまの墨田区)の長谷川邸へ招いたり、氷田馬場南横寺町(いまの千代田区平河町二丁目)の彼の屋敷へ招かれたりして、情報を教えあい、盃をかわした。年齢差、家禄差をこえての深い交際となった。(明日につづく)


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(河野豊前守通喬は5女を仙寿院通頼の内室に、7女を佐野与八郎政親の内室に帰嫁させた)


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(河野仙寿院通頼法印の前妻は通喬の5女)


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(佐野与八郎政親の内室は、河野通喬の7女。息・政敷の前妻は、仙寿院通頼の末の3女)

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2009.07.12

佐野与八郎政親(2)

佐野与八郎政親(まさちか 41歳 1100石)は、西丸・目付になって満5年近くになる。
目付という職掌がら、口が重い。

その政親は、弟あつかいをしている銕三郎(てつさぶろう 27歳)に、父・平蔵宣雄(のぶお 54歳)が京都西町奉行に取り立てられる風評が、すでに西丸の上層部でもひそかに流れていると漏らしたばかりか、この京都行きには、幕閣から内々の密命がこめられるらしいことを、暗に告げた。

帰宅した銕三郎は、まわりに人の気配がないことをたしかめ、宣雄に話すと、
「番方(ばんかた 武官系)できたわしに、役方(やくかた 行政官系)がつとまるとはおもえぬ」
宣雄は否定はしないで、勤務がきびしいことを匂わせた。

「それはそうでしょうが、番方から役方にまわられた衆は少なくありませぬ。げんに、京都西町ご奉行・太田播磨守正房(まさふさ 59歳 400石)さまも、わが家とおなじ両番の家筋です」
宣雄は、言っても仕方がないとおもったのであろう、太田正房は、実は分家・支家一門の多い水野の家系の五左衛門忠意(ただもと 享年35 500石)の次男で、太田家に養子に入り、そこのおんなを妻したことまでは、教えなかった。
女系のことをいうと、嫁・久栄(ひさえ 20歳)にも、奥どうように遇してきている銕三郎の母・(たえ 47歳)にも、余計なおもわくを与えることもばかったこと。

銕三郎は、そうした父の思慮にまではおもいがいたらない。
なおも、京師東町奉行・酒井丹波守忠高(ただたか 61歳 1000俵)も両番の家筋だから、父上が任命されても不思議はないと言いはる。
よほどにうれしかったのであろう。
ついでに口をすべらせた。
佐野の兄上は、老・若(老中・若年寄)方から、特別任務が密命されようとも---」

(てつ)。口が軽すぎるぞ。与八郎どのは、伊達に目付をなされてはおらぬ。そのような極秘の大事をお漏らしになるとはおもえぬ」
「あ。父上はご存じなのですね?」
「しらぬ。か、京の極秘のことといえば、だいたいのところは推測がつく」
「わかりました。詮索はいたしませぬ」
「もし、わしが京の町奉行に引き上げられたとしても、おそらく、に、手つだわせるわけにはいかない密事であろう。忘れよ」
「はい」
「そのこと、2度とふたたび、口にだしてはならぬ。久栄に話すことも禁じる」
「断じて---」

「話はかわるが、仮に、仮にだ、わしが京へ赴任することになったとして、久栄はどうするな?」
宣雄は、生後3ヶ月初女孫・於初(はつ)をかかえての道中を案じているのである。

「首がすわるまで、同道は無理かとおもいます」
「かわいそうだが、来春まで、留守番をしてもらうことになろうな」
「拙はお供をします」
「あたりまえだ」
これで、銕三郎は、父・宣雄の京都町奉行は、風説ではないことを確信した。

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(京都西町奉行の前任・太田三郎兵衛正房の[個人譜])

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2009.07.11

佐野与八郎政親

佐野どのの長屋門ができあがったそうな。名代として、午後にでもお祝いをとどけてもらいたい」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、父・宣雄(のぶお 54歳)に言いつかった。
(そういえば、佐野の兄上にも、4年ほどご無沙汰していたな)

参照】2008年11月7日~[西丸目付・佐野与八郎政親} () () (
2007年9月28日[『よしの冊子(ぞうし]) (27
2008年11月10日[宣雄の同僚・先手組頭] () () () () (

銕三郎は忘れている。
たしかに4年前、佐野政親から、銕三郎は、先手・鉄砲の組頭の誰かに、父・宣雄の役職である先手・弓の8番手の席が狙われていると教えられた。

_100その探索の行きがかりで、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳=当時)と躰をあわせてしまった。(歌麿 お竜のイージ)
銕三郎は、おんなおとこ(女男)だったおの中へ入った初めての男となった。

参照】2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] (

につながる思い出が強烈だったせいか、銕三郎は、去年の春、茶問屋〔万屋〕源右衛門(げんうえもん 51歳)の頼みをきいて、農家が茶を喫することを禁じた古いお触書(ふれがき)を廃する手くだを伝授した行きかがかりで、田沼意次(おきつぐ 53歳=当時)の用人・三浦庄司と会った。

その1年前---明和7年(1770)だが、おとともに相良へ行き、ほとんど完成していた曲輪内堀の石垣を見、そのことを木挽町の中屋敷で意次に報告したときに、いつものように佐野与八郎も同席していた。

参照】2009年5月6日[相良城・曲輪内堀の石垣] (

参照】2009年6月1日[銕三郎、先祖返り] (

松造(まつぞう 21歳)に角樽をもたせて、永田馬場南横寺町の佐野与八郎政親(まさちか 41歳 1100石)の屋敷へ溜池にそって坂をのぼる。

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(永田町馬場近くの緑丸=佐野家)

あたりの大名屋敷は、さかんに建築の仕上がりがすすんでいる。
そんななか、佐野の屋敷は、長屋門を焼いただけで母屋は奇跡的に火をかぶらなかった。

1000石級の長屋門ともなると、門扉の板も乳房鉄(ちぶさがね)をあしらった堅固なものであった。

ちゅうすけ注】乳房鉄とは、女性の乳房と乳頭の形をした釘頭隠しの金具。

政親が下城したころをみはからっての訪問なので、書院へ通された。
父からの口上を述べると、政親は笑って、
「そう、気ばられずともよい。こたびの、付火人(つけびびと)の逮捕には、銕三郎どのの交誼がずいぶんと役だったそうですな」
「あ、〔愛宕下(あたごした)〕の元締のことまで、お耳に達しておりましたか」
「組頭どのが申されておりました。銕三郎どのの顔は、慮外なほどひろがっておるとな」
「恐れいります。怪我の功名です」

「ところで、柳営では、組頭どののこたびのお手柄で、遠国奉行へ栄転なさるげな噂が、ささやかれておることをご存じかな?」
「いいえ。父からはなにも---」
「京都あたりと、漏れきいております」
「京---」
「西町ご奉行あたり---」

「しかし、佐野の兄上。わが長谷川家は両番(書院番士と小姓組番士)の家柄ではありますが、祖父・宣尹(のぶただ 享年35歳)までは、だれひとり、役付までのぼった者はおりませぬ。父が小十人頭はおろか、先手の組頭まであがっただけで望外なこと---」
「これ。銕三郎どの。お父上の才腕を、低く見つもってはなりませぬ」
「しかし---」
「上つ方々は、もっと買っておられるのですぞ。それに---」
「それに---?」
「禁裏の役人たちの---」
「京のご所のお役人たちの---?」
「いや。これは、口をすべらすわけにはいかぬことでありました」

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2008.11.09

西丸目付・佐野与三郎政親(3)

「粗飯(そはん)だが、供餐(きょうさん)していってくだされ」
平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手・弓組の8番手・組頭)が、西丸目付・佐野与三郎政親(まさちか 37歳 1100石)にすすめた。

(てつ)。ご相伴して、酒のお相手を---」
言われて、銕三郎(てつさぶろう 23歳)も、相席している。
このところ、銕三郎の酒の腕は、機会が重なっているので、ほどほどにあがってきている。

生鰹節(なまり)と野菜の煮たのに、茄子(なす)の丸煮、白瓜(しろうり)の塩もみ、冷奴が、膳にならんだ。
銕三郎は、ちろりをとって、佐野与八郎の杯に注ぎなから、
(はて---?)
と、不審におもった。

先刻、与八郎政親は、銕三郎と〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)が、永代橋ぎわの居酒屋〔須賀〕で呑んでいるところを、徒(かち)目付の下働き(徒押 かちおし)が目にし、向島のおの住まいに看視がついたと言った。

参照】[西丸目付・佐野与三郎政親] (1)

徒目付は、目付の下支えをする者たちである。
役高200俵。本丸に40人、佐野のいる西丸に24人。
その者たちが使っている徒押はその倍以上の人員であるが、彼らの職務はお目見(みえ)から上の幕臣の理非の探索であって、よほどのことがないかぎり、町人にはおよばない。

とすると、おの住まいが見張られるはずはない。
(見張られているのは、おれ、なのだ、この銕三郎なのだ。
しかし、お目見もすんでいないおれが、なぜに?)

銕三郎が、与八郎に酌をしながら、その顔に目を向けると、与八郎がうなづいた。

晩餐が終わり、与八郎が席を立つまえに、すかさず、銕三郎が、
与八郎お兄上。新大橋まで、お送りいたしましょう」
佐野与八郎の屋敷は、永田馬場南横寺町(今の霞ヶ関裏手)にある。

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(緑○=佐野家の屋敷 議事堂裏手 1000坪ほど)

さすがに初夏で、表は、暮れなずんでいた。
海からの風が涼気と潮の香をはこんでくる。

銕三郎が並ぶと、与八郎は供の者に、後(おく)れてくるように言いつけた。

「お兄上。先刻のご注意は、徒(かち)のお目付衆が、拙の行状をさぐっておられるからなのですね?」
「察しがついたか。さすがだ。長谷川どのに落ち度が見つからぬための、苦肉の策(て)であろう」
「なにゆえの、落ち度さがしでございますか?」
銕三郎どのも存じおろうが、先手の組頭は、番方(ばんかた 武官系)出世双六(すごろく)のあがりの地位といえる。あとは、資質のすぐれたご仁のみが、役方(やくかた 事務方 行政官)となって遠国(おんごく)奉行へ転出なさる」

「しかし、父上は、組頭におなりになって、まだ、足かけ3年でございます。次のご出世までは、うんと間が---」
「そうではない。長谷川どのは、弓の組頭。先手は、鉄砲(つつ)よりも弓のほうが格が上。鉄砲組のお頭で、弓の組頭への組替えを狙っておられる方がいても不思議はない」
「ということは、拙の不埒(ふらち)が、父上の足を引っぱることに?」
「たくらむものがいるやも---な」

ちゅうすけ注】こうなると、ちゅうすけとしても、銕三郎の注意をうながすためにも、目付に手をまわした、あってはならない醜業をおこないそうな仁さがしに、協力しないわけにはいくまい。
ま、どこの世界にもいつの時代にも、同僚をおしのけて出世したい輩(やから)がいて、不思議はない。とりわけ、鬼平のころの幕府では、家禄が固定した閉塞状態がつづいていたゆえ、役高(職務手当)をねらったり、地位をすこしでもあげたがる幕臣が、少なくはなかったともいえよう。
清いばかりの世界など、小説の中にしかない。

銕三郎が、おと睦んだり、おと親しくはなしたりしたことは、徒目付の下働きによって、松平定信への報告書『よしの冊子(ぞうし)』に、次のように書かれれてもいる。

参照】[『よしの冊子』] (20)←橙色の番号をクリック

長谷川平蔵は、かつて手のつけられない大どら(放蕩)ものだったので---

参照】2008年8月9日~[〔梅川〕の仲居・お松] (8) (9) 
2008年8月14日~[〔橘屋〕のお仲]  (1) (2) (3) (4) (5) (6)  (7) (8)
2008年9月7日~[〔中畑(なかばたけ)のお竜(りょう)](1) (2) (3) (4) (5)  (6) (7) (8)

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