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2010.09.24

佐野与八郎の内室(5)

藤田 覚さん『田沼意次』(ミネルヴァ書房)を非難しているのではないし、その意図もまったくない。

ただ、同書が上梓された2007年夏、さっそくにあがない、次のくだりに首をかしげた。
第1章 権力掌握の道のり の、「意次の子供」の項である。

意次の三女が結婚した西尾忠移(ただゆき)は、遠江横須賀3万5000石の譜代大名である。忠移は、天明4年(1784)に奏者番(そうじゃばん)になっている。忠移は、天明7年12月、意次の居城であった相良城の破却と武器の保管を命じられた。相良と横須賀の距離が近いということもあろうが、この姻戚関係にも意味があったろう。

相良城の破却に西尾隠岐守忠移も動員されたことは、すでに記している。

参照】2006年12月7日[相良城の請け取り

それよりも、西尾隠岐守忠移の内室だった、意次(おきつぐ 享年70歳=天明8年)の3女・於千賀(ちが)だが、意次が失脚する14年前の安永3年(1775)11月23日に歿している(20歳)。忠移28歳。
このことを、著者はご存じあったかどうか。

ついでに書くと、生前に男子・千次郎を産んでいるが、この子も3歳で夭折。

参照】2007年1月20日[西尾隠岐守忠移の内室
2007年1月21日[意次の三女・千賀姫の墓]

千賀という名前から、千賀道有を連想するが、そのことはおいて、忠移への輿入れを18歳のときと仮定すると、意次が側用人取次となった翌年ごろであろうか。

ともあれ、著書は、事項だけで即断していくところがないでもない。

佐野備後守政親(まさちか)の名が2度目に出るのは、大坂西町奉行であった第三章 幕府全権掌握期の政治 の「幕府財政と御用金」のところである。

天明三年(1783)、大坂町奉行所は、大坂の有力な両替商である鴻池(こうのいけ)など一ー軒を融通方(ゆうずうかた)に指名し、金繰(かねぐ)りに苦しむ大名への金融にあたらせた。(略)
両替商は、大名からの融資の申込みをうけると、年利八パーセントの範囲内で貸し付け、受け取った利息のうち年利五パーセント分を益金)(えききん)として幕府に上納する。幕府は、上納金のうちから年利ニ・五パーセントを両替商に戻す。(略)
この融通貸付策を担当したのが、大坂西町奉行の佐野政親)(まさちか)だった。佐野政親の妻は、河野通隆(みちたか)の娘である。幕府奥医として権勢があり、意次と深い仲の河野通頼(みちより 仙寿院)の妻も通喬の娘である。佐野政親と河野仙寿院は、妻を介した義兄弟で、さらに佐野政親の息子の政敷(まさのぶ)の妻も河野通頼の娘であり、河野仙寿院とかなり濃い関係を結んでいた。

たしかに、閨閥といえるし、徳川時代にかぎらず閨閥は強い。

しかし、河野仙寿院と田沼意次との関係が、同著ではさほど具体的でない。

さらに、第五章 田沼時代の終焉 『田沼意次の失脚」に、家治の臨終の月日をめぐる記述で、

それまで、将軍の信用の厚い奥医師、河野仙寿院が薬を調合していたが、一向に快方に向かわなかった。そこで八月十五日に医師を代え、奥医師の大八木伝庵が診察した。さらに十六日には、町医者の日向陶庵と若林敬順が、意次の推薦により新規に召し出され、お目見え医師になり家治の治療に加わった。

意次と河野仙寿院の仲はまずくなっていたのであろうか。

大坂町奉行に東・西、2人制であった。
1500石高、役料1500俵。
佐野備後守政親が西町奉行として融通貸付策にかかわったときの、東町奉行は小田切土佐守直年であった。

佐野備後守政親(50歳 1100石)
天明元年(1781)5月26日堺奉行ヨリ
天明7年(1787)10月6日御役御免

小田切土佐守直年(なおとし 45歳 2930石)
天明3年(1783)4月19日駿府町奉行ヨリ
寛政4年(1792)正月19日町奉行

佐野政親の内室は、女子1、男子(政敷 まさのぶ)をもうけたのみであった。
葬地は雑司ヶ谷の日蓮宗の大行院だが、現存していないので、歿年は確認できない。


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(小田切土佐守直年の個人譜)

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