平蔵と佐野与三郎政親(1)
平蔵(へいぞう)―― というより銕三郎(てつさぶろう 28歳までの幼名)と佐野与八郎政親(まさちか 45歳で備後守を授爵、のち豊前守 1100石)、それに田沼意次(おきつぐ 相良藩主)とのあいだがらについては、これまでに何度もふれてきている。
銕三郎と佐野与八郎のつながりには、元老中・本多伯耆守忠珍(まさよし 駿河・田中藩元藩主 4万石)がからんでいた。
藤枝の田中城の城主が長谷川家の先祖で、三方ヶ原で戦死した紀伊(きの)守正長(まさなが 37歳)であったという因縁で、宣雄(のぶお 享年55歳)が近づきになった。
もちろん、これには宣雄と同じ時期に先手の組頭をしていた本多一門の采女紀品(のりただ 2000石)の仲だちがあった。
老中職であった本多忠珍を隠居に追いこんだのが、当時側衆をつとめていた田沼主殿頭意次で、本多侯の中屋敷で紀品、宣雄、政親、銕三郎と面識し、木挽町(こびきちょう)の中屋敷にも顔をみせるように誘ったという次第。
史実にのこっている平蔵と佐野与八郎政親のつながりは、天明7年(1787)の大坂、江戸、駿府、甲府などの打ちこわしから3年後の、寛政2年(1790)11月に政親が火盗改メ・助役(すけやく)に任じられたときかぎりである。
しかし、宣雄・宣以(のぶため)父子と、佐野政親の家譜をつきあわせていくと、これまで記したような密接なかかわりが読みとれた。
【参照】2007年6月3日[田中城の攻防] (3)
2007年6月4日~[佐野与八郎政信] (1) (2)
2007年6月5日[佐野与八郎(政親)]
2007年6月8日[佐野大学為成]
2008年11月7日~[西丸目付・佐野与八郎政親] (1) (2) (3)
もっとも、ちゅうすけが佐野豊前守政親と平蔵との永いつきあいに気がついたのは、それほど古いことではない。
(もともと、『鬼平犯科帳』を読み始めたのは20年ほど前のことで、専用ワープロによってデータを集めることに興味がわいたからであった)
集めていたデータが『夕刊フジ』のIT担当のS記者の目にとまり、連載がはじまった。
その連載の1枠の[尊敬しあえる徳をもつ]という項に、以下のような記事を書いた。
いまからおもうと冷や汗1斗のコンテンツであった。
【参照】2010年9月20日~[佐野与八郎の内室] (1) (2)
体調がすぐれず、キーを打つ意欲が高まらないので、高揚していた時期の過去記事のクリックを多くしてしまった。
ぜひ、クリックし、『鬼平犯科帳』には登場していない史実の人物とのからみで、未完了に終わった『犯科帳』の埋め合わせの一助としていただきたい。
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