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2010.09.21

佐野与八郎の内室(2)

佐野与八郎政親(まさちか 46歳 1100石)は、小姓組から32歳で使番に抜擢(ばってき)されてすぐ、17万石の厩橋藩の水災のありようの監察に派遣され、居城を利根川から遠い川越へ移すように藩主の松平大和守親愛(ちかよし)へすすめたとして老中から賞されて以来、幕臣仲間のあいだでは、明察の仁、といいつたえられていた。

が、政親はそのことを、ちらとも表にださなかった。

早くに父を失い、祖父から家督を継いだのは与次郎と呼ばれていた12歳のとき。
以来、肩には家名の重みがずっとかかっていたのだ。

このとき---安永6年(1777)から13年後、堺奉行のときに豊前守を受叙、大坂町奉行をへた政親は先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭となり、火盗改メ・助役をつとめた。
本役は、長谷川平蔵であった。

相手の長所だけを見ることを課した自律の半生といえた。
平蔵(へいぞう 32歳)のような天性をまるまる発揮してなお魅力を失わず、部下からも慕われる器量のもち主を友にできたことに感謝した。
平蔵も、豊前守から謙虚さを学んだ。
もちろん自分には身につかない美徳とあきらめはしたが。

_120_2助役(すけやく)の組頭は、組下の者たちが出役のときに羽織る役羽織へつけている組頭の家紋はこれこれ、と町々へふれさせるのが従来からの慣習(しきたり)だったが、佐野豊前守は秘した。

「丸に剣木瓜(もっこう)……わが家の紋どころは、いかめしくもなければおもしろくもない。だいいち、助役の家紋など、町方へ知られていないほうが、なにかと都合がよろしい」(丸に剣木瓜)

なるほど助役の任期は半年だから通達が行きわたるころにはお役ご免になっている。

長谷川平蔵の受けとめ方はちがった。
世間に対しても本役を立ててくれていると感じた。
豊前守の組の者が神田の岡っ引きである勘太を捕らえたとき、長谷川組の同心たちは所轄ちがいの所行といきまくのを、平蔵は、
豊前どののやりようを学ぶによい機会だわ」
笑ってとりあわなかった。

所轄ちがい……とは、本役の所轄は日本橋から北、助役(すけやく)は日本橋の南を担当、ときまっていたことによる。
神田は本役の管轄内だ。

長年岡っ引きをやっていた勘太は、商店からむしりとった金て米屋株を買ったり、箸にも棒にもかからないような男たちを中間として番所や見付などへ口入れしている悪(わる)との評判をとっていた。
平蔵も、いずれ引っ捕らえるつもりだった。

豊前守はまず、中間の1人を博打の現行犯で捕らえ、その後見……身元引き受け人というふれこみで、勘太が偽の名主や大家をこしらえて豊前守方へ出頭してきたところを入牢させてしまった。

「あれで終わらせるような豊前どのではあるまい」
平蔵が与力同心たちへいった三日もしないうちに、佐野組勘太を放免した。
「うちの長官も焼きがまわったかな」
組下たちのこんなささやきがつづいていたとき、佐野組はもう中間に化けて見附へもぐりこんでいる盗賊たちを引きたてはじめた。
勘太の密告(さし)によった。

「あの仁の悪の使いぶりは、おれ以上だよ」
誉言(ほうげん)をおしまない平蔵から、長谷川組の配下たちは敬意のささげようを学ぶ。


堺奉行や大坂町奉行の前歴を生かした豊前守は、組の与力同心をてきぱきと指揮して裁きをすすめ、幕府の最高裁である評定所へは1件も量刑を伺っていない。
火盗改メとしては異例といえる。

ぼくたちは、佐野豊前守政親のもう一つの顔を知っておきたい。

天明4年(1784)3月24目、殿中で若年寄の田沼山城守意知に斬りつけた500石どりの佐野善左衛門政言(まさこと)は、山城守が出血多量で死に、切腹を申しつけられ、家は断絶。
ひとびとは彼を「世なおし善左衛門」とほめそやして墓前に紫煙のたえることはなかった。

政親は本家筋の大伯父にあたる。
善左衛門のことはほとんど話題にしない豊前守だったが、平蔵には洩らした。
「あの者のとり柄は正義感---したが、強すぎたがゆえに扇動に乗りやすい。あれの父の伝左衛門が50をすぎてからの子なので甘く育てられたうえ、産んだのは美人が自慢の芸者で自分が中心になりたがりました。それを継いでいたので、反田沼派にたくみに利用され……」


政親を清廉の士とちゅうすけが断じたのは、以下の史料を目にとめたからであった。

贈りものの多い堺や大坂の町奉行をしていたにもかかわらず、蓄財していない。
わずか半年間、火盗改メの助役をやっただけで400両(6,400万円)もの借財をつくったと史料にある。
家禄1100石で400両の借りをかえすには数年はかかる。

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コメント

私は、ちゅうすけさんのブログの記述にしたがい、銕三郎さんの仮りの兄者として、佐野与八郎政親さんに親しんできました。
兄者としての与八さんは、たえず見守る姿勢で銕三郎さんに接していました。容喙しすぎるでもなく、さりとて、まかせきりというのでもなく、で、その監督ぶりは、その後の銕三郎さんの部下の使い方にいい意味での影響をあたえていると思います。

そんな与八さんを田沼派と見るのは、すこし、ひどいように思えますが、男の世界、権力の社会では、色をつけて人をみるんですね。

投稿: tsuu | 2010.09.21 05:00

ブログの時代のすすみ具合だと、平蔵はまだ32歳です。保守・門閥派のアンシァン・レジームが成功するのはあと10年ほど先です。
それまでは、銕三郎、じゃなかった、平蔵にのびのびとことをやらせてやりましょうよ。
松平定信の時代になると、みんな、逼塞気味になってしまうのですから。もしかすると、いまの日本が松平定信の時代の再現かもしれません。だから、鬼平テレビがうけている?

投稿: 左衛門佐 | 2010.09.21 05:14

>tsuu さん
与八郎政親は、9歳で父を失い、12歳のときに家をささえていた祖父が逝っています。

母は某女とありますから、町方からあがった父の側女だったのでしょう。

父の正妻のことは『寛政譜』には記されていません。

継嗣となるはずだった兄は早世、弟も幼くして逝っています。

与八郎を育てたのは名門・戸田の一族(850石)から嫁いできた祖母でした。この祖母の養家は両番の家柄で、養父は先手組頭もしていました。

祖母の躾は立派であったといえます。

投稿: ちゅうすけ | 2010.09.21 09:02

>左衛門佐 さん
いつも、コメントでのおはげまし、感謝しております。
おっしゃるとおり、平蔵はいま32歳、おまさが誘拐されるのは、平蔵が49歳前後のときですから、あと17年ほどありますが、火盗改メ在任中のことは小説にありますから、それを引くと、10年ですね。
しかし、こちらの頭脳と視力と体力は、あと、1,2年あるかないかでしょうから、先をいそがないと。

投稿: ちゅうすけ | 2010.09.21 12:31

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