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2012年1月の記事

2012.01.31

松代への旅(12)

暁暗のころ、お(こう 18歳)が平蔵(へいぞう 40歳)の耳たぶにそっと唇をあて、寝衣の浴衣の前をととのえ、枕をかかえて自分の部屋へ戻っていった。
(口を吸うこともまだ覚えてはいないらしい、初心(うぶ)な所作だ)

小半刻(30分)ほど間をあけ、鉄条入りの木刀を振っていると、寝衣のままのおがよってき、頬をあからめ
「昨夜はありがとうございました。結んでくださったのですね?」
「結んだ---?」
「はい。夢ごこちのうちに快感をおぼえました」
「おんなになったのだ---」
「うれしゅうございます」
涙が一条こぼれた。

平蔵はなぜか、そうおもいこませておくほうがも、おにとってしあわせであるなら、それもいいと断じたので、笑いをこぼし、肩をつかんでゆすって、
「妙におんならしくなったではないか。妙だぞ。われは肝のすわったおが好ましい」

肩の手に掌を添え、
「今夜は深谷(ふかや)の泊まりになりそうです」
「うむ」


朝餉(あさげ)を終え髷をととのえたころ、火熨斗(ひのし)で折り目がきちっとついた着るものがとどいた。
前砂(まいすな)でお茶にしたので、熊谷宿(くまがや しゅく 4里20丁(18km))で昼にしたときには九ッ半(午後1時)をすぎていた。

に馬をすすめたが、首をふり、
「お転婆(てんば)が好きとおっしゃった」

宿の北の木戸をでたところで、右の脇道へそれ、熊谷次郎直実(なおざね)の熊谷(ゆうこく)寺に参詣した。

「京にいたころ、熊谷どのが開山なされた法念寺の近くになじんでいながら、ついに参詣しなかったほどの罰あたりであった---」
おもわずつぶやいた平蔵の顔を、松造(よしぞう 35歳)がぬすみ見た。

(めずらしく、誠心院(しげょうしんいん)の貞妙尼(じょみうに)さまのことをおもいだされておられるkのか--)

http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/10/post-da91.html
【参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)] () () () () () () (
[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

(あれは、長谷川さまがこれまでにおかかわりがあった女性(にょしょう)のなかでも、もっともおいたわしい事件であった。それにしても、12年もすぎたいま、貞妙尼さまをおもいだされるとは、男の業(ごう)もけっこう深い)

松造の推測はそうであっても、ちゅうすけには別の忖度(そんたく)がある。

700年前の源平の時代を生き、武士の宿命とあわれに平蔵が同感しての参詣とみる。
もしかすると、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)が勤めた火盗改メへの就任を予感していたかもしれない。
この職につくと、盗賊を獄門に処したり、掏摸(すり)を死しか待っていない佐渡鉱山の水汲み人夫に送り込むといった非情も避けるわけにはいかない。

なにがしかのお布施を包むと、住職が本堂へ招じ、法然上人から蓮生(れんせい 直実の得度名)がさずかったとつたえられいる仏像を拝観させてくれた。

山門をでるとき、平蔵がつぶやいた。
「われも、父上の齢まで生きられたら頭を丸めるか」
「その節は、私も剃髪(ていはつ)して尼になります」
応じたおに、
「なにをいうやら。われが55歳のときは、おは33歳のおんなまっ盛りだ」

「55歳のお頭も、男まっ盛り---」

松造が茶化した。
「盛りというのは、あのほうの、さかりにも通じます」


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2012.01.30

松代への旅(11)

夕餉(ゆうげ)は六ッ(午後6時)まえ、松造(よしぞう 35歳)が湯からあがったところで、平蔵(へいぞう 40歳)の部屋へ集まり、酒となった。

肴は蓮根のめずらしい酢煮。
白く煮あがっている一片をつまんだ平蔵が、
「蓮根はどこで採れるのかな」
「お城のしのぶ池です」
「甘露だ」
女中が、あとをお(こう 18歳)にまかせて出ていった。

3人とも、宿の浴衣であったが、平蔵松造も夕立をかぶった髷を洗ったので手拭をまいていた。
はさすがに女性(にょしょう)らしく、洗い髪を束ねる色鮮やかな布を携行してい、浴衣の帯に身代りの赤いお守りをぶらさげていた。
平蔵にはそれがいとおしかった。

明朝六ッ半(午前七時)前には、それぞれ髪結いがくることになっている。
着ていたのは単衣(ひとえ)だから朝までには乾き、火熨斗(ひのし)をあててくれるように女中頭にたのんであった。
着物はともかく、濡れたままの袴はたたむことができなかったのである。

「お。2年前の浅間の山焼けのときはどうであったの?」
「私は16歳でしたが、浦和のあたりにも米粒ほどの灰が降ってき、2分(6mm)ほどもつもりました。このあたりは浅間寄りなので、もっとひどかったのではないですか? 深谷宿(ふかや しゅく)の〔延命(えんめい)〕の伝八(でんぱち 38歳)元締)が去年立ちよんなさったときの話では、深谷あたりには米粒の倍ほどのが降ったそうです」

延命〕の通り名は、深谷宿の手前の臨済宗・常興山普済寺の境内の延命地蔵尊からとっているらしい。

いける口らしく、酌をしてやると躊躇しないで受けた。
平蔵の倍近く呑んだろう。
酔いがすこしまわったらしく、飯膳がきたときには衿元がかなりひらき、平蔵の側から乳頭がのぞけた。

「それでは、明日は深谷泊まりということにし、〔延命〕の元締にあいさつしておこう」
「そうしてくださると、〔化粧(けわい)読みうり〕の話もできます」


寝床に伏せていると、足音をしのばせ、おんな用の箱枕をかかえたおが入ってきた。
「添い寝をさせて---」
薄い上布団をあけてやると左側に添い、横伏せで平蔵に対した。
束ねをとってしまっていたので長い髪が後ろにひろがった。
仰向いたまま、
「父親とむすめが共寝をしているとおもっていよ」
左腕を箱まくらと首のあいだに差しいれ、うなじを抱いた。
躰をすり寄せ、衿をひらいて乳房を脇腹へつけた。

「このまま眠るのだ」
の唇が耳たぶを噛んだ。

さすがに、男のものには触れてこなかった。
そこまでの経験がなかったのだ。

平蔵の胸に左腕をおいたまま、寝息を立てはじめた。

夜中に夢ごこちで左足を平蔵の足にのせ、下のものをつけていない秘部を太腿iにすりつけたことも、覚えていなかった。
ひきしまって形のいいお江の足をおもいだしただけで、感じてきた。

そのまま動かずにいると、平蔵のものは、やがて平静に復した。

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2012.01.29

松代への旅(10)

昼餉(ひるげ)を上尾・仲町の本陣〔林〕の前の飯屋でとった。
〔林〕は重々しい門構え、広そうな建屋(たてや)で、お(こう 18歳)によると、このあたりではもっとも大きい本陣とのことであった。
資料によると、351坪ということだから、たしかに中山道では大きいほうにはいる。
(帰路は、ここへ泊まることになろう)

浦和から上尾は3里10丁(13km)。
 の脚をいたわり、2刻(4時間)ちょっとかけた。
男脚なら3時間の道のりであるが、平蔵(へいぞう 40歳)も松造(よしぞう 35歳)もその話題には触れなかった。

腹ごしらえをすませ、おも用を終え、3人は残暑の陽ざしの中へ出ていったが、おが、
長谷川さま。右手の参道の奥の身代り不動尊(編照院)は名刹です。拝んでいきませんか?」

新義真言宗とあったのでちらっと辰蔵(たつぞう 16歳)の妻の於(ゆき 24歳)の顔がよぎったが、門前の花屋で訊くと、大和の長谷寺系ではなく京都の仁和寺系と教えられた。
(われとしたしたこととが、些細にこだわってしまった)
自分をいましめた。

H_170神仏を軽んじないばかりか、むしろ崇拝(たて)ているほうだが、しきたりや功徳は無視してきた平蔵であった。
ふところから小銭をだし、お守りを求めておに与えた。
「帰路もつつがない旅であるように---」
「わあ、うれしい。長谷川さまが守ってくださるのですね」
胸元の奥、肌身におさめたようなのを横目で見た松造が、ふくみ笑いをかくさなかった。

「肌につけたら汗で湿(し)っけように---」
笑いながいう平蔵に、
「手ぬぐいをはさんでます。でも、乳のところ---」
松造を無視していた。

「ややよりも先にお守りに乳を吸わせるのか?」
「いいえ。長谷川さまに---」
松造。そういえばお(つう)も18歳だが、ややはまだか?」
話題をそらすと、心得た松造が、
「そうでした。お(くめ 45歳)にもお守りを買っておかねば---」
松造。この先、寺や神社はいくらもある。一人分にしておけ」
「はい」

さすがに気がついたらしく、鴻ノ巣(こうのす)宿までの2里28丁(11km)までは松造と並ぶことが多く、おの恋と嫁入りの問答に熱中し、齢ごろのむすめに戻ったようだ。


参照】2011年11月13日~[お通の恋] () () () (
2011年12月18日~[お通の祝言] () () (

東間(ひがし)村のあたりで東の空に黒雲がひろがり、鴻ノ巣宿のとば口、通称・三九郎前の石橋と地元で呼ばれている橋をわたりきったところで大粒の雨が落ちて、はげしい夕立がきた。

3人とも地蔵堂の軒下へかけこんだがずぶ濡れで、手拭いで顔と髪をふくだけで、跳ねかえるしぶきを眺めているしかなかった。

雨は小半刻(30分)もしないで、うそのように陽がさした。
暮れ六ッ(午後6時)まで1刻(2時間)はあった。

濡れた着物のまま中宿(なかしゅく)の脇本陣〔瀬山〕へ入ると、宿の者が気をきかせて早速に浴衣を部屋へはこび、風呂を焚きつけた。

部屋は3人別々であったが、平蔵が先に風呂へ行き、元どりをとって頭を洗っていると、結髪をほどいたおが裸で入ってき、
「また、ごいっしょに浸(つ)かれます。こんどは、私の背中の垢すりをしてくださいますか?」

湯をかぶってから腰置きに背中を向けた。
ほどいた黒髪が腰のあたりまであった、
の手から手拭いをとって硬くしぼり、長髪を肩ごしに前へたらし替え、 昨夜やってくれたように左掌で肩を抑え、若々しく張りと艶のある肌をこすりながら、
奈々(なな 18歳)の白すぎるのにくらべるほうが無理というものだ)
関東のおんな特有の濃いめの肌色であった。

手かげんしていても、肌は赤くなった。
平蔵のものは起きなかった。

背中をぽんと打ち、
「終わった。これでいいな」
その瞬間にこちら向きになったおの双眸(ひとみ)が、浴場の灯火を映し、けだもののように燃えていた。
さかりの季節になった雌猫にたとえるのはおに失礼だが、平蔵にはそのようにおもえた。

しばらく瞶(みつめ) あった。
久しぶりに剣術の間合いがよみがえった。
(ここで気を抜いては、相手に斬られる)

がまばたきをしたのを機に、手拭いを下腹へ投げかけて立ち、わざとふつうのままをおにさらし、
「前のほうは、おどの、おのれでこすれ」
湯船に浸(つか)った。

「どのはおやめください。おと呼んでください」
「そうしてほしいのであれば、2人きりのときは、以後、そう呼ぶことにしよう」
長谷川さまのことは---?」
「そうさな。徒(かち)組の組頭(くみがしら)ゆえ、お頭(かしら)がいい」

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2012.01.28

松代への旅(9)

「もう、江戸へ発(た)つのか?」
浦和の本陣・〔星野〕の玄関で、桜色の手絆脚絆に裾上げ、揚げ帽子の旅支度のお(こう 18歳)が松造(よしぞう 35歳)とならんでいるのを認めた平蔵(へいぞう 40歳)がおもわず発した。

「いいえ。江戸ではありません。高崎までごいっしょさせていただきます」
「高崎に用でも?」
「〔九蔵町(くぞうまち)〕の元締に、[:化粧(けわい)読みうり]仲間になるごあいさつに参ります」
屈託のない、笑みを浮かべた口ぶりで応えた。

昨夜の風呂場の一:件を知っている番頭や女中が見ないふりで聞き耳をたてているのがわかっているため、
「では、そこまでいっしょに参ろう」

中山道へで、北へ歩みながら、
「高崎から帰りの供はどうするのだ?」
「ご心配なく。迎えにこさせます。それより、今宵のお泊りは熊谷(くまがや)、それとも鴻ノ巣(こうのす)になさいますか?」
「熊谷への里程(りてい)は---?」
「10里8丁絆(41km)ばかり---」
「鴻ノ巣は---?」
「6里(24km)をこころもちきれます」
「鴻ノ巣泊まりとしよう」
「私のためでしたらご無用に。これでも浦和・江戸を一日で往復します」
「いや。急ぐ旅でない。残暑もまだきびしい。宿ではおどのとゆっくり語りあいたい」
「ごいっしょの宿でいいのですね。うれしい」

松造は気をきかせて、5,6歩後れているから、2人の話はほとんど聴きとれない。

昨夜、おの引きしまった形のいい脚をおもって股間のものが硬直したことに内心の苦笑いを隠し、さりげなく、
「浦和あたりでも、おどののような20歳(はたち)前の若いむすめたちのあいだで、背丈よりも脚の長さ---と申しておるかの?」
奈々(なな)さまも脚の長いお方ですのね?」
早くも奈々(18歳)の名を記憶し、競いごころのようなものをおぼえているらしい。
「おどのとおなじようにな」
「あ、きのう、裸の脚をごらんになっていたのですね。うれしい」
「美しい脚と見ほれていた。奈々は百済とかいう海の向こうの血がはいっておる」
が決心した口調で、
「私の母も、高麗系だったそうです」

「そうです?」
「私を産んでまもなくに亡くなり、私は父の〔白幡(しろはた)〕の本妻さんに育てられました」
「それでは、姉上とは別腹---?」
「でも、ほくんとうの姉妹のようにして育ちました」
「気質が異なっているのは、そのせいかもな」

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2012.01.27

松代への旅(8)

(しかし、おれという男には、風呂とおんなという切れない縁(えにし)があるようだ)
(こう 18歳)が江戸での再会を堅く約しながら引きとったあと、灯芯を下げ、寝床に臥しながら、反芻しはじめたのは、添い寝の奈々>(なな 17歳=当時)がいないせいかも知れなかった。

奈々とは、行水で触れあってしまった。

参照】2011830[新しい命、消えた命] (

奈々を同道したせいで今夜のところは、旅、風呂、おんなのお定(き)まりの筋をたどらなくてすんだ)

旅、風呂、おんなのもっとも近いのは、東海道・嶋田宿の本陣・〔中尾(置塩)〕藤四郎方の出もどりの若女将・お三津(みつ 22歳=当時)であった。
ささいな口ききが口火となった。
いや、語呂あわせみたいだが、男とおんなの仲なんて、意味もない会話から火つくことが少なくない。


参照】 201154~[本陣・〔中尾〕の若女将お三津] () () (

三津はいまは新しい情夫(いろ)につくしているが、血筋からいってもっと格上の男のほうが似あっているのだが、男とおんなが乳くりあうのに格の上下などはかかわりないことだ。

旅、風呂、おんなは、4年前にもはまった。
越後の与板の廻船問屋〔備前屋〕の女将・お佐千(さち 34歳=当時)で、2児を育てながら大店をとりしきっていた後家であった。
2年間立てていた後家が平蔵につまづいた。
平蔵の中年武家の男くささに抗しきれなかったか、おんなの躰ぐあいが男なしにはすまされないのか、たまたま情が高まる周期にあたっていたのか。
それほどの恋情がなくても男とおんなは、雄と雌になれる。

参照】 2011年3月~[与板への旅] () () () (14) (15) (16

旅、風呂、おんなでは、子までできた阿記(あき 21歳)も欠せない。
鎌倉の縁切り・東慶寺へ入るために実家へもどる途中の箱根の坂で、であった。
18歳の銕三郎(てつさぶろう)が、父の養女・与詩(よし 6歳)を迎えに府中へ出向く道すがらであった。

参照】1200812月31日~[与詩(よし)を迎えに] (11) (12) (13

平蔵にとって旅、風呂、おんなのそもそもは、もういやというほどリンクをはったが、14歳の銕三郎が初めてさなぎから男に脱皮した、三島宿での貴重な体験におつきあいいただかないわけにはいかない。
参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ


江戸では防火上、町家は風呂場がつくれなかったが、郊外ともいえる向島に、〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 47歳)がお(しず 18歳)を囲った寓居には、広い浴室があった。
銕三郎は21歳で、それまでにお芙沙(ふさ)と阿記を体験していたから、躊躇はなかった。
男とおんなが裸でいて、なにもしなかったと強弁したら、嘘つきか萎え男か、おんなが月に入っていたかだ。
しかし、銕三郎の結果が青春の悔恨となった:経緯は、聖典にくわしく述べられている。

参照】2008年5月2日~[お静という女] () (

ここの風呂場は、〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 45歳=当時)から〔狐火〕へゆずられた女軍者(ぐんしゃ 軍師)・{中畑(なかばたけ)〕のお(おりょう 29歳=当時)と睦むきっかけともなった。
はおんな男、いわゆる同性愛の立役であったから、銕三郎が初めての男となった。
性の複雑というか、不思議の一面というか。

参照】008年11月18日~[宣雄の同僚・先手組頭] () () (

は琵琶湖で水死した。
享年33歳であった。
京へ先着した銕三郎と抱きあうために彦根の盗人宿から渡船していての事故であった。

町家の風呂は禁止されていた江戸だが、いかがわしい出合茶屋などではもぐりで浴室をつくり、逢引き客の求めをこなしていた。
音羽の〔長崎屋〕もそういう料理茶店であった。
ここで、銕三郎(22歳)は、のちにお(なか 33歳)と改名したお(とめ)という性技の師をえた。

参照】200887~[〔梅川〕の仲居・お松] () (

若い男は、熟女から手とり足取りで教わるにかぎるというのが、平蔵の性哲学ともなった。

同じように、寺の境内と接した旅荘も奉行所の目をくぐって浴室をこしらえていた。

(のぶ 30歳=当時)は下総(しもうさ)生まれの元おんな賊であった。
足を洗うと告げられ、うさぎ人の小浪(こなみ)がやっていた御厩河岸の茶店を世話した。
6年後になんの気もなく店へ寄り、賊の話をしいて住まいへ招かれた。
呑んでいるうちにともに臥せた。
それからおは身を潔(きよめ)たいと尼になったが、生身の欲求は抑えきれなかった。
日信尼(40歳)は平蔵(36歳)に抱かれたがった。

おんなに恥ずかしいおもいはさせたくないというのも、平蔵の哲学の一つであった。

参照】2011年12月21日[日信尼のa href="http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2011/01/post-3e00.html">煩悩]

銕三郎がおんな賊を抱いた実績は、聖典にも書かれている。文庫巻3[艶婦の毒]がそれだ。
ちゅうすけ流ではこうなった。

参照】2009年7月27日~[〔千歳(せいざい)〕のお豊] () (10) (11

これまでの色模様をおもいかえしても、股間に変化はおきなかった。
(男として、というより、雄としての盛りはすぎつつあるということか)
ちょっと情けなくもあった。

(そういえば、風呂とおんなというお定(き)まりの場面があった今宵、おの全裸の肌がわれに触れてもそのきざしはなかった)

(足くびがひきしまった形のいい脚をしていたな)
おんなは背丈くらべより、脚の長さくらべよ---とはいはなって里貴を鼻白ませたのは奈々であった。

参照】2011712[奈々という乙女] (

あのとき、里貴奈々の内股へ左右の手の甲をあてて高さを計ったが、奈々は、
「うちのほうが小股がきれあがってんのやわあ」
「上方(かみがた)で胴より脚のほうが長いおんなのことを上つきゆうて上等なんやわ」
いい放ち、里貴が眉根をよせた。

(今宵のおの脚もすっきりと細身で長かった。上つきかな」
脚が長いと男の胴をしめるようにして腰の上で足首を組む。

驚いたことに、おの形(なり)のいい脚をおもいだしただけで、股間が息づいてきた。

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2012.01.26

松代への旅(7)

「つくりごとではなかったのですね、18歳のお方と今朝までごいっしょだったというのは---」
単衣(ひとえ)だから躰の線がうかがえる着物をきちんつけたお(こう 18歳)が頬を染めながら酌をした。
湯上りの乙女の色気が匂っていた。

奈々(なな 18歳)という名のむすめでな。奈々がきていなかったら、危ないところであった---」
「危なくてもおよろしかったのに---でも、父に[掘りだしもの]といってくださって、ほんとうにうれしかった」

「乙女の徴(しる)しは、ほかの男のためにとっておくことだ」
「案外、つまらない男に摘(つ)まれたりして---」
「おどのほどの賢くて肝がすわっておるおなごが、ドジを踏むはずかない」
長谷川さま。また、嬉しがらせをおっしゃいます」
「ほん音(ね)だ。ひと目でわかった」

酌を返し、
「〔化粧(けわい)読みうり」は表向きの理由(りくつ)であってな、ほん音(ね)は街道の元締衆の連絡(つなぎ)というか、うわさと本筋をすばやく伝えあえる裏の筋がほしい」
「なんのために---?」

平蔵(へいぞう 40歳)はじっとおの双眸(ひとみ)をのぞきこむように瞶(みつ) め、
「世の中がいまのままでいいとおもうか? われはお上から禄を頂戴している身だから大きなことはいえないが、勝手元(財政)がきつくなったからといっては天領の村々からとりたてるだけのご政道はどこか間違っておるとしかいいようがない」
(若いおなごを相手にオダをあげておるわい)
はにかみながら酌をうけた。

長谷川さま。先刻の話で、はまもなく江戸の〔音羽〕の元締の許へ修行に出向きます。長谷川さまのお屋敷を訪ねていいですか?」

「いいとも。われの家には、13歳で子をはらませた息子とその嫁ごがおる。嫁ごは8つ齢上だがな」
「存じております。若い者頭の万吉(jまんきち 24歳)から聴きました。きれいな尼ご寮さんとか---」
「還俗し、いまは於(ゆき)となっておる」
「ものわかりのおよろしいお父ごですこと」
「おんなにだらしない父ごでもある」

「でも、私にはだらしなくなかった---」
「それを申すな。お父ごにあわす顔がなくなっては困る」
「裏の連絡(つなぎ)筋のために---」
こころよいじゃれあいであった。

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2012.01.25

松代への旅(6)

平蔵(へいぞう 40歳)が松造(よしぞう 35歳)にいいつけて、宿場の酒店〔高沢屋〕で角樽をあつらえさせた。
「殿は、4年前に与板からの帰り、寄居の〔白扇〕がいたくお気に召していらっしゃいました」
「つまらぬことを覚えておるな。あれば、〔白扇〕でよい」

旅亭〔芝屋〕の勘定をすませ、奈々(なな 18歳)とおあき 19歳)の荷を預かってもらい、富士がみごとに見えるとすすめられた辻村はずれまで北行した。

蕨宿はそれほど大きくはない。
宿場としては10丁(900余m)、中山道ぞいの家並みは200軒ばかりだから、端から端jまで歩いても小半刻(30分)も要しない。

「家と家のあいだから、富士がはっきり見えるだけでも満足---」
奈々はそう喜んでいたが、堪能したのは昨夜の泊まりであったろう。

辻村の茶店で富士と真正面に対しながら昼餉(ひるげ)をとり、戸田にもやっている舟へ戻る奈々たちと別れた。
(くら)はん。なるたけ早うに戻ってきて---」
百介(ももすけ 21歳)の目も気にかけず、手をつかんでしばらく離れない。
「夏の富士さんは見たよって、こんどは雪を冠(かんむり)してはるところを見に来たいねんやわ」


浦和宿へは1里14丁(5km強)、陽が高いうちに、焼米でしられている白幡村へ達し、〔白幡(しらはた)〕の長兵衛(ちょうべえ 48歳)の家を訊いた。

生まれは白幡村だが、いまは浦和宿住まいとわかった。

参照】2011年11月7日[月輪尼の初瀬(はせ)への旅] (


「過日は、愚息とその連れがおもいもかけずにお世話になり、お礼に参上つかまつった」
「〔音羽(おとわ)〕の元締の回状を粗末にはできんのですよ」
長兵衛が角樽を受けながら、恐縮した。

浦和泊まりとわかると、酒の支度をいいつけ、
「先日、〔音羽〕の元締のところへ顔をだしたら、〔化粧(けわい)読みうり〕を見せられ、浦和、大宮あたりでもかんがえられないかと尋ねたら、長谷川さまのお許しがあればと応えられ、お目もじの機会を待っておりやした」

呑みながら、熊谷と深谷、高崎の〔九蔵町〕の九蔵(くぞう 41歳)どんのところの若いのも重右衛門(じゅうえもん 58歳)元締のところで見習いにをしていると告げると、
「おんなでは見習えませんか?」
「そんなこともなかろうが---」

長兵衛には男の子がなく、上のむすめに婿をとったが、どうも香具師(やし)元締にはむかないようだと眉をひめ。
「下のむすめは18歳だがお転婆だが肝がすわっとりやす。おんな元締でもいいではないかとおもっているところで---」
音羽〕のところへ預けようかとかんがえていたところだといった。

「おんな元締というのもおもしろそうだ」
平蔵の笑みに決心がついたが、むすめを呼びにいかせた。

挨拶にでてきたお(こう)は鼻筋のとおった十人並みながら、双眸(ひとみ)がきらめいてい、いかにもきかん気らしい面がまえのむすめであった。

「おどの。〔化粧(けわい)読みうり〕というのは、空気を金に換える手だてのものだが、わかるかな?」
「おんなは昔から色気(いろけ)を金に換えとりょうります。手でつかめないものに値打ちをつけることは、子どものときからこころえとります」

「頼もしい。長兵衛どん。掘りだしものだわ」


本陣・〔星野〕で湯に浸(つ)かっていると、
「お背中の垢こすりをしましょ」
素裸で入ってきたおんながいた。
さらしている黒々とした局所、細くしまった胴、ふくれた乳房、小さくて淡い桃色の乳頭---
その上の笑顔の主は、おであった。

「これは面妖な。浦和の狐は18のむすめに化けるのか---」
「掘りだしものが、お礼に参じjました」
「お父ごはご存じかな---?」
「親にいちいち相談をかける齢は、すでに過ぎておりょうります」

「お出になり、背中をこちらにお向けになさんせ---」
腰おろしに手桶の湯をかけ、ぼんとたたいて招いた。

平蔵も仕方なく、前をかくさずに湯桶から出た。
さいわい、股間(こかん)のものは興奮していなかった。

ねじった手ぬぐいで背中をごしごしこすりはじめ、
「垢がおもしろいみたいに落ちよります。半分はおんな垢--」
「そうかもしれん。今朝まで、18歳の情人(いろ)といっしょであった」
意外な腕の強さで、おが左手で肩をおさえてくれていなかったら、腰おろしからずり落ちるかもしれないほどの
力であった。

「本陣には、なくんといって通ってきた---?」
はこれでも、〔白幡〕の妹むすめとして顔が売れております」
「なるほど、肝っ玉がすわっておるおんな元締だ」

こすっては手桶に湯を汲んで流すので、そのたびにお江の張りつめた前腹が平蔵の腕に触れた。

こすり終わって向きあうと、
長谷川さま。垢こすりに湯がかからないように裸になったついで、ひと浴(あ)びさせてもらいます」
さっさと湯舟に沈んだ。

手持ちぶさたの平蔵が後ろ向きに前をこすりはじめると、
「お恥ずかしがらないでこちらを向いてお洗いなさんせ。それとも、私が見てはいけないものでも---」
「それはない---」
平蔵も意地になって前をさらした。

「10歳まで、父と共風呂をしよりました」
湯桶のふちに腕をそわせ、顎をあずけて平蔵のものに視線をおとしながら、
「父は40歳でしたが、長谷川さまはいまは---?」
「40歳だが---?」
「あのころの父のものより、ご立派---」
「馬鹿な比較をするでない」

「父は触らせてくれました」
「おどのが10歳の稚児であればな。しかし、18歳の艶(えん)な女性(にょしょう)に育っているいまだと、無事におさまるはずがない」
が嬉しそうに双眸(りょうめ)を細めた。

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2012.01.24

松代への旅(5)

(くら)はんと、こないにして朝までいっしょに眠ってられるあもうと、躰の芯まで安心しよるんよ。わかる?」
しばらく余韻をたのしんでいた奈々(なな 18歳)が、平蔵(へいぞう 40歳)の休んでいるものをなぶっていた。

j昼間の暑気が消えないので、むき出しのままにしている尻を掌でなぜてやりながら、
奈々のおかげで若返る。奈々はわれの宝だ。寂しい独り寝をさせてすまないとおもっておる」
「わかってるって---ときどき、こうしていてくれはったら、ええの」

平蔵のものが奈々の手の中でよみがえってきた。


翌日、jまず、三学院(金亀山極楽寺)に詣でた。
宿から1丁(900m)も歩かなかった。
新義真言宗の寺としった奈々とお(あき 19歳)が口をあわせ、
「うちらの村を領地してはる高野山はんや」
2人は紀州の貴志村の生まれであった。

平蔵は4年里貴(りき 逝年40歳)ときたことがあることは、あえて奈々に告げなかった。
いくら里貴とのことは悟っているつもりといっても、聴けば気にならないわけではあるまい。
(とげ)となって、こころをちくちくと傷めないとはいえない。

しらなればこだわることもない。
だから、極楽門をくぐるときにも黙っていた。
里貴は前夜に閨(ねや)で達した極楽を、その夜もねだった。
そう口にすることで男のここをときめかせるほどに、里貴は成熟していた。

参照】2011念3月8日[与板への旅] (

_360
(蕨宿・三学院極楽寺の本堂と三重塔)


「せやけど、大きなお寺はんやなあ」
の嘆声iに、ちょうと離れて供従ていた百介(ももすけ 21歳)が相槌をうったので、おやっと感じて振りかえると、照れたように赤面した。、
「そうか」
合点がいったが黙視することにした。
(若い者同士、なにがあっても不思議はない)

この広大で豪華な伽藍は、檀家の合力でできあがっている。
中には、血と汗で稼いだお宝を寄進せざるを得なかった者も少なくはなかったかもしれない。
70年前に大火で焼けたというが、関東11談林の体面は復活していたと平蔵は聴いていた。

(いまは於(ゆき)として還俗している月輪尼(がちりんに 24歳)は、飢饉で百姓たちが苦しんでいるのに僧侶たちが手こまねいていると怒り、本山・長谷寺にそむいた)

奈々にその経緯は伝えてはいない。

六地蔵に賽銭をあげ、しゃがみこんで合掌したまま奈々が長いこと動かなかった。

_360_2
(三学院極楽寺境内にある六地蔵)

_100あとで参道の入り口の茶店〔満寿屋〕で甘いものをめいめいで注文したとき、奈々に何を祈願したと冷やかしぎみに訊くと、
「うちの2人下の妹、生まれてじきに死なはったん」

初めて聴く述懐に内心、反省した。
(これまで、里貴まかせにしていて、奈々の生い立ちに深入りすることはなかった。これからはとはどき、語らせよう。躰は一つになっているといはいえ、こころを一つにする道も探さねばなるまい)

こんどの旅は、無駄ではなかった---一夜を朝まで共にしただけではなく、奈々が表向きのお茶目ばかりでなく、こころの奥をこぼしはじめた。


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2012.01.23

松代への旅(4)

王子をすぎたあたりから、奈々(なな 18歳)は単調な景色に飽きてきたか、口数が減った。
(あき 19歳)は相変わらず控え船頭の百介(ももすけ 21歳)の動きから目をそらさなかった。

「舟路の6割(60パーセント)をこなしました。もうじき、荒川へ入ります。そのとば口の志村に舫(もや)り、昼餉(ひるげ)としましょう。はばかりは茶屋にあります」
辰五郎(たつご゜ろう )の声に、里貴とおはきゅうに便意をおもいだした。
そういえば舟にはおんなが用をたせる場所がなかった。

茶寮〔季四〕で今朝がた作られた折り箱弁当がくばられた。
百介が気をきかせて茶店に茶と湯呑み茶碗を借りに行くうしろに、おがくっついていた。
はばかりをすますのを百介が待ってやっていた。

奈々は見て見ぬふりで、平蔵には告げなかった。
考えてみると、自分が今宵、平蔵に求めるのは朝まで同衾しての淫らな閨事(ねやごと)であることをおもうと、おをとがめるのは理にあわないとわかった。

女中指南のお(えい 51歳=当時)が、店の客との情事(いろごと)は法度(はっと)だが情人(いろ)とはのそれまで禁じてはいけないと諭してくれた。

参照】2011年8月9日[女中師範役のお栄(えい)]

そのときには奇妙な禁則と反発もしたが、平蔵とこうなってみると、禁欲は女性(にょしょう)の生理に逆らっているようにもおもうようになってきていた。
とても、故郷からでてきてまる2年、男っけなしで働きつづけているのだ。
(老練いうのんは、性(さが)に逆らわへんいうことなんやわ)

しかし女将としては帰ったら、おも交えて寮長(やどおさ)のお(はる 21歳)とよく9く話しあおうと、とも決めた。

8月の空は底抜けに青かったが、頬をなぜる風は秋のものでもあった。


戸田の船着きには八ッ(午後2時)についた。
辰五郎たちは舟の預かりなどの手つづきがあるので後れて蕨宿へ入ることになり、平蔵主従と奈々・おが先行した。

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戸田川渡口 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

戸田の渡しからは、ずっと富士が視界にあり、奈々を喜ばせた。


_150平蔵奈々の宿は、2階のつづきの2部屋を借り切っての北町の〔芝屋]茂兵衛方であった。

泊まり客たちが着かないうちに浴びてしまいたいからと、奈々が風呂を頼んだ
父娘ほども齢が離れているが、奈々が鉄漿(おはぐろ)にしているから継妻であろうということで、いっしょの入浴も黙許された。

もっとも、平蔵も宿側の疑念を封じる策は使った。
浦和宿の元締・〔白幡(しろはた)〕の長兵衛(ちょうべえ 48歳)あての封書を問屋場から飛脚便にしてほしいと帳場へ頼んだのだ。
それだけで、平蔵奈々のあいだがらを憶測することはぴたりとやんだ。

参照】2011年11月9日[月輪尼の初瀬(はせ)への旅] (

奈々もこころえてい、腰丈の寝衣(ねい)に着替えるのは、膳がさげられ、寝床が延べられるまでひかえた。

松造とおは2軒おいたふつうの商人旅籠に入ったが、部屋が別々であったことはいうまでもない。

そして、おの部屋へ百介が酒徳利を提げて訪れたことは、奈々は江戸へ帰るまでしらなかった。
帰りの舟では、それらしい態度をとらなかったからである。


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2012.01.22

松代への旅(3)

亀久橋下で舟着きへ降りたのは、平蔵(へいぞう 40歳)と松造(よしぞう 35歳)主従、奈々(なな 18歳)と茶寮[季四〕で座敷女中で寮長並みをしているお(あき 19歳)あった。

〔季四〕の座敷女中は、お(なつ 20歳 女中頭)、お(ふゆ 21歳 頭並み)、お(はる 21歳 寮長)とおの4人である。

女中たちにも世間を見せてやりたいという奈々の考えで、信州・佐久の在からきているおとおは中山道を出府のおりに通ったろうということで、紀州・貴志村育ちのお奈々の供にえらばれた。
おなじ紀州からきたおは、女将の留守をあずかるということで、今回ははずれされた。

こういうところは、里貴(りき 逝年40歳)よりもうんと若い奈々のほうが気がまわるというか、前回の日野行きでおもいついたらしい。
女中ちたが自分よりも齢上ばかりとうところにも気くばりを重ねている。

参照】2011年8月9日[女中師範役のお栄(えい)] 
2011年8月9日[蓮華院の月輪尼(がちりんに)] (

権七(ごんしち)が用意してくれた舟は、船旅は初めての奈々とお秋のために、見晴らしがいいように板を半分はずした屋根船であった。
もちろん、帆行のためもあった。
客を迎えるおんなたちの肌に、真夏の陽光は禁物であった。

船頭は老練の辰五郎(たつごろう 55歳)と帆立て役の若手の百介(ももすけ 21歳)であった。
大川を遡行するには、橋をくぐるたびに帆をおろさなければならず、そのたびに百介が筋肉をもりあがらせて働くのを、おが伏せ目がちに見ては耳たぶを赤くしていることに、大川はしをくぐるあたりで奈々が気づいた。
(おも19歳なんやし、肌をさらした男の躰を見たら、胸さわぎがすんの、あたりまえや)

しかし、今夜の泊まりは、平蔵奈々とは別の旅籠で、お百介と同じ旅籠になっている。
松造はんに、よう頼んどかんと---)

そういう奈々は、平蔵と並んで座り、袴の後ろに左腕の指をさしこんだままで着物ごしの肉の感触を楽しみながら左右の河岸の家々やにぎわいを楽しんでいた。

河岸際まで幕府の米蔵がならんでいるのを左手にみてすぎ、駒形堂は船上から両手をあわせ拝んだ。

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駒形堂・清水稲荷 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


大川橋をくぐったところで、前方に山がみえた。
「あの山は---?」
「つくばの山です」
辰五郎が教えた。

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大川橋  『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


「乗ってから初めての山やわあ」
「これから先も、船からは山の姿はおがめません。戸田の渡し場まで行けば、富士が半分ほど姿をみせてくれましょう」
「東国はひろびろしてはるんや。うちらの生まれた村の貴志やと、目の前が山やさかい、いまおもうと、よう息がつまらなんだことや。おはん、よう見ておいて、おはんに話してやり」

「はい---」
前の席のおは、生返事はしたものの景色どころではなかった。
目の前の百介の筋肉の動きに下腹が重くなっていた。
初めての兆しであった。

「女将さん、左手をご覧なさいませ。大屋根は浅草観音堂です。その右手の丘は聖天さんです」

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2012.01.21

松代への旅(2)

「松代へ旅することになった」
告げられた奈々(なな 18歳)が小首をかしげ、
「松代って、どこだす?」
「信濃だ。家で待っている」
それだけ告げると、平蔵(へいぞう 40歳)は亀久町へ向かった。

家の表戸は、鍵がかかっていなかった。
帰りじたくをしていた手伝いのお(くら 66歳)が食事を訊き、まだと応えるとあわてて吸いものの準備をはじめようとするのを止めた。

「おっつけ奈々も戻ってこよう。なにか口にいれるものを板場でみつくろって持ち帰るはずだから、支度は無用。それより、酒はあったかな?」

徳利をふって音をたしかめ、
「少なくなってますで、買うて参じます」

胡瓜(きゅうり)の酢もみと枝豆を箱膳に置き、片口に酒をみたし、でていった。
袴を脱ぎすて、小茶碗に酒を移したが、奈々にどうもちかけたものか。

4年前、与板への旅では、中山道の蕨宿で本町通りの旅籠〔林〕源兵衛方の離れで里貴(りき 37歳)と2夜を共にすごした。
そのとき4里半(18km)を半日というのは女足ではきついと判断して舟にした。

こんども奈々を誘うとすると、舟になろう。
真夏の陽の下での月魄(つきしろ)に騎乗しての4里半は苦労だ。

参照】2011年10月9日~[日野宿への旅] () ) () () () () 

問題は、旅籠だ---旅籠〔林〕源兵衛方の離れだと、宿の者も里貴とのことを覚えていようし、奈々もすっきりすまい。
といって、本陣に泊まるわけにはいかない。
離れのある宿を、大川端の旅亭〔おおはま〕で教えてもらおうか。
〔おおはま〕なら高級旅亭仲間のつながりがありそうだ。

(しかし、われも愚かだな。奈々と一夜をすごすための気くばりにふけっておる)
小茶碗を口にもしないうちに、当の奈々が徳利を手に帰ってきた。
「そこでお婆ぁはんに会うたよって、去(い)なせましてん」

店を2日空(あけ)ることができるかと問うと、松代行きということから、この年の春の甲州道中の府中宿での夜を連想していたのであろう、
「春のときかて、女中頭のお(なつ 20)はんらがしっかり守ってくれよったよって、今度かて---」
「あの娘(こ)たちへの褒美の着物代の負担がふえるな」
はんと朝までいっしょできるんやから、そんなん、安いもんや。そんで、いつ発(た)つん?」

「5日後。しかし、こんどは月魄(つきしろ)でなく、舟だ」
「わぁ、おもろそう---」


翌日から平蔵はあわただしく動いた。
蕨宿までの荒川を遡行する舟を、〔箱根屋〕の権七(ごんしち 53歳)に、こんどはしぶしぶながら引きうけさせた。
権七としても、『(ごう)、もっと剛(つよ)』の板行の平蔵の心労を察していただけに、強いことはいわなかった。

音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 58歳)には松代とそのまわりの香具師(やし)の元締衆への折紙(書状)をまわしてもらった。

高崎の事件でしりあった九蔵町(くぞうまち)の元締・九蔵(49歳)へ信濃へ行く道すがら、高崎城下に一泊するが、そのとき、8年前の事件で捕らえて放した仁三郎(にさぶろう 20代後半=当時)と名乗った男の連絡(つなぎ)先がわかっていたら教えてほしいとの飛脚便を送った。

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2012.01.20

松代への旅

「本家の四男が真田右京大夫幸弘 ゆきひろ 45歳 松代藩主 10万石)侯の継嗣として養子に迎えられことになってな」
西丸の若年寄・井伊兵部少輔直朗(なおあきら 38歳 与板藩主 2万)は遠慮ぎみに言葉をえらんでいた。

平蔵(へいぞう 40歳)としてみれば、妹の与詩(よし 28歳)を領内にうけいれてもらったこともあり、なにを遠慮なされているのかといぶかしかった。

参照】20111216[長谷川家の養女・与詩の行く方

もっとも、4年前に井伊若年寄の依頼でわざわざ与板まで出張り、領内の商家を荒らしていた〔馬越(まごし)の仁兵衛(にへえ 40前)を二度と与板藩内へ入れないように手くばりしたという貸しはあった。

参照】2011年3月4日~[与板への旅] () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 

「その松代藩の江戸詰用人からの頼みがあり、下城のついでに藩邸へ立ちよってほしいとのことである」
「うけたまりした」
おおげさにいい、頭をさげると、井伊直朗侯が笑いながら掌をふった。
2人きりのときはよけいな気を遣うなということであろう。

いうまでもないが、とつけたしたのは、もし、松代藩領内へ出張ってくれということであれば、徒の組のことは3の組頭の沼間頼母隆峰(たかみね 53歳 800石)に留守のあいだは面倒をみるように申しつけてあると、念のいった台詞であった。

参照】2011年9月5日[平蔵、西丸徒頭に昇進] (

桜田門外の松代藩上屋敷を訪れてみると、用人・海野十蔵(50がらみ)が待っていた。
用件は、昨年、領内でおきた一揆は解決したが、これからもないことではないので、武具の一つとして着衣のしたに鎖帷子(くさりかたびら)を発案したものがあり、数奇屋河岸i西紺屋町の武具あつらえ所〔大和屋〕がつくるとわかって見積もりをいいつけたところ、元の案は、
長谷川うじであるからして、長谷川うじの承諾がなければ受けられUいとのことでござってな---」

(ならば、呼びつけるのでなく、若年寄をとおさないで屋敷へくるべきではないのか)
顔にはださなかったが、平蔵のむっとした気分を読んだように、
「じつは、それはご公儀に対する表向きのいいわけで、内密のお願いは---」

今年にはいってから領内で3件の盗難があった。
やられたのは富裕な酒造家ばかりであったが、進入の手口や金の奪い方がそれぞれ異なっていたので、藩の町奉行所でも頭をひねっている。
ついては、
「ご足労がら、お出張りいただけないかと井伊兵部少輔さまへお頼みずみです。いや、外様の分際でお願いするのはこころ苦しいが、殿がお親しくご指導をいただいておられる寺社ご奉行の高崎侯松平右京亮輝和てるやす 36歳 8万2000石)」より長谷川うじをすすめられましてな」

高崎侯の藩内を荒らした{船影(ふなかげ)〕の忠兵衛(ちゅうべえ 3代=当時)と取引きをして解決したのは8年前であった。

参照】2010年8月27日~[〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛] () () () () (

「よろしい。お引きうけいたすが、条件が一つあります」
「なんでござろう?」
「ご城下での滞在は、本陣や旅籠でなく大きな商家に願いたい。それというのも、出入りを盗賊一味に見られたくない」
平蔵は一瞬、与板の〔備前屋〕の左千(さち 33歳=当時)とのなれそめをおもいだし、心中で舌打ちした。

町家のおんなはやわらかい。
また、似たようなはずみがおきないとは断言できない。

「滞在は、供の者と2人になります」
「お手配しましょう」

鎖帷子づくりを指南する武具屋〔大和屋〕の職人とは別にすることも約束させた。


帰路、松造(よしぞう 35歳)にことの次第を告げ、
「お供させていただきます」
「松代へは53里(212km)、往還に12日、城下での探索に7日。お(くめ 45歳)がひとり寝に耐えられるかな?」
「殿。冗談がおすぎです」
「は、ははは---」

松造を永代橋の西詰で解放し、冬木町寺裏の〔季四〕へむかった。
奈々(なな 18歳)に都合をつけさせるためであった。


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2012.01.19

庭番・倉地政之助の存念(6)

「笠森おせんはん、そないに美人やったん?」
亀久町の奈々(なな 18歳)の家で、早くも腰丈の閨衣(ねやい)に着替えるために湯文字だけになり、裸の上半身をさらしながら訊いた。
興味半分、競いごころ半分、双眸(ひとみ)を大きくひらきながら口元をひきしめた、奈々独特の表情であった。

_300
(春信 「鍵屋」の笠森おせん)

「もう20年も前のことで、美人の流行(はや)りは時とともに変わっていくからなあ」
里貴(りき 逝年40歳)おばはんとくらべたら---?」
「あのころのおせんは14か15歳であった。そのころの里貴は20歳をすぎており、人妻であったからくらべようがない」
「ほんなら、16歳やったうちとは---?」
最初(はな)からそう問いたかったのかもしれない。
口にだしてから、しまったというふうに舌の先をちょろりと出した。

「おせんは商売に利用されたおなごだ。ある絵師が描いたから人気が高まった---」
応えた途端にひらめいた。
(そうだったのか)

笠森おせんは谷中の功徳林寺門前の茶店「鍵屋」の看板むすめとして描かれたが、じつは庭番の頭格の馬場五兵衛信富(のぶとみ  55歳=明和2年)のむすめであった。
少禄とはいえ、お目見え格の幕臣の子女が茶店づとめというのは腑におちない。
人寄せのために刷り絵がまかれたにちがいない。

明和2年(1765)といえば、本家の大伯父・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 56歳=当時 1450石)が2度目の火盗改メに任じられた年で、銕三郎(てつさぶろう)は20歳で高杉道場で剣術にのめりこんでいた。
(そのころ、どんな探索がおこなわれていたかは、こんど大伯父に会ったら訊いてみよう)

奈々も描かれたいか?」
まん前に片膝を立て、大股の奥が平蔵(へいぞう 40歳)にさらした姿態をとりながら小ぶりの茶碗をかたむけている奈々をひやかした。
「あほらし。うちには(くら)さんがいる」
「われも奈々を人目にさらしとうはない」
「うれしい」

片口から冷や酒を平蔵の小茶碗に酌をした。
つまんでいる枝豆は、奈々が若女将をしている料理茶寮〔季四}板場から持ち帰ったものでだ。

ひと鞘から実を器用に押しだしてから、
はん、倉地はんいう人、信用してはるん?」
「なぜ、訊く?」
「於佳慈(かじ 34歳)はんの口ききできぃはったんやけど、田沼意次 おきつぐ 67歳)のお殿はんの派ぁとはきめられへんのとちゃう?」

「われは里貴の眼を信じておる」
「やっぱり、なあ---」
奈々も紀州おんなであろうが---」

しかし平蔵は、倉地の存念を於佳慈には伝えなかった。
世の中の大きな潮流に逆らってみてもかなうものではない、とおもっていたからであった。

潮流は岩場の上から眺めると、筋目が見える。

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2012.01.18

庭番・倉地政之助の存念(5)

長谷川さま。これは倉地の言葉でなく、里貴(りき 逝年40歳)さまのお言葉としてお聴きくださいますか?」
庭の者支配の倉地政之助満済(まずみ 46歳)が姿勢をかたくし、平蔵(へいぞう 40歳)から視線をそらし、天井をあおぎながらいった。
里貴の言葉とあれば。承(うけたまわ)るしかない」

倉地は襖(ふすま)の向こうにも気くばりし、
「大坂の両替商人たちすべてが田沼主殿頭意次 おきつぐ 67歳 相良藩主)さまのご政道を喜んでいるとはかぎりません。商人は利にさとい。利にもとるようなことには服従しないでしょう」

「とうぜんなこと。相良(さがら)侯 とてそのことは百もご承知であろうよ」
「いえ。田沼侯はご承知でも、勝手方(財政)におたずさわりのまわり方々が忠義面(ずら)して先走りなさることもございます」
「わかった。折りをみて、於佳慈(かじ)さまへ、里貴からの伝言としてお告げしておこう」
「お願いいたします」
庭の者は呼び出しがあるまで顔を見せることはかなわなかった。

「ことは猶予できないところまできておるとおもうかの---?」
「ここ一年は大事ないと存じますが---」

「付け火はどっちからと見ているな?」
「水戸、名古屋あたり---」
「ほう---」
「それに、元の茶寮〔貴志〕の午(うし 南)方---」
民部卿一橋治済(はるさだ 35歳---)」

越中守定信 さだのぶ 27歳)さまほか、お為派の譜代大・小名衆---」
「庭の者衆はお為派の譜代衆を探ぐってはいないのか?」
倉地は首をふった。

「なせだ---?」
「庭の者すべてが相良(さがら 田沼意次)侯にこころしているとはかぎりません。いつ、秘事が洩れんものともわからないことは、やるべきではありません」
「------」
平蔵は権力争いの暗闇の深さ・醜悪さに身ぶるいするおもいであった。

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2012.01.17

庭番・倉地政之助の存念(4)

「両ご定番には、調練にはげむようにとのご叱声がご城代からでたそうです」
倉地政之助j満済(まずみ 46歳)はそれを調べるための出張りであったはずなのに、他人事のような口ぶりで吐きすてた。

倉地うじは先刻、米の買占めは〔鹿島屋}と〔安松〕の2軒だから、打ちこわして凝らしめるようにと張り紙を西町奉行の佐野備後守政親j まさちか 51歳 1100石)さまがお出しになったと申されたが---探索留め書きにそのようにお記しなされたか?」

首が横にふられた。

「さよな風評がながされていたということかな---?」
倉地がふくみ笑みをもらしながら頭(こうべ)を縦に深く動かした。

備後さまを貶(おとしめ)ようとする動きがあった---と断じてよろしいか?」
また縦にうなずいた。

「そのことを相良侯(さがら 田沼意次 おきつぐ 67歳)には---?」
うなずき、しばし瞼(まぶた)を閉じた。

(やはり、そうか)
平蔵(へいぞう 40歳)は、鴻池(こうのいけ)をはじめとする大坂の大両替商どものしたたかさを見たおもいがした。

天明3年(1783),年、大坂の大両替商たちにご用金と称し、幕府の裏保証つきで金ぐりに難渋している藩に金を用立てることが交渉された。

両替商との折衝にあたったのが佐野備後守であった。
面従した両替商たちは佐野町奉行に、幕府が約定をたがえたら2軒の打ちこわしではすまないと、おどしをかけたのであった。

じっさい、4年後iの天明7年(1787)5月12日の打ちこわしとなって現われ、その火は江戸のほか各地にひろがった。
このとき、長谷川平蔵は先手・弓の第2組の組頭として出動・鎮圧を命じられたのだが、そのことは別の機会に。

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2012.01.16

庭番・倉地政之助の存念(3)

「あ、倉地うじは、酒は法度(はっと)なそうな」
新しい燗酒をはこんできた奈々(なな 18歳)に、
倉地うじは、里貴(りき 逝年40歳)女将と入魂(じっこん)であった」

今宵、招待することは、昨夜のうちには話しておいたが、あらためて紹介するふりをした。
あいさつする倉地平蔵(へいぞう 40歳)は、
「若女将は、里貴女将の縁者で---」
とだけで説明はひかえたが、倉地政之助満済(まずみ 46歳)も2人の関係には無関心をよそおった。

目で合図された奈々は、
「ご飯とお汁椀をお持ちします」
部屋を離れた。

見定めてから、平蔵が口をひらく。
「騒動のあとすぐに東のご奉行・土屋駿河守守直 もりなお 52歳=当時)さまが長崎のお奉行に転じられたのは、なにか理由(わけ)が---?」
倉地は首をふって否(いな)を示した。

参照】2010年8月7日~[安永6年(1777)の平蔵宣以] () (

長崎奉行はこのころは2人制で、年ぎめで交代で下崎・駐在し、大坂・京都町奉行より上座と目されていた。
ただし、大坂町奉行から長崎奉行へ転ずることはめったにない。
幕府としては、上座の職へ栄転させた外見をつくろっての罰ということもないではない。

後任は土屋と同じ武田閥の小田切土佐守直年(なおとし 41歳=当時 2930石)が、駿府奉行から転じてきた。

倉地が口を開くまで、8年前に小石川・江戸川端の土屋邸で面談した守直(44歳=当時)のいかにもやり手らしい精悍な風貌を想いおこしていた。

「町奉行方に手落ちはございませんでした。打ちこわしの徒(やから)に対する警備の不手際はむしろ、定番(じょうばん)側にありました」

定番というのは、1万石級の譜代小大名に課せられる職責で、大坂では京橋口と玉造口を警備していた。

天明3年(1783)2月11日の場合の定番は、

京橋口 
 井上筑後守正国(まさくに 45歳=当時 下総国高岡藩主 1万石)

玉造口
 稲垣長門守定計(さだかず 63歳=同 近江国山上藩 1万3000石)

定番の大名にしてみれば、番士は幕府の旗本の士で自藩の藩士ではなく、平常ののんびりした勤務のときはともかく、非常時には命令が徹底しなかった。

定番の小大名のなかには、馬も乗りこなせないのもいたという。


膳がととのえられるあいだ、倉地平蔵も要心したように口をきかなかった。


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(土屋守直の個人譜)


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(小田切直年の個人譜)

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2012.01.15

庭番・倉地政之助の存念(2)

「打ちこわしといっても、たかが2軒の買占め屋がことでしてな---」
庭番の倉地政之助満済(まずみ 46歳)が、さも軽げにいったので、平蔵の疑念はかえって増した。
(軽ければ田沼主殿頭意次 おきつぐ)が、わざわざ庭の者をお放ちになるはずがない---)

平静をよそおって聴いている平蔵(へいぞう 40歳)へ、
「そういえば、(大坂)ご城代の宇都宮侯が、長谷川さまのことをおほめになっておりました」
突然に戸田因幡守忠寛(ただとを 49歳 宇都宮藩主 7万7000石)の名をもちだしてきた。
(やはり、なにかをかくそうとしておる---)
因幡侯からは、ご城下はずれの些細な盗みの探索を頼まれたことがあったので---」

参照】2010年10月16日~[寺社奉行・戸田因幡守忠寛] () () ()) (
2010年10月20日~[〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)] ()a href="http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2010/10/post-61b7.html">2) () (4) () () () (

ちゅうすけ注】この九助の事件で、鬼平時代の平蔵は『五月闇』(文庫巻14)で、密偵・伊三次いさじ)を刺した〔強矢(すねや)〕 の伊佐蔵の名を知ることになった。

「ご城代は、そのときの長谷川さまの解決の仕様が火盗改メのようではなかったとご賛嘆でした」
倉地うじ。次にはわが兄者の佐野備後守政親 まさちか 52歳 1,100石)どのか、土屋帯刀守直 もりなお 40歳)どのの名をだして韜晦(とうかい)なさるおつもりかな?」

倉地が不気味な笑みをもらし、
長谷川さま。わたくしどもお庭番の者がほんとうのことを報じるのを許されているはお上に対してだけとの決まりは、ご承知でありましよう?」

うなずいた平蔵が、報告はお上だけに差しあげたてまつるのであろうが、われの問いに、肯(がえ)んじたり否と首をふることはお定めには触れないのでのではなかろうか、と条件をだした。

長谷川さまにはかないませぬな」
腕をのばした平蔵の酌をさえぎり、
「お庭番は酒に負けないないよう、ふだんからたしなみませぬことはご存じではなかったのですか?」
「さようなこと、里貴(りき 逝年40歳)からは聴いてはおらぬが、いかにも窮屈な掟(おきて)、よのう---」

「地の者とか呼ばれ、広忠(ひろただ)公にお仕えしていたころからじゃな」
「地の者をご存じで?」
「地の者とつながっておった甲州方の軒猿(のきざる)の末裔のむすめというのと知りあったことがあっての。里貴をしる前のことだが---。盗人の軍者(ぐんしゃ 軍師)をしておったおなご男であったが---不憫なことに水死した」

そこまで自分の恥部をさらした平蔵に、倉地は好感をいだいたようで、
黙然と正面した。

それへ、平蔵が容赦なく訊いた。
「玉水町の米穀問屋〔鹿島屋〕と〔安松〕を襲うようにしむけたのは、大坂の豪商連ではないのか?」


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(戸田忠寛の個人譜)

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2012.01.14

庭番・倉地政之助の存念

「女将どののご不幸のときには、香華(こうげ)をたむけることもかないませず---」
庭の者支配役の倉地政之助満済(まずみ 46歳)がこころからのような声音(こわね)で頭をさげた。

「ご弔辞、いたみいる」
平蔵(へいぞう 40歳)もすなおに受けた。
女将とは、1年前に歿した里貴(りき 享年40歳)のことであった。


奈々(なな 18歳)を木挽町(こびきちょう)の老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 67歳 相良藩主)の中屋敷の於佳慈(かじ 34歳)のところへ暑気見舞いにやり、一昨年(天明3年 1783)2月11日に大坂でおきた堂島新地の米穀問屋〔安松〕と玉水町の同〔鹿島屋〕の打ちこわしの探査におもむいた庭番からそのときの様子をじかに聴いて備えたいと頼んだ。


老中・意次の手配で、やってきたのが、なんと、倉地満済であったのには、平蔵のほうが驚いた。
というのは、生前の里貴(29歳=当時)が鎌倉河岸近くの御宿(みしゃく)稲荷社の脇の家に住んでいたころに、ちらりと会った。
そのころの倉地は3O代なかばで、がっちりはしていたがいまよりは細身だったが、髯の剃りあとが濃いところは変わっていない。

参照】2010年2月9日[庭番・倉地政之助満済(まずみ
2010年2月10日[火盗改メ・庄田小左衛門安久] (
2010年2月17日〔笠森〕おせん
2008年4月25日[〔笹や〕のお熊] (

(夕方も剃らないと、寝床でおせんが痛がろう)
平蔵はつまらないことに気をまわした。
それだけ、落ちついて相手を観察する余裕があったともいえ、内心、苦笑した。

「打ちこわしは、〔鹿島屋〕と〔安松〕の2軒であったというのは---?」
「高値(こうじき)をあてこんでの米の買占めは、ほとんどの米相場師がやっておりましたが、この2店を名ざしで打ちこわせとの張り紙があったのです」

「張り紙---? だれがそのようなものを---?」
「お察しがつきませぬか?」
「わからぬ」

〔鹿島屋〕がやられると、月番にあたっていた大坂西町奉行の佐野備後守政親(まさちか 52歳=当時 1100石)は、東町奉行の土屋帯刀守直(もりなお 52歳=同 1000石)と申しあわせ、捕り方のほかに大坂定番(じょうばん)からも人数をだしてもらい、見物にきた者さえも捕縛すると威嚇し、鎮圧した。

参照】2010924[佐野与八郎の内室] (
2010年12月5日[先手弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] (

「町奉行さまです」
「佐野備後)どの---が?」
「一を罰して衆を懲らす---との格言がございます」

天明2年(1782)の冷害で、ふだんなら1俵50匁(13万3328円)前後の米価が79.5匁(21万2000円)にまで値上がりしていたのであった。

「うむ。それで米値は下がったのかな?」
「なかなか---」
「おことのお役目は---?」
「大坂のお上側の武力の実勢の探査でございました」
「採点は---?」
長谷川さまが数奇屋河岸西紺屋町の武具商〔大和屋〕でお造らせになられたものが必要と、ご老中も申されておりました」

参照】2011125[武具師〔大和屋〕仁兵衛

(捕り方がひるんだらしいな)
平蔵が舌をまいたのは、自腹で鎖帷子(くさりかたびら)をあつらえたことをi庭番方が探索しており、田沼老中に上申していた事実をしらされたことであった。


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(倉地満済の個人譜(再録))


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2012.01.13

不穏な予感(6)

「妙手・奇策と申すのは、くばり売りする八味地黄丸(はちみじおうがん)と当帰芍薬散(とうきしゃくやくさん)を詰めた袋に、いまの躋寿館(せいじゅかん)謹製に代えて、 医学館(いがっかん)謹製の文字を入れる」
平蔵(へいぞう 40歳)の言葉の意味が、みんなのみこめないようであった。

長谷川さま。医学館と申しますと、何やら学問所のような臭いがいたしますが---?」
代表して〔音羽(おとわ)〕の元締・重右衛門(じゅうえもん 58歳)が訊いた。

「おう、学問所と推量しただけでも重右衛門どのはえらい。しかしな、躋寿館(せいじゅかん)もじつは医者たちの学問所ではある。多岐(たき)家はそれを幕府の医学の学問所---そうじゃ、医者たちのための湯島の聖堂としたいと願ってな、なんども申請をあげておる」

そのことを平蔵は、多岐安長元簡(もとやす 31歳)からぼやかれていた。
許可が遅れている事情を平蔵がそれとなく打診すると、ほかの典医たちの妬みjまじりの反対が強いからだと、老中・田沼意次(おきつぐ 67歳)が苦笑まじりに打ちあけてくれた。

「そうしますと、医学館(いがっかん)謹製という文字を八味地黄丸の袋へいれておけば、ご公儀が医学館をお認めになったあかつきには、わっちらがくばっている八味地黄丸や当帰芍薬散はご公儀が認可なされた生薬ということに---?」
「そうなるな」
「そいつは豪儀だ」
嘆声は〔箱根屋〕の権七(ごんしち 53歳)であった。

「お医者さまの湯島聖堂ともいえる医学館の謹製を、認可後にも使わせてもらえますかね?」
耳より〕の紋次(もんじ 42歳)の疑問ももっともだ。

「袋の医学館謹製の文字のうえに小さく天明5丙申年とだけ刷っておき、ご公儀が気がついたら、ご認可前の刷りこみでといいぬける。不都合なら消しますとそのときになって応じればいい」
平蔵のこういう図太(ずぶと)さが、反平蔵派に〔山師〕との蔑称をいわせたゆえんかもしれない。

よしの冊子』などに〔山師〕と書かれているところは、「アイデアマン」「先駆馬」「新し取り人」「超常識派」とでも読みとばしておけばいい。

「病気は気から---ともいうではないか。なにの萎(な)えも、多くは齢だからといった思いこみとか、いちど早漏して相方の不満をかったことがこころの傷となって尾をひいているのかもしれない。それには、ご公儀公認ともいえる医学館謹製の5文字は、薬以上の効果をもたらそうよ」

「そうなると、効いた、効いたの巷(ちまた)の声が効き目を倍加させますな」


黒舟に送られて菊川橋のたもとから三ッ目通りの屋敷までの暗い道を歩ゆんでいる平蔵には、さっきまでの磊落さはみじんもなく、深い不穏のとりこになっていた。
田沼さまは67歳」という自分の言葉に触発された不穏であった。

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2012.01.12

不穏な予感(5)

「『(ごう)、もっと剛(つよ)』は、西駿河の嶋田宿の本陣〔置塩(しおおき)〕の若女将・お三津(みつ 25歳)どのから提案があり、おのおの方の賛同と援助、躋寿館(せいじゅかん)の多紀元簡(もとやす 31歳)先生、編輯手配の手練(てだ)れの〔耳より〕の紋次どの、そのほか大勢の熟達職人衆の手伝いにより、みごとに花が咲き、これから末ながく実を収穫させてもらえることとなった。
まずはめでたい。

先刻、嶋田宿の若女将・お三津どのからの文にもあったように、『もっと剛』が高い人気で受けいれられたことに気をよくし、西駿州あたりの元締衆のなかには、もっと多く注文しておくのであったと悔やんでいる向きもあるようだが、あらためてはっきり申しあげておく。

いかなる要望があろうと、『もっと剛く』の刷り増しは、断じておこなわないし、おこなってはならない。
理由は、おのおの方の身を護るためである。

なにから---?
ご公儀からである

なぜに---?
淫猥な刷り物を板行・販売したという罪で。

どこが淫猥か---?
そんなところはただの一行もない。

しかし、淫猥かそうではないかは、ご公儀の判断によるのであって、われわれの思惑ではない。

いまの田沼主殿頭(とのものかみ)さまの治下であれば、『(ごう)、もっと剛(つよ)』は淫乱の書ではなく、医学の見地から書かれた人びとにしあわせをひろめる性の手引き書、とまごうことなく、みなされる。

しかし、性は子孫を得るためだけにおこなうべきで、楽しみのためにおこなうのは無駄であるとか、不埒であるとかかんがえる仁が公儀の上ッ方にお立ちにならないともかぎらない。

硬(こう)のあとに柔(じゅう)、暖(だん)の次には寒(かん)のお仕置き(政治)がくるのは、これまでの経緯(ゆくたて)が語っておる。

有徳院殿吉宗)さまの倹約政治のあとは、田沼さまの商売奨励の世であった。

相良(さがら 田沼)侯はすでに67歳であり、その出頭ぶりを快くおもってはおらぬ大・小名、幕臣の方々も少なくはないように感じる。

明るい舞台の傍らの薄暗い袖で、緊縮が出番を待っていることであろうよ。

上が質素・清浄をいえばへつらう下は、障子の桟のほこりにまで目を光らせて手柄にするのが役人という生きものの根性でもある。

在方につづいておる米の不作のうらみつらみのはけ口の的が、性の享楽を描いている書や絵にも向かないという保証はない。

(ごう)、もっと剛(つよ)』が大手をふって世間を歩けるのは、あと、半年とみきわめておかれい。

廻り貸し本屋が買い戻す『もっと剛く』の売り廻しは2度目までと申したのは、半年のうちならお咎めがはじまるかなり前とであろうと見こんでのこと。

だが、くばり売りしている漢方の八味地黄丸(はちみじおうがん)と当帰芍薬散(とうきしゃくやくさん)は、だれがみたって躰のための生薬であって、ご公儀のいう淫猥にはまったくあたらない。

そのことは、すべての漢方医が証言してくれよう。
そのうえ、われに妙案が一つある---」

聴きいっていた者が、さらに聞き耳をたてた。

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2012.01.11

不穏な予感(4)

「いや、驚かせたようで申し訳ない」
静まりかえってしまった座を見わたした平蔵(へいぞう 40歳)が軽く謝り、気分をひきたてるように、
於玉ヶ池(おたまがいけ)〕の伝六(でんろく 47歳)どんのところの按配をきかせてもらい、締めに〔音羽(おとわ)〕の元締の言葉がすんだらも、城内のあれこれを打ちあけよう」

みんなの視線が末座にひかえている〔於玉ヶ池〕の伝六に集まった。
47歳にもなっておるのに末座を選んでいるのは、永く臥せっているで元締・〔薬研堀(やげんぼり)〕の為右衛門(ためえもん 62歳)の名代として出席している形を、あくまでもとっているからであった。
組のとり仕切りはいっさい、伝六がやっている。

為右衛門には男の子がいず、むすめ(といっても長女は41歳、次女も38歳)は堅気に嫁いで家を出ていた。
常磐津の師匠をしている三女・百合常(ゆりつね 35歳)の婿にと5年ごしすすめられているのだが、伝六は独り身のほうに固執、シマを引きつぐことを固辞しつづけているのであった。
おんなには不自由はしていないから、おんな嫌いというのでもなさそうだ。

「お歴々もご承知のように、うちのシマは盛んなようでいて、両国橋西の広小路一帯と柳原南土手、薬研堀不動のまわりの料理茶屋でおしまいです」
地元の米沢町で編集人している〔耳より〕の紋次(もんじ 42歳)が大きくうなずいた。

頼りになりそうな、両国橋西詰をはさんで大川ぞいに南北ならんでいる美人の茶汲みをそろえている並び茶屋は案外だと。
金次第ではなんとかなる茶汲みおんな目当ての客には若い男(の)が多いから、『(ごう)、もっと剛(つよ)』の読み手であるよりは、やりたい方である。
とはいえ、80人近い茶汲みおんなが『(ごう)、もっと剛(つよ)』を買ってくれ、客にもすすめているらしい。

伝六のいい分に、平蔵は9年前に出会った両国広小路の並び茶屋の美貌の女将・お(いく 30歳=当時)の科白(せりふ)をちらりと思い出した。

参照】2010年7月15日[〔世古(せこ)本陣]のお賀茂〕 ()
2010年9月20日[〔小浪(こなみ)〕のお信(のぶ)] (
2010年12月16日[医学館·多紀(たき)家:] () 

実益は芸者も呼べる柳橋と薬研堀不動尊のまわりの料理茶屋、両国橋の東詰の料亭の仲居たちからあがっている、とつけくわえた。
仲居たちに、書物と薬の口銭の3割もはずめば、けっこう張り切って高年の上客に口利きをしてくれる。
上客の住まいや店舗はわかっているから、八味地黄丸(はちみじおうがん)のその後の届けはそっちにするのだが、仲居たちへの約束の口銭は払ってやるつもりであり、そのことで信用がますだろうとも。

広小路の西と南は表店と裏長屋がびっしりなので、そっちは廻り資本屋にまかせてい、いまのところ100冊ほどはけていた。


締めめは重右衛門(じゅうえもん 58歳)が、書役(しゅやく)の息子・祇右衛門(ぎえもん 23歳)が書きとれるようにゆっくりした口調で、護国寺の檀家総代の一人でもあるので管長に1冊進呈して山門の脇に売り場を設けさせてもらい、若い小ぎれいなむすめに売らしてみたら、おもわぬほど売れたので目白不動にも口をかけた。
もっとも、みなさんの話を聴き、これでは『(ごう)、もっと剛(つよ)』がいくら売れても、八味地黄丸(はちみじおうがん)と当帰芍薬散(とうきしゃくやくさん)へのつなぎにつながらないので、さっそくに改める、との謙遜の弁であった。
(さすが、大元締。みんなの顔を立てている)

つづいて板元の〔箱根屋〕の権七(ごんしち 53歳)が、駿州・遠州の板元をやっている嶋田宿の本陣の若女将・お三津(みつ 25歳)からの文意---たちまち売り切れになりそうな勢いで、もっと注文しておけばよかったと後悔している元締衆がほとんどであること、紋次さんの本造りのお手並みがみごとであること、長谷川さまに案をとりあげていただき感謝していることを披露し、平蔵をうながした。

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2012.01.10

不穏な予感(3)

今助どんのところは---?」
水をむけられた今助(いますけ 38歳)は、口にふくんだばかりの軍鶏をあわてて飲みこみ、
「廻り貸し本屋は6人には40冊ずつ割り当てておきやしたら、今日までに7割方さばいたようで、売りきるのはあと7日のうちでやしょう。それより、若いのに歩合をつけて寺町筋や浅草寺界隈の坊に檀家用といって3冊ずつ売りこませ、残りは10冊もありやせん」

「今助どん。そうやって全部はかしてしまうと、ここ{銀波楼〕の常連客の分がないと、小浪(こなみ)女将からお小言がでないかね?」
平蔵(へいぞう 40歳)がひやかし半分に口にしたところへ、当の小浪(46歳)が仲居に新しいちろりを数本もたせて入ってき、まん前に座り、
「ほんま、長谷川のお殿はん、お見通しが冴えてはる。今助はんに30冊ゆうたんどすけど、うち用は10冊しかのこらへしまへんどした」

隣り座の権七(ごんしち 53歳)がとりなしぎみに、
「女将さん。お入り用なら、うちの板元分から10冊、おまわししましょう」
「おおきに。大助かりどす」

小浪に酌を返しながら、
今助どん。お寺さんからの八味地黄丸(はちみじおうがん)の注文数は---?」
「いまのところ、80口ほどでやす。怪訝なのは、おなご用の当帰芍薬散(とうきしゃくやくさん)の申し込みが50口ほどあったことでやす」
「80のお寺はんにあの『(ごう)、もっと剛(つよ)』を3冊ずつ押しつけたのに、当帰芍薬散(とうきしゃくやくさん)が50口ゆうことは、ほとんどのお寺はんが通い大黒はんを囲ってはるゆうこと---」
小浪が意味ありげに微笑みながら種明あかしをした。

徒(かち)の組頭のひきしまった顔の平蔵が、
今助どん。ぬかりはあるまいが、お寺さんが生薬を注文しても毛筋一つ動かすでないと。配下の若い衆にきつくいいきかせておくこと」
終わってにやりとくずした。

今助と平蔵のやりとりを、〔音羽(おとわ)〕の祇右衛門が(ぎえもん 22歳)せっせと書き控えている。
[若き 獅子たちの集い]の書き役なのであった。
その姿を、父親の重右衛門(じゅうえもん 58歳)がたのもしげに瞶(み)つめている。

その祇右衛門に、
「書き役どの。街道筋の元締衆への廻状には、これから申すことも書き添えておいてほしい。廻り貸し本の『(ごう)、もっと剛(つよ)』の買い取り、廻し売りは2度までにかぎり、3度目に買いとったらかならず焼き捨てるように、廻し貸し本屋にきつく申し渡しておくこと」

座が一瞬、しーんとなった。

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2012.01.09

不穏な予感(2)

「ついでに、述べさせていただいてよろしいですか?」
品川一帯をとりしきっている〔馬場(ばんば)〕の与左次(よさじ 60歳)の嫡男・五左次(いさじ 25歳)であった。

覚えておいでだろうか。
3年前の梅雨先のころ、今宵とおなじように、江戸の香具師(やし)の組にかかわっている若手が、料理茶寮〔季四〕に顔をよせた。

西駿河や東遠江でも〔化粧(けわい)読みうり〕を板行するというので、地元の元締や顔役の2代目の諸事見習いがてらの江戸くだりを歓待する受け皿づくりのためであった。

経緯は、下の【参照】をリンクして思い出していただきたい。

参照】2011年5月26日~[若い獅子たちの興奮] (1) () () 

[若い獅子たちの集い]に参加し、今宵も顔を見せているのは、〔箱根屋〕の主(あるじ)で[化粧(けわい)読みうり]の板元の権七(ごんしち 50歳=当時)と、同じく[読みうり]の編集人・〔耳より〕の紋次(もんじ 39歳=同上)は別として、〔音羽(おとわ)〕の祇右衛門(ぎえもん 20歳=同上)、〔馬場(ばんば)〕の五左次(22歳=同上)。

その集まりがきっかけで、化粧指南師助(すけ)のお乃舞(のぶ 23歳=当時)と五左次が結ばれた。
若い2人の好いたらしい気配に気がついたのは、そのころは元気だった里貴(りき 38歳=当時)であった。

参照】2011年5月29日~[お乃舞(のぶ)の変身] () () (

「うちのお乃舞が化粧師たちを指南している品川の橘布町の紅白粉問屋〔玉屋〕がこんどの別刷『(ごう)、もっと剛(つよ)』のお披露目枠の末尾を1丁(見開き2ペ-ジ)を買っているのはご承知のとおりです」
乃舞を見知っている権七紋次、それにと〔音羽(おとわ)〕の親子がうなずいた。

〔玉屋〕はお乃舞のすすめで、化粧品のほかに女性の血の道かかわりと便秘通しの生薬も扱っていたので、こんどの『剛、もっと剛く』の板行の話しにとびつき、〔馬場〕の元締に、品川割りあての冊数の半分より多い300冊をぜひ売らせてくれと頼みこんだ。

[化粧読みうり]のお披露目枠の買い主の常連でもあり、〔馬場〕のとしても否やはなかった。
廻り貸し本屋がシマ内に4人しかみつからなかったこともあった。

「〔玉屋〕はなんと、おんなの得意客に『剛、もっと剛く』をすすめたのです。持ちかえった半分をこす客が八味地黄丸をもとめてきました」

「この20日間に〔玉屋〕が売りさばいた冊数と、八味地黄丸を申しこんだ人数は---?」
平蔵の意をたいした権七が問うた。

「本のほうは140冊ばかり---白粉や髪油はそんなにしょちゅう買うものではありませんから」
「どういう家のおんなが『剛、もっと剛く』を求めたのですかね?」

ちょっといいよどんだ五左次がおもいがけないことを打ちあけた。
おんな客の大半は宿場の飯盛りたちであったと。
剛、もっと剛く』の中身のことがまたたくまに飯盛りたちのあいだにひろがったらしい。

「あの女(こ)たち、あっちのことはしりつくしていように---?」
あきれた紋次に、
「しりつくしているからこそ、ふつうのおなごのように扱ってほしいのですよ」
〔{音羽〕の重右衛門(じゅうえもん 58歳)がしみじみと同察した。
音羽にもそういうおんなたちが多かったから、すぐに察したのであろう。

紋次どん。いまの飯盛りのおなご衆のことは、読みうりに書いてはならぬぞ」
「------?」
きょとんとしている紋次に、
「『剛、もっと剛く』のことは、当分のあいだ公けにはしたくない。隠れ目付衆の目や耳にいれたくないのだ。
いや、五左次どん。おもしろい話し、満喫々々。[若き 獅子の集い]の連絡(つなぎ)役は五左次どんとお乃舞どんであったな。駿河や下野の元締衆にはこっそり伝えてやるようにな」

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2012.01.08

不穏な予感

「出足はいかがかと案じておったが---」
呼びかけに応えて顔を見せたのは、香具師(やし)の元締衆の中でも平蔵(へいぞう 40歳)がとくに頼りにしている仁たちであった。

音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 58歳)と嫡子の祇右衛門(ぎえもん 23歳)。
江戸一番のシマ---浅草・今戸をとりしきっている〔木賊(とくさ)〕の2代目の今助(いますけ 38歳)。
両国橋の西の広小路の〔薬研堀(やげんぼり)〕のところの小頭・〔於玉ヶ池(おたまがいけ)の伝六(でんろく 47歳)
深川一帯をおさえている〔丸太橋(まるたばし)〕の娘婿の雄太(ゆうた 47歳)
品川の〔馬場(ばんば)の2代目・五左次(いさじ 25歳)

それに、版元になっている〔箱根屋〕の権七(ごんしち 53歳)と、仕切り人の〔耳より〕の紋次(もんじ 42歳)。

場所は橋場の〔銀波楼〕---そう、今助の齢上の女房・小浪(こなみ 45歳)が女将におさまっている料亭であった。

香具師の元締ともなれば、妾の一人に料理茶屋の一軒くらいはやらせていようと平蔵が気をまわし、月番のように世話役を廻りもちにきめたのである。

声をかけたのは、別刷『(ごう)、もっと剛(つよ)』を500冊ずつ引きうけた5人だけであった。
300冊組も呼ぶとどうしても引け目を感じるだろうから、これは商売がらみの相談だし、そっちはそっちで集めればいいと割りきった。

珍しく雄太が口火をきった。
「荷がとどく前に、5人の廻り貸本屋に話しを通しておきやした。ところが、いざ現物を売らせてみると、あと3人の貸本屋が仲間にくわえてほしいといってきやした。今日までの20日間に、8人が売り上げた『(ごう)、もっと剛(つよ)』は240冊でやす}

8人の廻り貸し本屋で240冊さばいたということは、1人あたり30冊、貸し本屋側の1冊の利幅は14文(520円)だから30冊で420文(1万6800円)の増収になっている。
(悪くはないが、廻っている戸数は1日30軒か40:軒で5日ごとに一巡として150:軒のお得意。うち、60軒に『(ごう)、もっと剛(つよ)』を売ったら、半値以下で買いもどして次の家へ6掛けですすめる知恵をつけてやらねば)

しかし、平蔵の口からでたのは、
雄太どん。狙い目の生薬(きぐすり)のほうは---?」
「男のための八味地黄丸(はちみじおうがん)が63口、おんな用の当帰芍薬散(とうきしゃくやくさん)が80口でやす」
笑みをこらえながの雄太の報告であった。

八味地黄は30日分、毎食前に8粒ずつで日に24粒、720粒で180文(7200円)だから、常用するほうは2日で12文(480円)の生計(たつき)の費(つい)え増。
(つづけられるのは3人1人とみておくほうが無難であろう)

もっとも、廻り貸本屋のほうは八味地黄丸による、目の前にぶらさがっている1件あたりの利幅1割4分の25文(1000円)に目がくらんでつづけられるのは3人1人くらいとは気がつくまい。
(まず、漢方は2ヶ月以上つづけないと効き目があらわれないと告げさせよう)

雄太どん。お披露目枠を買ってくれた薬種(くすりだね)問屋〔久保田屋〕では、客の様子は---?」
お筆(ふで 44歳)の名はわざととぼけてあげなかった。

「そこまでは気がまわりませんで、申しわけねえです」
その言葉を引きとるように、〔馬場五左次が手をあげた。

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2012.01.07

「朝会」の謎(7)

遺跡相続のために、奏者番・松平信明(のぶあきら 吉田藩主 7万石)が実年齢に3歳上積みしていたこを、『豊橋市史』によって明らかにした。

以後は『大河内家譜』(『豊橋市史 第六巻』)にしたがい、天明5年(1785)は22歳として話をすすめていく。
この年、まだ白川藩主(11万石)であった松平定信(さだのぶ)は27歳であった。

人にもよろうが、20代での5歳の年齢差は大きい。
信明定信に兄事したのもゆえなしとしない。
(もっとも、双方が30代になってからの間柄は微妙に変化したらしいが---)

父・信礼(のぶうや 享年34歳)の死の前年に、春之丞の幼名を名乗っていた彼は7歳で元服して信明を諱(いみな)とし、翌明和7年(1770)遺領を相続したが、幼かったために公務には一族の縁者が名代をつとめた。

鍛冶橋内の江戸藩邸での伝役(もりやく)は新藤右衛門浅井権右衛門があたっていたというが、両人の地位・年齢など詳細についてはもちあわわせていない、

宇下人言』の定信の表現---

松平伊豆守は明敏で人あたりがよろしい。
才は徳にまさるといえようか。
予はいつも、高望みして理想にはしってはいけないよと忠告していたが、効きめはあったのであろうか。

これによって想像するに、青年らしく理想を口にしすぎていたようである。

一方、寛政10年(17998 信明治36歳時点)に提出された『寛政譜』によると、2女6男、そ没する55歳までの19年間にさらに8男6女をもうけた子福者というか、絶倫・多情さに瞠目する。
異腹であるからとうぜんの数といえるが、その費用をまかなった領民の苦労はさっするにあまりある。

信明は、幕府の役についてからは、ほとんど国へ帰っていないから、これらの子は江戸藩邸において生まれたらしい。

子をつくるときにのみ女人(にょにん)に接すると公言した定信とは、こと閨事(ねやごと)に関するかぎり、2人は天と地ほどの差がある。

が、このブログは幕閣や大奥の性事をあばくことを目的とはしていない。
さしあたっての関心事は、何度も記したように、『実記』の天明5年(1785)6月18日の、

 臨時の朝会あり。松平越中守定信をはじめ参観十五人。(日記)

の真相解明である。
大分、枝道にそれたようだ。

明日からは当ブログの本道に復帰しなければ---。


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(松平(大河内)伊豆守信明の個人譜)


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2012.01.06

「朝会」の謎(6)

天明5年(1785)---

田沼政権からの権力奪取の密議をすすめる定信(さだのぶ 28歳)は、6月1日に帰府すると、さっそくにも吉田藩(豊橋)主・松平伊豆守信明(のぶあきら 26歳)に会ったろう。

定信は『宇下人言(うげのひとこと)』に、信明をこう月旦(評)している。
もっとも同書は老中首座を解任されたあとで記したものだから、天明5年から10年ほどものちのことでもあり、信明が老中首座として定信の遺志(?)をうけついで幕政をきりもりしていたことも考慮にいれて読むことも留意しなければならない。

松平伊豆守は明敏で人あたりがよろしい。
才は徳にまさるといえようか。
予はいつも、高望みして理想にはしってはいけないよと忠告していたが、効きめはあったのであろうか。
予にはいつも虚心坦懐に訊いてくれていたが。
予が至らないところを補い、うしろざさえとなってくれてもいた。

豊橋市史 第二巻』(1975)が意外な史実を載せている。

すなわち、これまで、信明の年齢は『寛政重修諸家譜』にある、

---宝暦十年(1760)生る。

そのまま信じて試算し、天明5年には数えで26歳としてきた。
(わざわざ、「歳」の字をあてて数え年齢をにおわせているつもり。満年齢の場合は「才」ですます)

市史』は「大河内家譜」と墓碑の文化14年(1817)歿、享年55歳を引き、ほんとうの生年は宝暦13年(1763)で、公儀への諸届けには3歳ゲタをはかせていたと。

ゲタをはかせた理由(わけ)は、父・信礼(のぶうや)の正室を迎えるまえの閨房ごとにあった。
いささか長めiの引用になるが、『市史』から。

松平信礼は、はじめ板倉内膳正勝承(かつつぐ 陸奥福島 3万石)の家臣・村雨八郎左衛門忠武の女清見(のちに清岩院とよばれる)を側室とした。
彼女は、3女(注1)もうけた後、宝暦13年(1763)2月10日、江戸谷中の下屋敷で男子を出産した。
この男子が後の信明であり、幼名を春之丞といった。
信礼に宝暦12年6月、黒田大和守直純(上野・館林 3万石)の女で本多伯耆守正珍(まさよし 駿河・田中 4万石)の養女となっていた芳を正室に迎え、3女(注2)をもうけたが、男子に恵まれず、房次郎(注3 後に松平信武 または信邦)が生まれたのは信礼没後の明和7年(1770)12月のことであった。
大河内松平家としては正室よりの嫡男の出生を待っていたらしいが、明和4年の出産が女子であり、また当主の信礼の健康状態から考えて、また信礼が家督を継いだ時でもあり、同5年に庶腹の春之丞を嫡子とすることに踏みきったのである。
信礼が同7年に没して信明が跡を継いだ後に、正室に男子が生まれたのは実に皮肉なことであった。
 注1 静=秋田信濃守千季妻、五百=夭折、禎=加納備中守久周妻
 注2 鶴年=松浦壱岐守清妻、秀=黒田大和守直英妻、喜鶴=永井日向守直進妻
 注3 房次郎は寛政11年(1799)30才で杉浦丹後守正勝(丹波・相模で8千石)へ養子

参照】正室の養父・本多伯耆守正珍2007年6月19日~[田中城しのぶ草] () (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)
田中城は、長谷川平蔵の祖・紀伊守正長が今川方の武将として守った城。

信明房次郎の実年齢差は6歳でしかない。
人の運命とは、些細な差が大きい面もたぶんにあろう。
もっとも、房次郎の性格・識見・人品について『市史』は言及していないし、正室派がおこしそうになったお家騒動についても触れていない。

つづいて『市史』から引く。

信明が継嗣となったことは、上のような幸運があったのであるが、それまで信明の出生は幕府にも届けられていなかった。
庶子の出生が届け出られぬことはままあり、ある程度の年令に達してから、虚弱であったが丈夫になったので
届け出るという「丈夫届」が出されることが多い。
大河内家でも明和5年に立嫡に先立ち、丈夫届を出したのである。

 十二月三日、妾腹の男子春之丞、今年九歳となり、生まれつき虚弱の故をもって届けなかったが、唯今はやや壮健になったと、(老中)・松平周防守康福(やすとみ)へ届けでた。(『大河内家譜』)  
   
信明の幼時の虚弱については、後の公儀への届け出にもしばしば現れるが、実際に虚弱であったかどうかは、右の丈夫届の性格からみてもそのまま信じてよいかどうかははなはだ疑問である。

しばしば行われたという「丈夫届」なるものを、ちゅうすけは初めて目にしたが、いまの戸籍届は、もっと頑固で融通がきくまい。
市が編纂した『市史』ゆえ、ちゅうすけのような不埒な感慨を記すはずはないが。

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2012.01.05

「朝会」の謎(5)

宇下人言(うげのひとこと)』に、天明5年(1785)6月の定信(さだのぶ 28歳)の参勤・参府を待っていたと書かれていた11名の心友(しんゆう)の譜代大・小名のうち、役についていたのは奏者番の松平(大河内)伊豆守信明(のぶあきら 26歳 吉田藩主 7万石)ただ一人であったことを、どう解釈すればいいか。

不満組の集まりとみなすか、田沼政権から軽んじられていた名門たちとみるか。

高澤憲治さんが『国史学 第176号』(2002.03)に寄せた[松平定信の幕政進出工作]に掲出されている定信が親交をむすんだ大名たちの名簿には27名があげられている。
うち5名は、定信が政権に就いた天明7年(1787)以前に逝去したか致仕しており、その後も幕府の要職についたのは、先記の本多弾正少弼忠籌(ただかず 47歳 泉藩主 2万石)、戸田采女正氏教(うじのり 32歳  大垣藩主 10万石)のほかは、加納備中守久周(ひさのり 33歳 八田藩主 1石3000石)ぐらいである。

あとの譜代大・小名の藩主は5代さかのぼった100藩主中、せいぜい奏者番か寺社奉行が数人、所司代が2家に3名いるにすぎない。

数少ない英邁な心友の藩主のなかで、とりわけ実力の持ち主とおもわれるのが、知恵伊豆・信綱を祖にいただく伊豆守信明である。

前年の天明4年12月24日に譜代大・小名の出世のとば口である奏者番に任命されていた。
この役は20名前後いて、4名が寺社奉行を加役(兼帯)する。

寺社奉行は定府が義務づけられているが、奏者番は参勤交代がある。
吉田藩の参勤は、子、寅、辰、午、申、戌にあたる年の6月と定められていた。

天明5年(1785)は巳年だから、きまりでは信明は6月1日には江戸を離れていなければならなかった。
が、役に不慣れだから在府して習熟したいと願いでて、許可されていた。
目的は、定信との謀議を凝らすためであった---と前掲の高澤さんは推測する。
豊橋市史 第二巻』の「松平大河内信明とその時代」もその説をとる。

天明5年6月の時点の奏者番を先任順に書きだしてみる。
氏名(藩 石高 年齢=天明5/同=拝命時 加役 ○=定信親派)

 堀田相模守正順(まさあり 佐倉 11万石 41歳/31歳 寺社)
 阿部備中守正綸(まさとも 福山 10万石 40歳/29歳 寺社)
 井上河内守正定(まささだ 浜松 6万石 32歳/21歳 寺社)
 秋元摂津守永朝(つねとも 山形 6万石 39歳/37歳)
 松平玄幡頭忠福(ただよし 小幡 2万石 44歳/33歳)
 松平伯耆守資永(?)
 土井大炊頭利和(としかず 古河 7万石 37歳/31歳)
 水野左近将監忠(卯を割り県)(ただかね 唐津 6万石 42歳/36歳)
 青山大膳亮幸完(よしさだ 八幡 4.8石 34歳/28歳)
 松平和泉守乗定(のりさだ 西尾 6万石 34歳/30歳 寺社)
 稲葉丹後守正諶(まさのぶ 淀 7.4万石 41歳/37歳)
○牧野備前守忠精(ただきよ 長岡 7.4万石 26歳/22歳)
 松平右京亮輝和(てるやす 高崎 8.2万石 36歳/34歳)
 板倉肥前守勝暁(かつとし 安中 3万石 59歳/57歳)
 松平能登守乗保(のりやす 岩村 3万石 41歳/39歳)
○板倉左近将監勝政(かつまさ 備中松山 5万石 29歳/28歳 寺社)
 西尾隠岐守忠移(ただゆき 横須賀 3.5万石 40歳/39歳)
○植村右衛門佐家長(いえなが 高取 2.5万石 29歳/28歳)
○松平(大河内)伊豆守信明(のぶあきら 26歳/25歳)

天明5年の上記18人の平均年齢は、37歳。
拝命時のそれは、32..3歳。

まあ、こういう数字遊びからは、具体的な人物像は浮かびあがってこない。
とりわけ、池波鬼平のように、佐嶋忠介木村忠吾沢田小平次おまさ彦十、おといった鬼平側のキャラや盗賊のひとりひとりの風貌・人柄が鮮明に描かれている『犯科帳』を読みなれているファンにとっては、大名の名前の羅列は無味乾燥ともおもえる。

明日はもうすこし、松平伊豆守信明の人物像にせまってみよう。


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2012.01.04

「朝会」の謎(4)

 臨時の朝会あり。松平越中守定信をはじめ参観十五人。(日記)

徳川実紀』の天明5年(1785)6月18日の項(第10巻 p776)に上に引いた一行が唐突にあり、諸書がこのことに触れているのを目にしていないので、素人のくせにこだわっている。

というのは、定信(さだのぶ)はそれから半年後に、宿願の溜間(たまりのま)詰という破格の栄誉を手にいれているから、それとかかわりがあるか否かを、これから半年か1年ほどかけて折りにふれ、検索してみようというわけである。

天明5年6月1日に、定信が領地の白河から江戸へ帰りつくと、待ちかまえていたように盟友たちが歓談を求めてきたと『宇下人言(うげのひとこと)』に自述していることは元日の項に引いておいた。

面談を乞うたと書かれている大名小名が天明5年6月に参府していたかどうかから検討をはじめている。

宇下人言』に名があがっている若手譜代大名のひとりが戸田采女正氏教(うじのり 32歳 大垣藩主 10万石)である。

この大名についての月旦じみた『宇下人言』の文章は、

戸田の人となりはいたって弁才もあり、よく物にかんにんするの性あり。
妻はなはだ好忌なり。これをよく遇して、ことしはその好忌の性もやみて、関雎(かんすい)の徳をなせりと。
ちゅうすけ注 関雎とは、夫婦仲がいたってむつまじいことをいう)
これ又政をよくしてつねづね予にさまざまのことをたずね問いたり。
予、国にいれば、たよりごとに文してしかじかはいかんせん、この事はいかがにせんとて、つねづねいいこし給えり。

氏教は宝暦4年(1754)、ときの館林藩主で老中筆頭であった松平右近将監武元(たけちか 44歳=宝暦4)の五男として生まれた。
母は藩士(?)・種村氏のむすめ。

ちゅうすけ注 五男ではあるが3人の兄は育ってないから現実には次男あつかい)

15歳の明和4年(1768)に、大垣藩主・氏英(うじひで 享年40歳)の末期養子に迎えられた。

好忌がはげしかったと、なんとも生ぐさいいいまわしで書かれている内室は氏英の四女で、ひょっとしたら氏教よりも1,2歳上だったのかもしれない。
(このあたりは、地元の史家の方のご教示を得たい)

家付(といっても脇腹)のむすめとして育った奥方は、長女を身ごもったころに氏教が家臣(?)・鈴木某のむすめを偏愛したので妬心をもやしたともかんがえうる。
第2、3、4、5子は鈴木某のおんなが産んでいる。

あるいは定信のことを嫌っていたか。

宇下人言』を読むと、心友と書いているのはほとんど、定信に教えを乞うた仁ではある。
定信は生来の教え好きなのか、あるいは自許心が強かったのであろう。

一方の氏教、譜代名門大名の出世のとっかかりである奏者番は寛政元年(1789)で36歳と遅くはなく、寺社奉行兼帯が同年の11月、側用人がその半年後、さらに老中がほとんど半年後であるから、定信の引きが強かったと想像できる。
悪妻の側としても定信をうとんじてばかりはいられなかったろう(笑)。

氏教は老中を53歳の没年まで、足かけ26年間も勤めた。
定信の老中首座は足かけ7年とあっけなかった。
このあたりに、政治家としてのあくの強弱を感じるのは、ちゅうすけのみであろうか。

さて、天明5年6月に氏教が在府していたかどうかだが、江戸から西方の外様大名は子、寅、辰……と隔年の春の参府である。
しかし譜代大名は半分ずつ隔年に6月か8月に参勤するのがきまりだが、大垣藩はどうであったか。
よしの冊子』(『随筆百花苑 巻8 p163)は、天明8年4月以降---同月10日か8月29日までの中ごろに、戸田侯の参府を記している。
同年は申(さる)であった。
定信の組閣は前年の6月、そして氏教の奏者番は翌寛政元年(1789)の6月18日、寺社奉行の兼任は同年11月24日。


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(戸田氏教の個人譜)

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2012.01.03

「朝会」の謎(3)

泉藩(福島県いわき市泉)の藩主・本多弾正少弼(しょうひつ)忠籌(ただかず)については、人足寄場がらみで当ブログで紹介したことが2,3回あった。

参照】2007年2月23日[人足寄場の専用舟
2007年9月2日[隠密、はびこる

藩財政の建てなおしのために、自ら、朝晩は米飯のみ、昼は一菜で範をしめしたことはすでに紹介した。

元文4年(1739)12月8日の生まれで、嫡母は松浦肥前守篤信(あつのぶ 享年22歳)の三女で、のち離婚。
(よそごとながら、22歳で逝った篤信は11男8女をもうけていたように『寛政譜』が記している)

忠籌(幼名・雄之進 ゆうのしん)が16歳で家督(1万5000石)したものの、父・忠如(ただゆき)が遠江・相良から泉へ転封したときの費用などによる借財が大きくたまっていた。

前記の節約ぶりで、27年後の天明元年(1781 43歳)には、借金を完済していたばかりか、1万両(16億円)の蓄財もできていた。

定信(さだのぶ)が接触をもとめてきたのは、このころであろうか。

参照】2012年1月2日[「朝会」の謎] (

というのは文化元年(1804)の『武鑑』に、泉藩の参勤交代での参府は子、寅、辰、午、申、戌の6月とあった。
これを天明年間にあてはめると、2、4、6、8年となる。

いっぽう、定信の白川藩のそれは、卯、巳、未、酉、亥の5月だから、
同じく天明年間においてみると、1、3、5、7年となる。

つまり、定信が家督した天明3年(1783)10月16日以降だと在府のときには、忠籌はほとんど泉にい、2人はかけちがってばかりであったということになる。
2人が顔をあわせえたのは1ヶ月あるかなし。

これまで目にした定信かかわりの諸書がまったく触れていない『徳川実紀』による「朝会」の謎]に気づいたのは、一昨日であった。

参照】2012年1月1日[「朝会」の謎] (

これでもっとも可能性が高いのは、定信の家督以前……定信が田安の屋敷か白川藩の上屋敷にいたときと推察しているのだが、どんなものであろうか。

ついでに指摘しておくと、『宇下人言』に名をつらねていた10人前後の若手譜代大名の参勤についてはまだ調べていない。

b;s
これからいって、心友(しんゆう)の何人かには、かけちがいの藩主がいたにちがいない。

それはともかく、定信は2年後に宿老(老中)、少老(若年寄)を組閣したとき、「勝手(財政)は本弾どの、政治はわれ---」との方針をうちたてた。

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(本多弾正少弼忠籌の個人譜)


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2012.01.02

「朝会」の謎(2)

問題の天明5年(1785)6月(陰暦 以後同じ)---1日に、定信(さだのぶ 28歳)は藩庁のある城下町・白河から江戸へ帰ったといささか美化ぎみの自伝『宇下人言(うげのひとこと)』にある。

国入りのために江戸を発ったのは前年の6月27日であった。
飢饉にくるしんでいた領民のことをおもんぱかり、行列はきわめて簡素にしていたという。

帰府を待ちかまえていたように、「飢饉に餓死者をださなかった政道のこと」「どうすればそれができたのか」「よい藩政とは」などと訊いてきた信友(しんゆう)の諸侯の名をあげている(年齢は天明5年現在)。

松平(形原)牧野備前守忠精(のぶみち 24歳 亀岡藩主  5万石)
本多弾正少弼忠籌(ただかず 47歳 泉藩主 2万石)
本多肥後守忠可(ただよし 44歳 山崎藩主 1万石)
戸田采女正氏教(うじのり 32歳 大垣藩主 10万石)
松平(大河内)伊豆守信明(のぶあきら 26歳 吉田藩主 7万石)
堀田豊前守正穀(まさざね 24歳 宮川藩主 1万3000石)
加納備中守久周(ひさのり 33歳 八田藩主 1石3000石)
牧野備前守忠精(ただきよ 26歳 長岡藩主 7万4000石)
牧野佐渡守宣成(ふさしげ 22歳 舞鶴藩主 3万5000石)
松平(結城)越後守康致(やすちか 34歳 津山藩主 5万石)
奥平大膳大昌男(まさお 23歳 中津藩主 10万石) 

このうち、2年後に定信が老中首座となってから老中となったのは、松平信明、本多忠籌(格)、戸田氏教である。

譜代大名で有能とみなされた仁が登用される寺社奉行には、戸田氏教、牧野忠精が任じている。

年長の泉侯・弾正少弼忠籌を勇偉高邁な仁とみなし、定信のほうから交際を求めた。
その品格の一つとして、家治(いえはる)の嗣子・家基(いえもと)が18歳で急死したとき、忠籌が50日のあいだ酒肴を断ち、朝から夜まで麻上下で端座して喪にふくしたことをあげている。

つねづねの倹約ぶりも定信の意にかなっていたようである。
飢饉のときには、朝夕は米飯のみ食し、昼だけ一菜をつけたと感じいって記している。
このことは、『よしの冊子』であげられた逸事に拠っているようにもおもえる。

すなわち、帝鑑間で弁当をひらくと、菜がひしこの醤油煮だったので、隣りあわせた大名が「なんというものか?」と訊き、「ずんと下魚で値もいたって安い」
「食べたことがないので味見させていただきたい。ほう、存外の味ですな。して、値は?」
「一升が32文(1300円)ばかり---」
この一件に、定信はいたく感服したという(『随筆百花苑・巻8』 p122)

要するに、定信ごのみの人で、しかも定信に欠けていた実経済のこころえがあった仁といえようか。

ほかにも田安家の存続を理由に、三家と一橋治済(はるさだ 35歳)との接触を深めるためにも、譜代大名の支持をはかっていたともおもえる。

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2012.01.01

「朝会」の謎

明けましておめでとうございます。
本年も、よろしくご指導ください。


陶芸家の會田雄亮さんからいただいた今年の「」です。

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ちゅうすけが隅田公園で迎えた日の出。黄金の竜となってあなたに福をおとどけするために隅田川をわたっています。
浅草寺の山号---金竜山の、これが由縁かも。


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ご挨拶もそこそこ、元旦そうそうから、赤面の不見識をさらします。


徳川幕府の正史ともいわれている『徳川実紀』で、不思議な一行を発見した。

天明5年(1785)6月18日の項(正編の第10巻p776)---

 臨時の朝会あり。松平越中守定信をはじめ参観十五人。(日記)

日本歴史の専門家でもないちゅうすけには、まず、「朝会」がなんだかわからない。
「参観」もなんのことやら。
「十五人」の氏名も記されていない。

実紀』に松平定信が初めて登場したのはいつかと、とりあえず、手元の『徳川実紀索引 人名編 下巻』、

 松平
  定信(賢丸・越中守)

の項をひらいてみると、初出は、
 溜間(格)(正編)10 p786
前記の半年後---天明5年12月朔日、
 
 松平越中守定信、これより後、出仕の時は溜間(たまりのま)に候し、
 月次は白木書院、五節には黒木書院にいでて拝賀すべしと命ぜらる。
 これ宝蓮院尼(田安宗武夫人)申請はるるによれり。
 さればその家の例とはなすまじと仰下されぬ。

人名編』索引作成の総責任者・杉本 勲さんの「序」によると、「幕政史研究に重点を置いて選択・編修を行った」とことわってあるから、 天明5年6月18日の項の採択が洩れていることをうんぬんしてはいけない。

実記』の安永3年3月11日には、

 松平越中守定邦をめして、大蔵卿治察(一橋)の弟賢丸をやしない、むすめにめあわせよと命ぜられる。

とあるが、このときに賢丸であって越中守ではなかったということにしておこう。

参照】2010年3月29日[松平賢(よし)丸定信

さて、容易に手さぐりできそうな文言からと、まず、焦点をあてたのが、

(日記)

実記』の正編第1巻の巻頭に、引用史料の略称の解説があるだろうと見こんだ。
あったことは、あった。

使われた史料--393ヶ、うち「日記」とついたものが41ヶ。
慶長日記』や『明暦日記』、『吉良家日記』や『水戸日記』をはずしていくと、残ったのは『御日記』だが、悲しいかな、これをらたしかめる手立てがおもいつかない。

あとは、溜間詰(たまりのまづめ)をかちとるまでのー定信の動きをあらっていくしかなさそうだ。
ことしの目標の一つがこれになりそう。

正月早々からの失敗告白---

素人というか、ものしらずは情けない。
3.11で崩壊したままの書庫にはいったら、小宮木代良さん『江戸幕府の日記と儀礼史料』(吉川弘文館 2006)が散乱した書籍群の隙間から呼びかけるように顔をだしていた。
購入したまま、しまっていたらしい。

巻頭に『実紀』に(日記)とあったら「幕府祐筆所日記」のことだと教示されているではないか。
もっとも、そうだとわかっても、そのそれがおいそれと検分できる立場にはない。
小宮木さんは、東京大学史料編纂所助教授 2006現在)である。
ことしは、小宮先生の著作を渉猟することからはじまる---といっておこう。

参照】2010年3月22日~[平蔵宣以の初出仕] (
2006年7月2日[松平定信『宇下人言

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