松代への旅(12)
暁暗のころ、お江(こう 18歳)が平蔵(へいぞう 40歳)の耳たぶにそっと唇をあて、寝衣の浴衣の前をととのえ、枕をかかえて自分の部屋へ戻っていった。
(口を吸うこともまだ覚えてはいないらしい、初心(うぶ)な所作だ)
小半刻(30分)ほど間をあけ、鉄条入りの木刀を振っていると、寝衣のままのお江がよってき、頬をあからめ
「昨夜はありがとうございました。結んでくださったのですね?」
「結んだ---?」
「はい。夢ごこちのうちに快感をおぼえました」
「おんなになったのだ---」
「うれしゅうございます」
涙が一条こぼれた。
平蔵はなぜか、そうおもいこませておくほうがも、お江にとってしあわせであるなら、それもいいと断じたので、笑いをこぼし、肩をつかんでゆすって、
「妙におんならしくなったではないか。妙だぞ。われは肝のすわったお江が好ましい」
肩の手に掌を添え、
「今夜は深谷(ふかや)の泊まりになりそうです」
「うむ」
朝餉(あさげ)を終え髷をととのえたころ、火熨斗(ひのし)で折り目がきちっとついた着るものがとどいた。
前砂(まいすな)でお茶にしたので、熊谷宿(くまがや しゅく 4里20丁(18km))で昼にしたときには九ッ半(午後1時)をすぎていた。
お江に馬をすすめたが、首をふり、
「お転婆(てんば)が好きとおっしゃった」
宿の北の木戸をでたところで、右の脇道へそれ、熊谷次郎直実(なおざね)の熊谷(ゆうこく)寺に参詣した。
「京にいたころ、熊谷どのが開山なされた法念寺の近くになじんでいながら、ついに参詣しなかったほどの罰あたりであった---」
おもわずつぶやいた平蔵の顔を、松造(よしぞう 35歳)がぬすみ見た。
(めずらしく、誠心院(しげょうしんいん)の貞妙尼(じょみうに)さまのことをおもいだされておられるkのか--)
http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/10/post-da91.html
【参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)
(あれは、長谷川さまがこれまでにおかかわりがあった女性(にょしょう)のなかでも、もっともおいたわしい事件であった。それにしても、12年もすぎたいま、貞妙尼さまをおもいだされるとは、男の業(ごう)もけっこう深い)
松造の推測はそうであっても、ちゅうすけには別の忖度(そんたく)がある。
700年前の源平の時代を生き、武士の宿命とあわれに平蔵が同感しての参詣とみる。
もしかすると、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)が勤めた火盗改メへの就任を予感していたかもしれない。
この職につくと、盗賊を獄門に処したり、掏摸(すり)を死しか待っていない佐渡鉱山の水汲み人夫に送り込むといった非情も避けるわけにはいかない。
なにがしかのお布施を包むと、住職が本堂へ招じ、法然上人から蓮生(れんせい 直実の得度名)がさずかったとつたえられいる仏像を拝観させてくれた。
山門をでるとき、平蔵がつぶやいた。
「われも、父上の齢まで生きられたら頭を丸めるか」
「その節は、私も剃髪(ていはつ)して尼になります」
応じたお江に、
「なにをいうやら。われが55歳のときは、お江は33歳のおんなまっ盛りだ」
「55歳のお頭も、男まっ盛り---」
松造が茶化した。
「盛りというのは、あのほうの、さかりにも通じます」
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