松平賢(よし)丸定信
雑談の態(てい)で、田沼主殿頭意次(おきつぐ 56歳 相良藩主)が、ふと、洩らした。
「われと、本多紀品(のりただ 61歳)どのには遠すぎる昔のことゆえ、はずすとして、お若い本郷伊勢どのと銕三郎(てつさぶろう 29歳)どのに思いだしてほしいのは、17歳の男子のなにの強さを話してくださらんか。いや、自分のことでなく、友人の話でもいいのじゃが---」
女性の召使いたちは、その前に退室を命じられていた。
田沼とともに、本多采女紀品(のりただ 61歳 2000石)、西丸目付・佐野与八郎政親(まさちか 43歳 1100石)がさりげなく微笑しながら、本郷伊勢守泰行(やすゆき 30歳 2000石)に視線を注いだ。
西丸・小姓組頭取の伊勢守泰行は盃を膳へもどし、端正な面持ちを引きしめ、
「知人のことでもいいとのお言葉でしたから---姓名の儀はお許しいただくとしまして---」
話したのは、一橋小川町の生家の隣家の次男の少年のことであった。
16歳のころから、召使いをつぎつぎと手ごめにし、ついに親から見放され、家を出、湯島天神下の娼家のおんなと素裸の躰をしばりあって相対死して果てた。
「そのように、17歳の性欲を解きはなって死んだその少年が、うらやましくて仕方がありませんでした。嫡男に生まれていなかったら、手前もやっていたかもしれません」
平蔵は、14歳のときに得た初体験を話した。
駿州・田中藩の前藩主・本多伯耆守正珍(まさよし)侯のお考えを実現させるために東海道をのぼり、三島の宿で、町を見て廻ろうとしたとき、本陣{樋口}の主・伝左衛門の手配で25歳の後家と出会い、男になったと。
【参照】2007年7月14日[仮(かりそめ)の母・お芙佐ふさ)] (1) (2)
「10歳ごろから、好みのおんなをみると、澱(おり)みたいなものが躰のどこかに溜まっていくような感じをおぼえておりました。それが、後家になったばかりのその人に、やさしく導かれ、おんなの秘処とは、こんなにも繊細で、微妙で、滑らかで、快いものかと、おどろきました」
「想い描いていたとおりであったか?」
源内が訊いた。
「いえ。想像していたものより幾層倍も甘美でした。そして、あそこへの放出の発作が静まると、4年間積もってでいた澱が、きれいさっぱり消えておりました」
「ほう。14歳のときにな。なんともしあわせなご仁じゃ」
意次が感嘆した声で応じた。
「銕(てつ)どののお父上ができすぎておられたのです。なみの父(てて)ごでは、そうはまいりませぬ」
佐野政親が保証した。
「しあわせかどうか。おんなの秘処があれほどに甘美と知ってしまうと、あとの辛抱がむつかしくなります。自力のは味けのうて---」
みんながうなずきながら 軽い笑い声をたてた。
「で、つぎに本物の甘美を手にしたのは?」
「18歳になってすぐのときですから、17歳としてもよろしいかと---」
「ふむ---」
意次がうながした。
【参照】2008年1月1日~[与詩(よし)を迎に] (12) (13) (14) (15) (26) (27) (28) (29) (30) (41)
「あの齢ごろでは、小半時(30分)も熄(やす)めば、もう、満ちておりました」
「相手次第だが---」
本多紀品が、茶々をいれる。
「本多さまも、さようでしたか?」
平蔵が逆にからかった。
「年寄りをいじめるでない」
紀品が笑いながらたしなめた。
「いや。ご馳走ばなしであった。ところが、17歳の男子で、妻をあてがわれて、抱かないご仁がいてな」
意次は言葉をにごしたが、平蔵には、白河藩主・松平越中守定邦(さだくに 47歳 11万石)の心痛だと察しがついた。
養子に乞われ、その姫を正室にあてがわれた田安家の賢丸(よしまる 17歳)が、この1ヶ月、田安邸を出ていかない。
つまり、定邦の姫と同衾していないようなのである。
【参照】2010年3月21日[平蔵宣以の初出仕] (2)
意次が源内に、
「媚薬になる草はないものか」
と問い、
「鯨の睾丸でも煎じて呑ませるのですな」
みんなが笑った。
それからしばらく、金力をつけている商人たちの話題に移り、座が終わった。
それぞれが退出するとき、意次が、
「平蔵どの。さしつかえなければ、寸時、とどまってほしい」
本多紀品、本郷伊勢守、佐野政親、平賀源内へあいさつし、言われたとおりに待っていると、みんなが門を出る間あいをはかり、意次が、しみじみとした口調で、
「平蔵どの。里貴(りき 30歳)を可愛がってやってくだされ。あれは、ふしあわせなおなごゆえ」
(久松松平 始祖 定邦・定信(養子の項))
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