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2008.01.01

与詩(よし)を迎えに(12)

「お酒をお持ちいたしましょうか?」
夕餉の膳を自らから運んできた、女中頭の都茂(とも)が、すすめるように訊く。
「家では、父上が召し上がらないので、ほとんどたしなまいのだが---都茂どのが助(す)けてくれるなら、いただこうかな」
「いざというときには、わたしが介抱してさしあげますから」

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』[誘い]部分)

裾の乱れも気にならないほどにいそいそと、都茂が戻ってくる。
銕三郎(てつさぶろう)は、都茂に注ぎ返し、
都茂どのの苦労話を肴に--」
「どの苦労話にいたしましょう? 仕事? お金? 皺?」
「皺など、拙の目には見えないが---」
「いやですよ、長谷川さま。おばあさんに恥をかかせないでください。商売柄、若づくりをしているだけです」
口ほどでもなく、顔にはよろこびの笑みがうかんでいる。
「どう、もう一つ---飲(い)ける口なのでしょうが」
「まだ仕事が残っておりますのに。じゃあ、もう一つだけ」
「訊いていいかな。阿記さんの縁切りのことだが---」
「それは、ご本人にお訊きくださいな。使用人の口からは申せません。でも、嫁ぎ先のお姑さんが、それは、それは、意地の悪いばあさんらしくて---あら、言っちまった---そのお姑さん、わたしより、齢下なんですよ。42歳とか」
「えっ? 都茂どのはうちの母上と同じと見ていたのだが---」
「お母上はお幾つでございますか?」
「明けて39歳」
「冗談ではありません。わたしは厄が終わって2年になります」
「見えないなあ。も一つだけ、さ---」

「苦労話といえば、男にはいつも苦労をさせられてきていますから、齢もあっというまにとってしまいます」
言いながら、都茂は手酌をはじめた。
阿記どのは、お幾つかな」
「お嬢さんは、長谷川さまとどっこいどっこいの21」
「姉上だな」
「姉上って、長谷川さまはお幾つなのですか?帳場では、21か22歳だろうってうわさしてましたけど」
「いや、阿記どのより、下です」

その阿記が、新しい一本を手にやってきた。
都茂さん。2階の客衆が、夕餉はまだかってお騒ぎですよ」
はい、はいと、こころ残りげに、
「お床は、半刻(1時間)ほどあとにのべさせていただきますから」と母屋のほうへ去った。
「ほんとに、いい男衆とみると、齢甲斐もなく油をうるんだから」
「口はきわめて堅いようですよ。阿記どのの縁切りのことなど、一と言も漏らさない」
「わたしの縁切り? それは、聞くも涙、語るも涙---でございます。ま、熱いところをお一つ---」
阿記どのも---」
「平塚で、自棄(やけ)酒で鍛えましたから。あら、美味しい。飲みかわすお相手で、お味が月とすっぽん」
「も一つ---」
「酔って、ぐだをまいても存じませんから---」
「うーむ。わが家には、これまで酔っ払いが出たことがなくて、介抱の仕方を知りませんが---」
「冗談でございます。まじめにおとりになるところが、長谷川さまらしいのかも。でも、ほんとうは、長谷川さまに介抱されてみたい」
「聞くも涙、語るも涙---の苦労話のほうは、どこへ行きましたかな?」
横すわりになっていた阿記が、なまめいた目で銕三郎を見つめた。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』[にんまり] 部分)

ぞくっときたのを隠して、銕三郎は酌の手を伸ばした。
都茂のことを、悪くいってはいけないのですね。あれが、権七(ごんしち)の荷運び賃を値切ったために、こうして長谷川さまとお近づきになれたわけですから」
「それもそうですが、阿記どのが婚家をお出になるということで、都茂どのがお迎えに行かされたのがそもそもですね」
「やはり、縁切り話に戻りますか」

「そう、世間から見れば、〔3年、子なきは去る〕ってことでしょうね。わたしが、こんど、里帰りを決めたのも、3日前の晩、お姑さんと、いつもの言いあらそいになったとき、〔3年、我慢したんだ。3年経っているんだよ〕って言われたからです」
阿記の顔は上気し、盃をもつ手がふるえていた。
銕三郎は手をのばして、阿記の手からそっと盃を取り、膳へ戻した。

阿記どのが、嫁入りしても眉を落さないことも、お姑どのには気にいらなかった?」
「はい。これは、夫・幸兵衛の好み---というより、商売用だったのです。そんなに大きな店でもないのに〔越中屋〕の看板娘として振舞ってくれと---。夫は、一人っ子だったせいか、産みの親---わたしにとってのお姑さん---には、決して逆らいませんでしたが、わたしの眉のことだけは、おれの望みどおりでいいんだと」

「それで、舅(しゅうと)どのは---?」
「わたしが嫁ぐ1年前に、亡くなっていました。そのこともあって、一人息子を嫁に取られまいとして、わたしに意地悪をしたのだとおもいます」

銕三郎は、すこし落ち着いた阿記の手をとって盃を持たせ、酒を注いだ。
酒は、とうに冷(さ)めていた。
支えてくれている銕三郎の手に、阿記がもう片方の手をそえた。
阿記どの。そんなに強く力をお入れになると、酒がこぼれます。そちらの手で、拙にも注いでください」

長谷川さま。お願いがございます」
「なんでしょう?」
「間もなく、女中が床をのべに参ります。その前に、わたしは母屋へ帰りますが、のべ終わったころあいに、また、参ります。そうしたら、いっしょに湯へ入っていただけませんか」
「う---」
「こんなはしたないこと、死ぬおもいでお願いしております。じつは、平塚では、お姑さんの目がきびしくて、夫と湯をいっしょにするなど、思いもよりませんでした。いちど、そうしてみたいと、かねて、夢みていました。長谷川さま。かなえてくださいませ」
銕三郎は、三島宿の大社の裏手のお芙沙(ふさ)の家の風呂場で、裸になったお芙沙に背中を流してもらい、うしろから抱きつかれことがあった。
あの感触への回顧を断ち切るには、阿記の依頼を受け容れるべきだと決めた。

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(歌麿[美人入浴図]部分)

【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)]

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