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2011年12月の記事

2011.12.31

2011年を通じての重要コンテンツ12編

7年有余のあいだ、1日も欠かさずに書きつづけたブログです。
大晦日-----骨休めのつもりで考えたプランなのに、かえって、大仕事になりました。
ご笑覧くだされば、笑い納めにも。


1月22日~〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵 () () (


2月8日~田沼意次の世小子選び () () () (


3月5日~与板への旅 () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 


5月26日~若い獅子たちの興奮 () () () 


6月4日~辰蔵の射術 () () () () () () () (


7月9日~奈々という乙女 ()() () () () () () () 


7月21日~天明3年(1783)の暗雲 () () () () () () () (


8月9日~女中指南役のお栄えい


8月29日~新しい命・消えた命 () () (


9月2日~平蔵、西丸徒頭へ昇進 () () () () (


9月9日~駿馬・月魄(つきしろ) () () () (


10月21日~奈々の凄み () () () (


11月13日~お通の恋 () () () (

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2011.12.30

2011年を通じて

2011年もあと1日。
ことし1年、ありがとうございました。
81.6歳にしては、まあ、1日も欠かさずに、よくつづけられたとおもいます。

毎日の時間は、ほとんど、史実と資料しらべについやしてきました。
その結果、自分でもよくやったとおもえるコンテンツをリストアップしてみました。

年1回のわがまま、年齢に免じてお許しください。


1月3日~おみねに似たおんな () () () () () () () (


1月15日~今助(いますけ)・小浪(こなみ)夫婦 () () (


2月28日~西丸の重役 () () () () (


4月25日~〔宮前(みやまえ)〕の徳右衛門


5月29日~お乃舞(のぶ)の変身 () () (


6月17日~辰蔵の失恋 () () () (

 
6月29日~おまさのお産 () () () () () () () () () (10)


7月29日~辰蔵のいい分 () () () () () () () () () (10) (11


8月20日~辰蔵と月輪尼(がちりんに) () ()() () () () () () (


9月21日~札差・〔東金屋〕清兵衛  () () () (

明日もこのつづき。


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2011.12.29

別刷り『剛、もっと剛(つよ)く』(7)

このことをバラすと、鬼平ファンによっては、「長谷川平蔵って、そういう面ももっていたのか」と、ちょっぴり眉をひそめる方もあるかもしれない。

史実の長谷川平蔵には、たしかにそういう一面があった。
一面というより、商才といってもいいし、問題解決の能力と呼んでもいい。

史実とは、人足寄場を献策した2年目というから、寛政2年(1790)あたりのことだが、幕府が寄場の運営予算の半減をいってきた。

平蔵はやむなく、幕府をいつわって3000l両を借り出し、銭相場で400両ほど儲け、それを人足寄場の運営にまわした。

参照】2007年9月9日[『よしの冊子(ぞうし)』 (

この銭相場の操作に近いことを、5年前の天明5年(1785)にもやった。
そう、『(ごう)、もっと剛(つよ)』の板行にからんで行なった薬種(くすりだね)の買占めがそれであった。

もっとも、このときの市場操作は、金儲けのためではなく、薬草(やくざい)の安定確保をねらったものであった。

(ごう)、もっと剛(つよ)』の板行をおもいつき、原稿執筆と知恵づけをっさんこと---神田・佐久間町の躋寿館(せいじゅかん)の教頭・、多岐(たき)安長元簡(もとやす 31歳)医師に話したとき、きっと薬草が払底するとふんだ。

っさんに薬づくりに必要とする薬草を書き出してもらい、2000人の1年間の注文に応じられるだけの薬草の量を試算してもらい、それを買いあげるのに要する金額をいわせた。

八味地黄丸(はちみじおうがん)だけでも、

地黄(じおう) ゴマノハグサ科アカヤジオウの根
山茱萸(さんしゅゆ) ミズキ科サンシュの果実
山薬(さんやく) ヤマノイモ ナガイモ
沢瀉(サンシャ) オモダカ科サジオモダカ
茯苓(フクリョウ) サルノコシカケ科
牡丹皮(ボタンヒ) キンポウゲ科ボタンの根皮
桂枝(ケイヒ) クスノキ科ケイの樹皮
附子(ブシ) キンポウゲ科ハナトリカブトの根茎

これの1人1ヶ月分を5文(200円)とみて、1年分は60文(2400円)、その2000人分は4,800,000文(120両=1,920j万円)

「わかった。『(ごう)、もっと剛(つよ)』で奨(すす)める薬は男女あわせて8つにしてくれ。それで1000両用意すれば、1万6000人の1年分の薬草が買える」

「1年すぎたら?」
「買い手は半分に減っていよう。が、いまから和産の薬草づくりの手くばりをする」

「ところでっさん。960両で買い占めた薬草でつくった薬剤をいくらで卸してくれる?}
「薬研(やげん)でつぶしたり、包んだりの手間、効能や服用法の引き札の刷りをいれて、(へい)さんだから大まけして3倍---」
「5日以内に1000l両そろえるから、こっそり、ゆっくり買い占めてくれ」http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2010/02/post-52b7.html

平蔵が工面したのは、蔵元の〔東金(とうがね)清兵衛(せえべえ 40前)で、半年で7分(7パーセント)の利息の約定であった。
4ヶ月で完済し、平蔵の手元には、200両(3200万円)ほどのこった。

その金の半分を平蔵は上総(かずさ)の寺崎村の長老(おとな)・戸村五兵衛(平蔵の実母・(たえの兄))に無利息で貸し付け、太作(たさく 70すぎ)の竹節(ちくせつ)人参の栽培拡張のほか、山薬(やまのいも)の栽培そのほかに投資するようにすすめた。

参照】20102178~[竹節(ちくせつ)人参] () () () () () (

余談を記すと、4年目に竹節人参の栽培に成功した太作は、それをすりつぶして酒にまぜて飲んでいるうち、とつぜん相手がほしくなり、40いくつの後家を家に入れて可愛いがっているとの自慢話をそえ、自作の人参を数本送ってよこしたが、いまのところ、平蔵辰蔵(たつぞう 16歳)も服用した気配はない。

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2011.12.28

別刷り『剛、もっと剛(つよ)く』(6)

、もっと剛(つよ)』500冊と見本の2冊が、〔箱根屋〕の駕籠でととけられた3日目であった。

平蔵(へいぞう 40歳)の下城を待ちかねていたように、北・南品川の一帯をおさえている香具師(やし)の元締〔馬場(ばんば)〕の与左次(よさじ 60歳)の後継ぎ・五左次(いさじ 25歳)が馬場先門外で若いのと待ちかまえていた。
もちろん、家士・松造(よしぞう 34歳)にはそのことを通じていた。

「やあ、お乃舞(のぶ 26歳)どのには大事ないかな?」
「はい。お蔭さまで。今日はお乃舞のことより、長谷川さまがもっとおしりになりたがっていらっしゃるはずのご報告のためにお時間をいただきやした」

京都以来10年ほども化粧師(けわいし)・お(かつ 41歳=当時)の助手で性愛の相手もつとめていたお乃舞が、ふとしたことから五左次に惚れてしまった。
男への初恋であった。

参照】2011年5月26日~[お乃舞(のぶ)の変身] () () () 

男しらずで、おとの性愛に満足していたお乃舞五左次を男として意識したのは3年前---〔若い 獅子たちの集い〕と名づけられた元締二世を中心とする会合に出席したときであった。

参照】2011年5月26日~[若い獅子たちの興奮] () () (

きっかけは、23歳だったお乃舞が、五左次の脇に身をのりだし、〔化粧(けわい)読みうり〕が京で彫って刷られているから、上方からくだってくるものが上手(じょうず)ものみたいな気配をにおわせている、これからは江戸で彫り刷るべきであると、自分が京生まれにもかかわらず東国の肩をもった。

その気風(きっぷ)のよさがまず五左次のこころに火をつけたがそのことはおいて---。


数奇屋橋門外の公事(くじ)茶屋の奥の小座敷に落ち着いた。
平蔵がもっとも聴きたがっている話と五左次がいったのは、予想どおり、『、もっと剛(つよ)』の評判とその反響であった。

五左次の報告をかいつまくんで書くと---、

これも〔若い 獅子たちの集い〕に名を連ねている〔音羽(おとわ)〕の祇右衛門(ぎえもん 22歳)から町飛脚がとどいた。

すぐにシマ内の廻り貸本屋を集め、、『、もっと剛(つよ)』を常得意にすすめさせ、もったいをつけて売りわたし、薬の注文を前金でとれ。
さらには常得意に借り読みですまさせないで、『、もっと剛(つよ)』を新本を選りこむようにはっぱをかけた。
ところがおどろいたことに、絵草子が着いて2日のうちに、8人の貸本屋が96冊売り、
男用の性力剤の
八味地黄丸(はちみじおうがん)   14口
牛車腎気丸(ごしゃじんきがん)    18口
補中益気湯(ほちゅうえっきとう)    8口
十全大補湯(じゅうぜんだいほとう) 11口

おんなの性感をあげる
温清飲(おんせいいん)         9口
芎帰調血飲(きゅうきちょうけついん)12口
桂枝茯苓丸(けいしぶくりょうがん)  21口

「これがすべて、留守番をしている内儀たちがご亭主には相談なしにだした注文なんです」
「漢方の効きめはゆっくりだから、30日後には倍の注文になるな」
「はい。貸本屋たちにもそういっておきました。それで、配達をまっていられませんので、きょう、こうしてじかに外神田・佐久間町の躋寿館(せいじゅかん)の若先生のところに薬を求めに参りました」

「〔馬場〕の。浅草の〔木賊(とくさ)の今助(いますけ 38歳)元締にいまの話をつたえ、〔若い 獅子たちの集い〕を集めて報告しあうがいい。それから、西駿河や宇都宮の若い 獅子たちにも、五左次どんのところの実績をすぐに伝えてもらいたい。そうそう、きょうの話を〔耳より〕の紋次(もんじ 42歳)どんにも聞かせてやれ。『(ごう)、もっと剛(つよ)』はあれが作ったようなものだから、きっと大喜びするだろう。五左次どん、そがしくなるぞ」

馬場〕の五左次の思慮の深さに、平蔵は前から目をつけていた。

参照】2011年4月20日~[古川薬師堂 ] () (

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2011.12.27

別刷り『剛、もっと剛(つよ)く』(5)

「そうではないぞ。この絵草子の話がおきてから、ずっと勘算をくりかえしていた」
茶寮〔季四〕での歓談がおわり、亀久町の家へ落ち着き、奈々(なな 18歳)が腰丈の閨衣(ねやい)に着替え、平蔵(へいぞう 40歳)も袴をぬぎ、浴衣で冷や酒を酌みかわしはじめたとき、
「昨宵、うちを抱きながら、勘算してはりましたんやろ」
うらみ言(ごと)を吐かれた。

_180_5歓談の座で、平蔵が別刷り『(ごう)、もっと剛(つよ)』のさばき方について、あまりすらすらと述べたものだから、奈々がつい、愚痴ったのであった。

それぞれのお披露目扱いの元締衆に、500冊の半分は廻り貸本屋分としてのけておく。
1冊の『(ごう)、もっと剛(つよ)』の売価は50文(2000円)、
卸値は30文(1200)円)、
廻り貸本屋への渡し価は36文(1440円)。
いずれも前金全納。

薬の荒利は、5割5分(55パーセント)、ただし送賃は荒利から差し引き。
廻り貸本屋への渡しはおなじく3割6分(36パーセント)
いずれも前金全納。

平蔵が釈明したとおり、計算は早くからすすめられていた。

まず、多岐(たき)安長元簡(もとやす 31歳)医師への原稿依頼とその稿料の打診があった。
「なに、塾生たちが遊びの金ほしさに書きくずしたものを手なおしするだけだから、稿料なんか無用です」
っさんのいい分に、
「それはいけない。清書するだけでも字のきれいな塾生に小遣いをわたしてやらねば---」

じっさいは、三ッ目屋に残されていた板木を引きとり、使えるところに長谷川伯好(はっこう 72歳)が描きためていた旧稿を選んで配置したのであったが。

1両2分(24万円)ときめ、支払いは『(ごう)、もっと剛 (つよ)』の代金が半分は入ったときということにした。

問題は、刷り部数の読みであった。

江戸の8人の元締の部数はすぐにきまった。
500冊を予約した元締が5人、300冊が3人---小計 2,4000冊。

いいだしっぺの西駿河と東遠江の3人は各300冊---小計 900冊。

京都の〔左阿弥(さあみ)〕の角兵衛---300冊。

下野の3人---各200冊で600冊。

相模の3人---各200冊で600冊。

参照】2011年5月18日~[[化粧(けわい)読みうり]相模板 ] () () (

〆て---5,700冊(これは有料分)
ほかに献本分もふくめて無料分が100冊---無料とはいえ、紙代、刷り賃、製本代はかかる。

最終価格は50文(2000円)だが、元締衆への卸価格は30文(1200円)だから、原価を20文(800円)におさえないとやっていけない。

原価と卸値との差額10文(400円)の内訳だが、まず〔耳より〕の紋次(もんじ 42歳)の進行役(いまふうにいえば編集・プロデュース料)3文(120円)乗ずることの5,700冊=17,100文(3両1朱 49万万円)。

板元の権七に3文(120円)乗ずることの5,700冊=17,100文(3両1朱 49万円)。
(これには元締衆のところまで絵草子をとどける運賃も含まれておるから、半分ものこるまい)

あとの4文---22,800文(4両1朱 65万円)は予備のため。荷傷み分の補填とか伯好へ画伯への稿量やなんやかや。

肝心かなめは、20文で絵草子がつくれるかどうかだが、刷りと紙代と製本料は部数次第。
問題は板木づくり。
このごろは多色刷りがあたり前になっているから板木料もかかるが、これを10文(400円)以内におさめるのに苦心した。

「ちょいと、(くら)さんの取り分を聴いてぇへんけど---」
「ああ。骨折り損のくたびれ儲け---とは、よくいったものよ」
「あいかわらずの欲のないお人---だから、好きなんやわぁ。さ、頭がからになったんや、こんどは下をいっぱいに働かせる番---」


参照】2011年12月6日~[化粧(けわい)読みうり〕の別刷り ] () () (

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2011.12.26

別刷り『剛、もっと剛(つよ)く』(4)

j招き状には、
「久しぶりなので、お内儀もご同伴で---」
と書き添えておいた。

音羽(おとわ)〕の元締・重右衛門夫婦(じゅうえもん 58歳とお多美 たみ 42歳)、〔箱根屋〕の権七夫婦(ごんしち 53歳とお須賀(すが 48歳)のほかに、多岐(たき)安長元簡医師夫妻(もとやす 31歳とお奈保 なほ 22歳)にも声をかけた。

平蔵(へいぞう 40歳)が五ッ半(午後5時)に茶寮〔季四〕に着いてみると、多岐夫妻がすでに来てい、女将の奈々と話しあっていた。
脇には季節のお仕着せである紺碧(こんぺき)の無双を着た女中頭・お(なつ 20歳)が神妙な顔してかしこまっていた。

参照】2011年8月15日[蓮華院の月輪尼(がちりんに)] (

ついでながら、奈々の無双は紺鼠(こんねず)で色白の肌を引きたててい.る。

音羽〕の元締や〔箱根屋〕さんがお運びになる前に『剛 (ごう)、もっと剛(つよ)』に載っていたおさんの生薬(きぐすり)をお願いしておりましたの」
「なんの薬かな?」
「殿方には無縁のお薬---」

(やっ)さんは、笑いで奈々を制しながら、
「当帰芍薬散(とうきしゃくやくさん)を処方しておくから、明日でも躋寿館(せいじゅかん)にとりにいらっしゃい。館の場所はあとで奈々女将に教わりなされ」

奈々が耳打ちした。
奈保はん、9月にはお目出度やって---」
そういえば隠しきれないほどの腹であったが、聴き流した。
本人から報じられるまでは話題にすることではない。

そうこうしているうちに〔音羽〕と{箱根屋〕の夫婦がそろった。

音羽〕の重右衛門夫婦が、嫡男・祇右衛門(ぎえもん 23歳)を同道しており、
「大事な話とおもい、粗漏がないよう、愚息を見習いがてら---」
恐縮の体(てい)で釈明したが、ありようは、多岐元簡夫妻への顔つなぎであった。


平蔵が『((ごう)、もっと剛(つよ)』のひろめ方の一つとして廻り貸し本屋の使い方を説いた。
この種の閨(ねや)ものは、書き物にしろ絵にしろ、明るいところで話題にはしにくく、人から人への口づたえでひろがっていくのがもっともたしかなお披露目であろう。

(尻馬にのってつけくわえると、このブログの史料が中心の日はともかく、ヰタ・セクスアリスにおよんでいる日の分は、友人にこっそり伝えていただくとありがたい)

「前回の集まりのときにも強調したように、狙いは別刷り『もっと剛(つよ)』ではなく、そこですすめられている性力剤と女性(にょしょう)の血の道の生薬のつづいての売りである」

これも、気弱な者は薬種店で口にだしにくいから、つい、ひかえがちになりやすい。
廻り貸本屋がこっそりとどけてくれるとなると、頼むほうも口が軽くなろう。

たちまち賛したのが、〔音羽〕のお多美であった。
「きのう、紋次(もんじ 42歳)どんとこから見本がとどいたよって、読ましてもらいましてん。多岐先生にまっさきに八味地黄丸(はちみじおうがん)をお願いしょ、おもうてます」
「息子の前で恥をかかすな」
さすがの重右衛門もあわててとめた。

祇右衛門は笑って、
「おやじさん。見栄をはることはない。役目は終わっているのだから、あとはお袋のいうとおりに生きたらいい」
「つれてきたのは裏目であった」
重右衛門がおどけたので、座の空気がほぐれた。

「うちも多岐先生のお薬、いただきます」
須賀が乗りだし、ひと声あげた。

平蔵がなだめ、それぞれのお披露目扱いの元締衆に、500冊の半分は廻り貸し本屋分としてのけておくように。
1冊の(剛、もっと剛(つよ)』の売価は50文(2000円)、
卸値は30文(1200円)、
廻り貸本屋への渡し価は36文(1440円)。
いずれも前金全納。

薬の荒利は、5割5分(55パーセント)、ただし送賃は荒利から差し引き。
廻り貸本屋への渡しはおなじく3割6分(36パーセント)
いずれも前金全納。

平蔵は、これらの数字を今朝のうちに3部写していた。
奈々は内心、小にくらしくおもった。
(昨宵、うちとええことしてんのに、頭では勘定してはったんやろか。上と下を別々に働かせるのん、おんなにはでけへん)


参照】2011年12月6日~[化粧(けわい)読みうり〕の別刷り ] () () (


 

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2011.12.25

別刷り『剛、もっと剛(つよ)く』(3)

(別刷『(ごう)、(もっと剛(つよ))、』の噂をひろめ、生薬(きぐすり)の売りにつなげる一つの小路が廻り貸d本屋だ)
ひらめいた平蔵(へいぞう 40歳)が、明日の夕刻に茶寮〔季四〕に、〔音羽(おとわ)〕一帯の香具師(やし)の元締・重右衛門(じゅうえもん 58歳)と町駕籠〔箱根屋〕の亭主・権七(ごんしち 53歳)に寄ってもらおうと考えていたころ---。

権七は妾の一人で船宿〔黒舟〕枝店の女将・お(えん 35歳)とそれぞれに独酌しながら、互いに『(ごう)、(もっと剛(つよ))、』をめくくっていた。

目次---

玉棒の巧みな使い方
思わず「死ぬ」と口走らさせる法
互いに歓喜に達する交わり方
前戯のあれこれ
女性の快感の徴候の看察

権七は、ここでその丁(見開き2ページ)をひらき、『玉房秘決』によるとふられた本文を読みはじめた。

[おんながどのような快感の段階にい、こちらはどうすべきかを察するためのおんなの徴候]の、5つが刷られていた。

1.頬に朱がさしてきたら、こちらり玉棒を玉門の入口にあわせます。

2.乳頭が硬くなり、鼻の頭に汗がにじんできたたら、玉門の入口からゆっくりと亀頭だけ入れます。

3.喉を乾かして唾を嚥下したら、入れたところまでの亀頭を出し入れしたり、玉門をたたきます。

ちらりとおをうかがうと、向こうも潤んだ視線を向けてき、
「旦那。〔性力をもっと剛(つよ)くする漢方〕をみなよ」

いわれた権七が、おがひらいている紙面をのぞくと、

「射精したいときは、かならず、おんなのほうの快感が極jまっていることをたしかめること。
おんなが頂点に達すると同時に射精する。
おんながまだ達していなかったら、浅く引く。
玉棒の深い・浅いは赤ん坊が乳首をくわえているように、ときに浅く、ときに深く。
また、いちど抜いて口を吸い、歯で噛み、玉核を舌でもてあそんで快感を昂めてからふたたび挑むのもよい」

「そこじゃない。その先---」
顔に険(けん)がさしていた。
このごろ、権七の玉棒が以前のように硬直しないことが多くなった。
挿してくるときはそこそこなのだか、つづかない。
の中でよろけてしまうのだ。

Photo
(清長 お艶のイメージ)

経年がすすむとともに男はそうしたものだとは聴いていたが、筋肉の塊りのような権七がそうなるとはおもってもみなかった。

「そこに書いてある牛車腎気丸(ごしゃじんきがん)でも、多岐安長元簡 もとやす 31歳)若先生に相談をかけてみたら---」

権七も、おが満足しきっていないことはうすうす気づいていたが、男の沽券(こけん)にかかわると、わざと口にしないようにしてきた。

もう一軒の船宿〔黒舟〕根店をまかせているお(きん 41歳)は、あきらめているのか、不満はこぼしはしていない。

参照】2011年12月6日~[化粧(けわい)読みうり〕の別刷り ] () () (
権七とお艶の仲 2010年11月17日[〔黒舟〕の女将・お艶(えん

ちゅうすけ注】『医心方』ついては槇 佐知子さん訳の筑摩書房版を参考にさせていただきました。

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2011.12.24

別刷り『剛、もっと剛(つよ)く』(2)

「とりあえず、板元さんの分と長谷川さまの、20冊ずつ置いておきやす」
耳より〕の紋次(もんじ 42歳)へ、
長谷川さまは、最初の刷りだけで板木をこわせとおっしゃっておる。刷り師、紙屋の帳面をあらためるから、妙な気をおこしなさんな」
「わかってますって---」
権七(ごんしち 53歳)に釘をさされた紋次は、ちょっとあわてた。
権七平蔵(へいぞう 40歳)の代理人だからであった。
平蔵ににらまれたら、江戸の主だった香具師の元締にしめだされてしまう。


茶寮〔季四〕にとどけられた20冊を、女中たちにかくして亀久町の家へもちかえった奈々(なな 18歳)は、1冊を手にとり、なにげなくひらいた丁(2ページ)が[女性の快感の徴候の看察]で自分とおなじ齢ごろのおんなが裸で法悦にひたっている色刷りがあった。

こういう艶本が板行されていることは承知していたが手にするのははじめてであった。
読むともなく文字に目をすべらすと、

[おんなの十の悶(もだ)えのしぐさ]---と小見出しがつけてあり、

2_360
(栄里 イメージ)

1.相手の裸の男を、裸のおんなが両手で抱きしめようとするのは、硬直している陽棒を、おのれの玉門にあてがってほしいと望んでいる。

2.おんなが太腿(ふともも)をひらいてのばすのは、その根元の陰核や下の大陰唇をいじってほしいと望んでいる。

3.下腹をふくらましたら、陽棒を、いま、浅く挿入してほしいと望んでいる。

4.おんながお尻を動かすのは、気分が高まり、躰のすみずみまでいい気持ちになっている証拠。

5.おんなが下からあげた両脚で男の躰を抱くのは、もっと深く入れてほしいという合図。

6..あげて男の胴を抱いた両脚の足首を男の背中で交差させるのは、玉門の中がむず痒(かゆ)いほど快感に痺れていることを伝えるしぐさ。
(あ、これ、うち、意識せんとにやってる。そないせな、いられへんねん)

7.左右のどちらかをゆするのは、深く入った玉棒でそちら側をつついてほしいと望んでいる合図。

8.躰を反らせてくるのは、愉悦が昂まって辛抱できなくなっている。

9.躰から力が脱けて腕も脚も投げだしてぼやりしているのは、快感にひたりきっているから。
(あらら、絵のおんながそうなんやわ)

10.陰液がしたたっているのは、精がすでにあふれきっているから。

読みおわると、下腹の奥がむずむずしてじっとしていられなくなり、腰丈の閨衣(ねや)に着替え、冷や酒を小茶碗に注いだ。

そのとき戸がたたかれた。
平蔵の合図であった。
飛びつくように表戸をあけ、抱きついた。

膝の裏に腕がさしこまれ、抱きあげられた。
太刀の柄が脇腹にあたっているのも気にしないで首筋にまわした腕を力み、そのまま口を吸った。

平蔵がひらかれたままの『(ごう)、もっと剛(つよ)』の絵に目をとめ、
「すごいもの、読んでおるな。廻り貸し本屋が置いていったのか?」
「廻り貸し本屋はきてぇへん。〔箱根屋〕はんがとどけてくれはってん」
「ああ、できたのか」
(くら)はんも噛んではるの?」
っさんの筆だ」

っさんとは多紀安長元簡(もとやす 31歳)医師である。

奈保(なほ 22歳)はんとこの---」
奈々をおろし、
「そうだ。唐(から)の国の古い書物から和文になされた」
「唐の国のおんなも、百済のおんなも、おんなじなんや」

「あのことに、変わりがあるものか」
「せやけど、男の人、あのときも目ぇを凝らしておんなのこと、見てはるん? おんなは目ぇつむって肌と股の感じで昂ぶってるん」
「男は、おなごの昂ぶりを見て、はげみをもっと昂める」
「ほな、見て、もっと昂ぶり---}
奈々がただでさえ短い閨衣の裾をまくり、股をひらき、絹糸しか生えていない下腹をさらした。

「閨(ねや)でしっかり見とどけるから、いまは幕を引いとけ」
裾をおろしてやり、平蔵にひらめいたのは、
[廻り貸し本屋]という、自らの言葉であった。

[廻り貸し本屋]はいろんな絵草子を持参し、家々をまわっている。
しかも、後ろ盾は香具師の元締であることが多い。
あの者らに『(ごう)、もっと剛(つよ)』をもってまわらせ、ついでに強性薬や月のものを正常Iに矯(ただ)す生薬をとどけさせれば、その種のものを買うことをためらっている者も安心して頼むであろう。
(あす、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 58歳)どんと権七どんに、〔季四〕へ寄ってもらおう)

参照】2011年12月6日~[化粧(けわい)読みうり〕の別刷り ] () () (


ちゅうすけ注】『医心方』ついては槇 佐知子さん訳の筑摩書房版を参考にさせていただきました。

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2011.12.23

別刷り『剛、もっと剛(つよ)く』

「ほう。刷りあがりましたか---」
〔箱根屋〕の主人で、[化粧(けわい)読みうり]の板元でもある権七(ごんしち 53歳)が、編輯人でもあり板行の手配人でもある〔耳より〕の紋次(もんじ 42歳)から手わたされた別刷り『(ごう)、もっと剛(つよ)』を、照れぎみにめくった。

西駿州・東遠州板〔化粧(けわい)読みうり〕の板行元をまかされている嶋田宿の本陣〔中尾(置塩 おきしお)〕の若女将・お三津(みつ 25歳)が、3ヶ月ほど前に地元の披露目枠をあつかっている元締・顔役たちにいわれて持ちこんできた案であった
参照】2011年12月6日~[化粧(けわい)読みうり〕の別刷り ]() () (

嶋田宿の本陣は、これまで〔中尾(置塩)〕と書いてきたが、(置塩)が播州の名家で、〔中尾(置塩)〕方の主人・藤四郎がわざわざ(  )書きしていたのは、参勤交代で泊まる西国の大名衆にしらせるためとわかってから、こんごは〔置塩〕と銘記させていただく。

ともかく、お三津の案に、江戸の元締衆も賛成し、宇都宮・〔釜川(かまがわ)〕の藤兵衛(とうべい 48歳)から下野一帯の元締衆へも生薬屋のお披露目をとるようにとの伝言がとんだ。

別刷りの表題---『(ごう)、もっと剛(つよ)』を選んだのも府下の元締衆であった。
いくつになっても男たちがこころの底で希(のぞ)んでいるところをぐさっとえぐっている、と賛成札が万票に近かった。

同席していたお三津は頬を朱(あか)くしただけで黙していたが、座敷を貸していた小料理〔蓮の葉〕のお(れん)が40歳の大年増のくせをしてけろっと、
「おんなが求めているのも、それですから---」

_180_5手わたされた権七がちょっと照れたのは、表紙絵であった。
あきらかに交接中とわかる男女の頭部が大うつしに描かれていた。


_120_2「箱根屋〕さん。裏表紙をご覧になってくだせえ」
紋次が笑いながらいった。

「絵描きさんは---?」
長谷川伯好(はくこう)とおっしゃる、当年72歳の手練(てだ)れさんで---」
「場数をふんでおいでだ---」

表紙をめくって、権七はさらに照れた。
多岐の若先生も、おやんなさるねえ」

目次---

玉棒の巧みな使い方
思わず「死ぬ」と口走らさせる法
互いに歓喜に達する交わり方
前戯のあれこれ
女性の快感の徴候の看察
:そのとき、女性がしてほしがっているのは
そのときの女性のしぐさの意味
体位のいくつか
性力をもっと剛(つよ)くする漢方
玉棒が短小なとき
玉門がのびてしまっているとき


試みに『玉房指要』という古代の支那の書物から引かれた「玉棒の巧みな使い方」をひろい読みしてみた。

交接に、とくに変わった道があるわけではない。
自分も相手もこころをくつろがせ、なごみながら行うことがなにより大切である。
借金のことも、上役のことも、閨(ねや)にもちこんではならない。
女性も、相手の年齢や実入りへの不満は寝床では忘れ、専心、愉しもうと希(のぞ)むこと。

男は、女性の臍下丹田(せいかたんでん 下腹部)をもてあそび、女性の口を吸い、子宮を指で深く押すとか小きざみにゆすったりして、女性をその気を高めるようにみちびく。

もちろん、女性にはこちらの玉棒をにぎらせて膨張・硬直、陽気が充実してきつつあることを感じさせる。
それにつれて、女性の陰気も高まり、その徴候があらわれてくる。

酒気をおびでもしたよう熱く燃えている耳を軽く噛んでやろう。
乳房は掌にあまるほどにもりあがり、乳首が硬く起っている。
その乳首を舌でまさぐったり軽く吸ったり、もてあそぽう。
首やうなじが小さく噯動しているはずだから、ここにも口づけしたり指でなぜたりする。
やがて、両脚をふるわせ、みだらな身ぶりで腰をすりよせてくる。

ここにいたったら、陽棒の先端を玉門にごく浅く挿し入れてとどまる。
その状態でじっと相手の気を陽棒の先端から吸収するのである。

唇は吸いあっているな。
おんなは、五臓の精液をかならず舌の先端から湧きださせている。
この玉漿(ぎょくしょう 唾液)をほおっておく手はない。
こちらの肌に精気をもたらす玉漿だから、たっぶりいただこう。

道を遠いところに求めるな。近くにある。
しかし、俗人というのは困ったもので、そのことに気がまわりもしない。


一つの章だけを拾い読みした権七が、鼻腔をひらき、うなじをかき、うなった。
紋次が笑いながら、
「〔箱根屋〕さんほどの達人がうなりなさるんだから、これは売れますぜ」

「たしかに売れるだろうが、長谷川さまは、元締一軒あたり500部かぎりとおっしゃっていなさる」

 
ちゅうすけ注】『医心方』ついては槇 佐知子さん訳の筑摩書房版を参考にさせていただきました。

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2011.12.22

道中師・〔磯部〕の駒吉

建部大和(守広殷(ひろかず 58歳 1000石)の一行が品川の方へ発(た)つと、後を追うように〔磯部(いそべ)〕の駒吉(こまきち 40男)一味も去った。

それまで賑やいでいた大木戸あたりから人が四散し、ぽっかり穴があいたように静寂になった。

月魄(つきしろ)を楯にして身をひそめていた平蔵(へいぞう 40歳)は、松造(よしぞう 34歳)ともに店前の縁台に腰をおろし、〔磯部〕の駒吉の生まれや盗法にのあれこれを仕入れはじめた。

生まれは相模国高座郡(こうざこおり)磯部村(現・神奈川県相模原市磯部)、20歳になる前から道中師として腕をふるっていた。

旅籠に宿泊し、湯に浸(つか)っている客に相棒が話しかけて引きとめてるあいだに忍びこんで荷物から金めのものを盗み、外で待っている別の相棒へ渡したり、道中で親切めかして相客になり、酒をおごって眠らせておいて仕事をするとか、あらゆる悪知恵をつかっていたらしい。

「東海道はわが家の庭同様にこころえております、いえ、それほどに通暁しているってことでございます」
「すると、今日、仕事をするのは保土ヶ谷宿だな?」

平蔵は、駒吉の身になって手順を考えてみはじめた。

建部禁裏附が最初の泊する保土ヶ谷宿の本陣・苅部清兵衛の様子をおもいだしていた。

最も近い東海道の旅といえば、天明2年(1782)の嶋田宿の往還であったが、のぼりは事情があって藤沢宿泊まりであった。

参照】2011年4月21日~[古川薬師堂 ] () (
2011年月23日[〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛] (

帰路は、嶋田宿の本陣の若女将・お三津がいっしょだったために、保土ヶ谷宿では離れがある旅籠をお三津が選んでいた。

参照】2011年5月21日[[化粧(けわい)読みうり]西駿河板

その前は、記憶がさだかではないが、安永元年(1772)、京都西町奉行として赴任する亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)に先行、京上りをしたときだが、脇本陣の〔藤屋〕四郎兵衛芳に泊まった。
出仕前の身分の銕三郎(てつさぶろう 27歳=当時)には、保土ヶ谷宿に一軒しかない本陣・〔苅部〕は敷居が高すぎた。

26年前、老中を退(ひ)いていた駿州・田中藩主の本多伯耆守正珍(まさよし 50歳=当時 4j万石)の使いで東海道を上ったときにはそれぞれの宿で本陣に泊まるように父が事前に送金してくれていた。
三島宿で本陣・〔樋口〕の隠し子で若後家になったばかりのお芙沙(ふさ 25歳)と縁ができた。

いや、その前、18歳のときに与詩(よし 6歳)を迎えに駿府(現・静岡市)まで往復したが、私用がらみの旅であったから脇本陣づたいのような旅であったな。
それに、三島宿から藤枝までは阿記(あき 22歳)づれであったし---。
(われの旅には、どういうわけか、おんながからむから奇妙だ。女躰の記憶のほうが鮮明でもある)

顔は見覚えはあるが、20年も前に見かけただけなので声をかける間もなく、急ぎ足でとおりすきた先手・弓の7組の同心3名につづき、荷車を引いた小者たちや、修験者や職人ふうに変装したとおもわれる一群も西へいそいでいた。
歩き方が、ふつうではなかった。
荷車の長持には、刺股(さすまた)などの捕り物武具が隠されているのであろう。

ほどなく、次席与力・高遠(たかとう)弥之助(やのすけ 43歳)が姿をあらわし、月魄に目をとめ、すぐに縁台の平蔵に気づき、寄ってきた。

「なにか、おこころにとまりましたか?」
さすがに勘ばたらきがいい。

「道中師の一味は、本陣・〔苅部〕から1丁とは離れていず、人目につきやすいところへ放火して騒ぎをおこすでしょう。
事前にひそかに問屋場の役人たちに通じておき、火消し組の出の手配をなさっておおきになるとよろしい。〔苅部〕には、あらかじめ引き込みがはいっていましょう。おんなかもしれません。ここ2ヶ月に新しく雇われた者を洗いだし、今夜の動きに注意なされい」
「2ヶ月におかぎりになった理由(わけ)は?」
建部さまの発令がそのころだからです」

「そのあたりから狙いを---?」
「公卿衆への高価な贈り物と路銀が狙いと見ました。路銀は帳場に預けず、同行している内与力に持たせて脇本陣に宿泊させる手もあります」


平蔵の読みどおりに放火があり、〔磯部〕一味はほとんど逮捕された。

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2011.12.21

建部大和守広殷を見送る

幕府の公式記録である『徳川実紀』の天明5年(1785)5月15日の項に、こう、ある。

禁裏附 建部(たけべ)甚右衛門(旬日前に大和守を授爵)広殷(ひろかず 58歳 1000石)赴任の暇賜る。

先手・鉄砲(つつ)の12番手の組頭からの栄転で、平蔵(へいぞう 40歳)が祝辞を贈ったこともすでに報じた。

参照】2011年11月17日~[建部甚右衛門、禁裏付に ] () () (

大和守広殷にはなにかと目をかけてもらっていたので、出立の18日の六ッ半(午前7時)に高輪の大木戸まで、愛馬・月魄(つきしろ)にまたがって見送りに行った。

送迎用の茶屋は麗々しく、[御禁裏附 建部様御席]と大書した札を飾っていた。
遠国奉行とか禁裏まわりの役職者は、できるだけ仰々しい行列を仕立てて幕府の威信を町人や宿場の者たちに示すようにと、別段の手当てが支給されていた。

六ッ半にはすでに高輪の大木戸で見送り人の応接をしていたということは、六ッ(午前6時)ちょっとまえには四谷南伊賀町の本邸を発(た)っていたということだ。
もっとも、旧暦の5月といえば、東の空は七ッ半(午前5時)にはもう明かるくなりかけておるが。

平蔵を認めた大和守は、わざの見送りへの礼もそこそこに、
「下(しも)の役宅のある荒神口の〔荒神(こうじん)〕を通り名にしておる盗賊でござったな。老耄の頭でも決して忘れてはおりませぬぞ」
頼んであったことを復唱して呵呵と笑った。
その呵声があまりに大きかったため、まわりにいた人々がなにごとかと、2人を注視したほどであった。

「はい。〔荒神〕の助太郎(すけたろう 67歳)と妾の賀茂(かも 48歳)でございます。おついでの折りによろしくお願いいたします」
「こころえ申した」

この盗賊とのかかわりは、平蔵銕三郎(てつさぶろう)を名乗っていた14歳のときからはじまった。
その一部を掲げたので、一瞥いただきたい。

参照】〔荒神(こうじん)〕の助太郎 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) () (10
2009年12月28日[与詩(よし)を迎5に] (
2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () () (10) (11) (12
2010年2月24日~[日光への旅] () 

いちど、落ち着いてかかわりあったすべてにリンクをはらなければなるまいが、きょうのところは別件が控えているのでこれくらいにして---。

松造(よしぞう 35歳)が、海のほうを向いたまま、
「殿---」
平蔵が振り向いても松造がふり返えらなかったので並ぶと、
「隣りの茶屋の縁台で3人ほどでお茶をのんでいる店者ふうに装った40男たちがおります。あれは〔磯部(いそべ)の駒吉と申す道中師の組仲間です。ほかにも数人があたりにひそんでいるはず。建部の殿の一行になにかをたくらんでいるにちがいありません」
ささやいた。

松造は10代の後半は腕利きの掏摸(すり)であったから、駒吉の顔もおぼえていたのであろう。
「わかった。建部どののお耳にいれておこう」

平蔵が、何気ないふりで大和守広殷に耳打ちした。
松造は月魄の陰へ身を移した。

建部広殷も眉毛一筋も動かすこともなく聞き終えると、〔磯部〕の駒吉たちのほうには視線もくれず、
長谷川うじ。造作をおかけしてすまぬが、このこと、火盗改メの組頭・横田どのへお伝えいただけるとありがたい」

平蔵は、混みあっている人群れから、弓の7番手の組頭・横田源太郎松房(としふさ 42歳 1000石)を探した。

横田松房は去年の4月に境奉行に転じた(にえ) 越前守正寿(まさとし 44歳=天明4年 400石)の後任として先手・弓の2番手の組頭と火盗改メ・本役職を引きついだが、すぐに弓の7番手へ転じた事情はすでに報じている。

参照】2011年9月1日[火盗改メ・贄(にえ) 壱岐守正寿(まさとし)の栄転
2011910~[老中・田沼主殿頭意次の憂慮] () () () (

横田組頭の脇に、次席与力・高遠(たかとう)弥之助(やのすけ 43歳)がひかえていた、
先手・弓の7番手は、本家の大叔父・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 76歳 現・槍奉行)が長く組頭をしてい、そのころ次席与力であった弥之助の父・弥太夫とは懇意であった。
そんな縁で見習与力として手弁当勤めだった弥之助ともときどき話しあっていた。

平蔵が告げると、高遠与力はうなずき、そばの同心を耳うちして去らせてから、手配の概要を組頭へ報告した。

さすがであった。
おそらく、建部禁裏附の一行が川崎宿で昼食を摂るころには、火盗改メがその前後に警戒の目をはりめぐらせており、〔磯部〕の駒吉たちはく袋のねずみ同然だったにちがいない。


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2011.12.20

お通の祝言(3)

祝言は、当時の江戸庶民としては型やぶりで、今戸の〔銀波楼〕で六ッ(午後6時)から行われた。

花婿・弘二(こうじ 22歳)の母親・お(のう 44歳)は、嫁取りなのだから近所への手前、石原の家ですべきだと自分のときのことを引きあいにだしたが、幕臣・徒の組頭の長谷川さまに申しわけないと弘二が我意を通した。

近隣へは祝言の翌日、花嫁とともに引き出物を配ってまわることで納得した。
は条件として、父親代わりに〔美濃屋〕の隠居・墨卯(ぼくぼう 52歳)の出席を認めさせた。

墨卯はなんと、町内の古老らしく、紋付羽織であらわれた。

花嫁・お通(つう 18歳)の側の顔ぶれは、お(くめ 44歳)、その夫・松造(よしぞう 34歳)、弟で浅草·諏訪町の墨·筆·硯問屋〔平沢〕の住みこみの手代・善太(ぜんた 16歳)の家族のほかは、肩衣(かたぎぬ)の平蔵(へいぞう 40歳)と奈々(なな 18歳)、(箱根屋)の権七(ごんとしち 53歳)とお須賀(すが 48歳)夫婦、〔耳より〕の紋次(もんじ)、花嫁の化粧をうけもったお(かつ 44歳)、御厩の渡し舟の舟頭2人。

花婿側は母親と墨卯のほかは、木灰の仕入れ先の神田花房町の薪炭問屋〔稲城屋〕と湯島坂下の刷毛問屋〔江戸屋〕の番頭の2人だけであった。

_360
(〔江戸屋〕刷毛問屋 花婿側の仕入れ先 『江戸買物独案内』)


それと、媒酌人の小浪(こなみ 46歳)・今助(いますけ 38歳)。

小浪が型どおりに2人のなれそめを京言葉で披露し、これからのつきあいをお願いし、あとは各自が料理に専念した。

平蔵の前にあいさつにきたおに、
「ややができるまで店にでるとして、早く善太の嫁をみつけて後をつがせないとな」
「まだ16歳でございますからねえ」
「16は立派な大人だ。お店者(たなもの)は早いというから、もうおんなをしっていよう」

五ッ半(午後8時)前、小浪弘二たちをうながし、今助墨卯に念を入れた。
「今夜はおさんをそちらさんで泊めてやっておくんなさい」

迎えの屋根つき黒舟で石原橋へ舟が着くと、小浪墨卯とおをうながして先へやってから、舟頭と弘二にそのまま待つようにいい、提灯に灯を移し、おと2人で陸(おか)へ消えた。

石原の家で、桜色の薄い閨衣(ねや)着替えるところまで見とどけ、敷かれていた布団の枕元のはさみ紙の分量をたしかめ、おの尻をぼんとうち、
「うまいこと、やりや。あんじょう、いくって---」

おそらく、鋭い棘(とげ)がささったようにみじめだった自分の処女喪失のときのことを想いだし、おの満ち足りた初夜を祈念したのであろう。

参照】20081210[「久栄の躰にお徴(しるし)を---」] (

独り合点して舟へ戻り、弘二へうなずき、
「花嫁はん、待ってはるよって、いそぎぃ---」

_360
(清長「睦み」 イメー゜ジ)

弘二は、2日前の医師・多岐安長元簡(もとやす 31歳)による、初夜の男の所作を反芻していたろう。
あの夜は隠していたが、おの裸をを想像すると、股間のものが立ちっぱなしであった。
家へ帰り、先端があたっていた下帯が湿っていることに気づいて顔を赤らめたことであった。


平蔵権七夫婦とともに別の黒舟で、見送りにきた松造とおに、
「今夜は、悦び声を盛大にあげて愉しめるな。ひと味もふた味も違ってこよう」
「殿さま!」
奈々が腕をつねってたしなめ、権七夫婦が笑顔でそれを見守っていた。

奈々は、おより大人ぶった気分にひたっていたが、家へ着いたら花嫁のようにふるえてみようとこころづもりしていた。
おんなは、幾つもの顔をもっている。

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2011.12.19

お通の祝言(2)

医師・多岐安長元簡(もとやす 31歳)に平蔵(へいぞう 40歳)が頼んだことは、もう一つあった。

渋塗り職・弘二(こうじ 22歳)の母親の病因の診立てであった。
弘二が半日仕事を休み、お(のう 44歳)を無理やり、石島町から外神田,佐久間町の躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)へ連れだした。

は頭痛持ちであった。
亭主の弘造(こうぞう 享年43歳)が3年前に逝ってから、頭痛がはげしくなったといって昼間っから,寝こむ日が多くなった。

元簡の診断では、躰には異常が見つからなかった。
中年の後家にありがちな性的欲求が満たされない精神的なものと判断せざるをえなかった。

っさん。人助けとおもって相手の男を見つけてやってよ」
平蔵が気軽にいいつけた。

44歳といえばお(つう 18歳)の母親・お(くめ)も同齢であるが、こちらには松造(よしぞう 34歳)という生きのいい齢下の亭主がついていて、そっちの不満はない。
不満があるとすれば、おが同居しているので、閨声(ねやごえ)があげられないことぐらいだ。

弘二の祝言の媒酌役の小浪(こなみ)も、職業がら若づくりをしている46歳だが、8歳下の今助(いますけ38歳)にそっちのほうは不自由していないから肌にも張りがある。

ずっと独身だったお(かつ)も44歳だが、30すぎまではお(りょう)という立役がい、そのあとは自分がその役につき、18も齢下のお乃舞(のぶ)とこのあいだまで睦んでいたから水っ気を失っていない。

ほかならぬ平蔵から橋わたし役を押しつけられた元簡は、おと同じ本所・石原町の菓子舗〔美濃屋]の隠居・墨卯(ぼくぼう 52歳)に目をつけた。
墨卯は俳号で、隅(墨)田川の卯(東)の住人としゃれたつもり。
〔石原おこし〕と名づけたおこしの本舗を軌道にのせていたが、半年前に連れあいを亡くしたのを機に店を息子にゆずり、盆栽いじりと句吟の風流ごとに打ちんだものの、このところ目がかすむようになったと、町医から紹介されてきた。

_360
(〔美濃屋〕の石原おこし 『江戸買物独案内』1824)

〔美濃屋〕墨卯とおが同時刻に診察にくるように計らい、
「おや、濃の字つながりで石原町ご近所同士とは奇遇ですな。濃(こ)い仲(恋仲)というご縁かも。〔美濃屋〕さん、お帰りに池の端(いけのはた)あたりでお茶にお誘いになったら---?」
暗示をかけた。

魚ごころに水ごころ---その日のうちに池の端の出合茶屋でできあった。

 させたいと  したいは直(じき)に できるなり

まさか、墨卯の句ではあるまい。

夕刻になると隠居部屋へ通い、かすみ目に効くといわれた人参に竹節(ちくせつ)人参の小片をまぜて擂鉢(すりばち)ですった汁をせっせと呑ませては泊まりこむものだから、おの頭痛も霧散してしまった。

参照】2010年2月18日~[竹節(ちくせつ)人参] () () () (

弘二の祝言の翌日には、新夫婦をおっぽって箱根の湯へ2人で湯治にいく約束もできていた。


そうだ、祝言の2日前、お(つう 18歳)と弘二への、多岐元簡先生の名講義のつづきがあった。

弘二の玉棒をつまみ、陰唇をみずからひらいてみちびき入れる---おの顔が赤林檎のように火照っていたところでお茶がはいった。

「玉門に入っても、弘二どの、先へすすんではならぬ。しばらく、入り口で待て。おも腰をあげて求めてはならぬ」

「なぜですか?」
「おが乙女(おとめ)だからだ。乙女から一人前のおんなになる関所があってな」
奈々(なな 18歳)さんに聴きました。ちくっと一瞬だそうです」

「覚悟していれば、耐えられる痛みだ。弘二どのはおどのに覚悟を訊け」
「なんと---?」
「しあわせにするから、通っていいか?---と」

「通って---」
が悲鳴のような声をあげた。

ちゅうすけ注】元簡先生がさらに、2010年12月17日[医学館・多紀(たき)家] () に引いた「第五章 臨御(---房事におよぶ前---(前戯))]読んできかせたことはいうまでもない。ご参考までに。上のオレンジ色の数字をクリック。

参照】多岐安長元簡と長谷川平蔵の関係。
2010年12月12日~[医学館・多紀(たき)家] () () () () () (
2010年12月18日~[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] () () () () () () () (
2010年12月31日~[〔三ッ目屋〕甚兵衛] () () (
2011年7月27日[天明3年(1783)の暗雲] (
2011年9月4~日[平蔵、西丸徒頭に昇進] () (
2011年10月12日[日野宿への旅] (

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2011.12.18

お通の祝言

祝言を2日後にひかえたお(つう 18歳)と渋塗り職の弘二(こうじ 22歳)が、外神田,佐久間町にある躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)の教頭・多岐安長元簡(もとやす 31歳)の診察部屋に控えていた。
もちろん、3者とも唐様(からよう)に腰掛けであった。

参照】2011年11月13日~[お通の恋] () () () (

2人の前には『房内編』の写本と医家向けの人体絵図が置かれていた。

写本は『房内編』の「和志(こころの和(やわ)らzh@)」の中の初夜のこころえを抜粋したものであった。

手間しごとで立派にかせいでいる職人で、22歳にもなっておんなを経験していないなんて信じられないが、弘二は事実、そうなのだ。
そりゃあ、世間の表向きは好青年という評言かもしれないが、嫁になるむすめにすれば不安でもあるし、ものたりなくもある。

そこで、おの後見人を任じている平蔵(へいぞう 40歳)が案じ、ひそかに多岐元簡に、
「安(や)っさん。例の『房内編』で、初手のところを伝授してやってはくれまいか?」

弘二が男としてさなぎのままなのは、度胸や性欲がないのではなく、父親から仕込まれた渋塗り仕事は独りでやるものなので、遊びをさそってくれる仲間がいなかっただけのことであった。
病気がちの母親のために金もためていた。

だから、それを商売にしているおんなから手ほできを受けてこなかった。

純無垢(じゅんむく)の若者といえば聞こえはいいはずが、仕事が渋塗りという地味な職で、黒渋塗りが多いから着ているものも手足・顔も汚れやすい。
だから、仕事先で若者食いの後家連にも見逃されてきたというわけ。


さて、っさんが2人に理解できる江戸の庶民ことばで講じた道玄子の説を、さらに現代文に置き換えると、

初床(はつどこ)のときは、双方それなりの薄着か裸で、胡坐(あぐら)か横たわっている男性の左に女性が座るかあおむけに寝る。
なぜなら、男性の利き腕(右腕)が動きやすくするため(左利きはこの逆)。

胡坐なら、女性をふところに抱き入れ、腰をしっかりかかえて、つよく感受部位(乳房や乳頭、頭、首筋、耳たぶ、背中、太腿の内側、脚の指などをやさしく刺激する。

こうしているちに互いのこころが一つなになり、男女は自然に躰をくっつけあい、口を吸いあい愉しむ。
男性は相手の唇を口にふくみ、女性は男性の上唇を含んで吸いあい、互いに玉漿(ぎょくしょう 唾液)をむさぼりあい、軽く舌を噛みあったりまさぐりあったりしてふざけたり。
唇をそっと噛むのもおすすめ。
女性の頭をだいたり、髪を指て梳いてじらすのもいい。

唇と舌は、相手の別のところ---乳首とか陰核や陰唇を愛撫するためにも活躍させる。

女性が思慮を忘れ、羞恥心がきえてきたら、男性は女性の左手で男性の玉茎をつかませ、男性も女性の玉門を指で吹笛の穴を交互にふさぐような感じで愛撫する。

っさんが講義中断し、2人の様子をうかがうと、おは顔に血の気をみなぎらせ、腰の芯がもぞもぞするらしく何度めかの坐わりなおしをし、膝でにぎりしめていた右のこぶしをひらき、弘二の左の甲をつかんだ。

唾をのみこみながら要点を書きとめていた弘二も、すぐに掌をひらいておの手に応えた。

「ここまでが前段であってな。これからが本段である。前段のことを前戯と呼んでおるが、若いと気負って前戯がおろそかになりがちであるからこころするように、な」

「先生。前戯にはどれほどの刻(とき)をあてれば---?」
「そうだな。初閨(はつねや)では半刻(1時間)といっても辛抱できまい。床(とこ)に横になってから小半刻(30分)も費やせば、花嫁のほうも受け入れの用意ができていよう。陰唇---俗にわれ目といっておる肉戸を開き、指先で愛液---世間で淫水とかおしめりとかいっているものがあふれていることをたしかめ、よしとなったらおどのが弘二どのの硬直しているはずの玉棒をつかみ、おのれの玉門へみちびく。そのとき、陰唇をひらいておくことを忘れるでない」

「それは、おれがひらくので---?」
「いや。おどのの役目だ」

がまた坐lりなおした。
顔は一層真っ赤にほてっている。

「玉門に入っても、弘二どの、先へすすんではならぬ。しばらく、入り口で待て。おも腰をあげて求めてはならぬ」

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(北斎『浪千鳥 イメージ 『芸術新潮』 2001年1月号
「北斎のラスト・エロチカ」より)


参照】おの、これまでの主たる登場シーンを降順に。

2011年11月13日~[お通の恋] () () () (
2011年4月26日[嶋田宿への道中] (
2011年3月25日[長谷川銕五郎の誕生] (
2010年11月11日[茶寮〔季四〕の店開き] (
2010年7月13日~[〔(世古(せこ)本陣)〕のお賀茂] () () (
 2010年6月27日[〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂] () () (
2010年6月26日[〔於玉ヶ池(たまがいけ)〕の伝六]2010年6月25日[遥かなり、貴志の村] (


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2011.12.17

ちゅうすけのひとり言(85)

あしかけ4年ごし、長谷川家にかかわる一人の女性の、想像がおよぶかぎりの人生を完結させた。
といっても、28歳までである。
それより先は、どんな文献にも記録されているとはおもえないから、空想の手がかりすらない。

師走の土曜日、あなたの盟友でもある長谷川平蔵(こと鬼平)の史実の次妹・与詩(よし)のために小1時間ほどを割いていただけないであろうか。
6歳から28歳までの与詩の人生である。

まず、与詩の素性を『寛政譜』から。

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(『寛政譜』 平蔵宣以の妹たち)

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(上図の部分拡大)

18歳の銕三郎(てつさぶろう)が2人目の養女を貰いうけに駿府の町奉行所へ出向く。
もっとも、史実では、与詩は向柳原の朝倉邸に残留していたやもしれないが、それだと朝倉景増と父・宣雄との接点がみつからない。


それぞれの項目の色変わりの番号(あるいは文字)を順次、クリックして読みつづけていただきご意見・コメントをいただけるとありがたい。

2007年12月27日~[与詩を迎えに] () () () () () () () () () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25) (26) (27) (28) (29) (30) (31) (32) (33) (34) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41) (番外) 


寛政譜』で試算したけっか、与詩は16歳で嫁入りし、すぐに離婚したことになるのだが---。

2010年1月5日[与詩の離婚] () (


2011年3月5日~[与市への旅] () () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 


養女・多可の父親と、朝倉景増の内室は松平大学頭三木姓の家臣であった。
三木の出自をめぐって、播州・英賀城の城主の去就をさぐった。

2011年11月27日~[ちゅうすけのひとり言] (82) (83) (84


母の不倫を弾劾した藤太郎の初穂をつんで性の虜になる与詩

2011年,12月10日~[{備前屋〕の後継ぎ・藤太郎] () () (3) () () () (7) 

与板へ移住して藤太郎との接触をつづけることになった与詩は、長谷川家の墓にはいらなかった。

2011年12月17日~[長谷川家の養女・与詩の行く方]

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2011.12.16

長谷川家の養女・与詩の行く方

与板の大店〔備前屋〕の後取り・藤太郎(とうたろう 17歳)は、実家へ帰っていった。

三ッ目通りの長谷川邸へ戻った与詩(よし 28歳)は従前どおり、平蔵(へいぞう 40歳)の生母・(たえ 62歳)の世話をしたのだが、3日目に悲鳴があがった。
悲鳴の主は老母・であった。

与詩の寝言がひどく、しかも失禁の癖が再発したと訴えた。
お寝しょの癖は、長谷川家へきた6歳のときに直っていたのだ。

参照】2008年1月5日[与詩(よし)を迎えに] (16

与詩をこの前の書見の間へ呼んで問い質(ただ)すと、藤太郎との閨事(ねやごと)の夢をみ、頂上へぼりつめると失禁しているのだと。

藤太郎との交合で、性の深奥への扉がひらきっぱなしになってしまい、もう、独り寝には耐えられないから、男を見つけてほいしとまでいった。

「初穂刈りだったはずだが、それほどであったとは---」
「はっきり申します。三宅の爺ィさんの3倍の持ち主です」
顔を赤らめるどころか、平蔵を瞶(みつ)めていいはなった。

武家のおんなとしての抑制が、藤太郎との房事であっけなく霧消 おんなの生来の本能に帰ったのであろう。

三宅の爺ィさんのをそこいらのどぶ川としますと、あの人のは大川です。あの人の国の信濃川です」

「そうか。3倍の持ち主か。それほどの男でないと満足できなくなってしまったのだな。おことを藤太郎にさしむけたのは浅慮であった」

大川端の旅亭[おおはま]の湯桶で互いに握りあって男の約定を交わしたときには、さほどのものとはおもわなかったが、こればかりは膨張力によるから、ふつうの状態ではつかめない。

参照】2011年12月9日~[〔備前屋〕の跡継ぎ・藤太郎] () () () () () (

ことに及んだおんなしかたしかめようのない秘事の一つである。

「しかしな、与詩。代わりの男をおことにあてがうとしても、いちいち、貴殿のなにのその時は何寸であろうか? などと訊くわけにはまいらぬ。合衾したあとで、貴殿のは与詩が求めておる半分ほどでござったそうだから、この話はなかったことに---といって、天下の旗本の長谷川平蔵が頭を下げるわけにはいかぬ」
「はい。わかっておりますが、このままでは、寝言も失禁もやみjせん」

「そうだな。道は一つしかない。与詩が与板へ住みこみ、藤太郎のわたりを待つことだ」
「行かしていただけるのですか?」
「『備前屋』がどういうかはわからぬが、藩主の井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 39歳 西丸・若年寄)さまはなじみがあるから、お許しはいただけよう。『備前屋』の女将・佐千(さち 38歳)どのになんとか頼んでみる」

この晩から、与詩のお寝しょの癖はとまったが、寝言はあいかわらずで、
「そこ、そこッ---」
などと、老母・を赤面させ---というか亡夫・宣雄との睦みをおもいだして寝苦しくさせていた。

与板藩庁からの永住の許しがあり、佐千からも男友だちへの息子のいらだちも消えた感謝と与詩の暮らし向きことは引きうけたといってき、与詩はいさんで旅立った。
もちろん、下僕が与板までついた。

ちゅうすけ後記】与詩については、不思議がある。
三宅家を不縁になり実家ともいえる長谷川家に出戻ったことは『寛政譜』に記されている。
ところが、香華寺・戒行寺の霊位簿に歿年も戒名もない。
少なくとも、江戸の長谷川家からは葬式がでていない、ということで、与板死亡説もゆえなしとしない。

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(『寛政譜』 平蔵宣以の妹たち)

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(上図の部分拡大)


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2011.12.15

{備前屋〕の後継ぎ・藤太郎(6)

翌日から、連れだっての江戸見物がはじまった。
---といっても、真夜中まで飽きもせずに閨事(ねやごと)にふけっているので、起きだすのは近隣の農家からの手伝い婆やがやってくる五ッ(午前8時)をまわってからだから、朝餉をとってから髪結いを呼び、支度がととのうの四ッ半(午前11時)をすぎた。

藤太郎(とうたろう 17歳)は、〔備前屋〕の津軽まわりの廻船で江戸へやってきていた。
しぱらく江戸に滞在し、商いと世事を見聞してから陸路を帰ることは、船長(ふなおさ)に[おおはま〕を通して伝えてあるし、飛脚で与板にも報じたから、あとは与詩(よし 28歳)の女躰探求にはげむだけであった。

与詩与詩で、三宅の爺さんからはえられなかった性の奥儀を、若くて剛直・長大の持ち主と悦所を究(きわ)めることに貪欲であった。
事実、夜ごとに---いや、手伝い婆さんに駄賃をもたせ、隅田川の向こうの浅草あたりまで買い物へだし、昼間っからでもだが---28歳にしてまったく新しい性感の掘りおこしがつづいた。


きょうの散策は、秋葉大権現社と千代世稲荷へ参詣し、隣りの庵崎(いおざき)で鯉料理〔武蔵屋〕で昼餉(ひるげ)をとり、飛木稲荷に賽銭を献じ、三囲(みめぐり)稲荷の先の竹屋の渡しの脇の船宿で舟をあつらえて大川を遡行して寺島村の寓へ戻ってくるという順路であった。
町方の女房風のこしらおも板についてきた。


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秋葉大権現・千代世稲荷 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


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庵崎の鯉料理屋群 同上)


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庵崎の鯉料理屋〔武蔵屋〕 『江戸買物独案内』)


与板の大店の長子だけあり、金づかいにはこだわらなかった。
それに、寺島村の寓居への支払いは必要なかった。

江戸のどこを訪れても藤太郎が吐く言葉は、山が遠いととう感慨であった。
与板は、山が家々へのしかかるように迫っていた。
関東の平べったさは、藤太郎には信じられないことであった。

きょうも庵崎の料亭〔武蔵屋〕で鯉の洗いを味わいながら、
与詩さん。一度、与板へ来ませんか? そうだ、中山道から奥州街道をゆったりといっしょに泊まりをかさねながら歩けたら、すばらしい道中になりそうだ」

「いまでも腰がだるいのに、そんなにつづけたら、歩くのが退儀になるでしょう」
「疲れたら宿場々々の継ぎ馬に乗ればいい。ぜひ、母にも会ってほしい」

男友だちをつくった母・佐千(さち 38歳)の性の求めのことは、すでに理解が及んでいた。
もっとも、男を許すこととは別の論理であった。

「お母上になんといってお引きあわせいただくのですか? 初めての放射をおうけしたおんなとでも? お、ほほほ。お母上が、それこそ、腰をお抜かしになりましょう」
茶目っ気で応えたが、内心はともにしている夜を永びかせたい一心でもあった。

藤太郎が与板に去ったあと、孤閨を守りきる自信はとうに失せていた。
自分も佐千のように男友だちをつくるであろう。
そのことは、兄に伝えて承諾をえるしかない。
家格にかかわるというのであれば、家を捨てることになろう。

おんなとして性の法悦に開眼することは、武家の寡婦としては、もしかすると不幸を背負うことになるのかもしれない。
いや、武家の寡婦とかぎることはない、町方のおんなであっても煩悶の責め苦はおなじであろう。
どうして世間はそのことがわかってくれないのか?
なぜ、鞭打つのであろう?

藤太郎のような青年を引きあわせた兄・平蔵を恨めしくもおもった。

「あと、2夜ですね」
湯殿の腰置きで太腿にまたがっての交合が、もっとも与詩を荒らぶらせ、乱れた。
奥の奥への刺激で失神、気がもどったときには閨に寝かされていた。

最後の夜には、藤太郎の肩に葉型がのこされた。
与詩の乳首も色が変わっていた。

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2011.12.14

〔備前屋〕の後継ぎ・藤太郎(5)

長谷川さまは、冷酒---それも、雪片のざらめを添えた、とりわけ冷たくした酒がお好きでした」

参照】2011年3月11日[与板への旅] (

「燗はいかほど---?」
橋場の料亭〔植半〕から取りよせておいた料理を並べながらの与詩(よし 28歳)の問いかけに、藤太郎(とうたろう 17歳)が誇らしげに応えた。

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(橋場の木母寺脇の料亭〔植半〕) 『江戸買物独案内』

「雪片のざらめを---お母上の発案だったんですか?」
外での平蔵(へいぞう 40歳)の挙措をしることよりも、雪国・与板にある〔備前屋〕という大店のあれこれをおもいうかべたかった。

たった一度、それも湯殿の腰置きに座っていた藤太郎の太腿にまたがった交合のあと、藤太郎とそのまわりのことをもっとしりたいとおもうようになってきたのは、おんなごころかもしれない。

湯殿でのことは、藤太郎が閨(ねや)まで待ちきれなかったからであった。

与詩の躰も熱く求めていたが、初体験はきちんと閨(ねや)でとのかんがえと、いえ、おんなが処女(おとめ)の徴(しる)しを捧げるのとは異なり、藤太郎のばあいは初めておんなに突入した思い出であろうし、それはこの10日間近くの愛の行為がひとかたまりとなって覚えられようから、ここでの初っぱなの接合にそれほど意味はあるまい---自分に都合のいいように割りきった。
躰がそれほどに求めていたのである。

太腿にまたがり、緩急をつけて腰を浮沈させる交わり方は、与詩も初めてであった。
嫁ぐときの秘画の一つにあったが、三宅の爺ィさんの小柄な体格では試すことはためらわれた。

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(北斎『万福和合神』 イメージ)


それを試みる機会がきたのだから、与詩としても期待十分でのぞんだ。

相手のものが長大だったことも幸いしたが、腰を緩急をつけて上下させている与詩のほうが先に達しそうになりあわててしがみついた。
放射の瞬間、与詩の名を連呼してくれたことも、悦びを倍加した。


冷酒を酌みかわした。
藤太郎は酒造家の世継ぎらしく強くなっていた。

参照】2011年3月11日[与板への旅] (14

「母はもっと強く、長谷川さまのお相手がつとまりました」
与詩は、兄と〔備前屋〕の女将との閨事(ねやごと)を連想したが、すく゛に打ち消した。
そのことをしっていたら、藤太郎はこんどの母の睦みごとにいきりたつより、平蔵に怒りをぶつけたはずだ。

平蔵のことは、
長谷川さまはこうなさった、長谷川さまはああおっしゃった」
尊敬の科白をこぼすはずがない。

藤太郎さま。お酒のせいではなく、さきほどの湯殿でのことで、腰がふらふら、力が入りません」
酌をしながらいったが、青年は微笑し、与詩の腰丈の紅花染めの閨衣(ねやい)に見とれていた。
与詩は、里貴(りき 逝年40歳)や奈々(なな 18歳)の片膝立ての座り方を見ていないから正座していたが、両膝がこころもちひらいていたのと、丈が短いために下腹のところで裾が割れ、黒毛がのぞいていた。

そこのところは与詩も察し、ことさらに胸元をゆるくして、乳房のふくらみが青年の視野へ入るような着つけにしていた。

藤太郎の好奇の視線が増してくるにつれ、淫らっぽい姿態で青年をさらに刺激してやるのが楽しくなった。
そうはいっても武家育ちのおんなだから、限度はわきまえていた。

膳にあった卵焼きの小片を半分くわえ、半腰で藤太郎の口の前こさしだし、受けて噛みきった唇を吸った。

半腰からなおるとき、さらに裾と膝をひらき、膳を脇へ遠く押した。
相手もその仕ぶりをj真似、抱いてきたので倒れた。
おっかぶさってきたのを掌でさえぎり、
「閨で---」

抱きあげらてれ閨へ運ばれた。
「灯火を---」

灯火がはこばれてくると、股を開き、
「また、見て---」

いいなりであった。

「横にきて---乳を吸う?」
(髪結いのこと聴いてなかったけど、明日、婆やに訊けば済むか)

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2011.12.13

{備前屋〕の後継ぎ・藤太郎(4)

翌日。

与詩(よし 28歳)が肩凝りの湯治と称し、船橋宿の湧き湯へ黒舟で旅立った。
松造(よしぞう 35歳)が途中まで付きそった。
黒舟は御厩河岸で、化粧(けわい)師のお(かつ 44歳)をひろった。

隅田川の上流・寺島村の寓には、里貴(りき 逝年40歳)が愛用していた腰丈の紅花染め閨衣(ねやい)や緋色の湯文字、若やいだ男女の浴衣、寸間多羅(すまたら)産の香木、多いめのはさみ紙などがとどいた。

寓がととのったころあいに、黒舟が大川端の旅亭〔おおはま〕へ藤太郎(とうたろう 17歳)を迎えにきた。
〔おおはま〕を清算し、乗った黒舟には、なんと、与板で親しんだ松造がい、藤太郎を驚ろかせた。

舟中で松造は、10歳年長のお(くめ 45歳)とのなれそめを話し、齢上のおんながどんなにいいか惚気(のろけ)た。

参照】2010,年6月27日~[〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂] () () () (

「初穂おろしは年増の達者にかぎります。手を引くようにやさしく導き、指や舌でどこをどうすればよいかを教え、けっこうな思い出をつくってくれます。それていて自分も頂点に達している---なにしろ、躰のいたるところが発火点ときていますんでね」
そのことに関しては初心(うぶ)な藤太郎が、勝手な連想をして顔を赤らめるようなことを、さらりと話した。

寺島村の舟着で降りた。
道中荷物は藤太郎が自分で持った。
寓の玄関で藤太郎を引きあわせた松造は、「舟を待たしているから」とそのまま引きかえした。
舟着きの黒舟には、おんなが乗っていた。
お勝であった。


与詩は、藤太郎の背丈が6尺(1m80cm)近くもあったのに驚くとともに、「これでほんとうに17歳?」といぶしがった。
並ぶと、結い上げた髷がやっと藤太郎の肩上で、妹になったような錯覚さえした。

かつて嫁いだ三宅は5尺(1m50cxm)そこそこ、小柄というより貧相といえたが、好色なくせに気位だけが高い老人であった。

ふだん見慣れている兄の平蔵(へいぞう 40歳)も甥の辰蔵(たつぞう 16歳)も5尺5寸(1m65cm)前後である。

藤太郎は、与詩の挙措から武家のおんなだなと察したが、まさか、この人が同衾してくれるとはそのときは思わなかった。

香木が炷(た)かれている居間で向いあって座り、
「風呂が沸いております。お召しかえなさいませ」
座ると、藤太郎の背丈からくる威圧感が消え、青年,になりかかっている一人男あった。

藤太郎のほうは、浴衣に着替えてお茶をささげて入ってきた与詩に、
「この人が、やはり、その人なのだ」
化粧は母の佐千(さち 38歳)のよりもうんと薄めだが品があり、しかも肌には張りと艶があった。

与詩が浴衣をひろげ、着せかけるしぐさで待っていた。
着ていたものを解き、下帯ひとつで腕をとおしたとき、つま先立ちで背の高さそろえていた与詩がよろけてすがった。
背に乳房を感じたまま立っていが、両肩にかけて支えていた腕が脇下にうつり、臀部に腹が押しつけられたので、衝動的に躰をまわし、正面で抱きしめた。

青年の胴をしっかりと抱き、つま先立ちで腰に腰をすりつけた与詩は、目をとじ、顎をあげた。
おんなの頰を双掌ではさんだ藤太郎が、遠慮がちに口をあわせると、舌が割りこんでき、まさぐる。
すぐに悟った男の舌がはげしく応えた。

前戯のはじまりであった。
与詩の腰から力が抜け、立っていられなくなった。

首にまわしかえた腕で引きよせた耳に、
「湯殿で---」
うなずき、膝裏に腕をさしいれ、抱きあげた。

抱きあげられたまま与詩が、湯殿を指さして教える。

与詩の胸内には、強い男に抱きあげられている安心感と期待感が泉の湧き水のようにひろがった。
満たされないままに抑えていた28歳の情欲でもあった。

湯殿で下帯をとったときの黒い茂みの下に挙立している藤太郎のものを寸瞥した瞬間の驚愕---、
(あ、三宅の爺っさまの3倍---)

おもわず、問いかけてしまった。
藤太郎さま。おんなの秘部をじっくり看察なさったことはおありですか」
頭(こうべ)がふられた。

手桶に汲くんだ湯を内股にあびせ、腰置きをまたぎように浅く座り、 湯桶で背を斜(はす)にささえ、秘所をさらすように開いた。
己れでも予想のしていなかった姿態であった。
恥ずかしいともおもわなかった。
もっと淫らに振舞いたい気分になっていた。

湯をあびて太筆の房のようになった穂先からしずくをたらしている黒房を割り、
「これが実(さね)です。やさしくなでられると感じます」

指で陰唇を割りひろげ、
「玉門です。藤太郎さまの宝棒は、ここへ突入します」

膝をついた青年の食いいる視線に、与詩の下腹に淫らな刺激がはしった。

「もう一つ、お目にいれておくものがあります」
くるりと白い尻を向けた。

右の丘に指をあて、
「前夫のいやらしい趣味です」
そこには小さな矢じりの刺青があった。

藤太郎が音をたてて唾をのみこんだのがわかった。

「子種が的を射るようにということでしたが、上手な射手ではなかったらしく、子は恵まれず、不縁となりました」
生来の茶目ッ気が戻ってきたことでも、与詩も昂ぶってきていた。
10年近く、男の前では抑えきていた特技であった。

「お噛みきりになてもかまいません」

藤太郎が尻唇をあてて吸い、
「吸いとれるものなら吸いとりたいが、前の男の邪念は吸いとった」
脇へ吐いた。

「うれしい」
向きなおって立ち、脚を開いた股に青年の唇がからまり、両腕で腰が抱かれた。

次の場面を予想してのけぞりながら、与詩は男の頭を無意識のうちに手前に引いた。
齢の差は、どこかへふっとび頭から消えた。
藤太郎も同じであった。

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2011.12.12

〔備前屋〕の後継ぎ・藤太郎(3)

「そういうわけでな、藤太郎(とうたろう 17歳)の初体験にふさわしい女性(iにょしょう)を求めておる」

亀久町の奈々(なな 18歳)の家で、芙佐(ふさ 25歳=当時)とのことも淡い口調で語り終えた平蔵(へいぞう 40歳)は困惑していた。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]

いざとなってみると、おのれがいきあったお芙沙のような後家が周囲にいなくなっていることに気づかされたのであった。
年齢(とし)を重ねすぎた。

しかもなお、少女から大人に熟れかけている奈々のような女性と、年齢を超えて親しんでいる。

相談をかけてみたい〔三文(さんもん)茶亭〕のおは45歳だし、浅草・今戸の〔銀波楼〕の女将におさまっている小浪(こなみ)にいたっては46歳だ。

参照】20101012~[〔三文(さんもん)茶亭〕のお粂(くめ)] () () (
2008年10月23日~[『うさぎ人(にん)〕・小浪] () () () () () () (
2010813~[〔銀波楼〕の女将・小浪] () () (

奈々に相談をもちかけたのは、〔季四〕の客で、奈々を芝居小屋へ誘う薬種問屋の後家・お(ふで)が頭にあったからだ

「おはどうであろう?」
「あかん、あかん。44歳の婆ちゃんで、閨で藤太郎はんが逃げまどわはる」
「は、はははは。閨で、男が逃げまどうか---、は、は」

そういえば、銕三郎(てつさぶろう 20歳=当時)は、茶店〔笹や〕の女主人・お(くま 43歳)に裸でせまられて逃げるのに苦労したことがあった。

参照】2008423[〔笹や〕のお熊] (その4

「それに、おはんは、芝居もんまみれや。初めての藤太郎はんが穢れます」
奈々は、しっかりしていた。

参照】2011年7月15日~[奈々という乙女] () (

「うちの店のむすめたちは男しらずやしィ。嫁はんにいくんならええけど、一度きりいうとこが、難儀や」

奈々が片方立てにしていた膝を折った。
腰丈の閨衣の前がひらいた。
そろそろ隣りの間へ移lりたいという合図であった。


翌日からの2日間は、家斉(いえなり 13歳)の具足・偑刀の儀式の祝事で、西丸の各組には交替で休みが与えられていた。

平蔵は、浅草・今戸の〔銀波楼〕の女将・小浪を訪ね、〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 65歳)の持ちものである寺島村の寓家はどうなっておるか訊いた。
「うちが預かってます」
「7日ほど借りられようか?」
長谷川さまなら大事おへん、そやけどまさか、新しいお相手はんと---?」
「ちがう、ちがう。越後の与板で世話になった大店の嫡男とおなごの密会に使わせたい」

長谷川さまは、奥方はんとのご祝言のあと、あそこで7夜をおすごしどした」
小浪が含み笑いをもらし、仇な視線で瞶(みつめ) た。

小浪がいうとおり、24歳だった平蔵久栄(ひさえ 18歳=当時)と新婚の甘い7夜を、その寓屋でみっちりすごした。

参照】2009年2月13日~[寺嶋村の寓家]  () () () (

「通いの婆ぁやもずっとやとってますよって、外気もあんじょう入れかえられとるはずどす」
酒や米味噌、調理道具など万端をととのえておくように、金をもたせて遣いをだしてもらった。


書見の間に与詩(よし 28歳)を呼んだ。
与詩は6歳のときに養女にきた。
銕三郎が駿河国・府中(現・静岡市)まで迎えにいった。

参照】2007年12月27日~[与詩を迎えに] () () () () () () () () () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25) (26) (27) (28) (29) (30) (31) (32) (33) (34) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41) (番外) 

長谷川のむすめとして嫁入りしたのに、あっという間に不縁となって帰ってき、そのまま、(たえ 60歳の話相手をしている。

参照】2010年1月5日[与詩の離婚] () (

「おことが黙っているものだから、つい、いい気になり、お母上の世話をまかしきっており、すまないとおもっていた」
「兄上。ここがわたくしのわが家です」
「そういってくれるとうれしい。ところで、兄としておことに頼むだが、5日ばかり、ある若者の世話をしてもらいたい」
「兄上、ずいぶん遠慮なさったお言葉のようですが---」
平蔵は、考えていた以上に、説得がむつかしい依頼であることとおもいしった。

藤太郎と、旅亭〔おおはま〕の湯殿で股間のものを相互ににぎりあって男と男の約定を確認したというくだりでは、与詩は身をよじって笑ったが、ふと真顔になり、
「わたくしが駿府からの道中に、阿記さんという方が、鎌倉の縁切り寺へお入りになるまでずっと兄上と閨でごいっしょでした。わたくし、幼いなりに嫉妬していました」

阿記どのはあのとき、三島宿の本陣〔樋口〕の女将・お芙沙(ふさ 29歳)どのに嫉妬していたのだ」
「なぜですか?」

25歳で若後家になったばかりのお芙沙によってえた、すばらしい初体験の経緯(ゆくたて)を打ちあけた。
「このことは久栄(ひさえ 33歳)、父上にも話していない。父上も手くばりなさっただけで、男の子の秘事といって訊きもなされなかった」

参照】2007年8月3日[銕三郎、脱皮

「よう、打ち明けてくださいました。兄上と秘密を共持てること、与詩はうれしゅうにおもいます。よろこんで秘事にはげみます」
「やってくれるか。胸のつかえがおりた」
「兄上のときのお芙沙さまほどに若くもなく、男を離れてから年が経っておりますが、そのこと、おんな冥利といわれているものをいただける機会をお与えくださり、このとおり---」
頬を染めて頭をげた。

平蔵が小指をさしだし、
「秘密は墓場まで--」
うなずいて小指をからめた。


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2011.12.11

{備前屋〕の後継ぎ・藤太郎(2)

「われが公務で与板へおもむいたとき、そなたのお母ごは後家となって2年もたっておられなかったが、あれほど器量よしで、みずみずしさと家産をおもちの女性(にょしょう)であったから、男どもが降るように誘いをかけていたらしい」
「幼いながら、うすうすは感じておりました」

湯桶の平蔵(へいぞう 40歳)が並んで浸かっている藤太郎(とうたろう 17歳)の腕を引いて樋口から離し、
「熱い湯を足してもらおう」
手をうって風呂番を呼び、湯加減を告げた。

樋口からの熱い湯の流れがとまり、
藤太郎どのはしっていたかどうか、母者・佐千(さち 34歳=当時)どのは、男どもの狙いが〔備前屋〕の財貨と躰であることを見抜いておられた。夫がいたおんなの34歳といえば、独り寝はわびしい。佐千どのがそれに耐えておられたのは、おぬしに〔越前屋〕を無傷で引き継ぐまでとおもいきめておられたからだ」
「でも、私はまだ、〔越前屋〕を相続いたしておりません」

「だが、佐千どのの男友だちが〔越前屋〕の財産を狙ってはいない仁であれば、佐千どのの応(こた)えも変わったであろうよ。われはその男友だちをしらないし、しりたくもないが、佐千どののお考えは推測がつく。お母ごのこころと躰を自由にしてあげられるのは、おぬしだけだ。そうではないか、藤太郎どのよ」

「はい」

湯の中で股間のものをやさしく握られると、藤太郎は前方のあらぬほうをにらんで身を硬くした。
その腕を引き、
藤太郎、われのものをつかめ。刀身を打つのに代えた、男と男の約定がための作法だ」

参照】2011年3月15日~[与板への旅] (11) (14

藤太郎が顔を赤らめながら、平蔵のものをつかんだ。

「よし。お母ごのことは放念しろ。それより、〔備前屋〕を相続しても番頭たちをはじめ、奉公人一同から信頼される店主となるこころがけをみがけ」

「はい。誓って---」
「よし。手はじめは、おんなというものをしることだが、この旅亭のあたりの商売おなごに手をだしてはならぬ。おぬしを男にしてくれるおんなは、われが当てるから、1l両日待て」
「待ちます」


平蔵は呑みながら、14歳のときに父・宣雄(のぶお 享年55歳)の入念な手配でさなぎから男に孵化した体験を語って聴かせた。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)] 

それから、それがいい夢で終わったことも、たんたんと述べた。

参照】2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙] (

「閨事(ねやごと)というものは、清らかにも薄汚くも行えるものだ。藤太郎どのの初陣は5月の晴れた日のように、うららかでありたい」

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2011.12.10

{備前屋〕の後継ぎ・藤太郎 

「ちょっと、人に会ってくる。今夜は帰れないかもしれない」
手文庫から黒い小石をとりだし、懐紙Iに包んで懐へなおした平蔵(へいぞう 40歳)に、書状と松造(よしぞう 34歳)への指示でおおよそを察した久栄(ひさえ 33歳)はもおおように、
「ごゆっくりと--」
送りだした。

大川端の旅亭〔おおはま〕への道すがら、冬木町寺裏の茶寮〔季四〕へ寄り、女将の奈々(なな 18歳)の耳へ、
「今夜、泊めてもらうことになりそうだ。八ッ半(午後9時)までには着けるとおもう」
双眸(ひとみ)を煌めかせた奈々の胸のふくらみをぽんと叩いておいて、隣の船宿〔黒舟〕の猪牙(ちょき)舟で大川を横ぎり、豊海(とよみ)橋南詰であがった。

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(旅亭〔おおはま)のある北新堀大川端 近江屋板)


4年ぶりで見る17歳の藤太郎(とうたろう)は、少年からすっかり青年に変容していた。
部屋におんなっ気きなかった。
どうやら、佐千(さち 38歳)づれではなかったらしい。

「どうした?」
余計なあいさつを抜きで、訊いた。
そういうあいだがらと断じてである。
情意は藤太郎にもたちまち通じたが、目は涙で潤んでしまい、声もかすれぎみで、
「母が------」
絶句した。

「亡じなされたのか?」
首がふられた。
「病いか?」
また、ふった。

「黙っていてはわからぬ。はっきりいえ」
「母は---密通しています」
「密通---?」
うなずいた。、
「おかしなことをいう。密通というのは、夫がいるおんなが別の男と通じることだ。佐千(さち)どのは、そなたたちのお父ごとは死別なされたと聴いた。再縁なされたのか?」
また首をふった。

「それでは、密通ではない。躰を接しあう男友だちができたということだ」
「許せません」
「許さないとか、許すとかの問題ではない」
「------」
佐千どののためには、祝賀してあげてもいい」
「殺してやりたい」
「だれをだ---母者をか?」
首をふった。

「男をか?」
うなずいた。

平蔵は、ふところから黒い小石を取りだし、示した。
「覚えておるか? われが与板を離れる日、藤太郎どのが、渡船場でくれた黒川の小石だ。われは、佐千どの、藤太郎どのとおもい、大切にしまってきた」
藤太郎が胸をつまらせて泣いた。

「その母子に、もしものことがあったら、黙ってはいまいとおもっていた」

参照】2011年3月15日~[与板への旅] (11) (14) (15

しばらく泣かせておいた。

藤太郎どの。この宿には2人で浸(つ)かれる湯殿がある。もちろん、男とおんなが共湯するためにしつらえたものだが、男同士で浸かってもおかしくはない。帳場へいいつけてきてくれ。涙を拭いてからゆけ」
平蔵が笑うと、藤太郎も泣き笑いになった。


2人で並んで湯桶に浸かり、耳元でささやいた。
「この湯殿には、除きの隠し穴があるそうな。男同士で入れば、きっとぞかれていよう」
「男同士を---?」
「そういう趣味の者たちもいるのだ。ところで、藤太郎どのは、おんなを抱いたことはあるか?」
首をふった。
「抱きたいとおもったことは---?」
うなずいた。

「正直にこたえてくれ。お母ごが男友だちに抱かれているとしったとき、それほどなら、自分が抱いてもいいとおもわなかったか。もちろん、母と子が番うのは畜生道であることは承知ておる、しかし、ほかの男に母が汚されているのであれば、自分が---とおもうのも、子として孝道といえないこともない」

藤太郎平蔵を凝視した。

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2011.12.09

天明5年5月5日の長谷川銕五郎

天明5年(1785)5月5日は、5が3tヶ重なったということで、五ッ(午前8時)から本城で将軍の養世子・家斉(いえなり 13歳)の初具足・偑刀の祝事がおこなわれ、西城に出仕している組頭たちには紅白の饅頭が下賜された。

長谷川家では、次男・銕五郎(てつさぶろう)が5歳の端午の節句なので、当主・平蔵(へうぞう 40歳)の下城をまって内祝いをすることになっていた。

平蔵は、八ッ半(午後3時)には早退して帰宅、早ばやと男児の節句を祝った。

銕五郎は5年前、平蔵が西丸若年寄・井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 34歳=当時 与板藩主 2万石)にいわれ、天明元年(1781)の晩秋に与板へ事件の収束に行っていた留守の11月の下旬に生まれたので、現代ふうの満年齢でいうと、3歳と6ヶ月であった。

参照】2011年3月24日~[長谷川銕五郎の誕生]  (1) () (
2011年3月5日~[与板への旅] () () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19

銕五郎を産んだ久栄(ひさえ)は29歳であったから、銕五郎はすれすれで、親類中から〔恥かきっ子〕と呼ばれずにすんだ。
おんなは30歳になったら〔お褥(しとね)すべり(辞退)〕をするべきだという、男にとっては都合のいいしきたりがささやかれていた時代(ころ)であった。

一方では〔20後家はもつが、30後家はもたない〕、つまり、性の悦びの深奥をおぼえてしまったおなごは、独り寝などできないということだが、冗談ではない。
これまでの体験に照らしても、三島の若後家になって1ヶ月とたっていなかったお芙佐(ふさ 25歳)、藤沢の妻の座をけってでてきたその夜の阿記(あき 22歳)、京都の貞妙尼(じゅみょうに 24歳)、茶寮〔貴志〕の女将・里貴(りき 29歳)、島田宿の本陣のお三津(みつ 22歳)も、みな20代で銕三郎(てつさぶろう=28歳まで、のち平蔵)に躰をひらいた。

銕五郎の誕生のあいだの旅先では、後家になって1年目といっていた廻船大問屋〔越前屋〕の佐千(さち 34歳)の熟れきった女躰(にょたい)を抱く羽目になった。

佐千も、別れぎわに、情炎を鎮めてほしくなったら江戸へでるといっていたが、出府してこないところをみると、地元か長岡城下あたりでころあいの鎮火相手をつくったか。 

いや、銕五郎久栄には、出産に立ちあってやれなくて済まなかった。
そうおもったとき、銕五郎が膝前に両手をつき、
「おちちうえ、たんごちぇっく、ありがとうござせいまちゅ」
まわらない舌でも謝辞は謝辞であった。

「おお、丈夫に育ってくれてうれしいぞ」
「おあにうえのように、てちゅも、およめちゃんがほちゅうございまちゅ」
「そうか、そうか。みつけてやるぞ」
「おまちゅしておりまちゅ」
やりとりを、於(ゆき 24歳)が満面の笑顔で見ていた。

久栄によると、2人目なので於の悪阻(つわり)は軽そうだし、婚礼は、腹が目だたないうちに挙げるとすると、梅雨明けだな)

その案を久栄に耳うちしたとき、門番が町飛脚から書簡をとどけてきた。

封簡の裏書きは、藤太郎
なんと、先刻回想したばかりの与板藩の廻船問屋の佐千(さち 38歳)の長男・藤太郎(とうたろう 17歳)からであった。

開披すると、大川端の旅亭〔おおはま〕へ宿泊しているので、ご都合がよければお会いしたい。ご指定のところへ出向くことは不案内のご府内ではあるが訪ねられるとおもう、とあった。

〔おおはま〕といえば、2旬日ほどまえに、島田宿の本陣の若女将・お三津と湯に浸かった旅亭ではないか。
因縁とはいえ、まさか佐千もきているのではあるまいな。

さっそくに松造(よしぞう 34歳)に、帰路ついでに〔おおはま〕へより、すぐ行くと伝えさせた。

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2011.12.08

〔化粧(けわい)読みうり〕の別刷り(3)

(『医心方 第二十八 房内編』の写本をのぞいたのは、井上立泉先生から拝借したものであった。あれから、もう6年が過ぎた)
平蔵(へいぞう 40歳)は寝間で、そのときのことを反芻していた。
拝借をおもいついたのには、いまは故人になってしまっている里貴(りき 35歳=当時)がからんでいた。

参照】20101216~[医学館・多紀(たき)家] () (

(そういえば、今宵、お三津(みつ 25歳)と再演した櫓炬燵(やぐらごたつ)を利用した性戯も『房内編』でおぼえたような気がする)

三津はうっかり、
「これだけは、さまとのときだけにとっておいています」
男がいることをつぶやいてしまったが、恍惚の姿態(てい)は3年前と変わらなかった。

房内編』をどんな形で板行するか。
男の精を強くする薬、おんなの性感を昂(たか)める丸薬か塗り薬とともに売ることにすれば、元締たちの口銭がふくらむから、合意は容易であろう。

栗の調合、製造も躋寿館(せいじゅかん)の多紀安長元簡(もとやす 31歳)に一任するとし、〔耳より〕の紋次(もんじ)には、いま隠れた人気のあぶな絵師を起用するようにいっておこう。

これは、〔化粧(けわい)読みうり〕のようにつづきを考えてはならぬ。
一度きりで、刷り数も限定する。
そうしないと、『医心方』の半井(なからい)一族から幕府へ抗議がくるであろう。

また、刷り部数を限定することで、噂がうわさを呼び、風評のひろがりの輪が大きくなろう。
元締衆には、20冊ほど手元へ秘蔵しておき、1冊ずつ廻り貸し本屋へ高値でわたすように知恵をつけておこう。

われも20冊ほどのけておき、営内の要路向きへ進呈することにするか。いや、そういうことから足をすくわれるのだ。われはかかわりない体(てい)に徹するのだ)

元締衆へも、20冊のたかのしれた儲けなどより、あとを引く薬種(くすりだね)のほうの利益こそ、ほんものの儲けであることを、明日ははっきりといってきかせよう。

題簽(だいせん)は、

「おんなを喜悦させつくす」
「おんなが忘我の歓喜jに」
「さらなる高みに」
「玉門を敲く秘法}

(櫓炬燵のお三津はどううめいたか?)
「もっと乱れさせて」
「そこ、初めて」
「もう、だめ」
「頭の中、まっ白」
「あ、失神するぅ」

そうだ、「失神までの」
(ばかばかしい、1000石取りの旗本がかんがえることか)

ちゅうすけ平蔵さん。あなたの感慨もわかるけど、おつきあいしているレポーターのぼくの立場にもなってみてよ」
平蔵ちゅうすけさんがお三津を再登場させたのがまずかった」
ちゅうすけ「お三津ねえ。三木忠太夫忠任の素性を調べていたら、置塩城がらみで登場させざるをえなかったのさ」
平蔵秀吉公は、置塩城を解体し、木材や石垣で姫路城を築いているなあ」

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2011.12.07

〔化粧(けわい)読みうり〕の別刷り(2)

湯を誘われて、
「ここは、おんな客と男客が共風呂をすることを許すような宿ではなかろう」
「風呂とは申しておりません。湯です」
「------?」
「お浸かりになれば、納得なさいます」

三津のいい分によると、大きな荷運び船で入り津した上方の大店の重職方のほとんどが、呼んだおんなと共風呂をしたがるが、朱印引きの内側の町家では防火のために内風呂が禁じられていた。
禁令の抜け道はあるものである。

_150_3早くも浴衣の胸元をひろげ、乳首をこぼしていた。(お三津のイメージ 清長)

「共風呂を許すような宿ではあるまいとおっしゃいましたが、嶋田宿で一番の格式の本陣の女将にむかい、添い寝のおんなを呼んでほといとお求めになるお武家さまは珍しくはございません」

話しながら、浴衣の下の桃色の湯文字をぬく。

ここでいい争っては、宿の者やほかの泊まり客が耳目をそばだてるだけだと観念し、平蔵(へいぞう 40歳)も用意してあった浴衣に着替えた。

三津が慣れた手つきで脱衣をたたんだ。

広い流し場と2人が浸かれる湯桶があり、一見はふつうの湯殿と変りなかった。
ただ、湯桶の上に大きめの樋口が突きでていた。

2人がかけ湯をつかうと、その水音を待っていたように、外から湯加減をたしかめる声がかかった。
「すこし、冷(さ)め加減---」
三津の返事が終わらないうちに、外で水音がし、樋口から湯が流れでてきた。
桶2杯分の湯が足されたところで、また湯加減が訊かれ、「ちょうどいい---」の返事をうけて、足音が去っていった。

三津が口を寄せ、
「のぞき穴が仕掛けてあるのです。すべては湯桶の中で---」

横並びで浸かり、湯の中でお三津の手が股間をまさぐりながら、
「さきほど座敷で、〔置塩(おきしお)〕の女将、とおっしゃいました。お調べになったのですね?」
「あのときの探索をお申しつけになった火盗改メの、(にえ) (壱岐守正寿 45歳 境奉行)さまからうかがった」

途端に、湯の中でまさぐっていた掌がにきりしめてきた。
「気になさっていてくださって、うれしい」
「ずいぶん前の話だ、さまはいまは境のお奉行だ」
「それでも、うれしい」
股間がお三津の掌の中で反応しはじめた。
平蔵は手を腹の前で組み、動かしはしなかった。

「播磨の赤松家の置塩城にかかわりがあった家柄なのだな。置塩の赤松といえば、室町以来の名家なそうな」
「それこそ200年もむかしのことです。おんなには、むかしより今が大事---」
あいかわらず、横ならびのままでいい放った。

それには応えず、平蔵は思案していた。
(滅んだとはいえ室町以来の名家の後裔のむすめが、香具師(やし)の元締の後継ぎと寝ておる。それでいて江戸へきて、われを誘(いざな)っおる。家柄というものはいったいなんであろう? また、香具師の後継ぎの金かせぎの片棒をかつごうとしておるわれは、どういうことだ?)

「出(あがり)ましょう。わたくしのほうも待ちきれなくなっています」
(男とおんなのあいだには、家柄も世の移り変わりもないということか? 世の移り変わりに背を向けつづけてきた百済渡来の貴志村の人びとの高潔なことよ)
平蔵は、奈々(なな 18歳)に想いをいたし、恥じた。
初めての想いであった。


陽がだんだんと長くなり、酒盃を伏せた六ッ半(午後7時)ころ、ようやく外が暗くなってきた。
屏風のむこうに延べられた布団の脇に、櫓炬燵が2ヶ、使う人を待っていた。


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2011.12.06

〔化粧(けわい)読みうり〕の別刷り

おもいもかけない人物が下府してきた。
東海道・嶋田宿の本陣〔中尾(置塩(おきしお)〕若女将・お三津(みつ 25歳)であった。
いや、本陣の女将としての用件ではなく、西駿州・遠州板〔化粧(けわい)読みうり〕の板行元としての細事の用向きが口実となっていた。

そう、口実といういいまわしのほうがありように近かった。

大本(おおもと)の板元人・〔箱根屋〕の権七(ごんしち 53歳)が、お三津が入府して大川端の旅亭〔おおはま〕へ宿をとってい、今宵、下城時に宿でお立ちよりを待っていると言付(ことづ)けてきた。

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(旅亭〔おおはま] のある北新堀大川端)


〔おおはま〕といえば、大きな荷積みに便乗して上方からやってくる大店の番頭などが定宿にしている高級な宿であった。

平蔵(へいぞう 40歳)が顔をだすと、待ちかまえていたように番頭が一と部屋しかない2階へ案内した。
湊(みなと)の入り船が見渡せる、宿でもっともいい部屋であった。

浴衣を羽織ったお三津が、大店の旦那風の上等の着物をきちんとまとった権七と待っていた。

3年ぶりの再会であった。
三津は、年増ざかりらしくふっくらと肉がつき、濃艶さが増していた。
(男ができたな)
直感が走った。

久闊を叙するのもそこそこに、
「『医心方 第二十八 房内篇』の[好女(こうじょ 床上手(とこじょうず)なおんな)]はどなたがお書きですか?」
顔を赤らめることもなく訊きいてきた。

権七がかすかに笑った。
平蔵がくるまで、それを話題にしていたらしかった。

「『房内(閨 ねやごと)篇』がどうかしたか?」
「化粧のとは別に、[好女]ごとだけを書いた読みうりはつくれないかと、お披露目枠を取り仕切っている西駿河の元締衆が望んでいらっしゃるのです」

【【参照】2010年12月22日[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] (

「急先鋒は、〔(おおぎ)〕の万次郎(まんじろう 54歳)であろう?」
万次郎の家業は、大井大明神の宮前で遊女屋に近いことをしていた。

「いいえ。息子の千太郎(せんたろう 28歳)さんのほうです」
(は、ははは。いまの情人を白状してしまった---[読みうり]が取りもった縁だな)
三津は、出戻り、というか、亭主の浮気に愛想をつかし自分のほうから離縁を申しでた。


「書き手は、立派なお医師さまで、躋寿館(せいじゅかん)という医学校の教頭先生だ」
「もし、長谷川さまができないとおっしゃったら、わたしがその教頭先生とかけあいます」
「できないとはいってない。ただ、〔読みうり〕ではなく、絵草紙(えぞうし)になるな。もちろん、お披露目枠もつける。精を強める薬とか、月のものをただしくする薬などが枠を買う」

権七が合点した。

さん。明日夕刻でも、元締衆と躋寿館(せいじゅかん)の多岐元簡(もとやす 31歳)先生に、そうだな、小料理〔蓮の葉〕へでも集まってもらい、〔置塩〕の女将どのの案を練ってもらおう」

こころえた権七が、
「手くばりがありますから---」
引き上げた。

さま。湯をあびましょ---櫓炬燵(やぐらごたつ)も頼んであります」

参照】2011年5月13日~[本陣・〔中尾〕の若女将お三津] () (

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2011.12.05

武具師〔大和屋〕仁兵衛

「どうであろう、〔大和屋〕。鎖帷子(くさりかたびら)の一種だが、鎖を帷子に縫いつけるのではなく、鎖を衣服のように着た上から上衣を羽織りたいのだが---」
平蔵(へいぞう 40歳)から相談をもちかけられた〔大和屋仁兵衛(にへえ 55歳)は、かたわらの息子・市兵衛(いちべえ 32歳)をかえりみた。

「お申しこしの衣服のごとくに躰にそってしなやかに着こなすとしますと、方寸(3cm平方)ごとの鎖枠を胴なり腕なりに添うようにつなぎあわせることになります」
市兵衛が宿題の答えをのべた。

数奇屋河岸・西紺屋町2丁目の武具・馬具師〔大和屋〕は、かねてから長谷川家に出入りしていた。
先代の亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)がつくらせた鞍を、月魄(つきしろ)の躰形にあわせて調整したのも〔大和屋}であった。

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(赤○数寄屋河岸の武具商〔大和屋〕 『江戸買物独案内〕)

西丸・徒(かち)の組頭としての職席手当てとでもいうべき足高(たしだか)の春の支給分300両(4800万円)を蔵宿・〔東金(とうがね)清兵衛(せえべえ 40前)がとどけてくれたのを機iに、老中・田沼意次(おきつぐ 67歳)からかけらけていた謎に応えることにした。

参照】2011年11月29日[〔東金(とうがね)屋〕清兵衛の相談ごと] () 
2011年9月11日[老中・田沼主殿頭意次の憂慮] (

「われの組子30人分と、われとわれの家士5名、それと愛馬・月魄のものもふくめ、130両(2080万円)でまかにってほしい」
「はい---」
「なに、われの注文分は、われのふところから出る。しかし、ご公儀もわれの組子らの鎖帷子を見、すぐに発注があろうから、損はさせない。ご公儀には、2割増しの見積りをいっておく」
「よろしゅうに---」

袖口に藤の枝花をあしらった上着と裾を縛った下短袴は、里貴(りき 逝年40歳)がよくつかっていた尾張町の恵美寿屋であつらえた。

できあがった鎖衣と帷子は、組子にはわたさず、長谷川家の蔵にしまわれ、出番がきたのは、2,年後の天明7年(1787)の江戸騒擾事件のときであった。

参照】2006年4月26日[長谷川平蔵の裏読み
2006年4月27日[天明飢饉の暴徒鎮圧を拝命] 

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2011.12.04

〔東金(とうがね)屋〕清兵衛の相談ごと(5)

「昨日は、かえってご迷惑をおかけしました」
東金(とうがね)清兵衛(せえべえ 40歳まえ)が、采女ヶ原の〔酔月楼〕の座敷でひれ伏した。

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采女ヶ原馬場 『江戸名所図会』 塗り絵師;ちゅうすけ)

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(采女ヶ原の料亭〔酔月楼〕 『江戸買物独案内』)

馬場でのどよめきが流れてくることで知られているここで待っていることを、西丸の退出口で松造(よしぞう 34歳)にささやかれた平蔵(へいぞう 40歳)が、座につくなりであった。

「どうもない。後家どのは酔いつぶれ、侍女たちが寝所へ運んだわ。あれで、着物下はけっこうな肉置(ししお)きらしく、手こずっておった」
五十後家のあられもない姿態をおもいだしたように、平蔵が笑いながら打ちあけた。

信じがたいといった表情の清兵衛に、
「あの屋敷内で世間の思惑どおになってみよ。うわさはたちまちのうちに青山はおろか、番町までひろまろう」
平蔵はそれがくせの片えくぼで茶化した。

ありようは、
「35歳からこっち、男を絶ってきたも同然。里貴(りき 逝年40歳)どのがお相手と睦んでいらっしゃる閨(ねや)ごとを想いやっただけで躰中の血が騒ぎたて、迷いは深まるばかりでした」
からまれたのを、矢つぎばやに酌をし、躰がままならなくした。

里貴が病死したことまでは耳にとどいていなかったことも幸いした。

告白どおりに35歳からといえば、脇腹が嫡子・孫三郎(まごさぶろう 17歳)を出産してからということになる。
亡主・江原与右衛門胤親(た,ねちか 享年45歳)も親戚も、よくも10数年、嫡子産まずの於曾乃(その)を我慢したものともいえる。
江戸の武家社会の美談の一つにあげてもいい。
ふつうなら、3年で離縁されていても苦情はいえない。

もちろん、孫三郎の生誕後であっても、於曾乃が男の子を産めば家督は正妻の子の権利というきまりになっていた。

お家騒動の火種もそんなところから始まる。

孫三郎の誕生、そのあとも母胎の異なる矢つぎばやの2男4女で、お曾乃は名ばかりの正妻になってしまった。

「で、孫三郎どのの生母はいかがなされたのかな? 内室の地位をのぞまれなかった?」
「お上にとどけられるような格の女性(にょしょう)ではなかったと聴いております」

「腹は借りもの---とは、いいえておる」
「はい」

しかし、平蔵は6k;k実母・(たえ 61歳)に同情していた。
知行地の村長(むらおさ)・戸村家のむすめであっても武家ではないから、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)は、家督後も内室としては届けでられなかった。

金をつめば、どこかの武家の養女という形もとれたであろうが、父母ともにその必要を認めなかった。
子は、銕三郎(てつさぶろう)きり恵まれなくても、睦まじい夫婦(めおと)でありつづけた。

孫三郎どののお母ごは、いまでもお屋敷内に---?」
「いえ。若さまが3歳のときに病歿なされました」
「やっぱりな---」
「はぁ---?」
「大名や武家にはよくあることだ。お家騒動の根を事前に絶っておくことがな」
(たかが400石の家禄であっても、われが長谷川家で生きつづけられたのは、父上のいうにいわれぬご配慮のお蔭であろう。さいわいい、継母は生命の灯が2年しかもたなかったが---)

参照】2006年5月28日[長生きさせられた波津

「それで、長谷川さま。これから、もし、江原の後家さまから、お招きがありましたら、どのように---?」
「おお、そのことよ。〔東金屋〕のためなら、幾度でも出向くぞ。しかし、お招きはなかろうよ、名を重んずれば---いや、女性(にょしょう)という生きものはいつでも己(おの)れのほうが正しいから、この平蔵など、とるに足らない軽輩であった、とさげすんでござろうよ」

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2011.12.03

〔東金(とうがね)屋〕清兵衛の相談ごと(4)

「炷(た)かれているこの香木---もしやして、寸間多羅(すまたら スマトラ)?」
思わず声にだしたのは、侍女が酒席をととのえて去り、2人きりになった気づまりを感じた平蔵(へいぞう 40歳)であった。

曾乃(その 52歳)が選んでいたのは、甘いなかにもその気をそそる香木で、遠い記憶をさそった。

雑司ヶ谷の鬼子母神の脇の料理茶屋[橘屋〕の客間---。
参照】2008年8月19日[〔橘屋〕のお仲] (

近いところの記憶では、
2011年4月13日[豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ] (


「寸間多羅(すまたら)に似ていますが真那伽(まなか マラッカ)です。とは申せ、驚きました。長谷川どのの鼻のききよう---」
「存じおるのは寸間多羅ぐらいで---」
里貴(りき 逝年40歳)どののお仕込み---? 憎(にく)にくしい」
50歳をすぎている武家の後家とはおもえないほど粘っこい双眸(ひとみ)で、瞶(みつめ) てきた。

目をそらすと、とってつけたように微笑んで酌をし、
「ご免なさい、平蔵さま。老いの眼がすすんでい、つい、凝らしてしまうのが癖になっておりますの」
いつのまにか、
長谷川どの---」
が、
平蔵さま---」
に変じていた。

鷲巣(わしのす)さまのお話をうかがう約束でしたが---」
「ここへ輿(こし)してくるまで、雉子(きじ)橋小川町の室賀(むろが)の屋敷で育ったので、わたくし、元の国許のことはほとんど存じませんの」

ただ、一橋の北詰にあった茶寮〔貴志〕は、屋敷からすぐだったので、実家の父・(左兵衛佐 さひょうえのすけ 享年67歳=宝暦11年(1761) 600石)から、田沼侯---というより、家治(いえはる)の意図を汲んだ意次(おきつぐ)が紀州方の連絡要地と一つとして目黒の行人坂大火のあとに設けたと聴いた。

A_360
(赤○=茶寮〔志貴」 緑○=於曾乃の実家・室賀邸 近江屋板)

A_360_2
(雉子橋小川町筋の室賀邸 拡大図)


「主(ぬし)が亡じる、そう、大蔵卿田安治察はるあき)もお亡くなりになる前、田安さまに仕えていた方の後家・里貴どのが女将をなさっていることを知りました。江原の病死後の後家にとり、睦みあえる相手のいない空閨の夜がどれほどむなしくやるせないものか、ようわかり、里貴どのの幸運がうらめしかった」

武家というしきたりに縛られているから、空閨をうめることができないのであれば、いっそ室という身分を捨てても---と、冷たい布団に横たわるたびにおもったと打ち明けられた。

(そういえば、われは、武家育ちのおんなにほとんど接しなかった。京でのお(とよ 24歳)、貞妙尼(じょみょうに 24歳)も武家とはいえ浪人のむすめと妻にすぎなかった。われが23歳でなじんだお(りょう 29歳=当時)は武家というより郎党の末のむすめであった。菅沼家の後家・お津弥(つや 35歳)は反(そ)らした)

参照】2009年7月27日~[〔千歳(せんざい)〕のお豊] () (10
2009年10月12日~[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)] () () 
2008年11月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] () (

(いや、武家育ちのおんなたちは、扶持をはなれては生きていけないから、名状にしばられ、情欲を無理におさえた夜をかさねておる。われがふとしたことから情を交したおんなたちは、そういえば生計(たつき)の道をこころえていた)

「武士は、名を惜しむように躾けられております」
「ほんに、切(せつ)ないこと---」
平蔵がすすめるたびに、断ることなく受けた。

初夏の陽がおちるころには酔いつぶれ、
「若いお武家と、へだてなしに、これほど楽しく話しあったの、20年ぶり---」

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2011.12.02

〔東金(とうがね)屋〕清兵衛の相談ごと(3)

「奥方さまでございます」
東金(とうがね)清兵衛(せえべえ 40歳前)が紹介した。 
客間に通される身分ではないが、平蔵(へいぞう 40歳)を引きあわす役目と、このたびの用人の不正を摘発した手柄への礼遇であった。

青山御手(おて)大工町脇のひろびろとした江原邸であった。

平蔵は軽く会釈し、50をすぎているであろうに肌がつやつやしい女性を瞶(みつめ) た。
見返した於曾乃(その 52歳)の目元にほんのりと赤みがさした。

長谷川どの。このたびは、江原のためにご尽力いただき、かたじけのうおもっておりまする」
声も若わかしかった。

遺跡(1700石)を12年前に継いだ隣りの当主・孫三郎親章(ちかあき)は、どうみても10代後半---16歳か17歳にしか見えない。
(おかしいな。35歳すぎての、初めての子であろうか?)

不審を表にだしたつもりはないのに察したようだったので、問いかけた。
孫三郎どのは幾歳におなりかな?」
「17歳です」
「われの子は16歳ですが、近く嫁を迎えます」
「うらやましい」
嘆息した孫三郎へ於曾乃は冷ややかに、
孫三郎。弓の稽古へ参るのであろう、失礼なさるがよい」

ちゅうすけ注】孫三郎は、これから7年後に室賀壱岐守正頼(まさより 32歳=寛政元年 1200石)の長女を室としているが、母親は佐野与八郎政親(まさちか 1100石)のむすめであった。
参照】佐野与八郎政親については、銕三郎の兄者格として、かなりの件数を報告しているが、江原家の意思を示していると思える1シリーズを。
2010年9月20日~[佐野与八郎]の内室] () () () () (

孫三郎が去ると、
「ご不審はごもっともです。7人の子らはすべて脇の者たちが産みました」
目元の赤みが頬にまでひろがった。
「子をなすことなく、40で後家となり、12年が経ちました」
(まずい。話題をかえねば---)

「刀自(とじ)は、たしか、土岐さまからお輿(こし)入れなされたかに---」
「紀州方の土岐をご存じですか?」

「いえ。ただ、鷲巣(わしのす)さまのお名とともに、紀州の土岐さまのことを耳にしました」
「あっ、長谷川どのでしたか、里貴(りき 逝年40歳)さまのいい男であったのは---なるほど、納得がいきました」

参照】2010年1月31日[貴志氏] (

「〔東金屋〕。ようこそ、稀人(きじん)をお連;れくだされた。;礼をいいますぞ。これよりは、わらわの部屋で飲みあうゆえ、そなたはさがってよい」

意外な成り行きに、〔東金屋清兵衛平蔵をうかがった。
ここで於曾乃に恥をかかしては〔東金屋〕の今後に差しさわりがでようと、一瞬のうちに判断した平蔵が目元に笑みをたたえて頷いた。

清兵衛が退出するやいなや、平蔵の手をとらんばかりして居室へみちびき、侍女に酒の用意をいいつけた。

部屋には、気をそそるような濃い香木がたかれていた。


Photo
2
(於曾乃の実家・土岐家(紀州出)の家譜)

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2011.12.01

〔東金(とうがね)屋〕清兵衛の相談ごと(2)

「-------」
「われの手にあまるほどの難事か---?」
口ごもる〔東金(とうがね)屋〕清兵衛(せえぺえ 40歳前)に、平蔵(へいぞう 40歳)がさりげなくさそい水をむけた。

清兵衛平蔵の仲で躊躇いしているからには、よほどの密事と気をまわしてみたのであった。

「とんでもございません。ただ、恩義のある江原さまにかかわりますことなので、お旗本同士、ご都合もおありかと----」

かつて長谷川家の下僕であった太作(たさく 80歳に近い)から、〔東金屋〕の始祖・清助と大身幕臣・江原家のえにしを聴かされたことがあった。

参照】2011年9月23日[札差・東金屋清兵衛] (

江原家の蔵宿は、縁者がやっておる---」
「はい。御蔵前片町の[江原屋」佐兵衛さんで、手前どもの本家筋にあたる店でござます」

その〔江原屋〕佐兵衛店の番頭の一人と、江原孫三郎親章(ちかあき 17歳 1700石)の用人が組み、知行地からあがる年貢米の売り上げ代金をごまかして着服していたことが発覚した。

江原家の知行地は、

上総国山辺郡求名(ぐみょう)村 200石
  同  香取郡返田(かやだ)村   42石弱
  同       沢村         596石弱
  同      岩部村       663石弱          

など総計1700石余であったから、平年であれば、自邸の家士や使用人の食い分も差し引いても、1500両(2億4000万円)近い現金収入があるはずであった。

それが、このところの浅間山の山焼:けや天候不順で、1割5分ほど目減りしていた。

去年、年賀の挨拶に参上した〔東金屋清兵衛が元服したばかりの当主・孫三郎から、
「こころあたりをさぐってみてくれ」
内密の依頼をうけた。

天明4年(1784)の1年間、知行地の作づけと蔵宿・〔江原屋〕のうごきをそれとなく探っていたところ、〔江原屋] をゆすりにきた蔵宿師が、つまみだした対談方(たいだんかた)・浅田剛二郎(ごうじろう 47歳)に、
江原家の用人とあの店の二番番頭が、薬研堀の〔草加屋]でしょっちゅう密談していることをしっとるのか」
くやしまぎれの捨て台詞をした。

耳より〕の紋次(もんじ 42歳)にあたってもらったところ、座敷仲居が白頭のねずみたちの姦計を小耳にはさんでいた。

「ついては、悪事(こと)を荒立てて、先々代が厚恩をお受けしている〔江原屋〕さんに泥を塗るようなことはできないので、この際、江原さまの知行米の売り立てを、お殿さまとお親しい、佐原の伊能さんに引き受けていただきたいとおもいました」

参照】2011年9月21日[札差・〔東金屋〕清兵衛] (

なぜに〔東金屋〕で引き受けない? との平蔵の問いに、
「蔵米とちがい、知行米の売り立て扱い店の移動は、どうしても目立ちます。穏便にというのが手前の真意でございます」

(大身をわれの口から伊能へつないでやって顔を立たせようとの、〔東金屋〕のこころづくしだな。ありがたく受けておこう)

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