辰蔵と月輪尼(がちりんに)(2)
「辰(たっ)はんのお父ごが通じはっていた貞妙尼'(じょみょうに)はんどすけど、そら、もう、綺麗や尼はんやったてえ」
「会ったことはありませぬ。母も会ってないとおもいます」
ことが果て、仰臥(ぎょうが)した裸身を覆っ上布団の中では、手をにぎりあって話している。
「そら、そや。夫と通じるおごなに妻が出会うて、ただですむはず、おへんわなぁ」
「そうかも---」
「辰はん、うちがよその男と寝とぅるとこ見ぃはったら---?」
「刺し殺す---」
「どっちを---?」
「------」
「うち---? 男---?」
「敬(ゆき)のほう---」
「うれしい。そないまで、一つになってくれてはるねんなぁ」
敬尼(ゆきあま 23歳)が辰蔵(たつぞう 14歳)にかぶさった。
躰は大人なみでも、こういう男女のかけひきになると、辰蔵はまだ少年であった。
とりわけ月輪尼(がちりんに)は、育ちが公卿(くぎょう)の家だから、手練手管は幼いときから仕込まれている。
公卿は、摂家につぐ清華の家までの上位の公家(くげ)の尊称であった。
気位は高いが、幕府が給してくれている食禄は多くはなく、いろんな利権を捜していた。
敬の父は公卿だが、母は奉公にあがっていた商家のむすめであった。
敬のような脇腹のむすめは6人もいたが、うち女官の職につくことがかなったのは2人にすぎなかった。
敬が、長谷寺へ入って尼になるといった時には、婚儀の出費が助かると喜ばれた。
だから、読経と問答だけという、薬草代の支払いもない施療ではいってくる銭を自分で使えるいまの暮らしぶりは、願ってもないものといえた。
辰蔵が京都で暮らしたのは3歳の終りから4歳の半ばまでであったから、公家の内情はほとんど見聞きしていない。
敬が公卿の家の媛(ひめ)ということと真言密教を修めているということで、貴種とうやまっていた。
経験が浅い辰蔵には、閨房での大胆な所作が、天真爛漫に映った。
〔辰はん。お小遣い、あげよか---?」
(受けとってくれれば、つなぎとめられるばかりか、上から扱うこともできそうだ)
辰蔵は、首をふった。
「辰はんとこのお父ごから寄進された祈祷代、半分、使ってぇ---」
甘えてみたら、乗ってきた。
「はい、2分(ぶ 8万円)」
最初の分配としては多すぎるとおもったが、じつは4分の1でしかなかった。
「なんぞ、おいしいもん、おごってぇ---」
また、甘えた。
齢下の男をいい気にさせるには、甘えるにかぎる。
「でも、法衣やさかい、精進さんで---」
辰蔵には、そんな知識はなかった。
「水道橋に、ちょっとしたぜんざい屋があるけど---」
「行きまひょ。たのしみやわぁ」
弓術の弟弟子の建部市十郎(いちじゅうろう 12歳=当時)が師範の布施師のむすめ・於丹而(にじ 12=当時)を連れこんだぜんざい屋〔若桜(わかさ)〕しかおもいつかなかった。
(こんど、市汁郎に会ったら、いろいろな店を訊きだしておこう。しかし、おれは、抱いているおんなを連れこむのだぞ)
【参照】2011年6月11日[辰蔵、失恋] (2)
笑ってはいけない。
辰蔵なりに少年の気負いを発揮しているのだ。
あの時の失意が嶋田宿への旅を呼び、あの場でのお小夜(さよ 23歳)の性的欲望から回復するために辰蔵は、月輪尼の施療にゆきついたのだ。
因があれば、果が生まれる。
【参照】2011年08月20日~[辰蔵と月輪尼(がちりんに)] (1) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)
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コメント
そう。少年は、年配の性経験豊富な女性から手ほどきをうけるのが、正しい性の道だとおもっています。
「セカンド・バージン」が話題になる前から、銕三郎はお芙沙から初体験を受け、その後も人妻であった阿記に導びかれました。さらに、11歳も齢上で男性経験が豊富なお仲と1年つづきました。ずいぶん、学んだでしょう。それが、その後、おんなたちの目に、たのもしく映ったのではないでしょうか。お豊、貞妙尼---。
投稿: ちゅうすけ | 2011.08.23 07:24