辰蔵と月輪尼(がちりんに)(4)
「長谷川。胴造りがしっかりしてきたな。心が安定してきた徴しだ」
師の布施十兵衛良知(よしのり 42歳 300俵)が、励ますように褒めた。
天明4年(1784)が明けての初稽古であった。
師にいわれるまでもなく、辰蔵(たつぞう 15歳)は自らも落ち着きがでてきたことを悟っていた。
月輪尼(がちりんに 24歳)とのあいだが安定しているからだとわかっていた。
施療に名を借りた庵での出事(でごと 交合)もつづいてい、待っている患者がいないのをいいことに、比丘尼はその時の声を高めはじめていた。
声を高めることで、快感がさらに昂まるようであった。
五感全部をつかって躰を解きはなっていた。
月輪尼の声で、辰蔵も自信を強めてきていた。
それが弓術にも反映していたのであった。
布施師も、辰蔵の体の変わりようには気づいていた。
鉄条入りの木刀を朝夕300回ずつ振りぬいていることは、平蔵(へいぞう 39歳)から伝え聴いていたし、むすめ・於丹而(にじ 14歳)への思慕をきっぱりあきらめたらしいこともたしかめた。
そうすると、新しいおんなができたとしかかんがえられない。
ま、それはそれでいいのではないか。
いまの落ち着きようから見て、紛糾しそうなあいだがらのおんなでないことは察しがついていた。
この日の行射では、10射とも的を射抜き、うち5矢が中心に集まっていた。
(若者の成長は若竹のごとし、だ)
布施は
「今年からは、さらに強弓にしてもいいな」
励まして帰した。
布施邸の牛込白銀(うしごめしろかね)町から大塚の富士見坂下の蓮華院までは18丁(2km)あるかなしであった。
【ちゅうすけ注】このころ江戸には、富士見坂と呼ばれる坂は10指にあまるほどあった。現在は、半分だけ山容が望める坂が一つだけである。
いつも弓の帰りには立ち寄るので、月輪尼は甘いものをととのえて待っていた。
品定めをしながら口をついてでるのは、、『父母恩重(おんぢゅ)経』の一節---
[母は児(こ)を見て歓び児は母を見て喜ぶ]
口ずさむたびに苦笑した。
辰蔵とのあいだは、それほど、母と子のよう慈愛で結ばれているといってもよかった。
しかし、今日の訪れを待つ気分は特別であった。
「ややができました」
告げた時の辰蔵の顔を想像するたびに頬がゆるんだ。
(15歳で一児の父---)
あのことの前に告げるべきか、事後のほうが静かに聴いてくれるか、迷うことも楽しかった。
辰蔵がいつものように、弓袋や箙(えびら)などを持ってあらわれた。
用具を入り口の脇におかせ、手をとって沙弥壇(しゃみだん)の前に座らせた。
茶と点心を供し、両手をついて躰をかたむけ、
「辰(たっ)はん。おめでとはん」
きょとんとしている辰蔵に、
「辰(たっ)はんは、お父ごにならはりましたんえ」
「なに---?」
「ややができましたん」
「------」
【参照】2011年08月20日~[辰蔵と月輪尼(がちりんに)] (1) (2) (3) (5>) (6) (7) (8) (9)
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コメント
月輪尼さん、やっぱり懐妊なさいましたか。辰蔵さんとのことが、一度や二度ではないんだし、当然、おこることでした。辰蔵さんも14才なら、男としての機能もそなえており、月輪尼さんを満足させているわけですから。
しかし、月輪尼さん、宗派や世間の目をどうやってあざむきましょう?
投稿: tomo | 2011.08.23 03:51
>tomo さん
人目をごまかす策は、5,6ヶ月のうちになんとかなりましょう。
困ったのは、乳です。月輪尼の乳房から、赤ん坊が吸わない分、にじんできます。絞ったあと、さらしを巻いたでしょうが、それでもにじんでき、べとべとになります。
それを洗って干すにも、人目がはばかられます。どうしたんでしょうねえ。名案があったたら教えてください。
投稿: ちゅうすけ | 2011.08.23 08:42