辰蔵と月輪尼(がちりんに)(9)
「父から、辻番所をめぐりを解くというお許しがでた」
辰蔵(たつぞう 15歳)が、並んで仰臥(ぎようが)している月輪尼(がちりんに 24歳)へ報じた。
「そら、よろしおした」
長谷川家で公認になってから、月輪尼の姉さん女房気どりが濃くなっていた。
ゆっくり裸身をおこし、枕元に脱いでおいた刺し子の腹巻をつけ、また横になった。
「妙(たえ)お婆はんの手作りやよって、仇や疎かにできしまへんやろ。しっかり温めて、ええやや子産まんと---」
そのときにも外そうとしないのを、
「腹あたりがごわごわしていて、気がのらぬ」
辰蔵がきらったために、ようやく外した腹巻であった。
「5ヶ月になったら、ちゃんとした腹帯を辰(たっ)はんと金比羅はんへ行(い)て、授かったらええゆうてくれはりましたんえ」
「真言宗の比丘尼の敬(ゆき)が金比羅宮へ参詣してもいいのか?」
敬とは、清華格の公卿の家の六女としての月輪尼の俗名であった。
睦みの頂上では、
「敬、ゆき---ゆき」
呼びかけている。
知識のうすい辰蔵に、金比羅はもともと仏教の12神将のうちのコンピーラがなまって海の守神になったもので、「航海、海---産み---妊婦の腹帯」となったのではないかと披露した。
「敬は、広智深識だからなあ」
そのほうではかなわないと、辰蔵はあきらめていた。
(こころの的を射ること、つぼを射ぬくことなら---)
[懐胎すること十月(じゅふげつ)、迅速にして停(とどま)らず。
月満ち時に臨(のぞ)んで業風(ごつぷう)催促す。
生るる日にあたり、遍躰(へんたい)酸疼(しゅんとう)し、
骨節(こっせつ)分離して千支(せんし)倶(とも)に解(と)く、
中心悶絶(もんぜつ)して死活いまだ分(わか)たず。
------------]
産褥が軽く、短くなるための『父母恩重(おんぢう)経』の唱句と、月輪尼は信じていた。
「あ、動きはった---ここんとこ、お父ごの訪れがしげしげやよってに、もろ手ぇあげてよろこんではんねんよ」
7ヶ月目からの潜(ひそ)み場所は手あてがついたから、大船に乗ったつもりで安心しているがいい、といってくれた平蔵(へいぞう 39歳)に、すべてをまかしきっていた。
親しく言葉をかわしてみると、平蔵は頼りになる父ごであった。
(もっと早うに知りあったら、もしやすると、この人のほうを、ややの父親にしたかもしれへん)
【参照】2011年08月20日~[辰蔵と月輪尼(がちりんに)] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
| 固定リンク
「006長谷川辰蔵 ・於敬(ゆき)」カテゴリの記事
- 月輪尼の初瀬(はせ)への旅(4)(2011.11.05)
- 月輪尼、改め、於敬(ゆき)(4)(2011.11.26)
- 月輪尼、改め、於敬(ゆき)(2)(2011.11.24)
- 月輪尼、改め、於敬(ゆき)(3)(2011.11.25)
- 養女のすすめ(7)(2007.10.20)
コメント