カテゴリー「148松造・お粂・お通・善太」の記事

2011.12.20

お通の祝言(3)

祝言は、当時の江戸庶民としては型やぶりで、今戸の〔銀波楼〕で六ッ(午後6時)から行われた。

花婿・弘二(こうじ 22歳)の母親・お(のう 44歳)は、嫁取りなのだから近所への手前、石原の家ですべきだと自分のときのことを引きあいにだしたが、幕臣・徒の組頭の長谷川さまに申しわけないと弘二が我意を通した。

近隣へは祝言の翌日、花嫁とともに引き出物を配ってまわることで納得した。
は条件として、父親代わりに〔美濃屋〕の隠居・墨卯(ぼくぼう 52歳)の出席を認めさせた。

墨卯はなんと、町内の古老らしく、紋付羽織であらわれた。

花嫁・お通(つう 18歳)の側の顔ぶれは、お(くめ 44歳)、その夫・松造(よしぞう 34歳)、弟で浅草·諏訪町の墨·筆·硯問屋〔平沢〕の住みこみの手代・善太(ぜんた 16歳)の家族のほかは、肩衣(かたぎぬ)の平蔵(へいぞう 40歳)と奈々(なな 18歳)、(箱根屋)の権七(ごんとしち 53歳)とお須賀(すが 48歳)夫婦、〔耳より〕の紋次(もんじ)、花嫁の化粧をうけもったお(かつ 44歳)、御厩の渡し舟の舟頭2人。

花婿側は母親と墨卯のほかは、木灰の仕入れ先の神田花房町の薪炭問屋〔稲城屋〕と湯島坂下の刷毛問屋〔江戸屋〕の番頭の2人だけであった。

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(〔江戸屋〕刷毛問屋 花婿側の仕入れ先 『江戸買物独案内』)


それと、媒酌人の小浪(こなみ 46歳)・今助(いますけ 38歳)。

小浪が型どおりに2人のなれそめを京言葉で披露し、これからのつきあいをお願いし、あとは各自が料理に専念した。

平蔵の前にあいさつにきたおに、
「ややができるまで店にでるとして、早く善太の嫁をみつけて後をつがせないとな」
「まだ16歳でございますからねえ」
「16は立派な大人だ。お店者(たなもの)は早いというから、もうおんなをしっていよう」

五ッ半(午後8時)前、小浪弘二たちをうながし、今助墨卯に念を入れた。
「今夜はおさんをそちらさんで泊めてやっておくんなさい」

迎えの屋根つき黒舟で石原橋へ舟が着くと、小浪墨卯とおをうながして先へやってから、舟頭と弘二にそのまま待つようにいい、提灯に灯を移し、おと2人で陸(おか)へ消えた。

石原の家で、桜色の薄い閨衣(ねや)着替えるところまで見とどけ、敷かれていた布団の枕元のはさみ紙の分量をたしかめ、おの尻をぼんとうち、
「うまいこと、やりや。あんじょう、いくって---」

おそらく、鋭い棘(とげ)がささったようにみじめだった自分の処女喪失のときのことを想いだし、おの満ち足りた初夜を祈念したのであろう。

参照】20081210[「久栄の躰にお徴(しるし)を---」] (

独り合点して舟へ戻り、弘二へうなずき、
「花嫁はん、待ってはるよって、いそぎぃ---」

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(清長「睦み」 イメー゜ジ)

弘二は、2日前の医師・多岐安長元簡(もとやす 31歳)による、初夜の男の所作を反芻していたろう。
あの夜は隠していたが、おの裸をを想像すると、股間のものが立ちっぱなしであった。
家へ帰り、先端があたっていた下帯が湿っていることに気づいて顔を赤らめたことであった。


平蔵権七夫婦とともに別の黒舟で、見送りにきた松造とおに、
「今夜は、悦び声を盛大にあげて愉しめるな。ひと味もふた味も違ってこよう」
「殿さま!」
奈々が腕をつねってたしなめ、権七夫婦が笑顔でそれを見守っていた。

奈々は、おより大人ぶった気分にひたっていたが、家へ着いたら花嫁のようにふるえてみようとこころづもりしていた。
おんなは、幾つもの顔をもっている。

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2011.12.19

お通の祝言(2)

医師・多岐安長元簡(もとやす 31歳)に平蔵(へいぞう 40歳)が頼んだことは、もう一つあった。

渋塗り職・弘二(こうじ 22歳)の母親の病因の診立てであった。
弘二が半日仕事を休み、お(のう 44歳)を無理やり、石島町から外神田,佐久間町の躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)へ連れだした。

は頭痛持ちであった。
亭主の弘造(こうぞう 享年43歳)が3年前に逝ってから、頭痛がはげしくなったといって昼間っから,寝こむ日が多くなった。

元簡の診断では、躰には異常が見つからなかった。
中年の後家にありがちな性的欲求が満たされない精神的なものと判断せざるをえなかった。

っさん。人助けとおもって相手の男を見つけてやってよ」
平蔵が気軽にいいつけた。

44歳といえばお(つう 18歳)の母親・お(くめ)も同齢であるが、こちらには松造(よしぞう 34歳)という生きのいい齢下の亭主がついていて、そっちの不満はない。
不満があるとすれば、おが同居しているので、閨声(ねやごえ)があげられないことぐらいだ。

弘二の祝言の媒酌役の小浪(こなみ)も、職業がら若づくりをしている46歳だが、8歳下の今助(いますけ38歳)にそっちのほうは不自由していないから肌にも張りがある。

ずっと独身だったお(かつ)も44歳だが、30すぎまではお(りょう)という立役がい、そのあとは自分がその役につき、18も齢下のお乃舞(のぶ)とこのあいだまで睦んでいたから水っ気を失っていない。

ほかならぬ平蔵から橋わたし役を押しつけられた元簡は、おと同じ本所・石原町の菓子舗〔美濃屋]の隠居・墨卯(ぼくぼう 52歳)に目をつけた。
墨卯は俳号で、隅(墨)田川の卯(東)の住人としゃれたつもり。
〔石原おこし〕と名づけたおこしの本舗を軌道にのせていたが、半年前に連れあいを亡くしたのを機に店を息子にゆずり、盆栽いじりと句吟の風流ごとに打ちんだものの、このところ目がかすむようになったと、町医から紹介されてきた。

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(〔美濃屋〕の石原おこし 『江戸買物独案内』1824)

〔美濃屋〕墨卯とおが同時刻に診察にくるように計らい、
「おや、濃の字つながりで石原町ご近所同士とは奇遇ですな。濃(こ)い仲(恋仲)というご縁かも。〔美濃屋〕さん、お帰りに池の端(いけのはた)あたりでお茶にお誘いになったら---?」
暗示をかけた。

魚ごころに水ごころ---その日のうちに池の端の出合茶屋でできあった。

 させたいと  したいは直(じき)に できるなり

まさか、墨卯の句ではあるまい。

夕刻になると隠居部屋へ通い、かすみ目に効くといわれた人参に竹節(ちくせつ)人参の小片をまぜて擂鉢(すりばち)ですった汁をせっせと呑ませては泊まりこむものだから、おの頭痛も霧散してしまった。

参照】2010年2月18日~[竹節(ちくせつ)人参] () () () (

弘二の祝言の翌日には、新夫婦をおっぽって箱根の湯へ2人で湯治にいく約束もできていた。


そうだ、祝言の2日前、お(つう 18歳)と弘二への、多岐元簡先生の名講義のつづきがあった。

弘二の玉棒をつまみ、陰唇をみずからひらいてみちびき入れる---おの顔が赤林檎のように火照っていたところでお茶がはいった。

「玉門に入っても、弘二どの、先へすすんではならぬ。しばらく、入り口で待て。おも腰をあげて求めてはならぬ」

「なぜですか?」
「おが乙女(おとめ)だからだ。乙女から一人前のおんなになる関所があってな」
奈々(なな 18歳)さんに聴きました。ちくっと一瞬だそうです」

「覚悟していれば、耐えられる痛みだ。弘二どのはおどのに覚悟を訊け」
「なんと---?」
「しあわせにするから、通っていいか?---と」

「通って---」
が悲鳴のような声をあげた。

ちゅうすけ注】元簡先生がさらに、2010年12月17日[医学館・多紀(たき)家] () に引いた「第五章 臨御(---房事におよぶ前---(前戯))]読んできかせたことはいうまでもない。ご参考までに。上のオレンジ色の数字をクリック。

参照】多岐安長元簡と長谷川平蔵の関係。
2010年12月12日~[医学館・多紀(たき)家] () () () () () (
2010年12月18日~[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] () () () () () () () (
2010年12月31日~[〔三ッ目屋〕甚兵衛] () () (
2011年7月27日[天明3年(1783)の暗雲] (
2011年9月4~日[平蔵、西丸徒頭に昇進] () (
2011年10月12日[日野宿への旅] (

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2011.12.18

お通の祝言

祝言を2日後にひかえたお(つう 18歳)と渋塗り職の弘二(こうじ 22歳)が、外神田,佐久間町にある躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)の教頭・多岐安長元簡(もとやす 31歳)の診察部屋に控えていた。
もちろん、3者とも唐様(からよう)に腰掛けであった。

参照】2011年11月13日~[お通の恋] () () () (

2人の前には『房内編』の写本と医家向けの人体絵図が置かれていた。

写本は『房内編』の「和志(こころの和(やわ)らzh@)」の中の初夜のこころえを抜粋したものであった。

手間しごとで立派にかせいでいる職人で、22歳にもなっておんなを経験していないなんて信じられないが、弘二は事実、そうなのだ。
そりゃあ、世間の表向きは好青年という評言かもしれないが、嫁になるむすめにすれば不安でもあるし、ものたりなくもある。

そこで、おの後見人を任じている平蔵(へいぞう 40歳)が案じ、ひそかに多岐元簡に、
「安(や)っさん。例の『房内編』で、初手のところを伝授してやってはくれまいか?」

弘二が男としてさなぎのままなのは、度胸や性欲がないのではなく、父親から仕込まれた渋塗り仕事は独りでやるものなので、遊びをさそってくれる仲間がいなかっただけのことであった。
病気がちの母親のために金もためていた。

だから、それを商売にしているおんなから手ほできを受けてこなかった。

純無垢(じゅんむく)の若者といえば聞こえはいいはずが、仕事が渋塗りという地味な職で、黒渋塗りが多いから着ているものも手足・顔も汚れやすい。
だから、仕事先で若者食いの後家連にも見逃されてきたというわけ。


さて、っさんが2人に理解できる江戸の庶民ことばで講じた道玄子の説を、さらに現代文に置き換えると、

初床(はつどこ)のときは、双方それなりの薄着か裸で、胡坐(あぐら)か横たわっている男性の左に女性が座るかあおむけに寝る。
なぜなら、男性の利き腕(右腕)が動きやすくするため(左利きはこの逆)。

胡坐なら、女性をふところに抱き入れ、腰をしっかりかかえて、つよく感受部位(乳房や乳頭、頭、首筋、耳たぶ、背中、太腿の内側、脚の指などをやさしく刺激する。

こうしているちに互いのこころが一つなになり、男女は自然に躰をくっつけあい、口を吸いあい愉しむ。
男性は相手の唇を口にふくみ、女性は男性の上唇を含んで吸いあい、互いに玉漿(ぎょくしょう 唾液)をむさぼりあい、軽く舌を噛みあったりまさぐりあったりしてふざけたり。
唇をそっと噛むのもおすすめ。
女性の頭をだいたり、髪を指て梳いてじらすのもいい。

唇と舌は、相手の別のところ---乳首とか陰核や陰唇を愛撫するためにも活躍させる。

女性が思慮を忘れ、羞恥心がきえてきたら、男性は女性の左手で男性の玉茎をつかませ、男性も女性の玉門を指で吹笛の穴を交互にふさぐような感じで愛撫する。

っさんが講義中断し、2人の様子をうかがうと、おは顔に血の気をみなぎらせ、腰の芯がもぞもぞするらしく何度めかの坐わりなおしをし、膝でにぎりしめていた右のこぶしをひらき、弘二の左の甲をつかんだ。

唾をのみこみながら要点を書きとめていた弘二も、すぐに掌をひらいておの手に応えた。

「ここまでが前段であってな。これからが本段である。前段のことを前戯と呼んでおるが、若いと気負って前戯がおろそかになりがちであるからこころするように、な」

「先生。前戯にはどれほどの刻(とき)をあてれば---?」
「そうだな。初閨(はつねや)では半刻(1時間)といっても辛抱できまい。床(とこ)に横になってから小半刻(30分)も費やせば、花嫁のほうも受け入れの用意ができていよう。陰唇---俗にわれ目といっておる肉戸を開き、指先で愛液---世間で淫水とかおしめりとかいっているものがあふれていることをたしかめ、よしとなったらおどのが弘二どのの硬直しているはずの玉棒をつかみ、おのれの玉門へみちびく。そのとき、陰唇をひらいておくことを忘れるでない」

「それは、おれがひらくので---?」
「いや。おどのの役目だ」

がまた坐lりなおした。
顔は一層真っ赤にほてっている。

「玉門に入っても、弘二どの、先へすすんではならぬ。しばらく、入り口で待て。おも腰をあげて求めてはならぬ」

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(北斎『浪千鳥 イメージ 『芸術新潮』 2001年1月号
「北斎のラスト・エロチカ」より)


参照】おの、これまでの主たる登場シーンを降順に。

2011年11月13日~[お通の恋] () () () (
2011年4月26日[嶋田宿への道中] (
2011年3月25日[長谷川銕五郎の誕生] (
2010年11月11日[茶寮〔季四〕の店開き] (
2010年7月13日~[〔(世古(せこ)本陣)〕のお賀茂] () () (
 2010年6月27日[〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂] () () (
2010年6月26日[〔於玉ヶ池(たまがいけ)〕の伝六]2010年6月25日[遥かなり、貴志の村] (


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2011.11.16

お通の恋(4)

弘二(こうじ 22歳)どんは、ぜひに嫁にと---」<

横川に架かる菊川橋西詰の酒亭〔ひさご〕で、飯台を囲んでいるのは浅草・橋場の元締・〔木賊(とくさ)〕の今助(いますけ 38歳)とその女房で料亭・〔銀波楼〕の女将の小浪(こなみ 46歳)、お(つう 18歳)の母親で〔三文(さんもん)茶亭〕の女将・お(くめ 44歳)とその夫で長谷川家の家士・松造(よしぞう 34歳)。
そして、長谷川平蔵(へいぞう 40歳)であった。

平蔵が、おの義理の父親・松造に、渋塗職の弘二の気持ちをたしかめろととすすめても腰をあげないので、このままにしておくと、おがじれて出会茶屋あたりで安っぽい交合を誘いかねない、弘二のほうはおなごの経験がないというから、ひょっとしたらあわてて不具合なことになり仲がこわれるかもしれないと、今助弘二の気持ちを訊きださせた。

今助にいいつけたのは、婚儀となったら、今助小浪の夫婦の媒酌、〔銀波楼〕での披露までこころづもりしてのことであった。

弘二が踏みだしかねていたのは、病身な母親をかかえている負い目のある自分に嫁(か)すことは、おにとって幸せにはなるまいとおもっていたからとわかった。

平蔵のあしらいに、気のり薄だった松造もようやく愁眉をひらいた。
は、惚れた男と添うのがむすめにとっていちばんと割り切っていた。
それに、弘二の家業の渋塗りというのも気にいっていた。

あとでおがもらしたところによると、生渋(きしぶ)は椑柿(しぶがき)1斗(18㍑)を2.5倍.の水に入れ、臼で搗き、一晩おいてしぼったもので、黒渋はそれに灰墨(はいずみ)をまぜたものというところも合点がいった。
つまり、元手がほとんどかからず、手間賃が黒渋塗りで坪(1.8㎡)あたり100文(4000円)、灰汁洗(あくあら)いつきだと5割増し、1日に5坪はこなすと聴いたことによる。

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(渋塗り職 『風俗画報』1898.01.10号 塗り絵師:ちゅうすけ)


「もっとも、雨の日は仕事になりせんから、ならすと働けるのは年に300日あるかどうかです」
弘二のことばに、それでも年37両(600万円)と手早く暗算した。
(椑柿代をさっぴいても25両はのこる。おも安心してややが産める)

の計算を軽んじてはならない、女は所帯をもつとなればだれだって先のさきまで瀬ぶみする。
惚れたの好きだのは瀬ぶみが済んでのことだ。

いま日に5坪こなしているなら、添ったら尻をたたいて6坪塗る算段をさせればいい。
小僧をつかえば8坪もいけるかもしれない。

の胸のうちを読んだ平蔵松造に、
「〔三文茶亭〕の欄間に、渋塗り注文取次ぎどころという披露目札を貼ったらとおにいってみよ。ほかにも希望があったら取次ぎ料を5厘(5%)とでも決めておくんだな」
(この案は元締衆にも教え、それぞれのシマ内の茶店と銭湯を仕切らせるか。若い衆の小遣いかせぎにはなるだろう。いまは商い人によって世間がまわっておるから、ほかにもお披露目口はありそうだな)


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2011.11.15

お通の恋(3)

「ほいでね、お(つう 18歳)はんが訊くん、最初の時、どこにどないして通すんって」
「きわどいな」
奈々(なな 18歳)に会うことをすすめたのは平蔵(へいぞう 40歳)ではあったが、おがあからさまに初会のことを訊くとは予想もしていなかった。

「そんなん、寺子屋---こっちゃは手習いどころとかゆうんやったね。あそこでおんなになった徴(しる)しらの月のものが始まった子同士、話しおうてるやん---ここからややがでてくるし、種が入るんもここやゆうて」

は10歳の時から昼間は〔三文(さんもん)茶亭〕で母・お(くめ 36歳=当時)の手助けにかかりっきりで、同じ齢ごろの手習い子たちと徴(しる)し談義)やふくらみはじめた乳房のくらべっこをすることを経験していなかった。

「月のものの手当ては、ぜぇんぶ、お(45歳=)はんから教わったゆうてた」
「そこが接合の門だということまで手引きしたのか?」
「まさか。相手の男はんのいわはるままにしたらええ、ゆうたら、弘二ゆう人は、まだ、おなごを抱いたことがないんやって自慢されたん。そんなん、自慢することやあらへん、いおうおもたけど、わけ訊かれたら(くら)はんの手練(てだ)れ---足練れ? をいわんならんし---」

「2人の閨(ねや)ごとは、ほかにもらしてはならぬ」
「せやから、奈保(なお 22歳)はんに訊いとおみ、ゆうといた」
(やっ)さん(多岐安長元簡(もとやす 31歳 奈保の夫)に「好女(こうじょ)」の条件をたれられたら、江戸育ちのおが自信を失いかねないから、さんに警告しておかないと---)

参照】2010年12月21日[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] (

「おは、本気で弘二とやらに抱かれたがっておるようであったか?」
「思いつめとるようやった」
弘二が抱きたいといったのか?」
「いわれてぇへんよって、想うてくれてぇへんと---むすめやったら、だれかてそないに悩むもん」

奈々も覚えがあるか?」
はんのときほど真剣やないけど、ちょびっとはあった」
「誰だ?」
「忘れてもうた。忘れさせたんははんやけど---」

「いまが大事だ。奈々はわれの宝ものだ」
「うれしがせはるぅ。あんじょ腰まわしまひょ」

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2011.11.14

お通の恋(2)

「知りあったが去年の秋おそくだと、かれこれ半年になる」
「さようでございます」
しゃも鍋屋〔五鉄〕の2階で話しあっているのは、平蔵(へいぞう 40歳)と松造(よしぞう 35歳)の主従であった。

「それで、お(つう 18歳)は、処女(おとめ)のしるしを、渋塗り職の弘二(こうじ 22歳)に捧げてしまったのか」
松造の躰が、一瞬、震えた。

現代(いま)と違い、おとめの値打ちがもうちょっと貴重視にされていた。

もっとも、平蔵の室の久栄(ひさえ 16歳=当時)が挙式前に、
「躰にお徴(しるし)を---」
強く迫り、経験ずみのおんたちしかしらなかった銕三郎(てつさぶろう 23歳=当時)をうろたえさせたものであった。

参照】2008年12月16日~[「久栄の躰にお徴(しるし)を---」] () () () () 

松造がなにかいいかけた時に、亭主の三次郎(さんじろう 36歳)が平蔵には冷や酒、松造には熱燗をもってあがってきたので、おの話題は打ち切られた。


別れぎわに、
〔おは、奈々(なな 18歳)と同(おな)い齢だし、礼法もいっしょに習った仲だ。相談ごとがあったら訪ねさせるがよい。母親にもいえないことでも話すかもしれぬ」
「伝えておきます」


それから4,5日の登城の往還に松造は、ほかの供の耳を気づかったか、おの名を口にしなかった。
そのあと平蔵は、4月11日と決まっている家斉(いえなり 13歳)の初鷹狩りの下見に刻(とき)をとられ、おのことは放念せざるを得なかった。

家斉の初鷹狩りの狩り場にあてられたのは東深川というより、もっと東の亀戸村の羅漢寺辺であった。
長谷川家の屋敷から小1里(3km)弱であったから登城よりも近まということで、奈々の家へは寄れなかった。


「お(つう)はん? 来たよ」
「なにかいってたか?」
「うん。(くら)さんとの始まりを訊かれた」
「おいおい。行水のことを話したのではあるまいな」
奈々はぺろりと舌をだし、
「いうはずない。事故で結ばれたって、口が裂けてもいわれへん。ええおんなとして恥さらしやもん」

参照】2011年8月30日[新しい命、消えた命] (

2階で並んで火事をながめていたとき、平蔵の掌がなにかの拍子に奈々の尻に触れ、そのまま布団に倒れこんのだというと、
「お尻、だしてたの?」
だから、この半纏(はんてん)みたいな閨衣(,ねやい)を見せると、着物を脱いで着てみ、
「あたいには、着てみせてあげる場所がないから無理や」
泣きべそかいてた。

里貴(ゆき 逝年40歳)ゆずりといってやったか?」
「ゆうわけないやん」
「こいつ---」
「でも、さんがあの時、これ着てたうちのお尻(いど)に触ったんはほんまやもん」

参照】2011年7月14日[奈々という乙女] (

「覚えてない」
「うち、ちゃんと覚えとる」
(おんなは、つまらないことでも、自分に都合がいいことはいつまでも覚えておる生きものだ)

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2011.11.13

お通の恋

松造(よしぞう 35歳)。心配ごとでもあるのか。浮かぬ顔をしておるぞ」

天明5年(1785)3月16日、幼君・家斉(いえなり 13歳)の王子近辺への遊行があり、平蔵(へいぞう 40歳)が組頭をしている西丸・徒(かち)の3の組は、駒込から飛鳥山までの半里(2km)ほどの辻々を徒士たちが警備し、役目をはたした。

月魄(つきしろ)で先まわりしての配備の手くばりにあわただしかった平蔵に、駆け足でしたがった供の家士たちと口とりのねぎらいの宴を、〔五鉄〕でもった。

おのおのを先に返し、松造に新しい銚子を頼み、注いでやりながら問うた。
「はい。うちのことでして---」
「お(くめ 45歳)が身ごもったか?」

苦笑した松造が首をふり、
「お(つう 18歳)に惚れた男ができたらしいのです」

は、おの連れ子である。
御厩河岸の渡し場の前で、母親とともに〔三文(さんもん)茶亭〕を切りもりしているというか、看板むすめとして8年ほどやってきていた。

参照】20101012~[〔三文(さんもん)茶亭〕のお粂(くめ)] (1) (2) (3

店にでたころは10歳だったから、可愛いという風情であったが、白粉問屋〔福田屋〕で化粧(けわい)指南師をしているお勝(かつ 43歳)が自分のむすめのように入念に手入れしてやっているので、齢ごろの艶っ気も加わり、人目を引くばかりになっていた。

「18歳だからまだまだねんねとおもっておりましたが---」
母親のおにいわせると、むすめが18にもなって思いおもわれる男ができないようでは一人前のおんなではない、躰の芯から男がほしくてほしくてじっとしてられないが、いざ、身をまかすかとなると文字通り腰が引けるものだから、見守っていればいいのだそうだが、
「なさぬ仲の手前としては、あぶなっかしくて、もったいなくて---」
「もったいないって、松造が婿になれるわけでもあるまいに--」
「それはそうでございますが、あんな男にむざむざ---」

「あんな男とは---?」
「渋塗り職で、22歳になる弘二(こうじ)って青二才です」
松造。職人で22歳といえば、りっぱに一本立ちであろう」

弘二と知りあったのは、去年の晩秋だという。
御厩渡しで対岸の石原町の家へ帰る渡舟を待つあいだに〔三文茶亭〕でひと息入れ、よほどに喉がかわいていたのか、お代わりを2杯し、勘定という段に、おが、
「3文(120円)です---」
「そりゃあおかしい。お代わりを2度もしてもらってる」
9文(360円)を置こうとしたので、6文を中にお通ともみあいになった。
手と手が触れあった。
その時、お通の心の臓に衝撃が走った。

けっきょく、3文ですましたが、翌日、終い舟の前にやってき、表戸8枚を煮沸した灰汁(はいじる)での灰汁洗(あくあら)いからはじめた。
灰汁の熱沸は、弘二の指示でおがまめまめしく鍋や火の番をした。
乾いた板戸から色味の薄い生渋(きしぶ)を塗った。

1刻(2時間)後、茶代の返礼だと笑った。
双頬にできたえくぼに、おはころりと参った。

渡し舟があがってしまっていたから、対岸の石原町の家まで生渋と黒渋を入れた2ヶの小桶を両天秤で担いで大川橋をわたるのもおっくうだから、朝まで預かってくれといわれ、おは承知した。

迎えにきたおが、
「夕餉(ゆうげ)の用意ができているから、食べていきなよ」

食事のあいまに聞きだすと、母一人子一人、渋塗り職だった父親は3年前に亡じ、その得意先を引き継いでやっているのだと。
酒も呑(や)らず、寝たり起きたりの母親を看ていることもわかった。
松造は、始終むっつりと、やりとりを聴きながら呑んでいるだけであった。

干物を持たせて帰したが、翌朝、
弘二さんが桶をとりに見えるから---」
は六ッ(午前6時)には銭湯へゆき、朝飯もそこそこに店へでようとしたので、おが、
「男を待たせるほどにあつかわないと、軽いおんなに見られるから、じっくりお構え---」

「そういうおは、松造の布団にもぐりこんできたのであろう。は、ははは」
「殿。30過ぎて後家を立てていたおと、未通のおぼこむすめとを、いっしょになさらないでください」
「おの肩をもつことよ」


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2010.10.14

〔三文(さんもん)茶亭〕のお粂(くめ)(3)

(くめ 36歳)が御厩(うまや)河岸の茶亭〕〔三文(さんもん)茶亭〕の女主人となり、むすめのお(つう 10歳)が客へ給仕をするようになると、一躍、人気茶汲みむすめとなったのも予想外なことであった。

日本橋通3丁目箔屋町の紅・白粉問屋〔福田屋〕で、化粧(けわい)指南師をしているお(おかつ 36歳)と弟子のお乃舞(のぶ 18歳)が、5日にいちどずつ、只で髪を結ってくれることになった。
その日は、朝いちばんでやってくれるので、洗い髪を軽く巻いたおが、六ッ半(午前7時)前には、正覚寺(框(かや)寺)門前町の新居を出、〔福田屋〕へ向かう。

まだ10歳なので、初々しい顔には化粧はしない。
工夫をこらした髪型と七色の元結、選ばれた鹿の子をそえ、柘植(つげ)製のお六櫛をさした楚々とした風情なのだが、それが好感を呼んだ。

もっとも、人気をあおったのは、〔耳より〕の紋次(もんじ 34歳)が〔化粧読みうり〕に、〔三文(さんもん)茶亭〕の質素な値段とおの趣味のよさを、小さく載せた文章であった。
小さい記事ほど、読み手のこころをくすぐる。
(これは、自分だけしか目にしていないはず)と。

〔福田屋〕とすれば、7色元結や鹿の子が売れるのでほくほく。
ほかの元締衆があつかっている〔化粧読みうり〕のお披露目枠を:契約している白粉問屋にも同じ品がまわされているので、評判は上々というわけ。
いまでいう、流行づくりのキャンペーンであろうか。

「おの人気は、かつての笠森おを抜いたようだな」
松造(まつぞう 26歳)に言った平蔵(へいぞう 32歳)も、わがむすめのことのように、やにさがっていた。

参照】2010年2月17日[〔笠森〕おせん

松造が、この殿のためなら命なんかいつでも投げだす---と、仲間の従者にいったらしい。

もっとも、とうのおは、絵描きのモデルになることを、頑として承知しなかった。
「わたしは、〔三文茶亭〕が繁盛し、正覚寺門前町の家を買ったお金を稼ぐためにやっているのです。人気者になるためにやっているのではありません」

母親のこれまでの苦労をまじかに見て育ったからであろう、10歳のおんなの子とはおもえないほど、しっかりしていた。

たしかに新居は、平蔵日信尼(にっしんに 36歳)に話し、とりあえず10両(160万円)をわたし、あとの15両は年に3両(48万円)ずつ5年々賦となっていた。
その10両も、〔箱根屋〕の権七(ごんしち 45歳)が〔化粧読みうり〕の版元料として届けてきたものであった。


〔三文茶亭〕は、平蔵の武家の算盤よりいくらか下まわったが、着実に月2両(32万円)に近い純益がでていたから、比丘尼への返済は2年とかからなかった。

_120その日信尼が、あるとき、托鉢の道すがらに立ちより、おに、
「この比丘尼には、人さまには言えない古傷がございます。長谷川さまのお情けで、この店をやらせていただきましたが、ずっとおすがりしていては、あの方のご出世に障(さわ)ります。み仏の慈悲の下の入るしかないと思いきわめ、剃髪しました。おんなとしては、身を斬られるよりもつろうございました---」
童女のような汚れのない顔に、むりにうかべた微笑があった。

さげ尼時代の有髪だった日信尼が、平蔵に抱かれ、長い黒髪を枕元でうねらせ、うわごとをもらすほどに乱れていた姿は、おには想像もできなかった。

ちゅうすけのお断り】の法名をうっかりしていました。
日蓮宗の尼なので、日の字ではじまるのがふつうでしょう。

たとえば、亡父・雄(のぶお 享年55歳)は日晴
宣雄の内妻で、平蔵の生母( たえ 享年70歳)は日省
平蔵宣以(のぶため 享年50歳)は日耀久栄(ひさえ 享年65歳)は日進

日信尼
と改め、これまでの記述をすべて、日信尼日俊老尼と訂正しました。

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2010.10.13

〔三文(さんもん)〕茶亭〕のお粂(くめ)(2)

御厩河岸の茶店〔小浪(こなみ)の借り主が変わること。
借り主は、長谷川家の従僕・松造(まつぞう 26歳)の内儀・お(くめ 36歳)であること。
その内儀は、老職・田沼意次(おきつぐ)侯にもかかわりがあるおんなであること。
ついては、新開店から半年間、家賃なしと願いたいこと。
町の風評は、まちがいなく、市中見廻りの耳にいれること---などを記した書状を、火盗改メ・弓7の組、土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)の次席与力の高遠(たかとう)弥大夫(やだゆう 58歳)へとどけた。

が〔小浪〕の女主人になる話を、いちばんに喜んだのは松造であった。
勤めの時刻がほとんどいっしょになるからであった。

薬研堀の料亭〔草加(そうか)屋〕の女中頭だと、退(ひ)けがどうしても五ッ(午後8時)をすぎる。
日によっては五ッ半(午後9時)をまわることもあった。
〔草加屋〕へ迎えに行く松造が岩井町の惣介長屋へもどり、晩酌をしてからの床入りは四ッ半(午後11時)。
若い松造がちょっと念を入れた翌朝の、七ッ半(午前5時)の起床はつらかった。

平蔵(へいぞう 32歳)は、わがことのように、茶亭の算用に知恵をしぼった。
まず、店の名を〔三文(さんもん)茶亭〕に変えるようにすすめた。

御厩河岸の渡し賃が3文であるからというのが、その理由。
(ただし、武士は無料)
渡し賃並みの茶代なら、気軽に、「ちょっと休んでいこうか」とおもう客も多いはずである。
3文はいまの120円。
若い美人を揃えているほかの水茶屋では、15文(600円)から30文(1,200円)の店もあった。

茶葉の仕入れは、井関録之助(ろくのすけ 28歳)が上方へ消えるまで用心棒をしていた、北本所の寮の持ち主、日本橋室町の茶問屋〔万屋〕源右衛門(げんえもん 56歳)方に、平蔵が話をとおし、卸し値で届けさせることにした。

参照】2009年6月2日[銕三郎、先祖がえり] (

店の壁には、「〔万屋〕の披露目どころ」と書いた小さな看板をあげさせた。

店の中央に茶室ふうの四畳半の座敷をしつらえ、真ん中に炉をきり、自在鍵をつるす。
客はその周囲に腰をおろす---そうすれば長ッ尻ができないから、客の廻りが早くなり、半刻(1時間)に3廻り、日に30廻りとして、1畳3人掛けが満杯なら400人、その半分とみて600文の売り上げ---茶葉や薪炭、洗い水、 湯呑みの補充などに200文をあてても400文(1朱半 1万6000円)の儲け。

武士の商法とは、こういうのをいうのであろう。

今戸の〔銀波楼〕の女将・小浪(こなみ 38歳)が笑いながら、
「おはん。当分、お(つう 10歳)ちゃんだけにしときィ。雇人はおかんと」
も、そのつもりでいると応えた。

店中に四畳半はむりで、4畳の真ん中に、それでも1尺4寸(42cm)四方の炉をきった。

予想もしていなかったことが2つおきた。

音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 51歳)元締の内儀・お多美(たみ 36歳)が、
「もう、着ィへんようになったよって---」
恐縮しながら、ほとんど新品に近い四季の着物を持ってき、祝ってくれた。
おなじことを、小浪が、
「うちが店をやってたときに着てたもんで、かんにやけど---」

どちらも京好みの色柄で、女客の目が光った。

もう一つは---。

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2010.10.12

〔三文(さんもん)茶亭〕のお粂(くめ)

「今戸の〔銀波楼(ぎんぱろう)〕の女将と名のる年増と、番頭みたいなのが、菊川橋たもとの酒処〔ひさご〕でお待ちしています」
用人・松浦与助(よすけ 62歳)が告げた。
齢相応に地味にはつくりたがらない〔銀波楼〕の小浪(こなみ 36歳)のようなおんなには、与助は採点が辛い。

浅草・今戸一帯をとりしきっている〔木賊(とくさ)〕の二代目元締の今助(いますけ 30歳)も、杉浦用人の口にかかると片なしであった。

「師走で店が忙しいであろうに、お揃いでわざわざ、なにごとかな?」
「不景気で、忙しくなんかおまへん。たまにはお運びやすな」
小浪が、こころやすだてにぼやいた。

「おれのような貧乏旗本が行っては、よけいに不景気になるぞ」
軽くうけながして、今助iを目でうながした。

亭主然と小浪平蔵への酌をうながしておき、、
「じつは、お預かりしております御(おうまや)河岸の茶店〔小浪〕のことでごさいます」

参照】2010年9月9日〔小浪(こなみ)〕のお信(のぶ) (

小浪から買いとった火盗改メの持物だが、亡父・宣雄(のぶお・享年55歳)が仲に立ち、女盗〔不入斗(いりやまず)〕のお(のぶ 30歳=当時)が借りうけた。
4年後、尼寺へ身を隠すことになり、そのあいだだけ、小波にあとを頼んでいたのであった。

「おはんが、本気でみ仏の道に精進しやはるいうてやのに、いつまでもお預かりするのもなんやと---」
それがくせの下から見上げるよう艶っぽい眸(め)つきの小浪が、
「〔薬研堀(やげんぼり)の為右衛門(ためえもん 54歳)元締とこの小頭はんの〔於玉ヶ池(おたまがいけ)〕の伝六はんとも、よう話しおうてみましてん---」
小浪がいいよどんだので、平蔵は不吉な予感をもったが、〔於玉ヶ池〕伝六の名を聞き、疑念をはらった。

「薬研堀のお不動さんのそばの料亭〔草加(そうか)屋〕で女中頭をしておいでのお(くめ 36歳)さんにお引きうけもらえないかと---」
今助が言葉をついだ。

(おが茶店〔小浪〕の女主人になれば、夕暮れとともに店をしまえるから、お(つう 10歳)や善太(ぜんた 8歳)はもとより、松造(まつぞう 26歳)も揃って夕餉がとれる)

「分かった。おに話してみるが、〔草加屋〕への口利きは、〔於玉ヶ池〕の伝六どんだか---」
「それは、もう、話しずみです」
今助が請けおった。

「火盗改メには、おれから話す」
「お願いいたします」

「相談いいますのんは、おはんが住んではった、正覚寺(框寺)門前町のお家を買いとってあげななりまへん、このことどす」

そう、御厩河岸の茶店〔小浪])は火盗改メへの店代(たなだい 家賃)ですむことになっていたので、おは持ち金で門前町の家を買ったのであった。

(たしか、〔神崎かんざき)〕の伊之松(いのまつ)からの退き金(ひきがね)でまにあったとかいっていたから、土地別で25両(400万円)ほどであったような)

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