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2011.04.26

嶋田宿への道中

翌((あ)る朝は、松造(よしぞう 31歳)のけたたましい声で明けた。
「殿、殿。真っ白で、どでかい富士でございます」

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(箱根宿 幕府道中奉行制作 『東海道分間延絵図』)

箱根宿の本陣・〔川田〕角左衛門方の裏庭から望むと、芦ノ湖の上、山伏嶽の右に、ぬうっと、山頂を見せていた。

「手前の生地のからす山から見える富士山は、伏せた猪口ぐらいの大きさでしたが、ここでは、酒顛(しゅてん)童子の大酒盃ほどにそびえています」

富嶽は、三島まで見えたり隠れたりで、松造を有頂天にさせた。
「お(つう 14歳に見せてやりたい」
本心は、お(くめ 41歳であったろう。
は、それこそ月のさわりさえなければ、夜伽は毎晩といっていた。

平蔵があきれると、
「一人寝が7年つづいていたのだもの、取り返さないと損してしまう、とせがむのです」
松造がけろっと応えた。

「毎晩、本膳でか?」
「はい。ニの膳つきの夜もあります」

 【参照】2010年6月27日[ (〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂)](

「睦んでから、かれこれ6年になるであろうが---」
「二の膳がつくのは3日に1夜だから、あと12年は---って勘定だそうです」
「12年といえば---」
「はい、手前が43歳で、お粂が54歳です」
「あきれたものだ。それより、あと3年もしたら、おは嫁にいかせないと、な」

他愛もない主従の会話であった。

が嫁入りしたあと、おとの誰はばかることのない2人きりの激しい交合を想像したのか、松造がひとり笑いしたのを、平蔵は横目でみたが、冷やかしはしなかった。

閨房ごとは、おんなにとっても男にとっても、楽しみが深まるふしぎな営みであった。

「登りより、下りのほうがふくらはぎがくたびれるから、ふんばらないで歩け」
平蔵(へいぞう 37歳)が幾度も声をかけてやった。

三島大社は松造は初めてであったから、参詣に立ち寄った。。

この大社の裏のしもた屋で、後家になったばかりの芙沙(ふさ 25歳=当時)によっておんなの躰の秘所にみちびかれ、銕三郎(てつさぶろう 14歳=当時)は少年期に特有の迷いを落とした。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]

それから10年後の再会は、よけいであったかもしれない。
いや、銕三郎が男として成長していたともいえた。

参照】2009年1月10日[銕三郎、三たびの駿府] (

しかし、従兄弟の栄三郎正満(まさみつ 38歳)が先月、芙沙が女将をしている本陣・[樋口]へ宿泊したはずであった。
どんな思い出ばなしが咲いたか、たしかめてみたくもあった。
芙沙に恥をかかせるでない。男としての、抱いたおんなへの作法でもあろう)
自分にいいきかせたが、少年の初穂をつまむことは、芙沙が選んだことでもあった。

松造がなにやら真剣に祈念しているあいだ、平蔵は気ままに追憶を反芻していたが、松造が立ちあがったので、
「昼餉(ひるげ)は、次の沼津宿摂(と)ろう」
てれ隠しの科白であった。

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