カテゴリー「099幕府組織の俗習」の記事

2012.02.18

西丸・徒の第2組頭が着任した(6)

幕府米蔵の北はずれ、御厩河岸の渡し前の〔三文(さんもん)茶亭〕はとうぜん、仕舞っていた。
渡しの仕舞い舟があがるとともに、店も閉めるしきたりになっていた。

その人影のない舟付きに雪洞(ぼんぼり)をともした屋根舟が一艘、先刻から舫っていた。

平蔵(へいぞう 40歳)の足音を聴きつけた船頭が、雪洞をかざして導いた。
辰五郎(たつごろう 56歳)であった。
「爺っつぁん、遅くまですまぬな。おっつけやってくる仁を牛込ご門下まで送ってやってくれ」
長谷川さまはどちらまで---?」
「われは柳橋あたりで落としてくれるか」
「なんでしたら、冬木町の〔黒舟〕根店までまわりやしょうか?」
「いや、今宵は客を立てておこう」
「さいでやすか」

ほどなく、瀬名伝右衛門貞刻(さだとき 37歳)が供の者に足元を照らさせながらあらわれた。

並んで座り、暗い中を行き交う舟に目をやりながら、
瀬名うじ。これから先は、〔東金(とうかね)〕とよく談じあい、よい道をお探しあれ。清兵衛どんは信じてよい数少ないない正直でふところの広い町人ですから、こころを割って何ごともまっすぐにお打ちあけになるがよろしい」
「忝(かたじけな)い---」
「ただ、商人としての清兵衛どんの顔をつぶすようなことだけはしないでいただきたい」
「こころえており申す」
「くれぐれも頼みましたぞ。や、柳橋だ、では、おきをつけて---」
長谷川どの。この舟賃は---?」
「われのおごりです。ただし、降りぎわに煙草銭でもにぎらせていただくと、われの顔がたつ」
「承知---」


その後、柳営で会っても、目と目でしめすあうだけで、蔵前のことは双方、口にしなかった。


そうこうしているうちに11月15日になり、異なことがおきたので、平蔵の注意はそちらにそそがれた。

先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭の堀 帯刀秀隆(ひでたか 50歳 1500石)が火盗改メ本役の下命をうけるとともに、弓の7番手へ組替えが行われたのである。

鉄砲(つつ)の16番手は、与力は10騎ながら同心が50人配されている。
与力10人・同心50人というのは、西丸もふくめて34組ある先手組のなかでも3組しかない。
16番手のほかは、鉄砲の1番手と3番手のみ。
同心40人は鉄砲の13番手がただ1組。

世情が騒がしいというこの時期に、火盗改メ・本役を同心が30人の弓の7番手へ組替えした幕府上層部の真意はどこにあるのか。

平蔵としては計りかねた。
鉄砲(つつ)の16番手は、かつて銕三郎(てつさぶろう)時代の平蔵に目をかけてくれた本多采女紀品(のりただ 49歳=当時 54歳=当時 2000石)と2度も本役と助役(すけやく)をつとめた組であった。

弓の7番手も、平蔵の本家の大伯父・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 45歳=当時 47歳=当時 1450石)が助役と本役を命じられていた。


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2012.02.17

西丸・徒の第2組頭が着任した(5)

東金(とうがね)清兵衛(せえぺえ 40まえ)を瀬名伝右衛門貞刻(さだとき 37歳 500石)へ引きあわせ、
{割りにあわない話ばかりもちこんで相すまぬが、貧乏神をしょいこんだとおもってあきらめてくれい」
深々と頭をさげる平蔵(へいぞう 40歳)に、貞刻が驚いた。
天下の旗本が商人---それも幕臣から利をかせいでいる蔵元に対しての所作であったからである。

「なにをおっしゃいますか、長谷川のお殿さま。手前どもこそ、いつも殿さまにお助けをいただいております。お礼をもうしあげるのは手前どものほうです」
清兵衛の言葉に貞刻も、男と男の惚れあいを納得した。

参照】2011年9月24日[札差・〔東金屋}清兵衛] (

用向きを聴いた清兵衛が、
「せっかくのお話でございますが、〔東金屋〕としては、お引きうけかねます。いえ、逃げているわけではございません。お徒士(かち)衆は、それぞれ何代もつづいた蔵宿をお使いでございましょう。そのあいだからは、こう申しては失礼ですが、お武家さまとご主君とのあいだがらに似ております。持ちつ持たれつでございます。簡単に切れるものではございません。で、いかがでございましょう、とりあえず、ご出仕がむつかしいお方々お名書きと借財なさっている蔵宿をお洩らしいただき、その店を検討させていただくということでは---?」

ただし、金を融通している札差しの店名と金額、利子率の聞きだしは極秘とし、徒士(かち)衆も告げたことをいっさい口外しないということでことをすすめてほしい。
というのは、店側がそれなりの対策をこころみない短時日のあいだにことをえさめてしまいたいためである、と清兵衛が声をひそめて説いた。

まず、〔東金屋〕が〔ほうらい屋〕を出ていった。
天王町には蔵宿が30店ほども軒をつらねていたから、肩をならべて出るのは目立ちすぎた。

平蔵が御厩河岸の渡しの舟着きへの道順を瀬名伝右衛門に教えてから、一足先にでた。
勘定は清兵衛をすませていた。
「〔東金屋め」
平蔵伝右衛門に聞こえないように小さく舌打ちしたあん按ずるほどの按ずることはなく、暗くなっていた通りに面した蔵宿はどこも大戸をおろしていた。

野良犬がごみ箱をあさっていたが、平蔵の姿を認めると逃げさった。
晩秋の夜風が、酒のあとだけににこころよかった


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2012.02.16

西丸・徒の第2組頭が着任した(4)

「困りました。組の徒士30人のうち、22士しか出仕してきません」
瀬名うじのせいではありませぬ。風邪のせいでしょうよ」
西丸・徒(かち)の2の組頭の瀬名伝右衛門貞刻(さだとき 37歳 500石)の嘆きを平蔵(へいぞう 40歳)が先任らしくなぐさめた。

蔵前天王町の茶飯の〔ほうらい屋〕利兵衛方の奥座敷であった。

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(蔵前天王町茶飯〔ほうらい屋〕利兵衛 )

「われが4の組頭を引きうけたときも、総出仕を呼びかけたのに、6名が風邪をいいたてて顔をみせなかった」

参照】2011年9月20日~[西丸・徒(かち)3の組] () (2) () () (

{わが組の与(くみ)頭の鳥坂弥五郎(48歳)から聴きました。長谷川さまは徒士たちのうち、蔵宿に高利の金を借りている士の利息を棄捐(きえん)させてしまわれたとか---?」
「そのような荒っぽいことができるわけはありません」
「しかし、この町の〔東金(とうがね)〕というのを動かして高利のほとんどを棒引きさせたと---」
「お待ちなされ。その前にお訊きしておくことがある。失礼ながら、瀬名うじの家禄は500石---さようでしたな」
「さようです---うち半分は埼玉郡(さいたまこおり)の上弥勒村ですが---?」

「ご祖父・義珍(よしはる)さまは宝暦11年(1761),年まで本丸の徒の組頭をお勤めになり、そのあと目付をなさっておられます。その足高(たしだか)をおまかせになっていた蔵宿は---?」
訊かれた貞刻は、祖父がみまかったときは5歳であったから気づかなかったと応え、
「そのことと、徒士の不出仕がどう結びつきますか?」

平蔵は、おのれが徒の組頭になったとき、蔵前の蔵宿の評判を調べさせ、幕府からじかに現金でもらっていた亡父のやり方をあらため、〔東金屋〕を通すことにした。
そのほうが世の中の米と金のめぐりがいささかでも増えるとかんがえたからである。
と同時に、〔東金屋清兵衛(せえべえ 40まえ)にすずめの涙ほどの利をとらせ、組の徒士の札差しを移すことで高利の清算をたのんだ。

「商人は利によって家を支え、利によって義を果たします。武士はとかく利を蔑(いやし)めますが、商人にとって利は躰の中をめぐっている血のようなものです。血がとどこおっては生きていけませぬ」
「わかりました。まず、これからの足高を〔東金屋〕にまかすことにしましょう」

松造(よしぞう 35歳)が呼びi立ち、ほどなくして〔東金屋清兵衛の穏顔があらわれた。

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2012.02.15

西丸・徒の第2組頭が着任した(3)

茶寮〔季四〕の朝鮮料理は、ことのほか徒(かち)の組頭を喜ばせた。
最老格の5の組頭・桑山内匠政要(まさとし 61歳 1000石)にとっても、次老の3の組頭・沼間(ぬま)頼母隆峯(たかみね 53歳 800石)にとっても、朝鮮は縁遠い国というより、思慮のほかの国であった。

なにより感謝したのは、招待者の瀬名伝右衛門貞刻(さだとき 37歳 500石)で、
「これまで、だれもやったことのない新任披露の宴であったと最老どのも次老どのもことのほかご満悦でございましでしてな。さっそく、ご内室方とともに再訪したいとの申し出を女将が食材がそろわないからと断ったものだから、余計に手前の株があがりました」
宴の翌日の謝意まじりの言辞であった。

「ついては、虫のよいお願いですが、材料が希少ないことは重々わかっておりますが、長谷川さまのお顔で、手前どもの室と2人分だけでもなんとかならないものでしょうか?」
「女将に訊いてはみるが、たぶん、無理と存ずる---」

平蔵(へいぞう 40歳)とすると、うかつに便宜をはかると、今川系の幕臣のあいだにうわさがひろまり、奈々(なな 18歳)に食材調達の苦労をかけ、はては抜荷にまで手をそめることにもなりかねない。

(男というのは、おのれの顔がきくところを見せたがるつまらない見栄のために、しなくてもいい気苦労をしょいこむ生き物なのだ。忙しそうに駈けずりまわっているうちの半分近くは、おのれが発した力みの言葉に因る)

(とはいうものの、われの探索好きにも、見栄に拠(よ)るところがないでもない。藩公や火盗改メのおだてにのっているところもある。われにはいまは捕縛・裁きが資格があるわけではないのだから、これからは適当に受け流しておこう。しかし、生来、捕縛・裁きごとが好きなのも認めざるをえない)


半月ばかりたち、瀬名伝右衛門貞刻が相談ごとかあるから、一献傾けながら---と誘ってきた。
「朝鮮料理の件なら、女将の硬い意向はお伝えしたはずだが---」
「その件は室からすごく恨まれたが、なんとかあきらめさせました。別件です」
「どのような---?」
「組の徒士たちのお蔵米のことです」
「ならば、蔵前天王町に〔ほうらい屋〕という小体(こてい)な茶飯をあきなう店がある」

松造(よしぞう 35歳)を先に帰らせ、蔵元の〔東金(とうがね)清兵衛(せえべえ 40まえ)に待機していること、〔ほうらい屋〕の奥の席をとらせておくようにさせた。

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2012.02.14

西丸・徒の第2組頭が着任した(2)

天明5年9月10日の『徳川実紀』に、

 書院番瀬名伝右衛門貞刻(さだとき 37歳 500石)西城徒頭となる。

とある。( )はちゅうすけが補った。

属していた本丸の書院番頭はちょっと変わり者の大久保:玄蕃頭忠元(ただもと 41歳 6000石)であった。

名門ということでは、瀬名家の祖は今川氏の分かれで、府中(現・静岡市)の北東に館をかまえ、村名を姓とした。

徳川家康は名家の子女を好んだが、最初の年長の本妻・築山殿は瀬名儀広の長女であった。

伝右衛門貞刻の家は、徳川の家臣となっている瀬名5家の中では、本家にもっとも近い。

瀬名家かかわりで鬼平ファンに近い逸話は、これであろう。

参照】2006年4月11日[若年寄・京極備前守高久

貞刻が詰めの間での出仕の挨拶で、
「若輩のふつつか者ではありますが、よろしくお導きをお願い申しあげます」
これへの返しの辞が3人3様であった。

まず、3の組頭の沼間(ぬま)頼母隆峯(たかみね 53歳 800石)。
「謡(うたい)をおやりにならないかな。頭(かしら)たる者は、徒士にはできないものを習得しておくのが統率の要諦でござるよ」

4の組頭の長谷川平蔵宣以(のぶため 40歳 400石)。
「われもまだ1年もたっておらぬゆえ、至らぬことがいろいろとありましてな。ともにはげみましょうぞ」

5の組頭の桑山内匠政要(まさとし 61歳 1000石)。
「若君のお育ちをみとどけられるのは若い瀬名どのがもっとも近い。そのこと、肝に銘じてお勤めあれ」

新任のお披露目の宴についての場所を最年長の桑山政要に質(ただ)すと、
瀬名どのにもなじみの店がござろうが、宿老・相良侯の息がかかった女将がやっておる〔季四〕という茶寮が深川にあり、長谷川どのが顔がきくし、往還とも屋根船で送迎してくれる。沼間うじもそちらもわしもそろって屋敷が番町ゆえ、1艘の乗り合いでことがすむ。いかがかな?」

招かれる沼間にも異はなかった。


早速、平蔵奈々にもちかけた。
桑山どのも沼間どのも2度目になるゆえ、目先を変えて朝鮮料理はどうであろうの?」
井伊兵部少輔直朗 なおあきら 39歳 与板藩主 西丸・若年寄)はんらのときの膳でよろしか?」
「十分だ」

参照】2-111021[奈々の凄み] (


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(瀬名伝左衛門貞刻の個人譜)

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2012.02.13

西丸・徒の第2組頭が着任した

「信州へ出張っておりましたあいだ、われが組を見ていただき、ありがとうござりました」
西丸・徒の3の組の頭・沼間(ぬま)家の新道一番町の客間で、頼母隆峯(たかみね 53歳 800石)に丁寧に頭をさげた平蔵(へいぞう 40歳)が、
「これなる粗品は、松代あたりで名代の杏(あんず)酒。その酒精が浸透した粕でつくった餅です。お収めいただきますよう---」
「重畳」
高峯はそれが癖の口唇の右端をゆがめるようにして謝辞をのべた。

実をいうと、平蔵は組の与(くみ)頭・青野半兵衛(はんべえ 45歳)ら、沼間がなにもしてくれなかったことは告げられたが、信州への出張りの前に西丸・若年寄の井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 39歳  2万石)から、留守中の徒の4の組のたばねは沼間に申しわたしてあると聴かされていたので、格好をつけるために屋敷へ礼を述べに参じたのであった。

もちろん、この時代の幕臣のしきたりにしたがったまでであったが。
徳川幕府も安定をみてからすでに100年以上もたっており、形骸化したしきたりがほこりがたまったみたいに重なりあっていた。

敗戦から66年経ったいまの日本の虚礼と似ているかも。

杏酒は3合入りほどの徳利に詰めたものを10本ほどまとめて荷につくり、宿から宿へ馬に駅伝させて持ち帰ったから、その伝馬賃がしめて1分(4万円)をはるかにこえ、1本あたりに割りふると徳利詰めの酒の価いよりも物要りについたが、珍味だけに、井伊若年寄などには喜ばれた。

長谷川うじは、5年があいだ欠けたjままになっておった2の組の組頭に、瀬名伝右衛門貞刻(さだとき 33歳 500石)うじが補されるらしいとの内報をご承知かな?」
「いえ。半月ほどもお城を離れておりましたゆえ---」

ふつうなら本丸15組、西丸5組であるはずの徒の組が、家基(いえもと 享年18歳)が急死した安永8年(1779)から一橋家豊千代が将軍の継嗣として西丸入りした天明元年(1781)まで、1と2の組は本丸打込みという形で預けられていたことは、これまでに記した。

参照】201192[平蔵、西丸徒頭に昇進] (

臨時に本丸付きとなっていた1と2の組のうち、後者は、組頭・筒井内臓忠昌(ただまさ 51歳=天明5年)が西丸新番の頭へ転じ、組は頭を欠いたまま本城へ残っていた。

沼間が告げたとおりに瀬名貞刻が西丸・徒の2の組頭として発令されれば、1の組は欠けているいるとしても、2、3、4、5の組が久しぶりに揃うことになり、これまで3組だけで受け持っていた西城周辺の見回りがより充つる。

長谷川うじは瀬名うじは同じ今川家つながりであろう。さいわい、屋敷はここ新道一番町でござる。供の者に訪(おとな)いを乞わせてみられてはいかがかな?」
(用が済んだら早々に引きとれということだな)

「はい。この並びにわれの本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 76歳 1450石)の屋敷もございますれば、そこで休息がてら訪いを伺ってみます」
腹のうちでは、まだ発令もされていない仁の屋敷へ手ぶらで訪問できるか、と啖呵をきっていた。


Photo
(赤○=長谷川太郎兵衛 緑○=瀬名伝右衛門 沼間家はのちに閉門になったためか、弘化5年のこの近江屋板には載っていない)


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2011.12.21

建部大和守広殷を見送る

幕府の公式記録である『徳川実紀』の天明5年(1785)5月15日の項に、こう、ある。

禁裏附 建部(たけべ)甚右衛門(旬日前に大和守を授爵)広殷(ひろかず 58歳 1000石)赴任の暇賜る。

先手・鉄砲(つつ)の12番手の組頭からの栄転で、平蔵(へいぞう 40歳)が祝辞を贈ったこともすでに報じた。

参照】2011年11月17日~[建部甚右衛門、禁裏付に ] () () (

大和守広殷にはなにかと目をかけてもらっていたので、出立の18日の六ッ半(午前7時)に高輪の大木戸まで、愛馬・月魄(つきしろ)にまたがって見送りに行った。

送迎用の茶屋は麗々しく、[御禁裏附 建部様御席]と大書した札を飾っていた。
遠国奉行とか禁裏まわりの役職者は、できるだけ仰々しい行列を仕立てて幕府の威信を町人や宿場の者たちに示すようにと、別段の手当てが支給されていた。

六ッ半にはすでに高輪の大木戸で見送り人の応接をしていたということは、六ッ(午前6時)ちょっとまえには四谷南伊賀町の本邸を発(た)っていたということだ。
もっとも、旧暦の5月といえば、東の空は七ッ半(午前5時)にはもう明かるくなりかけておるが。

平蔵を認めた大和守は、わざの見送りへの礼もそこそこに、
「下(しも)の役宅のある荒神口の〔荒神(こうじん)〕を通り名にしておる盗賊でござったな。老耄の頭でも決して忘れてはおりませぬぞ」
頼んであったことを復唱して呵呵と笑った。
その呵声があまりに大きかったため、まわりにいた人々がなにごとかと、2人を注視したほどであった。

「はい。〔荒神〕の助太郎(すけたろう 67歳)と妾の賀茂(かも 48歳)でございます。おついでの折りによろしくお願いいたします」
「こころえ申した」

この盗賊とのかかわりは、平蔵銕三郎(てつさぶろう)を名乗っていた14歳のときからはじまった。
その一部を掲げたので、一瞥いただきたい。

参照】〔荒神(こうじん)〕の助太郎 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) () (10
2009年12月28日[与詩(よし)を迎5に] (
2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () () (10) (11) (12
2010年2月24日~[日光への旅] () 

いちど、落ち着いてかかわりあったすべてにリンクをはらなければなるまいが、きょうのところは別件が控えているのでこれくらいにして---。

松造(よしぞう 35歳)が、海のほうを向いたまま、
「殿---」
平蔵が振り向いても松造がふり返えらなかったので並ぶと、
「隣りの茶屋の縁台で3人ほどでお茶をのんでいる店者ふうに装った40男たちがおります。あれは〔磯部(いそべ)の駒吉と申す道中師の組仲間です。ほかにも数人があたりにひそんでいるはず。建部の殿の一行になにかをたくらんでいるにちがいありません」
ささやいた。

松造は10代の後半は腕利きの掏摸(すり)であったから、駒吉の顔もおぼえていたのであろう。
「わかった。建部どののお耳にいれておこう」

平蔵が、何気ないふりで大和守広殷に耳打ちした。
松造は月魄の陰へ身を移した。

建部広殷も眉毛一筋も動かすこともなく聞き終えると、〔磯部〕の駒吉たちのほうには視線もくれず、
長谷川うじ。造作をおかけしてすまぬが、このこと、火盗改メの組頭・横田どのへお伝えいただけるとありがたい」

平蔵は、混みあっている人群れから、弓の7番手の組頭・横田源太郎松房(としふさ 42歳 1000石)を探した。

横田松房は去年の4月に境奉行に転じた(にえ) 越前守正寿(まさとし 44歳=天明4年 400石)の後任として先手・弓の2番手の組頭と火盗改メ・本役職を引きついだが、すぐに弓の7番手へ転じた事情はすでに報じている。

参照】2011年9月1日[火盗改メ・贄(にえ) 壱岐守正寿(まさとし)の栄転
2011910~[老中・田沼主殿頭意次の憂慮] () () () (

横田組頭の脇に、次席与力・高遠(たかとう)弥之助(やのすけ 43歳)がひかえていた、
先手・弓の7番手は、本家の大叔父・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 76歳 現・槍奉行)が長く組頭をしてい、そのころ次席与力であった弥之助の父・弥太夫とは懇意であった。
そんな縁で見習与力として手弁当勤めだった弥之助ともときどき話しあっていた。

平蔵が告げると、高遠与力はうなずき、そばの同心を耳うちして去らせてから、手配の概要を組頭へ報告した。

さすがであった。
おそらく、建部禁裏附の一行が川崎宿で昼食を摂るころには、火盗改メがその前後に警戒の目をはりめぐらせており、〔磯部〕の駒吉たちはく袋のねずみ同然だったにちがいない。


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2010.07.10

安永5年(1776)4月13日の予告

西丸・書院番4の組の番士全員50名に出仕の触れがだされたのは、将軍・家治(いえはる)が大行列をつくって日光山へ参詣する1ヶ月前の、3月13日であった。

番頭・水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 52歳 3500石)が、当日は、大納言家基 いえもと 15歳)が寅の刻(午前6時)に本城へのぼり、お上のご機嫌をうかがうので、西丸大手門から内桜田ご門までのあいだの警備にあたる、と前置きを述べ、あとを与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 56歳 800俵)にまかせた。

参照】2006年4月28日~[水谷伊勢守が後ろ楯] () (
2008年12月3日~[水谷(みずのや)家] () (
2007年4月17日[寛政重修l諸家譜] (
2006年11月8日[宣雄の実父・実母
2010年2月1日~[牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)] () () (

丑の刻(午前2時)に、老中・松平右京大夫輝高(てるたか 52歳 7万2000石 高崎藩主)、同・松平周防守康福(やすよし 58歳 5万4000石 岡崎藩主)、同・田沼主殿意次(おきつぐ 58歳 3万石)が供ぞろえして登城する。

(ということは、供奉しなくても、その日は早出は当たり前と覚悟せよ、ということか)

当日の服装は麻上下とも指定された。

参考麻上下

お見送りは神田橋ご門内。

先導行列が次つぎとつらなり、お上の首途(かどで)は、寅の刻(午前8時)すぎであろうから、4刻ほど厠(かわや)へは行けないと覚悟するように。

ちゅうきゅう注】行列の先頭が日光に到着しているのに、まだ、江戸城の大手門を通っていない組があったと書いているものの本もあるが、いささか大げさとおもう。
日光まで、将軍は岩槻城で一泊。
第2泊目は、古河城で。

参照】2010年6月5日[ちゅうすけのひとり言] (59

第3泊目は、宇都宮城。
将軍が眠っている間も昼夜兼行で行列が進んだというのであろうか。信じがたい。

そんな真偽の詮索より、牟礼郷右衛門勝孟の説明を聞こう。

江戸城内で、家基は、将軍を大広間の四の間まで見送り、しばらく休みがてら居残りの宿老たちと歓談のあと、座所で一橋民部卿治済(はるさだ 26歳)に対面、将軍の無事の旅程を祈念した三献の儀をおこない、祝いの囃子のなかばで座を立ち、西丸へ。

もちろん、書院番士である平蔵たちは、将軍の輿(こし)が神田橋ご門を通ったら、ただちに和田倉門から西丸へ帰城、大納言の帰還にそなえる。

将軍が日光から帰還する21日の注意は、3日後にあらためて触れるが、13日より20日までは、宿直(とのい)を倍に増やし、諸門・諸事の警戒をきびしくするから、そのように心得ておくこと、との達しであった。

解散後、この日、非番にあたっていた士は下城がゆるされた。
たまたの、出口で顔があった寺嶋縫殿助尚快(なおよし 44歳 300俵)が、
「〔丹波屋〕の蒲焼でも、どうだ?」
気をひいてきた。
他用があって、と断った。

於玉ヶ池(おたまがいけ)〕の伝六(でんろく 35歳)に、お暇をつくってほしいと頼まれていたからであった。

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2010.06.18

進物の役(5)

帰宅してみると、奉書(召し状)がとどいていた。

進物の役を申しわたすから、11月11日の四ッ半(午前11時)に本丸・羽目(はめ)の間へ、熨斗目(のしめ)麻裃で出頭すること。

衣服を規制することで、家の格式と規律、服従心の強制を試していた。

ちゅうすけ注】 熨斗目麻裃

今夕の菅沼藤十郎定亨(さだのり 46歳 2025石 先手・弓の2番手、火盗改メ組頭)の言葉と符合しすぎているので、いささか驚いた。

(てつ)さま---いいえ、殿。おめでとうございます」
久栄(ひさえ 23歳)の第一声であった。

「うむ。それにしても---」
「なにでございますか」
「いや。なにでもない。そうだ、大紋(だいもん)と長袴(ながばかま)は、誂えるにおよばぬぞ」
「そう申されても、七代さま(宣雄 のぶお)は、おつくりにはなっておりませぬ」
「〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 49歳)どのが、祝いに贈ってくれるように元締衆に話すそうだ。問い合わせがあったら、久栄の好みの色味だけ、伝えてやれ」
「よろしいのでございますか?」
「あの者たちの気がそれですむのなら、受けとってやろう」

「わたしからのお祝いは、その3のおさらいです」
「大丈夫か、その腹で---」
「ふ、ふふふ。お腹(なか)の中のややも、足をふんばって喜んでおります」

翌日は、宿直(とのい)だったので、松造(まつぞう 24歳)が、平蔵(へいぞう 30歳)を城内へ送ったその足で音羽へまわり、重右衛門へ吉報を通じた。

わがことのように破顔した重右衛門は、、
「元締衆も、これでご恩返しができると、大よろこびだ」

久栄が望んでいる色は「花浅(はなあさぎ)」だと告げると、傍らにいた新造・お多美(たみ 34歳)が、
「ええ好み、してはります。能舞台で映えますやろ」

元締衆からの大紋・長袴は、なんと、一揃いではなく、5揃いもあった。

「花浅黄」のほかに「棟(おうち)」、「群青(ぐんじょう)」、「そひ(糸へんに熏)」、「 紅緋(べにひ)」と、いずれも能役者の重厚で絢爛たる衣裳に囲まれても、舞台映えするとともに、あまり使われない古色であった。

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(最上段:花浅黄(はなあさぎ)
大日本インキ化学『日本の伝統色』見本帳より)

平蔵は、いかにも京育ちのお多美どのらしいとおもったが、「花浅黄」と指定した久栄の手前、
「進物番を勤める5年があいだ、毎年、青差(あおざし)積みにかりだされても、年ごとに異なった大紋で演じられるな」
と笑ったが、長谷川家の左藤巴の表紋がついている大紋を、同輩に貸すこともできないし、さればといって、お色なおしの召し替えもありえない。

(同紋の士が進物番に選ばれたときとか、辰蔵が選ばれたときのに着ればいい)


参照】2010年6月14日~{進物の役] () () () () 


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2010.06.17

進物の役(4)

長谷川さまが進物番におなりになったら、わっちら、お世話になっている元締衆に、お祝いに、大紋(だいもん)・長袴(ながばかま)を贈らせてくだせえ」

参考大紋・長袴

宴が終わり、招待主の菅沼藤十郎定亨(さだゆき 46歳)が騎馬で大塚吹上の屋敷へ帰るのを見送り、目白台の組屋敷へ帰る筆頭与力・脇屋清助(きよよし 47歳)と服部儀十郎(ぎじゅうろう 32歳)与力を、
「お帰り道でやすから、ちょっとお口なおしにお立ちよりくだせえ」
母親がやっている音羽8丁目の料理屋へ、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 49歳)が、平蔵(へいぞう 30歳)ともども誘いかけての、席であった。

「長袴といやあ、裾をひきずって歩きやすでしょうから、踏みつけたところの汚れがひどいのでは---」
柳営内を見たことのない小頭の〔大洗(おおあらい)〕の専ニ(せんじ 37歳)が素朴な疑問を呈した。

「小頭。営内は、廊下といえども板敷きではなく、畳敷きなのです。ちり一つ落ちてはおりません。ですから、長袴の踏みしろの折り目はとれても、汚れることはない」
武蔵国羽村(はむら)の鋳物師あがりの〔五ノ神(ごのかみ)〕の音蔵(おとぞう 48歳)一味の逮捕にかかわって親しくなった服部与力が説明した。
「さいでしたか---お城など、まったくご縁がねえもんで、つい、心ぺえしちまいました」

酒のあいまに蛸のやわらか煮に箸をつけた脇田筆頭与力が、
「これは柔らかい。歯が弱ってきている者には珍重---」
「大豆と大根とともに煮、風味つけに酒をすこしそそぐと、柔らかさと味がそのように---」
重右衛門が母ゆずりの講釈をした。

それを汐(しお)に、この10月の中ごろから火盗改メの冬場の助役(すけやく)についた先手・鉄砲(つつ)の10の組、松田善右衛門勝易(かつやす 53歳 1230石)配下の、中川筆頭与力から頼まれたのだが、と前置きし、
「〔音羽〕のも承知しているように、火盗改メの(すけやく)は、火患の多い冬場に発令される。本役のわれらの組は、日本橋から北の警備にあたり、助役組は南を分担するというのか゜、近年のとりきめであってな。松田組はとうぜん、日本橋川から南と、深川の見廻りということになる」
「へえ---?」

ところが、いざ任務についてみると、本役・菅沼組には、ご府内だけでも浅草・今戸・橋場をとりしきっている〔木賊(とくさ)の衆、両国広小路は〔薬研堀(やげんぼり)〕の一門、上野山下と広小路は猪兵衛(ゐへえ 28歳)、もちろん、音羽、雑司ヶ谷はそなたの組---と主だった元締衆が夜廻りを奉仕してくれている。
しかるに、日本橋から南では、〔愛宕下(あたごした)〕のと、深川の〔丸太橋(まるたばし)しか手助けをだしてくれていない---。

「ご府内の香具師の総元締格の〔音羽〕のに口をきいてもらえまいか---ということであった」
松田組頭さまが手札をおくだしになりてえと?」
「そういう次第」

脇屋さま。お言葉をけえすみてえで申しわけねえんですが、わっちらの夜の見廻りは、菅沼お頭さまからの手札のこともありやすが、ほんとうのところを申しあげやすと、こちらの長谷川さまのお声がかりで発起いたしやしたんで---。でやすから、長谷川さまのお眼鏡にかなった元締でねえと声をかけられねえんでございます」

うなずいた脇屋筆頭が、平蔵を瞶(みつめ)た。
どうやら、先方の中川筆頭に安請けあいをしてしまっていたらしい。

脇屋さま。松田組頭さまのお屋敷は、どちらでしょう」
「番町の新道2番町だが---」
(やばい! 大伯父の太郎兵衛正直 まさなお 67歳 1450石)と背中あわせだ)

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(赤○=長谷川太郎兵衛屋敷 緑○=j松田善右衛門屋敷
池波さん愛用の近江屋板の番町切絵図)

間をとって、
「脇屋さま。拙は、〔音羽〕の元締どのがおっしゃるほど、香具師の世界に通じているわけではありませぬ。亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)が火盗改メの任についておりましたおり、たまたま、目黒・行人坂の火付け犯のことを、〔愛宕下〕の仲蔵(なかぞう 45歳)どのにお手伝いいただいき、お付きあいができただけです。松田組頭どののご分担の地域の元締衆にはなじみがありません」

「それは困惑」
「ですから脇屋さまのお考えどおり、〔音羽〕の元締とじっくりご相談になり、話をとおしていただきになるのが、よろしいかと」


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