宣雄の実父・実母
銕三郎(平蔵宣以の家督前の幼名。小説---鬼平)の亡父・宣雄が、長谷川家を家督した経緯は、すでに記した。
宣雄の実父・宣有(のぶあり)と、母を想像してみたい。
宣有は、長谷川家の四代目当主・宣就(のぶなり)の三男として生まれた。
母は、宣就の妻・永倉珍阿弥真治の娘とも、おもえないことはない。
あやふやな言葉づかいをしたのは、五代目・宣安の生母は宣就の妻だが、弟(次男)・正重の生母は某女と、永倉家の『寛政譜』にあるからだ。
時期については憶測だが、宣有のすぐ上の兄の、その正重が、養子に入った永倉家を44歳で家督していることから、そのころまで縁がつながっていたかと見たり、某女とあるから脇腹とみたり。
宣有の生母の記述は、『寛政譜』にも、「先祖書」にもない。
永倉家もかつては今川家に仕えた武士で、徳川では茶坊主頭をしていた。徳川家臣団のなかでは長谷川とともに今川族だった。
宣義(のぶのり 小説---辰蔵)が幕府へ呈出した「先祖書」には、宣有は「病身につき厄介にて罷りあり」とある。
病気がちのために養子口もなく、赤坂・築地の家で歿した。
釣 洋一さんが戒行寺の霊位簿をあたったら、宝暦12年(1762)閏5月29日葬。
戒名は、常信院自休日行居士。
自休は『寛政譜』にも書かれており、俳号か雅号でもあったのだろうか。
『寛政譜』の宣雄の項に、「母は三原氏」とある。
「先祖書」には、「水谷(みずのや)出羽守、徒(家臣)三原七郎兵衛の女」と明記されている。
出羽守(のち、伊勢守)勝美(かつよし)、備中・高梁5万石、松山藩々主。
備中・松山城の現在
高梁市教育委員会に問い合わせたところ、水谷家にはたしかに三原七郎兵衛という家臣がおり、家禄100石の馬廻役で、市内の家臣団の住居地区である柿の木町に屋敷をもっていたと。
5万石の100石は、大藩の1000石にも相当したろう。
水谷家は、勝美が歿した際の家督相続手続きの不手際から、領地を召し上げられ、養子・勝時が3000石の幕臣となった。
三原七郎兵衛は失業した。城下を去り、妻娘をともなって江戸へ出た。
娘は、年ごろになり、療養中の宣有の看護にやとわれた。
そして、宣雄を身ごもった。
宣雄の実母が、長谷川家の菩提寺・戒行寺へ葬られたという確証は、いまのところ、未確認である。
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