カテゴリー「014本多家」の記事

2008.09.15

本多作四郎玄刻(はるとき)

本多も、元服名(諱 いみなとも言う)が、かの、勇猛・忠勝(ただかつ)ご先祖のように「」で始まるとか、知恵者・正信(まさのぶ)老のように「」が頭にきていればたいした家柄ですが、小生のように、(げん)がついていては、まさに、幻滅・泡沫の本多であります。甲府勤番で塩漬けがつづいておりますが、諸兄のお引きたてで、早く帰府がかない、山猿どもからの餞別の勝ち栗をもって、この集いに出席がかないますよう---」

寛延元年(1748)4月3日に、先代の遺跡を継ぐことをゆるされた16人のうちの有志でつくった〔初卯の集い〕の最初の会食の夜、本多作四郎玄刻(はるとき 17歳=当時 200俵)の自己紹介である。

この、巧みに冗談を織りこんだあいさつに、平蔵宣雄(のぶお 30歳=当時)が「かなわない」と感じたことは、すでに述べた。
人に好かれる才能ともいえる。

参照】本多作四郎玄刻 2008年6月30日[平蔵宣雄の後ろ楯] (15) (16)

銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)が、このたび、甲府へきて逢った感じでも、目鼻が寄っていてその分、額が広く、いわゆる童顔が37歳までのこっており、人なつっこげな面体で、人びとに警戒心をもたせない風貌の持ち主であることを確認した。

ちゅうすけも、本多作四郎については、あれこれ考察している。
もちろん、ちゅうすけ作四郎観は、銕三郎とは別で、甲府勤番が3代つづた家の仁としてである。

中道往来の中畑村の探索から七ッ(午後4時)に甲府へ帰ってきたきょうも、作四郎は、昨日につづいて、銕三郎が宿泊している柳町通りの旅籠〔佐渡屋〕にあがりこんだ。

銕三郎は、寅松(とらまつ 17歳 掏摸(すり))を帳場へ行かせて、夕餉(ゆうげ)を頼ませた。
とうぜん、酒もいいつけた。
作四郎は、あたりまえのような顔で、盃を口にしている。

丹念に読んでいらっしゃるあなたのことゆえ、昨日、作四郎が同じこの部屋で、銕三郎に、
「自宅に招きたいのだが、後妻が臨月に近いので---」
と断った言葉に目をおとめになったはず。

いや、2008年6月30日[平蔵宣雄の後ろ楯](15)に掲げた彼の『個人譜』で、再婚している記録に目ざとく注視なさったかもしれない。

赤傍線を引き直して再掲する。

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(本多作四郎玄刻の2人の妻と息・玄仲の2人の妻)

最初の妻君は、やはり、勤番が2代目の加藤又八郎長清(ながきよ 59歳=明和5年 200俵)の長女---ということは、甲府生まれとみてよかろう。
同じ組屋敷で育ち、恋が実ったと書けば小説だが、残念、作四郎はお濠の脇の廓外裏佐渡町の組屋敷、勤番着任が遅れた加藤家が入った組屋敷は、これも廓外だが納戸町(現・甲府市北口)だったから、10丁(ほぼ1km)は離れていた。

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(甲府城下 青〇 左下=裏佐渡町 右上=納戸町 太白帯=甲州路
『甲州道中分間延絵図』解説篇より)

作四郎の17歳は、遺跡継承、とうぜん、嫁取りは早い。
そのときを18歳と仮定すると、寛延2年(1749)、舅・加藤又八郎は40歳---長女は18歳前後であったろう。
当時のむすめとしては、適齢期である。

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(加藤又八郎長清とその長女)

結婚してまもなく、嫡男・作十郎が産まれた。明和5年(1768)には19歳。
離婚の理由は不明だが、実家へ帰ってのち、武蔵孫次郎秀直(ひでなお 42歳=明和5年 220石)に嫁ぎ、『寛政譜』の記述にしたがうと「また、棄(すて)られる」

小説的な妄想を書くと、武蔵孫次郎は勤番としては2代目で、家督は遅くて35歳の遺跡継承。それまで妻帯していなかったふう。屋敷は作四郎とおなじ裏佐渡町だから、作四郎との離婚は、孫次朗との不倫とか。
まさか。
不倫が原因でないとしても、元夫・作四郎の家と同じ組屋敷へ再婚したのでは、顔が合うこともあったかも。このあたりも小説なら、書いてみるところ。

孫次郎は、「彼女を棄て」たのちは、正式には再婚していない。

本多作四郎の後妻は、同じ裏佐渡町の組屋敷に住む渡辺善四郎清(きよし 49歳 200石)の養女---というのは、善四郎の祖父の弟---つまり大叔父のむすめ。
嫁入りは20歳すぎか。

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(渡辺善三郎清とその養女たち)

臨月なのは、2人目の子。

この後妻の姉も、再婚して「棄てられ」ている。
再婚女性の離婚を、「棄てる」と書くのが『寛政譜』の常用用語なのかどうかは、まだ、あたっていない。
調べるとなると、加藤家渡辺家が幕府に呈出したオリジナル「先祖書」を、国立公文書館で借り出して、どう書いていたかまで見分しないといけない。
これをはじめ、ブログ3つをこなしているいまは、そんな時間がとれそうもない。

しかし、この用語法にドラマを感じるとともに、甲府勤番という狭い社会の中での人間模様を汲みとるのは、ちゅうすけの妄想癖が強すぎるからであろうか。
手元の『寛政譜』で、30~50家をあたってみると、きっとおもしろいドラマが見つかりそうな気もする。

甲府市の図書館ものぞいてみたくなってきた。


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2008.04.17

十如是(じゅうにょぜ)(その2)

「住職さま、お教え、ありがとうございます。学而(がくし)塾でも、[往(おう 過去)を彰(あき)らかにして來(らい 将来)を察す。顕を微(ほのか)にして幽(ゆう 原理)を闡(ひら)く](易経)---闡幽(せんゆう)は、隠れているものを明らかにすると教わりました」
「おみごと」
善立寺(ぜんりゅうじ)の日顕師(にっけん 40すぎ)は、口ではほめたが、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)のさかしらげともいえる応答に、一抹の危惧を感じていた。

父・宣雄(のぶお 47歳 先手・弓の組頭)が気づいて、
「方丈さま。お許しを。銕三郎めは、予審のことに追われておりまして---」
「いまの答辞なれば、予選はまちがいなしでござろうよ」
「ご寛恕、かたじけのう---」 
宣雄は、ほっとして、頭をさげた。

幕臣の子の予審とは、将軍にお目見(めみえ)する前に、若年寄の出座のもとにおこなわれる口頭試問と武芸の筋をはかられる予備試験のようなものである。
銕三郎は、それを理想主義がすぎる観念論と軽視しきってきており、なかんずく、儒書の解義を不得手としていた。

銕三郎はお目見がまだであったな。齢からいうと、ちと、のんびりであるな。ま、予審もあろうが、暇をつくって、日顕師から学ぶがよかろう」
本多侍従正珍(まさよし)は、とりつくろってやり、
「先刻の盗人のことだが、捕縛の手がかりは、なにか、考察がついておるのかの?」
「善立寺のご住職のお教えの、最初の如是相(にょぜそう)---自分ではあたっておりませぬ。火盗改メのお頭に頼んで、押しいられた緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼から、ことのありていを、じかに訊きとってみようかとおもいつきました」
「いまの火盗改メの頭(かしら)は、銕三郎の本家の仁じゃったな?」

宣雄が恐縮して応える。
「先手・弓の7番手の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石)でございます。お見知りでございましょうか?」
「会ったことはないとおもう。田中城の元城主の子孫ということで、いちど、引見しておきたいものよのう」
銕三郎が、ここぞと口をはさんだ。
「大伯父も、よろこびましょう」

日顕師は、善立寺の墓域に葬られている若くして逝った側室の年忌の日取りを決めると、退出した。
帰りぎわに、
長谷川の若どの。いつにてもお待ちしておりますぞ」
と、お世辞を忘れなかった。

ふと思いついた銕三郎が老公に訊く。
本多家の香華寺は、門跡(東本願寺)の塔頭(たっちゅう)の徳本寺では?」
「菩提寺が一つでなければならぬということもあるまい。内室が側室と同じ墓域に眠ることを嫌うこともある。は、ははは」

ちゅうすけ注】本多家の菩提寺は、銕三郎が指摘したとおり、浅草の東本願寺の塔頭(たっちゅう)の一つであった徳本寺(現・台東区西浅草1丁目)であったが、墓は、いまは青山墓地に移っている。徳本寺には、田沼山城守意知(おきとも)を斬傷させて死にいたらしめた佐野善左衛門政言(まさこと)の墓もある。
なお、池波さんが葬られている西光寺(現・台東区西浅草1丁目)も、元は東本願寺の塔頭であった。


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2008.04.16

十如是(じゅうにょぜ)

「こなたは、下谷(したや)の大光山善立寺(ぜんりゅうじ)の住職・日顕(にっけん)におわす」
本多侍従(じじゅう)正珍(まさよし 56歳)が、中年の寺僧を紹介した。
正珍侯は、駿州・田中藩(4万石)の前藩主で、老中も勤めていたが、7年前に、ある事件の余波をうけて罷免・隠居を命じられていた。

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が西丸の書院番士から小十人(こじゅうにん)の組頭(役高1000石)に抜擢されたのは、正珍がまだ宿老職に就いていた宝暦8年(1758 40歳=当時)であった。
その恩を忘れていない宣雄は、芝・二葉町の隠居所として使っている中屋敷を、銕三郎(てつさぶろう のちの鬼平)をともなって訪れ、話相手をしている。

宣雄たちが、日顕師に会ったのは初めてであった。
まだ40歳代だろうに、太い両眉の尻毛が長くたれて、修行によるとおもわれる温顔を、一層に助けている。

ひととおりの挨拶がすむと、正珍侯が訊いた。
銕三郎よ。このごろ、奇特な話題は?」

善立寺が甲州・身延山の久遠寺の末とわかり、曹洞宗ではなかったので、安心して、先日の本所・緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼〕へ押し入った〔初鹿野(はじかの)〕の音松一味による盗難を話題にのせた。

参照】[〔初鹿野(はじかの)〕の音松] (1)  (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)

久遠寺が武田信玄の庇護を受けていたことは、長谷川家の菩提寺で、四谷・新寺町の法華宗・戒行寺の住職から教えられていた。

「ほう。いまだに秘法を伝えておる武田流の草の根(忍者)の末裔が、な?」
正珍侯が、意外な---といった表情を見せた。
「ほとんどが紀州の薬込め衆に組み込まれたとおもっていたが---」

「侯。そのことより、銕三郎が案じておりますのは、その盗賊ども一味が手に入れた金高がすくなすぎたゆえ、ご府内で再度の仕事をするのではないかと---」
銕三郎よ。申してみよ」

銕三郎は、盗賊一人あたりの分け前が、裏長屋の一家の主の1年分の実入りほどしかなかったことを、数字をあげて告げた。

【参照】[〔初鹿野(はじかの)〕の音松] (9)

銕三郎どのとやら。愚僧が申すのもおこがましいが、『法華経』の[方便品(ほうべんほん)]に、[十如是(じゅうにょぜ)]という教えがござっての。愚僧などがものごとを推しはかる時には、かならず、照覧しております」
日顕師が言葉をはさんだ。

十如是とは、
如是相(にょぜそう)---表から見える相
如是性(にょぜしょう)--内がわの本性
如是体(にょぜたい)---相や性をあらわす本体
如是力(にょぜりき)---動作としてあらわすための力
如是作(にょぜさ)-----あらわされた動作
如是因(にょぜいん)---そうなるための原因
如是縁(にょぜえん)---因を補う条件
如是果(にょぜか)----そうなった結果
如是報(にょぜほう)---その結果の後日
如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)
            ---その結果の実相
と、日顕師は教えた。

銕三郎どの。ま、推しはかりの手順とでもおぼしめされ」

ちゅうすけ注】この十如是を、岩本 裕さん『法華経』(ワイド版岩波文庫 1991.6.26)の口語訳は、「それらの現象が何であるか、それらの現象がどのようなものであるか、それらがいかなる本質を持つか、ということである。それらの現象が何であり、どのようなものであり、いかになるものに似ており、いかなる特徴があり、いかなる本質をもっているかということは、如来だけが知っているのだ」

善立寺のことを、『鬼平犯科帳』の鋭い読み手なら「ああ、文庫巻4の[夜鷹殺し]で、夜鷹の一人が境内で殺されていた寺だね p274 新装版p288」と合点するはず。

善立寺は、大正の大震災まで、明治以後の町名---永住町にあった。池波さんが小学生時代を送った町である。昭和の初期に足立区梅田1丁目へ移転。

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(昭和の初年まで、浅草・永住町にあった善立寺 近江屋板)

秋元茂陽さん『江戸大名墓総覧』(金融界社 1998.6.30)に、善立寺には、駿州・田中藩の江戸藩邸で歿した各藩主の妻子の墓碑があり、七代藩主・正珍の側室として、法名にの字がつけられ、慈行公二女(元禄12卯年1699 7月26日)とあるが、正珍侯が生まれたのはその日付よりも11年後の宝永7年(1710)だから、誤植であろう。

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2008.02.19

本多采女紀品(のりただ)(8)

「いたく、心得になりました。ありがとうございました」
式台のところで、父・宣雄(のぶお 45歳)が謝辞を述べる。
屋敷の主・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 2000石)は、
「それはともかく、近く、芝ニ葉町のご隠居を慰問しましょうぞ」
「けっこうですな」
ご隠居とは、駿州・益津(ますづ)郡田中藩の前藩主・本多伯耆(ほうき)守正珍(ただよし 55歳)のことである。4年前に老中を罷免され、そのまま隠居している。

銕三郎(てつさぶろう)どの。今宵の巡視は深川から北本所だが、見習いがてら相伴(しょうばん)してみないかな?」
父をうかがうと、かすかに肯首があった。
「はい。喜んでお供いたします」
「では、四ッ(午後10時)少々前に、永代橋の東詰で待たれよ。馬でよろしい」

帰り道、人気がまったく絶(た)えている桜田濠端(ほりばた)で、先導している若侍・桑島友之助(とものすけ 30歳)が言った。
「若。今夜の見廻り、友之助がお供いたします」
「父上。よろしいのですか?」
「明日も非番ゆえ、登城はない。心配無用」

「それにしても、本多さまのお屋敷は、番町の番方々の中でも、一段と広いですね。納戸町の正脩(まさなり)叔父の屋敷とどっちがどっちというほど---」
「これ、銕(てつ)。屋敷の広さのこと、家禄の高低のこと、刀剣の優劣のことは、こちらから先に口にしてはならぬ」
「しかし、父上。わが家に火盗改メのご下命がありました場合---」
「よせ。まだ、先手の組頭(くみがしら)も拝命しておらぬ。火盗考察の任は、先手の組頭に下される」
宣雄が先手組頭の栄進したのは、この時から2年後の、明和2年(1765)、47歳の時)。
納戸町の正脩とは、長谷川一門の中では、本家の1450余石を大きく上回る4070余石を給されている最も近い親戚筋、2家の一つである。

「本多紀品さまはご養子だそうですが、ご実家は、信州・飯山藩(2万5000石)のご家中とか」
桑島。どこから、そのようなことを---?」
「お待ち申しています間に、さき様の用人どのから、聞きました。用人どのは35年前に、ご実家から、当時14歳だった紀品さまについて本多家へお入りになり、先の用人に不祥事があったために昇格になったとか」
「これ、よそ様の内情を、めったなことで口にしてはならぬ」

これ以後、帰宅するまでも宣雄は、深い考えに没入してしまった。
屋敷の広さを思案していたのだろうか。

ところで、宣雄に口どめされてしまったのでは、話がすすまない。
代わって、ちゅうすけが記すよりほかなさそうだ。

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(本多采女紀品の個人譜)

本多采女紀品は、個人譜にあるとおり、信濃国飯山藩主・本多豊後守助盈(すけみつ)の家臣・本多弥五兵衛紀武(のりたけ)の子息である。
家臣といっても、藩主の一族で、江戸詰の重職---留守居役あたりであったことは、母の項を見るとわかる。
母なる女(ひと)は、石見国鹿足(かのあし)郡津和野藩主・亀井隠岐守矩貞(のりさだ 4万石)の家臣・阿曾沼五郎右衛門亮正(すけまさ)のむすめとある。
飯山藩士と津和野藩士が嫁のやりとりをするとなると、江戸詰か京詰の留守居役同士と考えるのが自然であろう。情報交換と称して、藩につけて、しばしば飲食を共にできる。
しかも、父・本多弥五兵衛紀武には、藩主の名に多い「」の字がふられている。一族か、それに近い家臣との想像がつく。

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(本多紀品から50年ほど後の『文化武鑑』の飯山藩主)

時代は違うが、手元の『文化武鑑』(柏書房 1981.9.25)で飯山藩の20人の要職のリストを改めると、うち8人が藩主と同じ本多姓である。こんな高比率の藩はきわめて稀である。

機会があったら、飯山市の教育委員会か郷土史家の方に問い合わせて、本多弥五兵衛紀武の藩での地位をご教示願おうと考えているのだが。
飯山市の鬼平ファンの方のご教示だと、もっと嬉しい。

【付記】区図書館に、『大武鑑l』があったので、もっとも近い享保3年(1718)を見た。この年、本多紀品は4歳。

飯山藩の重職に、本多弥五右衛門の名は、やっぱり、あった!

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(飯山藩にいた本多弥五兵衛 『大武鑑l』享保3年分)

津和野藩の重職欄に、阿曾沼五郎右衛門の名はなかった。この人の江戸留守居については再考の余地がありそうである。

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(津和野藩 『大武鑑l』享保3年分)

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2008.02.17

本多采女紀品(のりただ)(6)

「本多さま。じつは---」
と、銕三郎(てつさぶろう宣以(のぶため 家督後の平蔵=小説の鬼平)は、江ノ島の旅籠〔三崎屋〕の大部屋での朝飯のときに、すり寄ってきて、弥兵衛と名のった、一と癖もニた癖もありげな男のことを打ちあけた。

「齢は40がらみで、でっぷりと肥えて、脂ぎった赤らがお。鼻のあたまがとりわけ赤黒く、大きな黒い毛穴が目立ちました。左の眉毛の先が剃刀ででもそいだように切れておりました。声が齢の割りにしてはかん高いのが耳ざわりでした。背丈は5尺2寸(1m56cm)見当---といったところでしょうか」
「通り名かなにか、言わなかったかな?」
「申しわけございません。名のりかけたのを、拙が遮ってしまいました。聞くとかかわりができそうに思いましたもので---」

聞き取った本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳)は、先手・鉄砲(つつ)の16番手組頭で、火盗改メの助役(すけやく)を拝命している。
銕三郎どののせっかくの人相こころ覚えだが、じつは、火盗改メが人相書をつくって残しておくのは、火付けの上に盗みをした盗賊ぐらいでな。もちろん、組にもよろうが---」
そういって本多紀品は、いま、火盗改メに任じられている3組の先手組の人員を明かしてくれた。

本役 本多讃岐守忠昌 屋敷・牛込山伏町
 先手・弓の8番手 与力10人・同心30人
    組屋敷 市ヶ谷本村町
【参考】個人譜は、2008年2月12日[本多采女紀品](4)

助役 本多采女正品 屋敷・表六番町  
 先手・鉄砲の16番手 与力10人・同心50人
    組屋敷 小日向切支丹屋敷
【参考】個人譜は、2008年1月23日[与詩を迎えに](33)

増役 篠山靱負佐忠省 屋敷・神田橋門外
 先手・弓の5番手 与力5人・同心30人
    組屋敷 四谷本村町
【参考】個人譜は、2008年2月11日[本多采女紀品](3)

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(四谷門外 先手・弓 緑○=5番手 青○=8番手組屋敷)

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(小日向 先手・鉄砲 赤○=16番手組屋敷 両地図とも尾張屋板)

先手組の構成員は、基本は与力10人、同心30人だが、組によって増減がある。
組頭は、小十人組の頭(かしら)、徒(かち)の頭、目付、使番、書院番や小姓組の与(組 くみ)頭などから指名される。
弓組10組。
鉄砲組20組。
西丸鉄砲組4組---幕府後半期の構成である。
この頭(かしら)の中から、火付盗賊考察---通称・火盗改メが選ばれる。
年間を通しての本(定)役の場合は、申請すれば同心の臨時補充もあるが、短期の助役(すけやく)や増役(ましやく)には、それはない。
助役は秋に任命され、晩春に解かれる。冬場に多い火事対策である。
増役は、適宜、

組の全員が火付けや盗賊の逮捕に当たるわけではない。、
若年寄への報告書や町奉行所への写しなどの書類仕事にほとんどの手をとられていて、捜査・逮捕に向けられる人員は、定員の3割ほど。
それでいて、24時間体制だから、とにかく忙しい。
人相こころ覚えなど、どの組もほとんどつくっていないのではなかろうか。

「ま、町奉行所へとどけた写しを、運がよければ、あちらで保管しているやもしれないが---」
本多紀品が気の毒そうにいうと、父・平蔵宣雄が引きとって、
「その、弥兵衛とやら---疑わしいだけで、盗賊という確かな証(あか)しがあるわけではないのだから、お忙しい本多さまのお手をわずらせしてはならない」
そう、銕三郎に釘をさした。

【ちゃうすけ注:】火盗改メは、頭(かしら)の自宅が役宅となる。それで、3人の頭の屋敷を書き添えておいた。
役宅に備えられる白洲、仮牢や捕物具の置き場所なとについては、また改めて。
 
     

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2008.02.16

本多采女紀品(のりただ)(5)

「そこでじゃ、銕三郎(てつさぶろう 家督後の平蔵宣以 のぶため=小説の鬼平)どのが先刻に話した、小田原城下の、薬舗---ほれ、なんとかいいましたな---」
「〔ういろう〕です。外郎とかいう、唐土の官職だそうで---」

先手・鉄砲(つつ)の16番手の頭(かしら)・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 49歳 2000石)の、番町・表六番丁の屋敷である。
銕三郎は、父・平蔵宣雄(のぶお 45歳 小十人組の頭)に連れられて訪問している。

というのも、東海道・平塚の宿はずれ、馬入(ばにゅう)の顔役に、つい、火盗改メ・本多紀品の相談役と大見得をきってしまったので、その無断詐称(さしょう)の謝罪にうかがっているのである。

「その薬舗〔ういろう〕の盗難にかかわりがありそうな、京の---」
「〔荒神(こうじん)〕の助太郎です」
「そう、その者のこと、京都町奉行所へ連絡(つな)いで、更(あらた)めさせるとして、はて、荒神口は、東と西のどちらの支配か?」
京都町奉行所は、東と西の2ヶ所ある(このときから8年後に、宣雄が赴任するのは、西町奉行としてである)。

このとき(宝暦13年 1763)の東町奉行は、小林伊予守春郷(はるさと 67歳 在職10年 400石。ただし京都町奉行の役高=1500石)。
西町奉行は、松前隼人順広(としひろ 36歳 在職7年 1500石)。

本多紀品は、行ったこともない京都の地図を、なんとか描こうと考えこんでしまった。
「うーむ」

宣雄が助け船を出した。
本多どの。所司代へ申されて、どちらへ申しつけるか、お任せになっては?」
「よいところへお気がつかれた。いまの所司代は、阿部伊予守正右(まさすけ 39歳 備後・福山藩主 10万石)侯でしたな」
「はい。3年前から---」

【参考】阿部伊予守正右については、2007年8月12日[徳川将軍政治権力の研究] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)   (11)
(阿部伊予守正右の個人譜は、上の(5) )

京都所司代は、譜代の大名が、奏者番(そうじゃばん)、寺社奉行を経て就く、若年寄なり老中へ手がとどく要職である。
本多紀品とすれば、その所司代へ書簡を送ることにより、名前が覚えてもらえるという利点がある。

銕三郎は、自分の発見が、こうして本多紀品の出世の手がかりの一つと化していくのを、目(ま)のあたりにして、さきざきの勤仕の要諦をかいま見た思いにとらわれた。

「本多さま。それで、小田原藩のほうは、いかがなりましょう?」
「おお、それもあったな。どうであろう、小田原侯の大久保大蔵大輔忠興(ただおき 51歳 11万3000石)侯の町奉行へは、大久保よしみで、笹本靱負佐(かなえのすけ)忠省(ただみ)どのから連絡(つなぐ)ということにいたしては? この案でいかが? 長谷川どの?」
「よろしいでしょう。では、笹本どのへは、本多どのから---」
「いや。これは、銕三郎どのお手柄ゆえ、銕三郎どののところへ、笹本どのの組(先手・弓の5番手)の与力なり、同心筆頭がうかがうように、申しつたえます。よろしいな、銕三郎どの?」
「はい」

銕三郎は、また一つ、学んだ。手柄は、手柄を立てた者につけてやることを。
もっとも、一番おいしいところは、本多紀品が巧みにくわえてしまったが。

【参考】笹本靱負佐忠省の大久保家つながりの詳細は、200年2月11日[本多采女紀品(のりただ)](3)

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2007.07.07

本多佐渡守正信

本多佐渡守正信(まさのぶ)という、家康の側近で策謀をめぐらせ、その息・正純(まさずみ)の代で断家された仁の、『寛永諸家系図伝』の全文を掲げる。
家康の死は元和2年(1616)4月17日、75歳。正信はそのあとを追うように6月7日、79歳で卒した。Photo_392
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真田昌幸を高野山へ送ったのも、島津家に誓書を差しださせたのも、正信の手配によると。


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2007.06.18

本多平八郎忠勝の機転(6)

迯祠『徳川実記』[東照宮御実紀 巻3] (承前その2)

「田中城ゆかりの家々が相つどうて、先祖話に興じるのもおもしろかろうな」
本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・前田中藩主 4万石)が、思いつきを口にだしたとき、まっ先に賛意をのべたのは、本多采女紀品(のりただ 45歳。2000石 小十人組頭)だった。
「ご隠居どの。某(それがし)は、田中城にはじかには関わりはございませぬが、書役(しょやく)ということで、一手かませていただきたく---」
「手前も、書役・本多さまの助役(すけやく)にて、ぜひぜひ」
佐野与八郎政親(まさちか 27歳 西丸書院番士 1100石)までが、膝をのりだした。

伯耆守さま。これは、もしかすると、田中党の結成ということで、お上のご禁制に触れるやも知れません」
長谷川平蔵宣雄(のぶお)が、冗談めかして、それとなく手綱を引いた。゜
「なにが徒党結成なものか。鯛のから揚げを食するために集まるのではない。出るのは丸干しじゃ」

伯耆守正珍がいった〔鯛のから揚げ〕とは、元和2年(1616)1月21日、駿府城で〔鯛のから揚げ〕を賞味して、近辺へ放鷹に来た家康が田中城に宿泊中に腹痛に苦しみ、その3か月後に75歳でみまかったことを皮肉っている。

いや、家康の鷹狩りから34年前、きょうの芝二葉町の中屋敷の集まりからは157年昔の、本筋へ戻そう。

家康の一行は、河内国交野郡の尊延寺村を真東へすすみ、山城国相楽(あいらくこおり)山田村へきている。

(さきに長谷川竹丸(のちの秀一)が使いを出して案内をこうておいた、大和の(豪族)十市(とおち 常陸介から)、あない(案内)にとて吉川といふ者を進(まい)らせ、三日には木津の渡りにおわしけるに舟なし。
忠勝鑓さしのべて柴舟二艘を引よせ、主従を渡して後、鑓の鐏(いしづき)をもて二艘の舟をばたたき割て捨て、今夜長尾村八幡山に泊り給ひ、四日石原村にかかり給へば、一揆起こり手道を遮る。

忠勝等力をつくしてこれを追払ひ、白江村、老中村、江野口を経て呉服明神の祠職服部がもとにやどり給ふ。

五日には服部山口(光広 郷ノ口・小川城主)などいへる地士ども御道しるべして、宇治の川上に至らせ給ひしに又舟なければ、御供の人々いかがせんと思ひなやみし所、川中に白幣の立たるをみて、天照大神の道びかせ給ふなりといひながら、榊原小平太康政馬をのりめば思ひの外浅瀬なり。
其時酒井忠次小舟一艘尋出し、君を渡し奉る。

やがて江州瀬田の山岡兄弟迎へ進(まい)らせ、此所より信楽までは山路嶮難にして山賊の窟なりといへども、山岡服部御供に候すれば、山賊一揆もをかす事なく信楽につかせたまふ。

ここの多羅尾何がしは、山口(の実家)、山岡等がゆかりなればこの所にやすらはせ給ひ、高見峠より十市が進(まい)らせたる御道しるべの吉川には暇給はり、音聞(御斎 おとぎ)峠より山岡兄弟も辞し奉る。

(「多羅尾何がし」は、ひどい表現だなあ。仮にも、家康一行が一宿一飯にあずかり、のちに幕臣にとりたて、『寛政譜』にも載っている家柄である。
_100_2これは、多羅尾家が甲賀忍者あがりであることを、 『実紀』をまとめた林家系の人たちが蔑視して書いたとしかおもえないのだが。
そういえば、多羅尾家の家紋---牡丹もめったに見ないもの。忍者説もまんざらではなさそう)。

去年(天正9年 1581)信長伊賀国を攻られし時、地士ども皆殺するべしと令せられしより、伊賀人多く三(河)遠(江)の御領に迯(にげ)来りしを、君(家康)あつくめぐませ給ひしかば、こたび其親族ども此恩にむくひ奉らんとて、柘植村の者二、三百人、江州甲賀の地士等百余人御道のあないの参り、上柘植より三里半鹿伏所(かぶき)とて、山賊の群居せる山中も難なくこえ給ひ、六日に伊勢の白子浜につかせ給ひ、其地の商人角屋といへるが舟もて、主従この日頃の辛苦をかたりなぐさめらる。

『実紀』は、いささか、急ぎすぎているようだ。『武野燭談』から現代語に直して、引く。

多羅尾郷へ向かわれた。
多羅尾の何某は大いに喜んで、「どうぞ、わが館でお休みくださいますよう」と申しあげた。
酒井直政などの重臣たちは多羅尾を疑い、「このあたりは敵国の範囲でもあり、人の心は見抜けないものです。いかがなものでありましょう?」といったとき、忠勝が進みでて、
「堺を出てから今日で3日目。すでにみんなの腰兵糧のほかに口にすもるものも尽きかけており、たいへんに難儀な状態です。
多羅尾にもし逆心があれば、この家に入り給わずとも、逃がしはしないでしょう、そうなりますと、われわれは、このように疲労困憊しており、思うようには立ち向かえませぬ。
しょせん、多羅尾の馳走を受け、人馬ともにお休みになってはいかがでしょう。
万一、多羅尾がなにかたくらんでいたら、この忠勝が彼を捉えてきちんと始末しますから、お気づかいなく、お休みください」
平八郎の言、もっともである」

家康多羅尾の館へお上がりになって、もてなしを諒とされ、みんなもここまでの疲労をいやした。
家康からは多羅尾(四郎右衛門光俊 みつとし)に短刀を下された。

多羅尾家の『寛政譜』を掲げておく。
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(赤○=伊賀越えを警護)

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(当主・光俊の3男。のち1500石を知行)

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2007.06.17

本多平八郎忠勝の機転(5)

『徳川実記』[東照宮御実紀 巻3](承前)

天正10年 1582 6月
(飯盛山か枚方かで、信長への殉死を決意した家康を、本多平八郎 35歳が、三河へ帰ってから軍を率いて光秀を討ってこそ、信義が果たせると説得)。

其時、(信長の秘書役だった長谷川竹丸(のちの藤五郎秀一)怒れる眼に涙を浮べ、我等悔しくもこたび殿の御案内に参りて主君最期の供もせず、賊党一人も切り捨ず、此侭に腹切て死せば、冥土黄泉の下までも恨猶深かるべし。
あはれ、殿御帰国ありて光秀御誅伐あらん時、御先手に参り討死せんは尤以て本望たるべし。
ただし、御帰国の事を危く思召るべきか、此辺の国士ども、織田殿へ参謁せし時は、皆某(それがし)がとり申てる事なれば、某が申事よもそむくものは候まじ。
夫故にこそ今度の御道しるべにも参りしなりと申せば、酒井、石川等も、さては忠勝が申旨にしたがはれ、御道の事は長谷川にまかせられしかるべきにてと候といさめ進られて、御帰国には定まりぬ。
信長家康への馳走として上方見物をさせるにあたり、その案内役としてこの長谷川秀一をつけたのである。略。
「私が、案内しましょう」
と、たのもしげにいってくれたのは長谷川秀一であった。かれは故信長のもとで、
「申次(もうしつぎ)」
とよばれる仕事をしていた。地方々々の大名や豪族、寺社の者などが、信長に本領安堵(あんど)をしてもらいたいため、京に集まってくる。それら陳情者たちを長谷川秀一は応接した。かれらが持ちこんでくる用件を信長に取り次ぎ、場合によっては彼等の立場にもなってやって便宜をはからってやる。そういうことで、彼等のあいだで、長谷川秀一に対して恩に着ている者が多い。『覇王の家』)。

穴山梅雪もこれまで従ひ来りしかば、御かへさにも伴ひ給はんと仰ありしを、梅雪疑ひ思ふ所やありけん、しゐて辞退し引分れ、宇治田辺辺にいたり、一揆のために主従みな討たれぬ。
《これ光秀は、君(家康)を途中に於て討奉らんと謀にて土人に命じ置きしを、土人あやまりて梅雪をうちしなり。よて後に光秀も、討ずしてかなはざる徳川殿をば討ちもらし、捨置ても害なき梅雪をば伐とる事も、吾命の拙さよとて後悔せしといえり》

Photo_388
(黄○=草内で梅雪一行が襲われる。緑○=家康一行が渡河した井手)

(---梅雪、多知ノ男ニテ。

と、この当時いわれていたように、故武田信玄の族党のなかでは知恵があり、むしろ知恵誇りして信玄の相続者の勝頼と事ごとに言いあらそいをし、ついにその知恵を勝頼を裏切ることに使い、家康を仲介者として織田方に寝返り、巨摩郡もらった---略。 『覇王の家』 )

『徳川実紀』がことさらに梅雪に言及しているのは、家康が土人に命じて梅雪を殺させたといううわさが消えないからであろうが、司馬さんは、家康は「年少のころから一度も人を謀殺したこと」はなく、「この時期よりあともそういう所行はない」と断定している)。

竹丸やがて大和の(豪族)十市(とおち 常陸介)がもとへ使立て案内をこふ。
忠勝は蜻蛉(とんぼ)切といふ鑓(やり)提て真先に立、土人をかり立かり立道案内させ、茶屋は土人に金を多くあたへて道しるべさせ、河内の尊延寺村より山城の相楽(あいらく)山田村につかせたまふ。

「本多平八郎忠勝どのが〔蜻蛉切〕の槍をお持ちだったということは、ほかの扈従(こじゅう)のお方々も武装なさっていらっしゃいましたでしょうに。それでも土匪(どひ)を怖れられたのでございますか?」
銕三郎(のちの平蔵宣以 のぶため)が不思議がった。

扈従していた天野三郎兵衛景能(かげよし 46歳。のち家康の諡字をもらって康景に)の『寛政譜』に、
「(天正)十年、織田右府生害のよし告来りければ、堺より伊賀路を経て岡崎に還らせ給ふ。この時御料の鎧をあづかりたてまつりて御あとより供奉し、慕ひ来る野伏(のぶせ)等を追散す」
もちろん、鎧櫃(よろいびつ)は従者が奉戴していたろう。

「いや、鎧など持っていることが知れれば、野伏らの好餌であったろうな」
「戦えばよろしいかと」
「相手は鉄砲なども持って襲ってくるぞ」
「はあ」

銕三郎のために、同じく扈従していた高力与左衛門清長(きよなが 53歳)の『寛政譜』
「十年、御上洛ありて和泉の堺にのましますの時、六月二日明智光秀京都において右府を弑(しい)せしこと告来るにより、帰御あらむとて伊賀路を越えさせたまふのとき、清長小荷駄奉行となりて殿(しんがり)す。このとき所々の一揆馳むらがりて御道をさへぎるにより、清長しばしば返し合せ賊兵を撃、鉄砲にあたりて疵(きず)をかうぶる」

「おお、そうじゃ。宣雄どのは、この高力与左衛門清長が、伊賀路から帰ってすぐの8月に、田中城を預かったことをご存じかな?」
「不肖にして---」
「うむ。先手の寄騎(よりき)25騎とともにの。伊賀路での小荷駄の天晴れなる指揮ぶりの褒章であったろう。もっとも、御神君が関東に移られた時、武蔵・岩槻城2万石へ移されたがの」
「お教え、かたじけのう存じます」
「そうじゃ。田中城ゆかりの家々が相つどうて、先祖話に興じるのもおもしろかろうな」
(この項、つづく)

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2007.06.16

本多平八郎忠勝の機転(4)

これまでの記述を、もうすこし客観的に見るために、< 『徳川実記』[東照宮御実紀 巻3]から引用してみる。

天正10年 1582)
五月 君(家康)、右府(信長)の居城・近江の安土にわたらせたまへば、穴山梅雪もしたがい奉る。
おもただしき設ありて、幸若の舞申楽も催し饗せられ、みずからの配膳にて、御供の人々にも手づからさかなをひかれたり。
家康とその主従に上方能を見せるために幸若、梅若の太夫たちをよんで舞わせたり(略)、右大臣みずから立って膳をはこび、まず家康の前に据え、ついで石川(数正)の膝前、酒井(忠次)の膝前などにつぎつぎとすえた。『覇王の家』)。

右府やがて京へのぼらるれば、君も京堺辺まで遊覧あるべしとて、長谷川竹丸(後に藤五郎秀一といふ)といへる扈従(こじゅう)を案内にそへられ、京にては茶屋といへる家(茶屋四郎次郎。本氏は中島といふ。世々豪富なり)を御旅館となさるべしとて、万に二となく沙汰せらるれば、君は先立て都へ上らせ給ひ、和泉の堺浦までおはしけるが、今は織田殿もはや上洛せらるるならむ、都へかへり、右府父子にも対面すべし、汝は先参て此のよし申せとて、御供にしたがいし茶屋をば先にかへさる。
((茶屋四郎次郎は)京における織田家御用の呉服商で、信長とその一族の宮廷服や衣装はこの茶屋が一手で調整し、巨利を得ていた。彼にとって信長の死は自分の事業の崩壊であろう。『覇王の家』)。

又、六月二日の早朝、かさねて本多平八郎忠勝を御使として、今日御帰洛あるべき旨を右府に告げさせ給ふ。
君も引つづき堺浦を打立給へば、忠勝馬をはせて都へのぼらんと、河内・交野(かたの)の枚方(ひらかた)辺まで至りし所に、都のかたより荷鞍しきたる馬に乗て、追かけかけ来る者を見れば、かの茶屋なりしが、忠勝が側に馬打よせて、世はこれまでにて候、今暁、明智日向が叛逆し、織田殿の御旅館にをしよせ、火を放て攻奉り、織田殿御腹めされ、中将殿も御生害と承りぬ。
この事告申さんため参候といへば、忠勝もおどろきながら茶屋を伴ひ、飯盛山の麓(地図=下の赤○)まで引き返したるを、君(家康)遥に御覧じ、そのさまいかにもいぶかしくおぼし召、御供の人々をば遠くさけしめ、井伊、榊原、酒井、石川、大久保等の輩のみを具せられ、茶屋をめしてそのさまつぶらに聞給ひ---

Photo_387
(赤=上:橋本 下:飯盛山 緑=左:枚方 右;尊延寺 黄=草内)

『覇王の家』 は、2007年6月13日[本多平八郎忠勝の機転]に記したように、家康たちと合したのは、枚方の近くとしている。
そのために、京から淀川ぞいに下ってきた茶屋四郎次郎とは、忠勝は橋本あたりで行きあったことに。
多くの史料を校勘する司馬さんのこと、そうかも---とおもう。
飯盛山麓では、以後の逃避行の時間割がいささか苦しい。
もっとも、本稿は家康の伊賀越えそのものが主題ではなく、本多平八郎忠勝の機転と勇気を主眼としているのだから、合流点には深入りしない。

私事を書くと、河内長野の郊外にあった大阪陸軍幼年学校で、たしか終戦の日、大阪港に米軍が上陸したから---とのデマ情報を司令室が信じ、夜中に乾パンを靴下につめ、運動着のまま、京都へ向かったときも柏原まで旧国道170号を歩いた。
西の堺からの道が柏原で交わる。
この柏原から16キロほど北行すると飯盛山の下へ通じ、さらに10数キロで枚方である。

本多平八郎忠勝はある予感から、後発の家康一行の誰かと、たどる道筋を、たとえば、往路を戻るとでも、打ち合わせていたにちがいない。
そうでないと、飯盛山の麓であれ、枚方であれ、出会える確率はきわめて少なくなる)。

家康は)御道の案内に参りし竹丸を近くめし、我このとし頃織田殿とよしみを結ぶこと深し。
もし今少し人数を具したらんには、秀光を追かけ織田殿の仇を報ずべしといへども、此無勢にてはそれもかなふまじ。
なまなかの事し出して恥をとらんよりは、急ぎ都にのぼりて知恩院に入、腹きって織田殿と死をともにせんとのたまふ。
竹丸聞て、殿さへかく仰らる。まして某(それがし)は年来の主君なり。一番に腹切てこのほどのごとく御道しるべせんと申す。
さらば平八御先仕れと仰ければ、忠勝茶屋と二人馬をならべて御先をうつ。
御供の人々は何ゆえにかくいそがせ給ふかと、あやしみあやしみ行くほどに、廿町ばかりをへて、忠勝馬を引返し、石川数正にむかひ、我君の御大事けふにはまりぬれば、微弱の身をも顧みず思うところ申さざらんもいかがなり。
(うーん。本多平八郎の熱弁がはじまる山場だが、一言。
茶屋が信長の変事を家康に告げるとき、<御供の人々をば遠くさけしめ、井伊、榊原、酒井、石川、大久保等の輩のみを具せられ>と前に書いている。
さすれば、重臣たちは事情をわきまえているはず。
『実紀』の編纂者の思い込みが、ちと、激しすぎるのでは---)

年頃の信義を守り給ひ、織田殿と死を共になし給はんとの御事は、義のあたる所いかでか然るべからずとは申べき。
去りながら、織田殿の御ために年頃の芳志をも報はせ給はんとならば、いかにもして御本国へ御帰り有て軍勢を催され、光秀を追討し、彼が首切て手向給はば、織田殿の幽魂もさぞ祝着し給ふべけれと申。
(忠勝は、信長の死を聞いて1時間近くたっているから、善後策をあれこれ練る時間もあったろう。家康をはじめ、重臣たちは、咄嗟のことゆえ、動転している。情報を早くつかむことの大切さの教訓)。

石川、酒井等是をきき、年たけたる我々此所に心付ざりしこそ、かへすがへすも恥かしけれとて其よし聞え上しかば、君つくづくと聞めされ、我本国に帰り軍勢を催促し、光秀を誅戮(ちゅうりく)せんは固(もと)より望む所なり。
去りながら、主従共に此地に来るは始めてなり。
しらぬ野山にさまよひ、山賊一揆のためここかしこにて討れん事の口おしさに、都にて腹切べしとは定たれと仰らる。(この項、つづく)

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