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2007.08.12

徳川将軍政治権力の研究

氏ご推薦、田沼意次(おきつぐ)の政治力浸透を指摘した、
_90深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』 
(吉川弘文館 1991.5.10)
目次の一部
第1編
第4章 御用取次田沼意次の勢力伸長
  はじめに
  第1節 郡上藩宝暦騒動吟味と田沼意次
  第2節 藩の幕閣裏工作と田沼意次
      1 宝暦9年秋田藩国目付下向延引願
        1件
      2 宝暦12年薩摩藩拝借金1件
      3 宝暦14年(明和元年)秋田藩銅山
        山上知1件
  おわりに
第2編
第3章 紀州藩士の幕臣化と享保改革
  はじめに
  第1節 紀州藩士の幕臣団編入事情
  第2節 1 有馬氏倫・加納久通ら吉宗側近
       2 小納戸頭取の新設
       3 御庭番の創設
       4 井沢弥惣兵衛と年貢増徴策 
  おわりに
第4章 享保改革期の勘定方役人
    ---出自の分析を中心に---
  はじめに
  第1節 正徳期の勘定方役人
  第2節 享保改革期の勘定方役人
  おわりに
第5章 田沼政権の主体勢力
    ---紀州藩出身幕臣の動向と関連して---
  はじめに
  第1節 享保改革と紀州藩出身幕臣の動向
  第2節 宝暦・天明期における将軍側近役人の特質
       1 将軍側近役人の出自分析
       2 田沼意次と評定所
  第3節 紀州藩出身幕臣と勘定奉行
       1 勘定奉行石谷清昌・安藤惟要
       2 田沼期経済政策との関係
  おわりに
  (中略)
※個人的な興味から(御庭番の家々の『寛政譜』一覧と婚姻関係図をつくっているので)
第3編 将軍専制権力機構の確立
第3章 徳川幕府御庭番の基礎研究
    ---その隠密機能を中心に---
  はじめに
  第1節 御庭番の創設と御庭番家筋
  第2節 御庭番の職務内容
      1 表向きの勤務
      2 内密の御用
      3 遠国御用と幕政
  第3節 御庭番の昇進
  おわりに

引用・アップの『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ) は上記の深井雅海(まさうみ)さん『徳川将軍政治権力の研究』の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]からである。

宝暦(ほうりゃく)8年(1758)7月20日の項(つづき)。
記録者は、寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 36歳 10万石)。
この日、郡上八幡の農民一揆を再吟味するようにとの下命があったらしい。

一 野州(菅沼下野守定秀 勘定奉行 60歳 1220石)内々被申候者、昼程泉州(依田和泉守政次 まさつぐ 北町奉行 57歳 800石)・野州江田沼主殿殿御逢之節被仰候趣承り由被申候、泉州物語り承り候て申候、其節右一件者寺社奉行行掛り候哉御尋候、泉州御答ニ者最初長門殿(本多長門守忠央 ただなか 相良藩主 当時寺社奉行 54歳 1万5000石)・豊後(曲渕豊後守英元 ひでちか 当時勘定奉行 60歳 1200石)懸り候ト被申候故、野州被申候者却而一座へ下り候者一座一統之事ニ候、御渡之節之月番三人先おもニ取計候得共一同之事ニ候、最初御渡候も長門殿・泉州・豊後申候由被申上候与内々物語有之

氏が添えてくださった<読み下し>文---。

一 野州(菅沼下野守定秀)内々申され候は、昼ほど泉州・野州へ田沼主殿どのお逢いの節仰せられ候趣承り(候)由申され候、泉州物語り承り候て申し候、その節右一件は寺社奉行懸かり候やお尋ね候、泉州お答えには、最初長門どの(本多長門守忠央、当時寺社奉行)・豊後(曲渕豊後守英元、当時勘定奉行)懸かり候と申され候故、野州申され候は、却って一座へ下り候は一座一統のことに候、お渡りの節の月番3人まずおもに取り計らい候えども一同のことに候、最初お渡り候も長門どの・泉州・豊後申し候由申しあげられ候と、内々物語これあり。

誤読をおそれず、現代文に意訳してみる。

きょう、五手掛のメンバーの一人である勘定奉行の菅沼下野守定秀(さだひで)どのが、寺社奉行を拝命している私(阿部伊予守正右)へ内々で申された。
それは、今日の昼すぎに側御用の田沼主殿頭意次どのから連絡があって面談したとき、お上(家重)のお言葉をつたえると申された由。
このことは すでに町奉行・依田和泉守政次どのから耳打ちされたとおりであるが、その席で田沼どのは「この一件の吟味に、寺社奉行は加わっているのか」とお尋ねになった。
町奉行の依田どのが「当初の吟味には、いまは若年寄へご栄進だが、当時は寺社奉行だった本多長門守忠央どのと、いまは大目付で、当時は勘定奉行を務めておられた曲渕豊後守英元(ひでちか)どのも加わって評定していました」とお答えになった。
(注:依田和泉守政次は宝暦3年から明和6年まで 1753~69 北町奉行 )

そこで、前年の宝暦7年6月から公事方の勘定奉行に補された菅沼下野守定秀(さだひで)どのが「この吟味には、事件の関係者も入っておりますが、この後は、その関係者をはずして、月番3人のみで評定をするようにします」と付け加えた。
つまり、当時寺社奉行だった本多長門守と、勘定奉行だった曲渕豊後守をはずすといったのである。

この事件の再審は、農民側や郡上藩主・金森兵部少輔頼錦(よりかね)とその一統の審議はあとまわしでいい、幕閣側の処罰を田沼意次はせかした。その結果は、2007年8月1日の[田沼主殿頭意次]に記したとおりである。

本多伯耆守正珍(まさよし) 老中罷免 伺之上差控 
 (駿州・田中藩主 4万石 49歳)
本多長門守忠央(ただなか) 若年寄罷免 領地公収
 (遠州・相良藩主 1万石 54歳。御預け)
曲渕豊後守英元(ひでちか) 大目付罷免 閉門
 (1200石 68歳)
大橋近江守親義(ちかよし) 勘定奉行罷免 改易
 (2120余石 御預け)

なお、郡上八幡一揆の概要は、
2007年5月15日本多伯耆守正珍の蹉跌
2007年5月16日本多伯耆守正珍の蹉跌(その2)

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