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2007.08.01

田沼主殿頭意次(おきつぐ)

あとさきになるが、氏の講義録の書き出しは、こうである。

郡上騒動から生まれた田沼政権

江戸中期に郡上八幡を中心に大きな騒動が起こって、天下をゆるがしたことがある。これが近年〔郡上一揆』という映画になって上映され、多くの人の共感をよんだ。

【参考】映画『郡上一揆』

江戸後期には、この騒動よりもはるかに多数の農民を巻き込んだ一揆や騒動は全国各地に頻発しているが、その中でも、これは暴発的な破壊行動を極力避け、権力の中枢部に対して整然として道理に訴える活動を展開した点で、極めて政治的に成熟した農民運動だったし、またそれに対応した幕府側が最高の政治機関である評定所で審議を行い、農民側の中心人物の処刑という重い罰を課した他に、郡上藩の取り潰しとか、老中や勘定奉行を含めた幕臣たちの処罰といった異例の結末によって、ほかの百姓一揆とは全く違う特別な意味があった。

幕閣・藩主側の処罰を、『柳営補任』から拾って記す。

本多伯耆守正珍(まさよし) 老中罷免 伺之上差控 
 (駿州・田中藩主 4万石 49歳)
本多長門守忠央(ただなか) 若年寄罷免 領地公収
 (遠州・相良藩主 1万石 54歳。御預け)
曲渕豊後守英元(ひでちか) 大目付罷免 閉門
 (1200石 68歳)
大橋近江守親義(ちかよし) 勘定奉行罷免 改易
 (2120余石 御預け)

金森兵部少輔頼錦(よりかね) 領地公収
 (美濃・郡上八幡藩主 3万9000石 51歳
  御預け 家臣追放)
 
この処置について、氏は、

_110実はこの事件の審議の前後から田沼意次(おきつぐ)が評定所に参加するようになり、この責任者たちの処分には彼の意向がかなり反映されていたらしいから、これを田沼時代の幕開けとする見方もある。(こういう面から郡上騒動を扱った本では、大石慎三郎著『田沼意次の時代』がよい手引き書)。

I氏説に異を唱える気持ちはさらさらないが、意次が評定所の式日に席につらなるように下命されたのは宝暦8年9月3日ともとれる記述が、意次の『寛政譜』にある。
裁決は、9月14日である。席につらなった早々に意見を述べるほど、諸事に慎重で思慮深い意次が向こう見ずな発言をするとは、ちょっと信じられないのだが。
しかも、金森頼錦の罪状は、農民への重税を課そうとしたことに端を発している。

氏は、こうも書いている。

反抗する百姓たちを押さえるために幕府の老中や勘定奉行・郡代まで巻き込んだから、、幕閣の中の農業改策観の対立へと発展し、この機会に(吉宗主唱による)享保改革以来の重税派人脈を新政策推進派の中心だった田沼が追い落として、商業流通への課税に重点を移すという幕府政治の重要な転換が図られていったのである。

「追い落とし」ということであれば、老中を罷免された本多伯耆守正珍も農民への重税派ということになるが、田中藩の徴税がはたしてそうであったかは、まだ、調べていない。
本多長門守忠央の相良藩についても同然である。

あえて私見を述べると、老中首座・松平右近将監武元(たけちか)が、いまだ健在の時期である。武元は、吉宗の信任をえて、享保改革政策の継承まかされていたはず。
意次もそのことは十分に心得ていたろう。
武元が卒する21年後の安永8年(1779)までは、急激な政策転換は果たせなかったかともおもうのだが。
あるいは少なくとも、昨日の日記に記した、石谷豊前守清昌(きよまさ)の勘定奉行着任の宝暦9年(1759)9月までは---。
 

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コメント

>本多伯耆守正珍も農民への重税派ということになるが、田中藩の徴税がはたしてそうであったかは・・・<
田中藩での治世は大変興味深いです、徴税はどうだったのでしょう、いずれ銕三郎の帰国報告で田中藩の様子が解ってきますね。

投稿: みやこのお豊 | 2007.08.02 11:56

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