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2012.05.17

江戸・打ちこわしの影響(5)

全国的な市中・打ちこわしの発端となった大坂の騒擾の間接的な要因は、前年の将軍・家治(いえはる)の死にもあるらしい。

病気の前に、都中央図書館で『新修大坂市史 第4巻』(大阪市 1990)を確認しておいた。
しかし、地下鉄の広尾駅から都中央図書館へのなだらかな坂道が退院後は無理とおもえた。

都中央図書館から住まいに近い区の図書館経由で借り出しを申請をすると、本によっては館内閲覧に限定されることがある。
そうなったら病躯にちょっと無理をさせ、区の図書館でコピーをとるより仕方がないかと覚悟していたが、なんと、世田谷区の中央図書館から都合がつき、病室でじっくり読むことができたのである。

自宅まで借りだせれば、範囲ページを指定し、家人に拡大コピーをたのめる。
(加齢とともに老眼もすすみ、見開きA4のページをA3に拡大して手元に置くようにしている)

天明4年の大坂の打ちこわしのことはすでに紹介している。
このころは病気発見の前で、都中央図書館へよくかよっていた。
(電車賃が大変だった、なにせ、無料閲覧のブログなんだもの)

参照】2012年1月14日~[庭番・倉地政之助の存念] () () () (

さて、大坂の天明6年(1786)の状況だが、天候不順で収穫は全国平均、例年の3分の1しかなく、翌7年の正月には米価は3倍に高騰していたが、買占め・売り惜しみを奉行所へうったえると、例によって米商人に買占め・買いだめの遠慮の布告をだしただけで、町人がわには「粥をすすれ」との返事であったという。
(このあたりは、いくらなんでも幕府役人のセリフとは信じかねる)


こんな矢先の(天明)七年正月四日、江戸表から大坂へ一万石の回米令が達せられた。しかもこれは当年四月に予定されている徳川家斉の新将軍宣下の儀式のときに入用に備えるものというのである。これを聞いた町民は平成でありえず、当然いろいろ不穏に噂が乱れ飛んだ。これに対して奉行所では、一万石くらい別段たいした量ではないから、これが米価の値上がりの原因になるはずがない。それにもかかわらず、これを理由に値段をつり上げようと浮説を流したり買い占めをしたりするのは不届き至極であると、高圧的な言い分で町民の不満を押さえ込もうした。町奉行あたりには飢えに苦しむ貧しい町民の気持ちは全くわからなかったのであろう。(147ページ)


このときの大坂東西の町奉行を書きだしてみる。

西町奉行
佐野備後守政親(まさちか 57歳 1100石)
 天明元年5月26日 堺奉行ヨリ
 同 7年10月6日 寄合

東町奉行
小田切土佐守直年(なおとし 49歳 3000石)
 天明3年5月19日 駿府町奉行ヨリ
 寛政4年正月18日 (江戸)町奉行

並べてみると、どちらも「粥をすすれ」などと不遜な言辞を弄するような仁とはおもえない。
与力あたりが行きがかリでつい 吐いたか、町人のほうが聞き間違えたかともおもうが、触れ書に書き留められていたと記しているものものあるので、首をかしげている。

記録ではほかに、『北区誌』(大阪市北区役所 1955)にもこんな記事が記されている。


天明七年五月十一日夜は、天満伊勢町茶屋吉右衛門の居宅を襲って家作諸道具を破壊したのを発端として、翌十二日には市内各所に押買い・狼籍が起り、銭百文を出して二升、三升の米を押買し、もし応じないときは米穀を引出し、あるいは店舗を破壊するという有様であった。
木津勘助(万治三年十一月歿、年七十五才)の事蹟は必ずしも明らかでないが、当時不作で米の値は上り、貧民は粥もすすれぬという騒ぎがあり、貧民たちはまず堂島の米市場を襲い、ついで中之島の蔵屋敷にせまり、叫喚が高まった。
このとき福岡藩筑前屋敷の廂の上に両脚を踏むばって上ったのが木津勘助であった。両手を左右にひろげ、腹の底から絞り出した大音声で、
「勘助餅の勘助ぢゃァ、あとは安心せい、この首を獄門に懸けて引受 けたぞ。」
と叫んだので、これに勢をえた群衆は白昼に市中至るところの米倉を襲ったが、この罪科を負うて勘助は二カ月の間、獄にあって、三カ月目に死罪を行うべきところ、生涯の流罪として流されたのが木津の勘助島であった。


西町奉行・佐野豊前守がこの年の10月に解職になったのを、藤田 覚さん『田沼意次』(ミネルヴァ書房)は、騒擾(そうじょう)の責任をとらされたというより、むしろ、田沼派であったために粛清されと断じている。

参照】2010年9月24日[佐野与八郎の内室] (

たしかに、松平定信派による「田沼派干し」の気味はある。
大坂西町奉行まで勤めた人物を罷任するのは政争の末にはよくあることだろうが、その人物を3年後に1ランク下の先手・鉄砲(つつ)の組頭に就けさせるというのは、これみよがしの降格といえた。

あまりにも没義道な人事で、松平定信(さだのぶ)の人情を解さない狭隘な性格の発露とみる。

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