カテゴリー「010長谷川家の祖」の記事

2011.05.17

長谷川豊栄長者の屋敷跡(3)

静岡の〔鬼平クラス〕でともに学んでいる安池欣一さんが送ってくださった資料の一つ---[焼津市史考古資料調査報告書 小川(こがわ) 2003年]から、焼津市長・戸本隆雄さんの「序」の一部を引用する。


_170_2「自然や人々の営みに恵まれたこの地で、これまでどのように人々が暮らしてきたのかを知るためには、遺跡の内容を紐解くことが重要な手段のひとつです。焼津市域の平野部には、古くは弥生時代から人々の営みを見ることができますし、丘陵部にはいまだ(こ古墳がいたるところに残されています。このようにいくつもの遺跡がある中に、もちろん中世の暮らしを垣間見るための好事例もあります.。それが道場田・小川城遺跡です。
道場田・小川城遺跡は1981年から随時調査が行われてきました。これにより、戦国時代の館と集落の様相が有機的に分かってきています。全国的な考古学の大発見を挙げれば暇がありませんが、中世の館では東海地方から全国までを見渡しても、これほどまでに膨大な成果を収めて、ほぼ全容が把握できる例はさほど多くはないことに気付くでしょう。


鬼平犯科帳』の連載が『オール讀物』で始まったのは1968年の新年号からである。
松本幸四郎さん主演でテレビ化が放送されたのは1969年秋である。
焼津市が、鬼平こと---長谷川平蔵の祖先である長谷川家の居城であった小川城址の発掘を企画したこととかかわりはなかったであろうか。
あるいは、連載やテレビ化が促進剤とならなかったであろうか。

少なくとも、長谷川家に関する資料探しに火がついてことは容易に想像がつく。
もっとも、象牙の塔の人が、こんな仮説を認めるはずはないが。

報告書 小川(こがわ) 2003年]は、第4節に[小川の長谷川氏]をたて、まず[小川の法永長者]の項で、


文明8年(1467)、駿河守護今川義忠が戦死し、遺児竜王丸が4歳の幼童であったため、義忠の従兄にあたる範満が家督を望み、今川家臣がそれぞれの支持に分かれ、お家騒動に発展した。

範満の母親や祖母は関東の扇谷上杉氏の出であったので、相模守護上杉定政は家事の太田道潅を派遣して、範満を支援し竜王丸派を威圧した。

道潅は駿河に向かうに際し、伊豆の堀越公方足利政知の許に立寄り、政知の重臣上杉政憲と同道して府中に入った。

これに対し幕府は、竜王丸の母親(北川殿)の弟で、奉公衆の伊勢新九邸盛時(後の早雲庵宗瑞-北条早雲)を駿府に下向させ、内紛の調停に当たらせた。

その結果竜王丸が成人するまでの間、範満が家督を代行するということになった(『今川家譜』・家永遵嗣「戦国大名北条早雲の生涯」『奔る雲のごとく――今よみがえる北条早雲――』)

この騒動の間、竜王丸母子を匿ったの.が小川の法永長者(長谷川次郎左衛門尉正宣)である。

法永長者はこの時47歳であった。

法永長者が竜王丸母子を保護したのは、法永長者の帰依する林双院(後の林斐院)住職賢仲繁哲の要請によるものと推測される。

賢仲は「備中平氏」の出身といわれるので(『日本洞上聯燈録』八)、竜王丸の母の実家伊勢氏(伊勢氏も平氏である)と何らかの関わりがあったと思われるのである。

つまりその伊勢氏の所領は備中国荏原郷であり、同地の伊勢氏の氏寺法泉寺(岡山県井原市)は、賢仲が出家した同国草壁庄の洞松寺(岡山県矢掛町)とは同宗大源派)であり近しい間柄であった。

そうした俗縁関係から貿仲が法永長者に竜王tの保護を依頼したと考えたい。

覇停成立後、竜王丸は宇津の山の麓、泉谷(静岡市丸子)に新たに館を建てて成人÷るのを待った。

しかし中世は「自力救済」の時代であり、時が来たからといって約言通り竜王丸が当主の座につける保障はなく、竜王丸が当主となるには自らの力でその地位を奪い取るほかはないのである。

竜王丸が15歳になった長享元年(1487)伊勢量専ら竜王丸派は府中の今川館を攻めて範満を討ち取ったという(『字津山記』『今川家譜j)

こうして竜王丸は名実ともに今川家の当主となったのである.。


この今川館襲撃に、長谷川次郎左衛門正宣は力を貸したろうか。
兵力でなくても、資力は貸したと推察してもおかしくはなかろう。


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2011.05.16

長谷川豊栄長者の屋敷跡(2)

安池欣一さんからのリポートのつづき。

昭和29年(1954)に刊行された[小川町誌]のなかに、「豊永長者屋敷(小川城跡)」とキャプションのある写真をみつけました。

_360_2
(豊永長者屋敷(小川城跡」 [小川町誌])


田んぼの中にここだけ残されて、いかにも、「田中の古土手の跡」という風情です。

[小川町誌]にはありがたいことに城域の見取り図も掲載されていたので拝借する。

_360_5


ぼくが三ヶ名(さんがみょう)不動院を訪れたときには、院の前は畑で、その向こうには新しい住宅群が建っていたから、新開地として発展しつつあったのであろう。

_360_3
(三ヶ名不動院の門前から豊栄長者屋敷跡を望む)


安池さんのリポート――――、

これが発振された小川城の土居跡とすると、そこは、西小川(町名)であり、三ヶ名不動院とはどういう位置関係になるのか。
先生のプログによると、三ヶ名にあるということで、三ヶ名地図で探索しました。
土地勘がないので知りませんでしたが、三ヶ名は西小Jlの隣ですね。
でも、小川城跡と不動院とは大分離れています。

上掲の見取り図では、堀が大きく屋敷を取り囲んでいるから、不動院の近くまで、堀がきていたとかんがえられないだろうか。


安池さんのリポート――――、

不動院のお婆ちゃんと面談しました。
「法永長者のことを調べているのですが---」と前置きし、[小川町誌]の豊永長者屋欺(小川城跡)Jの写真を見せ、
「昔は、こうなっていたのですか?」
と訊くと、懐かしそうに、
「そうそう」という返事。
でも屋欺跡と大分離れているのに、見えたのかと確認すると、
「50年も前には、ここから海が見えるくらいで、何もなかったから。この写真みたく見るには田んぼの中には入って撮るしかないけど」
ということでした。
かつては、豊永長者の屋敷跡の所在を説明するには、
「不動院前、田中の古土手の跡」と書くよりなかったのかもしれません。


[小川町誌]にも豊栄長者についての記述があり、大正2年の[小川村誌]よりも調査がすすんでいるので転記しておく。

  豊栄長者(長谷川次郎左工門政宣)
         (叉は法永)
南北朝の頃、今川義忠の旗下に藤原鎌足の後裔にして、大和国長谷川の出身長谷川長重と称する勇将があった。
戦国のならいとて征戦に寧日なく、家を顧る閑がなかったので、良き後継者を得たいと思い、大いに人選した結果、小川城嗣として当国坂本村の豪将加納彦工門義久の男、次郎左工門尉政宣を迎えた。
政宣は、文武二道に通じ治政斉家の宜敷を得、家又大いに富み、世人は豊栄長者と呼んだ。
また仏法を信ずる事が篤かったので文明十ニ年、日頃帰依する処の遠江国高尾山宋芝の弟子・賢仲禅師と諜り会下(えげ)ノ島の海辺に精舎・林叟院を建立した。
其後国主今川義忠が遠州塩買坂に戦死、父長重もまた馬前に箆れた。
国内は二派に分れ騒乱が続き、已むことがなかったので、石脇城主(東益津村)伊勢新九郎氏 (後の北条早雲)の謀いで幼君竜王丸(今川義元の父)は母・北川氏と共に密かに豊栄の居城に隠れた。
豊栄は篤くこれを遇した。
間もなく太田道観等の調停によって駿河八幡において和義成立し、竜王丸は帰城した。
この時、豊栄大いに喜び、新九郎迎えの武士に馬鞍其他を送って祝い、自分達父子も随行した。
夫れより豊栄の長子元長は伊賀守に任官し、今川の近習に列せられた。
明応6年、異人来り、天変地異を予言葉したので、豊栄再び賢仲禅師と諜って林叟院を高砂山下坂本に移した。
翌年8月、大津浪があり溺死する者二万六千、会下島の林叟院跡は海底となった。
翌年、林叟院の伽藍完成(以下略)


小川城跡には、「小川城遺跡」の案内板と小川城祉の碑があります。

_360_6
(安池さん、写す)

出土品は:[焼津市歴史民俗資料館]に展示・保管されています。

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2011.05.15

長谷川豊栄長者の屋敷跡

本年の4月17日のこのブログに[長谷川家の祖の屋敷跡を探訪]と題して、西焼津の三ヶ名(さんがみょう)あたりをうろうろし、ついに屋敷跡を発見できなかった経緯を書いた。

参照】2011年4月17日[長谷川家の祖の屋敷跡を探訪

そのことは、当日の〔鬼平クラス〕(JR静岡駅ビル SBS学苑)で披露した。
いつものように、クラスの安池欣一さんが早速に助(す)けてくださった。

リポートとともに、資料が送られてきたのである。

資料は、[焼津市史考古資料調査報書 小川(こがわ) 2003年]と、[小川町史]のコピー。

リポートは、こんなふうに始まっている。


豊栄(歿後;法永) 長者の屋敢跡は焼津市により、「道場田・小川城遺跡」として発掘・調査されているようです。

安池さんの「道場田」も、「小川城」も地区名で、隣接しているために、[報告書 小川城 2003年]は併記している。


_360_2
(明治22年 参謀本部製地図 [小川城]より)


報告書 小川)城 2003年]は、

小川城遺跡というのは、『駿河記』巻十六志太郡巻之三「小川」村の項に

○長者屋敷小川の西北に当り、三ケヶ名不動院の前、田中の古土囲あり。
長谷川次郎左衛門尉正量の屋敷跡なり。

とあり、

豊栄長者屋敷のことである。
長谷川次郎左衛門尉正量は、林院二十二世大転秀教が書いた「林叟院開基石塔再建記」(享和2年-1802)に、

原夫、我山之開基、長谷川法永居士者、駿河小川村之住人也、以其家富挙世称長者、(中略)永正十三年六月一日、長谷川宝永居士寂、寿八十七霊也、当院之卯辰撰墓所建塔、(後略)

永享2年(1430)の生まれで、法永長者と呼ばれ、永正13年(1516)に87歳で没したことがわかる。
法永長者が見えるのは『今川記』と『今川家譜』であり、『今川記』に「山西の有徳人と聞こえし小川法栄」、『今川家譜』には「山西ノ小川ノ法永卜云、長老」とある。


参照】2011年3月30日~[長谷川家と林叟院] () () () () (

_360
(左上緑○=不動院 赤○=小川城輪郭 上青○=西小川丁目 同下=西小路公園)


安池さんは、さらに、ゼンリン地図に、三ヶ名の不動院と小川城跡の区画を示してくださった。

これでみるかぎり、4月17日のぼくは、間違ってはいなかった。

ただ、なにかで読んだ、「不動院前」という記述が大雑把すぎたといえる。
なんの記述だったか、確かめるために、関係資料をひっくりかえしてみた。

_150「あった!」
[大正2年(1913)7月下浣印刷 小川尋常高等小学校長・川村積造編纂 小川村誌]のコピーであった。

第十目 口碑伝説の、[二 長者屋敷]の項に、

『駿河記』に云う。小川に西北にあたlり、三ヶ名不動院の前の田中に、古土圍あり。
長谷川次郎左衛門尉正宣の屋敷跡なり云々とあり。
不動院は豊田村三ヶ名なり。
その前面は一望平坦の耕田にしてわが小川村の内なり。
小字(こあざ)を「城の内」という。
田中の所々に一段と高き茶畑あり。いかにも旧邸の址なるかを偲ばしむ。
里人云う、これ長者の屋敷跡なりと。
長者は長谷川氏にして今川氏旗下の士なり。正宣(また政平)、元長、正長など数代この地に住し、その家、はなはだ富む。
ゆえに小川長者、または法永長者と称せられしという。


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2011.04.17

長谷川家の祖の屋敷跡を探訪

駿河の小川(こがわ)湊(現・静岡県焼津市小川)が、鬼平こと長谷川平蔵の祖先にあたる豪族・次郎左衛門尉政宣の活躍の本拠地であったことは、たびたび触れた。

参照】2011年3月30日~[長谷川家と林叟院 ] () () () () (

最近なにかで、法栄長者こと長谷川次郎左衛門尉政宣の屋敷は、焼津市三ヶ名(さんがみょう)町の不動院の前に標識が建ったいるという記事を目にした。

愛用している昭文社『街ごとまっぷ 静岡県都市地図』で探すと、JR東海道線・西焼津駅から1kmほどのあたりとふんだ。

4月3日の静岡での[鬼平クラス日]の時刻前にちょっと訪問してみようと、2時間早く東京駅を発した。

西焼津駅で下車したら、かなりの雨であった。
居合わせた青年に、ビニール傘を売っていそうなコンビニのあり場所を訊いた。
「かなり、ありますよ」
教わった場所あたりで確認したら、全然違う店を指示された。

それで、2kmほども歩いたろうか。
歩いてわかったのだが、西焼津駅は、新開地の真ん中に20年ほど前に新設されたらしかった。

コンピニで傘を買って店をでたら、雨が熄(や)んでいた。
(いや、なに、池波さんがお得意の、「雨が熄(や)んでいた」の熄の字を書いてみたかっただけ。でも、ほんとうにあがっていたんです)

あちこちで津市三ヶ名(さんがみょう)町と不動院を訊き、たどりついたときには、6,000歩(3.6km.)ほども歩いていた。
樹齢の古そうな老松が枝をひろげていた。

立て看板には「西暦1575年(天正3年) 快玄法師開創」とあった。
天正3年といえば、今川義元とともに長谷川元長(花沢城主)が桶狭で戦死し、息子の正長が田中城へ入ったころだが---。
もちろん、小川は長谷川家の領内であった。

参照】「今川時代の長谷川家の年表」 http://homepage1.nifty.com/shimizumon/dig/index.html

_360
(焼津市三ヶ名町の不動院)

境内には石小地蔵や碑などが散在していた。
庫裡の呼び鈴を押したが応答がないので、本堂正面の賽銭投げ入れ口にカメラをあて、祭壇にむけてシャッターを押す。

_360_3
(祭壇の正面には不動明王像らしいものが鎮座していた)

不動堂の前は賃貸農園で、畝の一つに、地主さん(石原氏)の電話番号札が立っていたが、法栄長者の屋敷あとであったことを記した標識は、どこにも見あたらない。

貸し農場で野菜の手入れをしていた男性に問うと、
「自分は最近引っ越してき、ここを借りている者だから歴史のことはわからない。
不動院には、老婆が独居しているはず。
この貸し農場の石原さんと同じ姓の家が不動院の隣だから、そこで訊けば---」

隣家の石原さんは、貸し農場の本家・石原さんの分家であったが、法栄長者の屋敷跡の標識も見たことはないし、不動院は無住であると。
60年配の石原さんの応答であった。


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2011.04.03

長谷川家と林叟院(5)

(てつ)さんにわざわざご来駕いただいたのは、本家の太郎兵衛大伯父の賛同のことなんだよ」
「なるほど---」

平蔵(へいぞう 36歳)のことを幼名の銕三郎(てつさぶろう)と呼んだのは、家禄が4070石と飛びぬけている長谷川分家の一軒の当主---栄三郎正満(まさみつ 37歳)であった。

本家の太郎兵衛大伯父とは、長谷川正直(まさなお 72歳 1450石)のことである。

太郎兵衛正直は、かねがね、分家の分際で禄高が高いと思い上がりおって---と気分を白らけさせていた。
なにしろ徳川幕臣には、家格が第一、家禄はその次の気風の者が多かった。
というのも、家康が譜代の者の家禄を低めにおさえたことから、目には見えずはっきりとは計算できない三河以来の家格を言い立てて自己満足するしかなかったことにもよる。

栄三郎正満が、いまのところは営中の役についていないのを幸いに、駿河の益頭郡(ましづこおり)小川(こがわ)村の坂本郷まで出むき、長谷川家の祖の法永長者の墓域を整えることを幕府に申請しようとしていた。
路用はもちろん、寺への寄進と供養料も栄三郎正満がすべてもつつもりであった。
それだけの余裕もあった。

栄三郎とすれば、自分の幼名の「」が、法栄長者からきていることをしっているだけに、家督してからのこ4年間、練りつづけてきた案であった。
ぜひとも実現したかった。

林叟院へも便を送って打診ずみである。

(えい)さん。こうしたらどうだろう---?」
平蔵が案じたのは、太郎兵衛正直が、この天明元年4月28日に、持筒(づつ)頭'から槍奉行へ栄進した。
前職の先手弓の頭や持筒頭は1500石格であったから、家禄1450石の太郎兵衛とすると、ほとんど持高勤めに近かった。

槍奉行は2000石格だから、550石の足高(たしだか)がつく。
これは慶事であり、本家としてはご先祖へ報告せずばなるまい。
長谷川本家の菩提寺は、近々の祖・三方ヶ原の合戦で徳川方の武将として戦死した紀伊守正長(まさなが 享年37歳)の墓のある小川湊の脇・信香院である。

しかし、ご当人の太郎兵衛大伯父は重職現役、嫡男の主膳正鳳(まさたか 46歳)は、太郎兵衛隠居する気配もないのでいまだに家督はしていないのを幕府が気の毒がり、5年前に非正規ながら小姓組番士(仮手当300石)として召しだした。

もちろん、幕府としては暗に太郎兵衛に致仕・家督相続をすすめたつもりだったが、老は自分のこれまでの功績が認められての父子勤めだと、いよいよ得意になっていた。

そこでだ、嫡子の息・金蔵正運(まさかづ 17歳)を祖父の名代として小川へ差しむけ、栄三郎は後見役としてつくということでどうだろう。

「本家にも分家---といっても、さんのところをはずすとわが家だけだが、この際だから、又分家の2家にも、僅少なりとも費えを分担してもらう形をとる。これなら、大伯父どのも否とはいえまい」
「名案だな。さっそく明夕にも、一番町新道(太郎兵衛の屋敷)へ相談にあがろう」

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2011.04.02

長谷川家と林叟院(4)

地震で倒壊した書棚の復旧が遅々としてすすまない。
林叟院は4度ほど参詣し、ご住職からも懇切な説明をうけ、寺誌も保管していたが、散乱した資料にまぎれこんでしまっている。

といって、きょうまで6年間以上も一日も休まずにアップをつづけてきたこのブログを、ここで途切れせるのも癪である。
ネットで検索した記事をつなげながら、すすめることをお許しいただきたい。

寺史の略については、地元・焼津の七里至四方さんの概略を拝借する。

明応の津波と林叟院
http://blogs.yahoo.co.jp/pineroad184/50929793.html

林叟院を開基した法栄(ほうえい)長者(仏門に帰依後は法永)こと、長谷川正宣が、平蔵宣以(のぶため)の11代ほど前の祖にあたる。

林叟院の鐘楼
http://blogs.yahoo.co.jp/pineroad184/43558825.html

市のホーム・ページらしい、林叟院
http://www5.ocn.ne.jp/~yaidu8/n-rin.html

静岡駅ビルの7階で6年ほどつづいている「鬼平クラス」の中林正隆さんの探索記は、「井戸掘り人のリポート」の中の、
http://homepage1.nifty.com/shimizumon/dig/index.html

中林さんの駿河の長谷川家の先祖調べは徹底しており、上記、「井戸掘り人のリポート」の「今川時代の長谷川氏の年表」は詳細をきわめている。

ただ、正満の年齢は、平蔵宣以よりも1歳上というのが、『寛政重修諸家譜』からの試算である。
中林さんのリポートの中の法永長者の位牌も、正満が供養したものである。
黒漆の艶が200年の歳月を感じさせない。

鬼平ファンのあいだで江戸の史跡めぐりが人気があるが、焼津の林叟院と三方ヶ原で戦死した長谷川紀伊守正長の墓がある小川(こがわ)魚港の脇にある信香院(焼津市小川3540)も、もっと重視されていいのではあるまいか。

ついでだから付記しておくと、宮城谷昌光さん『古城の風景Ⅱ 一向一揆の城 徳川の城 今川の城』(新潮文庫2010.11.01)の横地城の塩買坂の項に、今川義忠が横死する描写がある。
このとき、法栄長者の父の長重も討たれている。

法永長者の屋敷跡は、焼津市の不動院(三ヶ名町 さんがみょう)の前に碑が建っているという。
明日にでも訪ねてみようか。

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2011.04.01

長谷川家と林叟院(3)

馴れない鬼平ファンの方には、読みづらいかもしれないが、すこしのあいだ、お付きあいを乞うしかない。
というのは、すでに記したかもしれないが、先日の地震で、書斎の書棚が全部崩壊し、資料が散乱、利用できなくなってしまっているため、これまでのホーム・ページからの記録をさらえている。


静岡大学の教育学部長・小和田哲男さんの著書『今川氏家臣団の研究』(2001年 2月20日発行 清文堂出版)により、静岡市瀬名の中川家から出現した古文書――

大職冠大臣鎌足八代の孫
 鎮守府将軍藤原秀郷三代左馬亮五代孫、下川辺四郎政義次男、小川次郎左衛門尉政平、建久二年(注1191)右大将源頼朝公に奉仕、富士巻狩之節供仕候。長男大膳亮長教大和国長谷川村ニ住居、其後駿河国志田郡小川村ニ住居。夫ヨリ五代孫小川藤兵衛尉長重、明徳四年(1393)今川上総之介源義忠ニ仕、文明六年(1474)遠江国塩買坂ニ於而戦死、法名者弘徳院殿与号、駿州益津郡野秋村有之。

秀郷稲荷というのを、府中市の高安寺(片町 2-26)墓域内で見つけた。
同寺は藤原秀郷の屋敷跡に建立されたのだそうである。

Koanji_roumon_2
(高安寺の楼門)


Syugoinari_sando_2
(墓域の正面ののぼりが秀郷稲荷)

静岡市瀬名の中川家から出現した古文書――

大職冠大臣鎌足八代の孫
 鎮守府将軍藤原秀郷三代左馬亮五代孫、下川辺四郎政義次男、小川次郎左衛門尉政平、建久二年(注1191)右大将源頼朝公に奉仕、富士巻狩之節供仕候。長男大膳亮長教大和国長谷川村ニ住居、其後駿河国志田郡小川村ニ住居。夫ヨリ五代孫小川藤兵衛尉長重、明徳四年(1393)今川上総之介源義忠ニ仕、文明六年(1474)遠江国塩買坂ニ於而戦死、法名者弘徳院殿与号、駿州益津郡野秋村有之。


上掲『今川氏家臣団の研究』で、小川長重が仕えた今川義忠は、明徳4年(1293)にはまだ生まれていないから、享徳4年(1455)の誤記であろうとしている。
また、小川長重が戦死した遠江の城飼郡塩買坂のそれは一揆鎮圧の出動でしたが、帰城途中にふたたび一揆が襲いかかられ、今川義忠は脇腹に深く刺さった流れ矢のためにしだいに衰弱、翌朝絶命した。
義忠の享年28歳(?)。
義忠の享年が文明6年(1474)に28歳となると、小川長重が出仕した享徳4年(1455)時、彼はわずかに9歳だったのであろうか。

ちゅうすけ補】今川義忠の横死の没年は41歳と、別の史料にあるから、小川長重は22歳かも。
静岡県史 資料編6』収録の「今川家譜」では義忠の戦陣死を文明11年2月19日、享年53歳としている。研究課題の一つである。
それはともかく、義忠の嫡子・竜王丸(6歳)は、法栄長者らによって花倉にかくまわれた。


〔居眠り隠居〕さんから、、『今川氏家臣団の研究』の紹介についてのコメントがあった。

脳梗塞のため、禁じられていたPC操作がやっと解禁となりいの一番に開いたこのHPで、長谷川家の家系に関する新史料発見のニュースを知り、さっそく小和田哲夫教授のご本を取り寄せて読み、驚くとともに感激しました。
静岡市瀬名の中川家古文書発見によって下河邉四郎政義次男・小川次郎左衛門から長谷川藤九郎長重に至る、これまで知られなかった長谷川氏のおよそ 300年におよぶ家系の不明部分がほぼ明らかになりました。

平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍藤原秀郷のながれをくんでいるとかで、のちに下河辺を名乗り次郎左衛門政宣の代になって、大和国・長谷(初瀬)川に住し、これより長谷川姓を名乗ったそうな。のち藤九郎正長の代になってから、駿河国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元に仕えた・…。

これによって文庫巻3「あとがきに代えて」も、大筋で正確であることが立証されました。
池波先生も長官(おかしら)もこれでホッとして、いまごろは〔五鉄〕あたりでくつろぎながら一杯やっているのではないでしょうか。ご同慶の至りです。
政平の子に長教の名を記した文献が見あたらない、名前のわからない者が多い、時代が合わない等、まだまだ解明すべき点、今後の研究に待つべき点はありますが、すばらしい発見であったと思います。
以下にこれまで不明であった、正長までの長谷川氏家系を整理して記してみます。ご笑覧ください。

下河邉四郎政義
長男・行幹 後の益戸二郎兵衛尉
母 河越重頼女

初代 小川次郎左衛門政平下河邉四郎政義次男
   建久2年(1191)頼朝公に奉仕、富士之巻狩之節仕候
二代 大膳亮長教 大和国長谷川村ニ住居、其後駿河国志田郡小川(こが
   わ)村ニ住居
三代 不詳 長教より1
四代 不詳  々  2
五代 不詳  々  3
六代 不詳  々  4
七代 小川藤兵衛尉長重 長教より5代、明徳4年(1393)今川上総之介源義忠ニ仕え、文明6年(1474)遠江国塩買坂ニおいて戦死
八代 次郎左衛門尉政宣 妻長重女 実父・加納彦右衛門義久
九代 元長 伊賀守
十代 次郎左衛門尉正長 藤九郎 駿河国小川に住し、のち同国田中に移り住す。今川義元に仕え、没落ののち東照宮に仕へ奉る。
元亀3年(1572)三方ヶ原合戦で討死

正長三男・惣次郎:静岡市中川家先祖。

三方ヶ原で討死した長谷川紀伊守正長(まさなが 享年37歳)f田中城を退去するとき、幼なかった次々弟・惣次郎を瀬名へ隠した。

惣次郎はのちに、田中城の「田」と、小川(こがわ)の「川」から中川を姓としたという。




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2011.03.31

長谷川家と林叟院(2)

こブログに先行し、2002年12月から、鬼平のホーム・ペイジを立ち上げた。
(このブログを立ち上げてから6年間、まったく更新していない)

そのとき、〔居眠り隠居〕さんとおっしゃる上毛あたりにお住まいとおぼしい鬼平ファンの方から、こんなコメントがついた。


貴名HP、一鬼平ファンとして興味深く、楽しく、心躍らせ、ワクワクしながら拝見しました。

ところで、長谷川家の出自について、ちょっと気になるところがありましたので、差出がましいとは存じましたが一筆啓上致しました。
私もこの事について研究中なのです。


「平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍・藤原秀郷の流れをくんでいるとかで、のちに下河辺を名のり、次郎左衛門政宣の代になって、大和の国・長谷川に住し、これより長谷川姓を名のったそうな。
のち、藤九郎正長の代になってから、駿河の国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元につかえた。義元が織田信長の奇襲をうけ、桶狭間に戦死し、今川家が没落してしまったので、長谷川正長は、徳川家康の家来となった。
長谷川正長は、織田・徳川の連合軍が、甲斐の武田勝頼と戦い、大勝利を得た長篠の戦争において、[奮戦して討死す。年三十七]とものの本にある。
この長谷川正長の次男に、伊兵衛宣次という人があり、これが、長谷川平蔵の先祖ということになる。
伊兵衛宣次から八代の当主が、長谷川平蔵宣以だ」

以上、文庫巻3「あとがきに代えて」からですが、千葉琢穂著『藤原氏族系図第2巻秀郷流』の下河邉氏族――長谷川氏の項によると、正長が討死を遂げたのは長篠の合戦ではなく、三方原合戦ですね。
そのほかの記述はすべて符合しています。

下河辺氏族について
天慶の乱(10世紀中ごろ)で平将門を討ち取り、室町期のお伽草子『俵藤太物語』の主人公として、龍王の頼みを聞き大ムカデを退治した伝説的な英雄、藤原秀郷より八代、太田太夫行政の子たちがそれぞれ成人し、兄政光は下野国小山に居を定め、小山・結城の祖となります。

弟四郎行光は天仁2年(1111)、源義綱反逆の時、その鎮圧の軍功によって、下総国葛飾郡下河邉庄に地頭として住し、家号を下河邉と定めました。下河辺氏発祥の起源です。下河辺氏の初代をこの行光にするか、次の義行にするか、『尊卑分脈』でも分かれますが、本題とは関係がないので、省略します。

ちなみに、この下河辺庄を現在の地名で現せば茨城、埼玉県史などによると古河、五霞、総和、松伏、栗橋、庄和、杉戸、吉川、春日部、岩槻、越ヶ谷、三郷、野田など茨城、埼玉、千葉3県に係る、幅10キロ長さ50キロにも及ぶ地域であったようです。

二代行義はまたの名を清親、藤三郎、四郎、恒清坊と号し、源三位頼政とともに平氏打倒のために戦い、『平家物語』では藤三郎清親、平治物語では藤三郎行吉の名で活躍ぶりが描かれています。

宇治川の戦いに敗れた後、僧形となり荼毘にふした頼政の遺灰を笈に隠し身を潜めますが、子の行平が頼朝によって元のごとく下河辺庄司を安堵されたので古河に帰還、息子を別当に古河城内に頼政明神を建立しました。

三代下霜河辺庄司次郎行平は鎌倉幕府草創期、頼朝の側近中の側近として活躍しました。

頼朝は「日本無双の弓の名手」とたたえ、「頼家君の御弓の師」に任命。

ついには「下河辺庄司行平が事、将軍家ことに芳情を施さるるのあまり、子孫において永く門葉に準ずべきの旨、今日御書を下さると云々」(『吾妻鏡』建久611月6日)という最高の栄に浴した、知る人ぞ知る武将。

『吾妻鏡』には 100箇所ほど行平に関する記述があり、その弟たちには次のような人たちがいます。(略)

忠義、武勇の四郎政儀は頼朝の寵愛をえ、河越重頼の女を娶り、後継の男子にも恵まれ常州南郡惣地頭職としてその前途は洋々、順風満帆と思われていました。

この頃、頼朝と義経兄弟の仲が微妙になります。

頼朝は「義経が馬鹿なことをするのも独り身だから。妻帯すれば変わるだろう。どこぞに良い姫はいないか」

白羽の矢がたったのが河越重頼の郷姫、つまり四郎政義の妻の妹です。

兄弟仲が日毎に険悪化しているのを知っている重頼や政義はいやな予感に襲われたことでしょう。

しかし最高権力者の意に逆らうことは出来ず、「河越太郎重頼の息女上洛す。源廷尉に相嫁せんがためなり。これ武衛の仰せによって、兼日に約諾せしむと云々。重頼が家の子2人、郎従30餘輩、これに従ひ首途すと云々」(元歴元年〔1184〕9月14日の条)ということになったが、果たせるかな、郷姫輿入れから1年後、
「・…今日河越重頼が所領等収公せらる。これ義経の縁者たるによってなり。・…また下河邉四郎政義、同じく所領等を召し放たる。重頼の婿たるが故なり」(文治元年〔1185〕11月12日の条)

まさに悪夢は現実のものとなったのでした。重頼は斬られ、政義は石岡以南の広大な領地を取り上げられ、その身は兄行平の許にお預けとなり、その領地は行平の子が相続しました。

政義はいわば、義経処分という大義名分の犠牲になったのではないでしょうか。

しかし政義ほどの武士ですから、やがてまた『吾妻鏡』に名が出てきます。

文治3年(1187)11月11日には頼朝の上洛に先立って、朝廷への貢馬が3頭進発しますが、政義はその使者として京に向かいます。

建久元年(1190)11月7日、入洛した頼朝に従い先陣畠山重忠の随兵3番手として行列に加わっています。同2年正月3日小山朝政が頼朝に飯を献じたおり、御剣は下河邉行平、御弓箭は小山宗政、沓は同朝光、鷲羽は下河辺政義、砂金は朝政自らが奉持して御坐の前に置いた、とあります。

同年8月18日頼朝の新造の御厩に、下河辺行平らから贈られた16頭の馬を、政義ら5人の武士が試乗、将軍にご覧にいれました。

同3年6月13日、頼朝が新造御堂の現場に来ます。

畠山重忠、下河辺政義、城四郎、工藤小次郎ら梁棟を引く。
その力は力士数十人の如きで見る者を驚かした・…。

まだまだありますが、割愛します。

下河辺政義は復権したと見て間違いはないでしょう。

その後正義は益戸姓を名乗り、かつての領地常陸国南郡方面に出て活躍したものと考えられます。

南郡惣地頭職時代は志築(茨城県千代田町)に館や山城を築いたといわれ、益戸となってから千代田町と八郷町の境界線上にある権現山に、半田砦を築いたようですが、浅学の身、詳しいことはよく分かりません。

ところで、下河辺政義には3人の子がいたようです。

○行幹(三郎兵衛尉)――行景(和泉守)――宗行(四郎左衛門尉)――行助(和泉守)――顕助(下野守)

○政平(左衛門・小河次郎)――能忠(七郎)――義廣(七郎・左衛門尉)

○時員(野木・野本乃登守)―ー行時(二郎)――時光(同二郎)――貞光(乃登守)――朝行(四郎左衛門)
(『尊卑文脈』)

○行幹(益戸二郎兵衛尉、母河越重頼女)――行景(和泉守)――宗行(四郎左衛門)――行助(和泉守)――顕助(四郎左衛門尉・下野守・従五位)

○政平(小川二郎左衛門)――朝平(小太郎)――景政(高原四郎)――能忠(小川七郎)――義廣(七郎左衛門尉)

○時貞(野本能登守、行高・従五位下)――行時(二郎)――貞光(能登守)――朝行(四郎左衛門)
(『群書類従完成会編』)

2書を比べると、長男行幹流についてはほぼ相違無し。次男政平流については尊卑文脈の政平と能忠の間に朝平、景政が入り、三男時貞流については群書類従系の行時と貞光の間に時光を加えれば、2書はまったく同一となる。両書とも 800年以前を書いた書としてはかなり正確な、信憑性の高いものと考えてもよいのではないでしょうか。

問題は、先生がお書きになられた「先祖書」の冒頭部分です。

「大織冠釜足より八代鎮守府将軍秀郷九代の後裔下川部四郎、実名知らず」とあるのは、明らかに下河邉四郎政義のことであると断定してもほぼ間違いないのではないでしょうか。

「『寛政呈譜』に下河邉四郎別称(益戸)政義の二男小川次郎政平より三代次郎左衛門政宣、大和国長谷川に住す。これにより長谷川を称す」(藤原氏族系図 第2巻 秀郷流)

とあるのも政平までは間違いのない所だと考えられます。

しかし、肝心の三代後に初めて長谷川を名乗った、という次郎左衛門政宣の名が見当たりません。

尊卑文脈は、その編纂後のことは記載される筈も無く、下河辺系図もその分流を数代にわたって綿密に書き込むなどということはないのが当たり前です。

先生のご指摘の『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』は不勉強でまだ見ておりませんが、これらの先祖書がまるで出鱈目を書いて提出したとはとは考えられません。

幕臣が幕府に提出する先祖書を偽ったり、故意に粉飾するなどそんな不謹慎な真似はある筈もなく、当時の武士は他家がどのような家系であるかぐらいのことは知っており、従って虚偽の系図を提出する余地はないと思われます。

下河辺氏は『吾妻鏡』にも数多く書かれており、『吾妻鏡』をいちばんよく読んだ日本人・徳川家康は、当然のことながら藤原秀郷や下河辺行平の故実にも明るかったと考えられます。

ですから、家康から何代かたってはいても、出自に関して虚偽の申し立てはしていない。
ただ年号や何代目かなどの細かい点については、あまりにも古く、かつ家譜の正確な記録を持たないために、若干正確さに欠ける点がある、と見るのが妥当ではないでしょうか。

先に引用した、下河辺四郎政義の二男小川次郎政平より三代次郎左衛門政宣が、始めて大和に住み長谷川を称したというが、この年代もはっきりしません。

そこで同時代に生きた兄行平の四代の後裔はいつ頃生きたかを調べてみると、文永年間(1264~75)です。次に名前が出るのが、長谷川家の初代とされている、駿河国で今川義元に仕えた長谷川藤九郎正長。

主君義元が永禄3年(1560)桶狭間で敗死後、徳川に仕え元亀3年(1570)三方ヶ原の戦で戦死、時に37歳。

およそ1270~1560の間が空白期間となっているのです。

この空白期間を埋めるものが、先生お調べの「駿国雑記」ではないかと考えられます。

また、正長から以後の系図は先生ご提示の「寛政重修家譜」が他本とも一致しているようです。

「末葉下野国住人結城判官頼政三男、小川次郎政平長男小川次郎左衛門正宣長男 始 藤九郎一、元祖  本国生国 駿河 長谷川紀伊守正長」をどのように読めばよいのか、判断に迷うところです。

「末葉下野国住人結城判官頼政三男」どこから、なぜ、この語句が出たのかさっぱりわかりません。

下河邉氏の出自で述べましたが、下河邉の兄が小山であります。小山氏から中沼、結城が出ていますので、下河邉と結城とはかなり近い関係にあります。

そんなことと関係があるのでしょうか。

小川政平は、下河邉四郎政義の次男、それから数代の後裔・政宣が大和に移り住み長谷川を名乗るようになった。

さらにその後、その子孫藤九郎正長が駿河に移り住み、駿河長谷川家を興した、これが平蔵家の本家であると考えたいのですが、いかがでしょう?。

老人の頭でいろいろ考えますと、ますます糸が複雑に絡みあってしまい、解けなくなってしまいまいそうです。


これに対してのレス。


いやぁ、〔居眠り隠居〕さんどころか、現役顔負けの碩学ぶりです。

ご指摘のとおり、「下野国住人結城頼政」は、たしかに下川辺の系図のどこにも見あたりませんね。

寛政譜』の 160年ほど前にまとめられた『寛永系図伝』の長谷川家の項は、藤九郎から始まっています。

「藤九郎 のち紀伊守と号す。駿州小川に生る。のち田中に居住す。今川義元没落ののち、東照大権現につかえたてまつる。元亀3年(1572)12月22日、遠州三方原の戦場におひて討死。37歳。法名存法」

寛政譜』にある「秀郷流」は記されていません。それで推察できるのは、『寛政譜』提出にあたり、藤原秀郷から小川次郎政平までを、いわゆる系図屋と称する者たちが無理やりつなぐ、例の系図買いの噂です。

居眠りご隠居さん02月27日(木)のコメントで、ご隠居は、文庫巻3の池波さんの「あとがき」をお引きになりました。

「平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍・藤原秀郷の流れをくんでいるとかで、のちに下河辺を名のり、次郎左衛門政宣の代になって、大和の国・長谷川に住し、これより長谷川姓を名のったそうな。
のち、藤九郎正長の代になってから、駿河の国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元につかえた。
義元が織田信長の奇襲をうけ、桶狭間に戦死し今川家が没落してしまったので、長谷川正長は、徳川家康の家来となった」

そして、「『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』のために提出した先祖書がまるで出鱈目を書いて提出したとはとは考えられません」とおっしゃいました。きのう、静岡県立図書館で史料をさがしてて、おどろくべき史料を見つけました。


静岡大学の教育学部長・小和田哲男さんの著書『今川氏家臣団の研究』(2001年 2月20日発行 清文堂出版)がそれです。
小和田さんは『寛政譜』の、

「下河邉四郎別称(益戸)政義の二男小川次郎政平より三代次郎左衛門政宣」

につき、「今川氏重臣長谷川氏の系譜的考察」の章で、政義とその次男の政平の時代は鎌倉時代の人物だから、三代目の次郎左衛門政宣は鎌倉末期か南北朝初頭に生きていたことになる、と疑問を呈したあと、

「近年になって、静岡市瀬名の中川和男家から長谷川家にかかわる古文書が数点発見され、長谷川家の系譜について新しい事実が明らかになった」と、出現した「長谷川・中川家記録写」から、政平から政宣までの 200年間の空白を埋めています。

その詳細はあらために別の機会にご紹介するとしましてご隠居へのレスに、「『寛政譜』提出にあたり、藤原秀郷から小川次郎政平までを、いわゆる系図屋と称する者たちが無理やりつなぐ、例の系図買いの噂」と書いた全文を、いそぎ削除させていただきます。

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2011.03.30

長谷川家と林叟院

(えい)さん。まず、大叔母どののご機嫌を伺ってくる。話はそれからだ」
納戸町の従兄(いとこ)・長谷川栄三郎正満(まさみつ 37歳 4070石)からの呼びだしで、下城の帰りに同家を訪ねた平蔵(へいぞう 36歳)は、断り、離れの病室に於紀乃(きの 82歳)を見舞った。

紀乃は、当家の先々代・讃岐守正誠(まさざね 亨年69歳)の正室で、夫が逝ってから27年も余生している。
この大叔母には、平蔵は頭があがらない。
20代の部屋住みのころ、於紀乃をたぶらかし、甲府までの路銀をせしめたことがあった。

参照】200827~[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜] (1) () (3) (4) (5) (6) (7) (8) 

この旅が奇縁となり、久栄(ひさえ 16歳=当時)と知りあえたし、いまは忠実な従者として仕えてくれている松造(よしぞう 17歳=当時)ともかかわりができた。
あの旅がきっかけとなり、お(りょう 享年33)とも奇妙な、ヰタ・セクスアリスもふくめて武田軍学の一端に触れることができた。

参照】2008年10月5日~[納戸町の老叔母・於紀乃] () () (

銕三郎(てつさぶろう)です」
襖の外から名乗った。
老叔母は、平蔵をいまだに子どもあつかいしてい、呼び名も(てつ)であった。

出てきたのは妹の与詩(よし 24歳)で、
「ご隠居は、お寝(や)すみです。お起こししますか?」
「いや。いい」

離婚されてからの与詩は、於紀乃の話し相手兼世話掛りをしていた。

参照】2010年1月5日~[・与詩(よし)の離婚] () (

(てつ)兄上は、何刻(なにどき)までおとどまりでございますか?」
「六ッ半(午後7時)には失礼しようとおもっておる」
「それまでにお目覚めになりましたら、お報らせいたします」


栄三郎正満は4070石という大身ながら、まで役についていず、たまにある寄合の集まりに顔をだすだけであった。
「だから、役に就いていない今こそ、小川(こがわ 現・焼津市)へ参り、林叟院(りんそういん)の法永どのの法会をやってえおきたい」
現世では法栄で、仏となってからは法永であった。

法栄とは、長谷川家の祖の一人で、今川家の重臣として小川城に居しながら、貿易なども手びろくおこない、長者と呼ばれていた。

司馬遼太郎さん『箱根の坂』には、伊勢新九郎(のちの北条早雲)の依頼で、塩買坂で横死した今川義忠(享年41歳)の遺児・龍王丸(6歳)を匿(かくま)ったとある。

14歳の銕三郎時代に田中城(現・藤枝市)を訪ね、ついてに小川の坂本まで足を延ばし、林叟院の法永夫妻の墓に詣でた。

曹洞宗の名刹・林叟院の住持は、
「江戸から、ようもようも---」
と感嘆しながら、三島でお芙佐(ふさ 25歳)よって初体験をすませた銕三郎の気のせいか、その眸に不浄の身で---といった光りがあった。 

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(

010長谷川家の祖 | | コメント (2)

2009.06.02

銕三郎、先祖がえり (4)

司馬遼太郎さん『箱根の坂』(講談社文庫 1987.4.15 新装版2004.6.15)には、伊勢新九郎(のちの北条早雲)が、伊勢の津へあらわれる場面が描かれている。

伊勢の国は、その西方はながい海岸線となって伊勢湾にのぞんでいる。
「津(つ)」
といえば、古くから唐船までがここに入港するという名津(めいしん)で、市中に豪商富民多く、国司北畠氏の侍屋敷と混在し、さらには大きな人工による需要をまかなうための鍛冶(かじ)や弓矢の工人の家も多い。
この港まち津は、ふるくは安津野とか安濃の津などとよばれたが、いつのほどか単に津とよばれるようになった。戸数は二千戸ほどもあるであろう。
---これはたいそうな賑(にぎ)わいじゃ。
と、物の反応のにぶい荒木兵庫でさえおどろいてしまった。(略)

それらの物資をあつかう交易業者がこの津にあつまり、利を積んで巨富をなすのは当然であるといっていい。
「駿河の小川(こがわ)の長者(法栄 ほうえい)もこの津に蔵をもっていて、手代(てだい)を置いているのだ
と、早雲はいった。
「今夜は、そこへとまる」(中巻 p18 新装版p20)

書いている小説に関連する膨大な量の史料を買いこみ、それらに片っぱしから目をとおして必要なものだけを残す司馬さんのこと、長谷川家の祖の一人・法栄長者に鳥羽出張支店があったことは、なにがしかの史料でみつけられたに相違ない。

史料にあるほどなら、長谷川本家か大身になっている納戸町の支家に伝わっていよう。
そのことを銕三郎(てつさぶろう 23歳)も耳にいれていたとおもう。

(法栄長者どのは、いま、京の呉服屋で、日本橋本町あたりに江戸店を出してい〔越後屋〕とか、大伝馬町の呉服太物の〔大丸屋〕ほどの勢いのある交易をされていたのだろうなあ。同じ長谷川家に生まれるのであれば、そのころ、法栄どの甥っ子に生まれていれば、明国へも往還したであろう)
銕三郎は、前で蒲焼をついばんでいる茶問屋〔万屋〕源右衛門をうかがいながら、ひとり空想していた。

参照】2007年4月13日[寛政重修l諸家譜] (

箸を置いた源右衛門が、ふと思いついたように、
井関さんの腕はあがりましたか?」
録之助(ろくのすけ 22歳)は、まもなく、免許をゆるされます」
「ほう。それは、めでたい」
「お店(たな)のほうに、用心棒でもご入用なんですか?」
「いいえ---」

〔万屋〕源右衛門の返事は、意外にもみみっちい計算づくのものであった。
町内の大店(おおだな)に組みする店は用心棒の浪人をやとっているが、聞いてみると、手当てはたいてい月1両1分(約20万円)、それに食費や晩酌2合が月2分2朱(約10万円)---これだけで年に24両(320万円)の費(つい)えになる。
それだったら、盗賊へのご苦労賃(200両)を渡してお引きとりいただいたほうが安あがりである---という勘定になると。

その上、赤の他人に家の中をみられてしまう。
娘姉妹がいる大店なら、その中の一人が傷ものにされるかもしれない。
だいたい、他人が一つ屋根の下にいるというのが嫌なんです。

「分かりました。〔万屋〕さんに押しこむ盗人が、200両で素直に引きあげてくれることを、日枝(ひえ 神社)さんにでも祈っておきましょう」
日本橋から南は、日枝神社の氏子で、北は神田明神。

銕三郎は、
(商売人というのも、法栄どののようにおおらかなこころがけの者ばかりとはかぎらないようだな。 ま、人の器(うつわ)は侍だって、大・中・小と、それぞれだから---)
それでも、今日の場合、いささか幻滅を感じた。


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