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2007.06.02

田中城の攻防(2)

2007年6月1日駿州・[田中城の攻防]に、武田方の守将・依田(よだ)右衛門佐信蕃(のぶしげ)と書いた。

間違いではない。が、じつは、武田系の徳川幕臣・三枝(さいぐさ)備中守守緜(もりやす 6500石)は、蘆田右衛門佐信蕃(のぶしげ)といっていた。

『寛政譜』に、蘆田という家はない。それで、文献を探して、仲田義正さん『現代語訳 田中藩史譚』(共立印刷 1994.9.1)に行きあたたった。田中城関連の史料ということで、静岡県立中央図書館でコピーしておいたものである。同書の訳者注に、武田方の田中城落城について、

注2.(大久保彦左衛門の)三河物語によると、(天正10年 1582)徳川方は、本多平八郎(忠勝)、榊原小平太(康政)等がこの城を攻撃し、降伏した城将朝比奈又太郎の命は助けてやった---という。

地元・駿州の朝比奈川流域の岡部などを領していて、今川家滅亡後に武田方に従った朝比奈又三郎真直(さねなお)が田中城に入っていたのは、元亀年間(1570-73)のことらしい。『寛政譜』にはその記述はない。

注3.依田信蕃(のぶしげ)の降伏とその後 彼の名誉のために、若干捕捉する。織田信長の武田勝頼討伐作戦の一環として徳川家康は(天正10年2月)駿河の武田方の諸城を攻略しつつ甲斐に進撃することにした。即ち先ず田中城を攻め、用宗・久能両城を占領し、その先鋒部隊が江尻城に迫った頃、その守将穴山信君(勝頼の姉の夫)は家康に内通した。家康は甲府へ発向するに当り、使者を田中へ遣わし、信蕃に「勝頼の滅亡はもはや決まったも同然であるから」と開城を勧め、また「これまでの貴殿のたびたびの軍功といい、今次の田中城における防御といい、何れも敵ながら天晴れであるので、ぜひ我が家中に加えたい」と言った。

注は、さらに長くつつぐが、このあたりからの記述は『寛政譜』の依田右衛門佐信蕃に典拠しているらしいとわかったので、そちらから引く。

天正8年(1580)、勝頼の命令で駿河国の田中城を守ることになった。
東照宮は諸将を城攻めにあてられた。信蕃は勇をふるって防戦したから、寄せ手に戦死するものが多く出たために、この城の押さえとして酒井左衛門尉忠次をのこされて、兵を浜松へ収められた。

同10年2月。田中城攻撃にご進発され、諸将をして城を幾十重にも包囲せしめられた。しかしながら、城兵はいささかも屈しないで、すすんで防戦に努めた。
そこで東照宮は、かねてから信蕃と面識のある大久保七郎右衛門忠世(ただよ)を使者としてさしむけられていわしめた。

「近来、武田家の武威はとみに衰え、木曾の穴山信君(梅雪)は江尻城において謀反して徳川方へ就き、駿河における諸城はみな降っています。
しかるに貴殿ひとりがこの城を守っておられるのは、いかなる展望があってのことですか。たとえ持ちこたええとしても、城兵にどんな益がありましょうや。
早く城をお開けなさって、将兵の命を救ってやられてはいかが?」

じつは、大久保忠世を使者に立てたところが、いかにも家康らしい深慮遠謀というようか。
大久保忠世依田信蕃との面識は、7年前に、戦いの中でできたものである。

そのころ、信蕃は父・下野守信守(のぶもり)とともに天竜川畔の二股城を守護していた。二股城は3年前の元亀3年(1572)i徳川方から武田方が奪取したものである。その城中で信守は卒した。
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(天竜川ぞいの丘上の二股城跡。浜松市の最北部)

が、26歳の信蕃は屈しなかった。
家康は、大久保忠世に二股城を囲む五個の砦をまかせて浜松へ帰陣した。
やがて、勝頼が老臣を派遣し、甲府へ帰るように告げしめた。
信蕃忠世と談合、双方、人質を交換しあい、籠城兵士は粛然と撤退しえたのである。

家康の配慮は、さらに信蕃の上におよび、織田信長の武田の諸将殲滅から彼の命を救い、依田一門を甲信2国の帰属に功あらしめるのだが、それは、田中城の攻防とは別の物語であろう。

敵味方であっても、信がおければ、意志を通じあっておくことをいとわない日本的な心情を、信蕃忠世に見る。

【つぶやき】[上記とは無関係だが、『鬼平犯科帳』文庫巻3に所載[駿州・宇津谷峠]に出ている盗賊〔二俣(ふたまた)〕の音五郎の〔二股〕を池波さんはこの二股城から取っている。そういいきれるのは、二股城の川上の地名〔船明〕が文庫巻11の冒頭の[男色一本饂飩]の〔船明(ふなぎら)〕の鳥平に、もっと川上の地名〔伊砂〕が文庫巻3[盗法秘伝]の主人公〔伊砂(いすが)〕の善八に使われ、池波さんにまぎれもなく土地勘があることを物語っているからでである。

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コメント

余談になりますが、大久保忠世の弟大久保忠教は講談で有名な「大久保彦左衛門」ですね。

投稿: みやこのお豊 | 2007.06.02 05:41

そうですね。忠世は嫡男、彦左衛門忠教(ただたか)八男でしたね。
大人物の忠世も、嫉妬深い役方(行政畑)に刺されて失脚同然になりますね。
彦左衛門忠教は別邸を、雑司ヶ谷の鬼子母神の近くに構えていたみたいです。

投稿: ちゅうすけ | 2007.06.02 13:57

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