〔二俣(ふたまた)〕の音五郎
『鬼平犯科帳』文庫巻3に所載の[駿州・宇津谷峠]は、鬼平、同心・木村忠吾と剣友・岸井左馬之助が、京都からの帰路の浜松から岡部のあいだで遭遇した事件である。
もっとも、左馬之助は、浜松から竜川を遡って二股で気田(けた)川ぞいに秋葉大権現へ詣でたので、先行の2人より3日行程ほど遅れていたが。
左馬之助が袋井宿までもどって入った旅籠で、幼馴染の〔臼井(うすい)〕の鎌太郎会った。しかし鎌太郎は、左馬之助を避けるようにして夜発ちをした。
(参照: 〔臼井〕の鎌太郎の項)
発ったあとの鎌太郎を訪ねてき、後を追ったのが〔二俣(ふたまた)〕の音五郎だった。盗め金を横領しようと浜松でお頭の〔空骨(からぼね)〕の六兵衛と妾・おもんを殺害してきたのである。
(参照: 〔空骨〕の六兵衛の項)
年齢・容姿:年齢と面体の記述はない。背が高い、とだけ。
生国:遠江(とおとうみ)国豊田郡(とよたごおり)天竜村(現・静岡県浜松市二俣町二俣)
池波さんは、岸井左馬之助が詣でた秋葉神社への途中、武田の大軍に水を絶たれて落城した徳川方の堅城・二俣城址へ立ち寄ったとき、この地名を記憶にとどめたのであろう。
二俣城址
二俣城址下あたりの天竜川の流れ
探索の発端:〔臼井〕の鎌太郎とお茂の会話を聞き、〔空骨〕の六兵衛殺しや〔二俣〕の音五郎殺しに関連があると、鬼平に報告した。
結末:交情中にお茂までしめ殺した鎌太郎が、岡部川の上流の隠し金の場所までいったとき、まちかまえていた〔藤枝〕の久蔵もろとも、捕縛。
つぶやき:二俣城址へは、2度訪れた。鈍なことだが、1回目はカメラの電池切れで撮影できず、半年後に再訪した。
浜松から電車で約30分。鹿島(かじま)下車。
「二俣」の地名は、天竜川へ気田川が合流しているから。二俣城は、その合流点の上手---小高い丘の上にあった。
武田勝頼の大軍がこの城を攻めあぐんだとき、徳川方の守将は青木又四郎と中根正照だった。のち、水汲み施設を壊されて水絶ちにあい、落城。ところが家康は、帰ってきた2人を浜松城へ入れなかったので、2人は武田軍に討ち入って戦死した---という史話がある。
若かった家康は、部下にむごい扱いをした時期もあったらしい。
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