カテゴリー「078大橋与惣兵衛親英」の記事

2012.06.01

義父・大橋与惣兵衛親英が布衣(ほい)

「父上。なぜ、ことしは3回も大橋のおじいちゃまのところへごあいさつにあがるのですか?」
あと10日で8歳になる銕五郎(てつごろう)が、袴と紋付羽織を召使に着せてもらいながら、不平がありげな口調で、父・平蔵(へいぞう 42歳)に問いかけた。

「今日は、大じいさまが布衣(ほい)をお許されになったお祝いなのだ」
「父上は布衣のお祝いはなさらないのですか?」
「われは(てつ)が4歳の暮れにすませた」
「覚えておりませぬ。ご納戸町の栄(えい)叔父上は?」
正満(まさみつ 43歳 4070石)どのは布衣ではなく、もっと位が上の装束をお召しになる」

納戸町の長谷川家へは、10年後に銕五郎が養子に入った。
いま、父子が話題にしている大橋与惣兵衛親英(ちかひで 74歳 200俵)は、平蔵の妻・久栄(ひさえ 35歳)の実父であった。

銕五郎が今年3回目の訪問といったのは、正月と、7月26日に新番の組頭から船手頭に栄進したときに、少ない親類が寄って祝った。
3回目の今日は、船手頭ならよほどのことがないかぎり暮れにゆるされることがわかっている布衣の祝宴であった。

参照】2007年5月8日[「布衣(ほい)」の格式


大橋家はむすめばかり、養女もふくめて5人だが、尋常な内室としてつづいているのは久栄だけであった。
それだけに親戚が集まってもなんとなく白々しい雰囲気がぬぐえない。
そのことは、子どもながら銕五郎にもわかるらしい。
久栄のそばから離れようとしない。

参照】2008年9月19日[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] () () () () () () () (

もっとも、当の親英は、もともと人ぎらいなのか、寂しい集まりを苦にはしていない。


大橋家は、和泉橋通りを北へ2丁ほどいったところにあった。
禄高が低いために門も両柱のみの簡単なもので、常駐の門番もいないが、布衣となったらそうはいくまい。。

親類といっても野間家からの養子・千之丞親号(ちかな 28歳)の実家と黒田家からの2人、それに後妻の実家・井口家ぐらいであった。

平蔵が祝辞を述べ祝賀の金包みをわたすと、親英が廊下へ連れだし、耳元へ口をよせ、
「陸奥(むつ)風はこともなかったか?」
「陸奥風? ああ白河おろしですか。こちらは両番(書院番と小姓組番 武官系)ですからね。むこうさんにとっては、痛くも痒くもない存在ですよ」
「気をつけろよ。相良侯へのうらみは相当に深いという噂だからな」
「ご忠告、ありがたく承りました」

宴会の部屋へ戻っても、親しく話しかけてくる者いないし、しょうこともなく辰蔵(たつぞう 18歳)と盃の応酬をしていると、久栄が告げた。
「非常の知らせとかで、同心の鈴木重平太(じゅへいた 26歳)どのがお見えです」

玄関にでてみると、
昨夜、熊谷宿であった盗みの:件は、長谷川組であつかってもらいたいと、堀組の筆頭与力・佐島忠介(ちゅうすけ 50歳)からこちらの(たち) 朔蔵(さくぞう 38歳)筆頭へ申しいれがあったが、引き受けていいものか、お頭のおゆるしをいただいてこいとのことで……と、この寒さに汗をぬぐいながら告げた。

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2008.12.15

初お目見が済んで(4)

入江町の鐘楼が五ッ半(午後5時)を打った。
内庭には、もう、宵が満ちはじめている。

本家からの分家・長谷川内膳正珍(まさよし 59歳 500石 小姓組番士)が、座を立った。
「われの家は遠いので、これで失礼させてもらう」
正珍の拝領屋敷は、千駄ヶ谷の元塩硝(えんしょう)蔵跡である。
南本所・三ッ目通りからだとほぼ2里(8km)近くはある。
用意の〔船橋屋織江〕の羊羹箱渡された。

正珍が消えたのを機に、ほかの者も一挙に帰り気分になった。
本家の太郎兵衛正直(まさなお 59歳 1450石 先手・弓の7番手組頭)が、一門の家長らしく、
「これで当分、初見参の内祝いはないな」
大身・久三郎正脩(まさひろ 58歳 4070石 持筒頭)が、一門の子弟たちを暗算して、
「さようですな。なんにせよ、一門は、わずかに5軒きりだから---」

叔父たちも口々に、
「それでは銕三郎。そなたの将来がかかっておる、お礼の挨拶廻りをうまくやってのけるようにな」
と、はげまして帰っていく。

久栄(ひさえ 16歳)の父・大橋与惣兵衛親英(ちかふさ 55歳 200俵 新番与(くみ)頭 )の、形式ばった謝辞を受けた平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手・弓の8番手組頭)が命じた。
「銕(てつ)。大橋どのをお送りするように---」
与惣兵衛が即座に辞退する。
「それにはおよびませぬぞ。足はまだ、しっかりしております」
大橋どのをお送りするのではございませぬ。ご息女・久栄どのの護衛といいますか、道々の話相手です」
「あ、なるほど。若い者たちのことに、とんと気がまわらぬ齢になりましたわい。失礼つかまつりました。では、銕三郎どの。よしなに---」

与惣兵衛は、荷物持ちの小者とともにさっさと先を急ぐ。
提灯の灯がどんどん遠ざかった。
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)と久栄は、1丁(ほぼ100m)も遅れた。

町家がつづく竪川(たてかわ)堤にでると、人影はほとんどなく、道は暗闇に近かった。
左側から、久栄がついと寄りそい、手に触れ、
銕三郎さま。きょう、久栄はうれしゅうございました」
「うん?」
「ご両親に、わたくしとの婚約のこと、お願いしてくださって---」
「あ、それは---」
「ご親戚のみなさまにもご披露目(ひろめ)いただきましたし」
「うん。よかったな」

「婚約のことを知った姉・英乃(ひでの 22歳)が申すのです。姉が不幸な結婚の末に心を病んでいることは、もう、先(せん)にお話ししました」
「お聞きしました」

参照】2008年9月24日~[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (6) (7) (8)

「挙式を早めるためにも、久栄の躰に、銕三郎さまのお徴(しるし)を、つけていただけと---」
「なに?」
「恥ずかしいことです。二度もは、口にできませぬ」
「うーん---」

銕三郎の持つ提灯の灯が下がったのをしおに、久栄が手をさぐってきた。
握り返す。

しはらく、無言のまま、歩いた。
銕三郎の頭の中では、そのときの場面が浮かんでは消え、浮かんでは消える。
(この久栄というおんな、先刻のわが家での口上といい、いまの訴えといい、見かけ以上に大胆なむすめごだ)

これまで銕三郎が抱いたおんなは、すべて、生娘ではなかった。
そのたびに、相手のほうが先導してくれた。
久栄はちがう。
無垢の処女(おとめ)なのだ。
(その処女の徴(しるし)を、おれにくれるといっている。だが、おれだって、生娘と行なった経験はない)

明るい床では、まずかろう。
いきなり、裸になるのもおかしなものだ。

_360_2
(湖竜斉 久栄との初めてのときのイメージ)

それにしても、場所は?

と結ばれた音羽の、あの種の店の部屋では、いくらなんでも、久栄との初めての試みには、ひどすぎる。
久栄は、これまで大切に守ってきた乙女の徴(しるし)を、くれるのだ。
いい思い出をつくってやらねば--->

(といって、どこがあるのだ)

銕三郎の思案は、混乱するばかりであった。


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2008.09.28

大橋与惣兵衛親英(2)

大橋家3人目の養子・親号(ちかな)は、久栄(ひさえ 16歳=明和5年(1768))が銕三郎と初めて出逢った翌年、婚儀がととのい、花嫁となって家を出て行ったのちに、縁組みされた。

参照】[大橋与惣兵衛親英] (1)の家譜

つまり、家事をほとんだ省みることのなかった与惣兵衛も、久栄への養子をあきらめざるをえなかった結果といえる。

家長の権力が絶対とされていた徳川時代に、与惣兵衛の思惑(おもわく)を敢然とはねつけて、自分を貫いた久栄を、いまの世人は「みごと」と見るであろう。
しかし、江戸時代の見方では、はねっ返り、強情むすめ、であったろう。
それを意に介さなかった平蔵宣雄(のぶお)・(たえ)の父母をどう評価しようか。

ちゅうすけは、表向き、世間常識になるべくさからわないふりをしていた宣雄夫妻の、芯の強さと、こころの奥を見たおもいである。

もっとも、銕三郎久栄の華燭にいたるまでの道のりの曲折は、これから、記すことになるのだが---。

いまは、2度の養子縁組に失敗し、二女・英乃(ひでの 22歳)の欝病を招いたともいえる与惣兵衛の次の手をのぞいてみよう。

3人目の養子を、大番筋の家格にもかかわらず、なんと、医家の息子に目ぼしをつけたのである。
番医・野間玄琢成育(せいいく)の三男・千之丞(せんのじょう 10歳=明和6年(1769)であった。

_360_2
(野間玄琢成育と親号の個人譜)

しかも、目をつけ、下交渉をはじめてから、実際に養子縁組をするまでに、7年の看察期間をおくという慎重さであった。

千之丞が養子にきた安永6年(1777)には、与惣兵衛親英は64歳になっていた。
幕府の定めでは、当主が60歳をすぎてからの養子縁組は、審査が相当にきびしかった。
それでも、与惣兵衛は、千之丞が18歳に成人するまで待った。
ついでに記しておくと、この安永6年には、平蔵宣以(家督後の銕三郎襲名 32歳)の妻・久栄は25歳であった。もちろん、辰蔵のほか2人のむすめを産んでいた。

千之丞親号の実家・野間家は、尾張国知多郡(ちたこおり)野間村の出で、先祖は織田信長に仕えたが、本能寺の変事のあと浪人、医術を学び、京・京極で開業していた。
家康に見こまれ、隔年に江戸にくだるようになり、日本橋・元大工町(現・中央区日本橋2丁目)に屋敷を賜った。その屋敷は商業地であったため商家に貸し、三築(さんちく)長屋呼ばれた(大正5年刊『日本橋区史』)。
代々、幼名が三竹であったからである。

_360
(三築長屋のあった下大工町新道 池波さん愛用の近江屋板)

実父・成育の住まいは、小川町裏猿楽町の武家地で、医師・和田春長の所有地の借地にあった。

養子・千之丞親号の妻には、黒田家から親英の姪を養女として迎えて妻(め)あわせた。

与惣兵衛親英(ちかふさ)の慎重さは、ついに実った。
しかし、二女・英乃は、22歳から死ぬまで、男との縁を絶たれたままであった。
英乃の没年は未詳。香華寺である高田の宝祥寺(現・新宿区若松38-1)に過去帳がのこされていれば探れようか。

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(宝祥寺参道)

[大橋与惣兵衛] (1)


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)


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2008.09.27

大橋与惣兵衛親英

ついでだから、久栄(ひさえ 16歳)の父・大橋与惣兵衛(よそべえ)親英(ちかふさ 55歳=明和5年(1768) 西丸新番・与頭)についても記しておく。
やがて、銕三郎宣以(てつさぶろう のぶため 23歳 のちの鬼平)の岳父となる仁である。

家譜をみると、与惣兵衛親英の父は、黒田左太郎忠恒(ただつね 享年93歳 新番与頭 250俵)、母は大橋与惣右衛門親宗(ちかむね 享年79歳 800石)のむすめである。
長生きのDNAを受け継いだ仁のようだ。おめでとう。

与惣右衛門親宗も、与惣兵衛も同族で、本家(2120石 絶家)は肥後国山本郡大橋の出で、家康以来の幕臣である。

黒田家は、近江国伊香郡黒田村の出。
本家は、黒田官兵衛高(よしたか 筑前福岡藩主 52万石)。
その数代前の左衛門尉宗満(むねみつ)の長男・高満(たかみつ)の末裔を称している。

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(黒田忠恒・親英の個人譜)

三男の三郎左衛門親英は、母親の縁で大橋家に養子に入ったとかんがえるのはもっともである。
それもあるが、黒田左太郎忠恒は、小梅村に屋敷をあてがわれていたものの、実は、下谷・和泉通りの大橋家の敷地の一部を借り、別棟を建てていたのである。

先代の与惣兵衛親定(ちかさだ 享年68)が享保17(1732)年5月4日に葬したので、急遽、末期養子の届けをだし、同年7月4日に遺跡継承(39歳)がみとめられた。
ずいぶん,遅い養子入りであるが、むしろ、養父・親定の手ぬかりを責めるべきかもしれない。

黒田姓から大橋姓に変わって出仕してからの親英の勤務ぶりと出世はめざましい。
ただ、万年家からの先妻が産んだ長女を自分の実家へ養女に出したり、二女・英乃(ひでの 22歳)の婿養子の選択などを見ると、仕事はでき、人づきあいもそつはなかったであろうが、家族への配慮には、久栄のいうとおり、欠けるところがあったやに見うける。

鬼平犯科帳』では、高杉道場で、銕三郎の32歳年長の老剣友と書かれているが、はたして、入門していたかどうか。p158 新装版p270
仕事一点張りの親英が、地所借りしていた黒田家にまだ籍があった時代、和泉橋通りからわざわざ本所・出村の高杉道場まで稽古に通ったともおもいがたい。

あるいは、久栄が、どこかで近藤勘四郎と知り合い、に処女のあかしを奪われたすこし前に入門したとしても、住まいは和泉橋通りであったのである。

長谷川家と大橋家が、入江町になかった史実も引いた。
とすると、

「もう久栄は、嫁にゆけぬ」

などと、愚痴を銕三郎にこぼすこともなかったろう。
ま、このあたりは、小説の醍醐味なので、あまり、かっちりと触れては、それこそ艶消しというもの。


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)


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