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2008.09.25

大橋家の息女・久栄(ひさえ)(7)

[大橋家の息女・久栄(ひさえ)](6)でご披露した大橋与惣兵衛親英(ちかふさ)の[個人譜]にはつづきがある。
といっても、明和5年(1768)の春の銕三郎(てつさぶろう 23歳)と久栄(ひさえ 16歳)には関係が薄いが、再録ついでにつけくわえておく。

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(大橋与惣兵衛親英の個人譜と久栄)

こういうものを見なれていれば、明和5年(1768)の久栄が16歳、父の与惣兵衛親英は卒した寛政8年(1796)が83歳なら、明和5年には55歳---と勘定なさろう。
とすると、久栄親英が39歳のときの子、二女・英乃(ひでの)は33歳の子とも暗算なさる。

久栄は、井口(いのぐち)家からの後妻の子とも言っていた。
二女・英乃(ひでの 22歳)は、万年家からの先妻---この先妻は離縁とも書かれていないし、万年家のほうの家譜にも離婚とは書いていないから、病死したものとかんがえられる。

後妻の最初の子が久栄であるから、亡じたのは、英乃が3,4歳のころであろうか。

親英は、先代・親定(ちかさだ 享年68歳)の末期養子に近い。
黒田家から19歳のときに迎えられた。
出仕は、それから5年後の元文2年(1237)。

役料なしの廩米200俵では、内証(ないしょ 暮らし向き)に余裕があるとはいえなかったかもしれない。
銕三郎久栄が出逢ったときには、西丸の新番の与頭(くみがしら 組頭とも書く)であったから、600石格で、400石の足(たし)高がついていた(もっとも、400石といっても、4公6民ということで、じっさいに給されるの400石の4割---160石であったらしい)。
それでも家禄に近い実収増である。

久栄が、「家の事情」といったのは、そういう家計のことではなかった。
「いずれお耳に入るとおもいますから、英乃姉上の病いのもとをお話しておきたかったのです」

英乃は、17歳のときに最初の夫を迎えた。
家譜に、某---岩佐五郎右衛門茂伴(しげとも 享年38歳 70俵5人扶持)の3男・左膳とある仁であったが、病気持ちとわかって、すぐに養子縁組が解消された。

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(岩佐左膳の個人譜)

去年の秋に迎えたのは、名門・京極一門ではあるが、末流に近い三右衛門高明(たかあきら 享年45歳=安永8年(1779) 2000俵)の弟・高本(たかもと 推定30歳)。

ちゅうすけ注】池波さんが、『鬼平犯科帳』で、平蔵宣以(のぶため)の理解者としている京極備前守高久(たかひさ 丹後・峯山藩主 1万1000余石 のちの若年寄)はこの一門。
参照】2006年4月11日[若年寄・京極備前守高久

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(京極文次郎高本の個人譜 水野姓から京極へ改姓)

その齢まで養子の口がかからなかった原因は、言動が異常者じみているからと、養子にとってみて分かった。
そのせいで、英乃はこころの病いになり、高本はとりあえず実家に引きとってもらっているが、与惣兵衛親英は、2人つづいての養子の不縁は世間体(てい)も悪(あ)しく、自分の見識も疑われると、離縁にはいまもって首を縦にふらない。
(2年がかりで、けっきょくは不縁となったことはなったが---)

「わが家の、2人つづけての養子不始末のことは、いずれ、世間の噂になるでしょうが---」
長谷川家は、他家のことは語らないことになっておりますゆえ---」
「家の犠牲になった形の、英乃姉上が痛わしくてなりませぬ。20歳をちょっとでたばかりの若い身ぞらで---。そして父は、こんどは私の婿養子を考えているようなのです。私は、嫌。お嫁にいって、大橋の家をでるつもりです」
銕三郎は、相槌(あいづちう)がうてず、久栄の潤(うる)んだ双眸を見つめるばかりであった。


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