カテゴリー「096一橋治済」の記事

2010.03.18

一橋家(4)

辻 達也さん編『新稿 一橋徳川実記』(1983.3.31)から、享保20年(1735)9月を引く。

朔日 小納戸 ・山本越中守茂明(しげあきら 56歳 300石)・先手頭 建部(たけべ)甚右衛門広次(ひろつぐ 63歳 800石)、 共に小五郎(のちの宗尹 むねただ 15歳)伝役(もりやく)に任じられ、加増を受け、各1000石となる。
格式・足高(たしだか)は田安伝役のとおり三千石高。広次叙爵して大和守と称す。また近習を用人と改む。

二十三日 小五郎元服し、将軍吉宗の偏諱(へんき)を賜うて、徳川宗尹と名のり、従三位左近衛中将に叙任せられ、刑部卿を称す。

同書、寛保元年(1741)十一月
十五日 一橋邸を受け取る。
二十ニ日 一橋邸へ移るにつき、将軍より唐銅獅子香炉、つい朱布袋香盆、松桜高蒔絵檜箱等の道具を拝領す。

同十一月
二十五日宗尹、老中・松平乗邑(のりむら)、若年寄・本多忠統(ただむね)の案内にて一橋邸へ移る。 


さて、建部家である。
先祖は近江国で伊庭氏であったという。

ちゅうすけのつぷやき】近江の伊庭? 記憶がある。近江八幡生まれの〔伊庭(いば)〕の紋蔵(もんぞう 32歳)という無法な盗賊を仕立てたことがあった。
2008年10月31日[〔伊庭(いば)〕の紋蔵]
いや、本筋とはかかわりがないから、リンクなさるまでもない。

_80家紋は四ッ目結(ゆい)であったというから、とうぜん、佐々木氏かかわり。
池波小説のファンなら、『剣客商売』のヒロイン・佐々木三冬がこの紋のついた小袖を着ていたことをご記憶であろう。
四ッ目結は、近江の佐々木氏の家紋である。

_80_2もっとも、建部本家は、佐々木氏をはばかり、州浜に変えた。
分流である甚右衛門広次のところは、どうどうと丸に四ッ目結を使っていた。

能筆の家柄であった。
それを買われ、2代前が家光に祐筆として仕えた。

広次のもっとも重い役目は、筆頭家老として、一橋家の家政の赤字を、幕府からの賜金で埋めることであったろう。
ある学究の試算によると、11年後の延享3年に下賜された10万石の封地からのあがりが、五公五民という過酷きわまる重税で、一橋家はやっととんとん、四公六民だと大赤字であったと。

広次のもう一つの役目は、当主・小五郎(のちの宗尹 むねただ 15歳)に、神祖・家康の挿話を語りきかせることであった。

弘治2年(1556)、家康15歳。駿河で元服。今川義元の許しをえて、亡父の法会、家臣との対面のため岡崎城へはいった。
本丸には、今川から城代として付けおれていた山田新右衛門などがいたので、
「ここは祖先よりの旧城であるが、自分はまだ年少であるから二ノ丸を使い、万事、新右衛門どののご意見をうかがって---」
この礼をこころえた挙措に、義元も感服したと。

岡崎へ戻ってのことというから、家康、19歳か20歳の梅雨前であろう。
鷹狩りをもよおしたとき、苗床の水田で泥まみれになってはたらいていた農夫に目をやった家康は、
「彼はまさしく臣下の近藤某---」
供の者に呼ばしめた。
近藤とすれば、君主に見られたくない姿なので、わざと顔にも泥していたのだが、仕方なく、野道においていた小刀を腰にしてご前へ出た。
「恥ずかしがるでない。予の所領がすくないために、苦労をかけておる。しかし、いつまでも苦労をさせはしない。きっと報いる。それまで耐えてくれ」
家康の目には涙があった。
近藤の頬を涙が伝っていた。
供の者もいずれも袖をぬらしていた。


       ★     ★     ★

143_360

いつものように『週刊 池波正太郎の世界 14』[真田太平記 三](朝日新聞出版)がとどいた。

「インタビュー」は鬼平もので猫どのを演じる沼田 爆さん。さすがにこころきいた老練な語り口。
お江(ごう)はもちろん、甲賀組の〔草の者〕だが、真田武田信玄に仕えたときの忍びの者は、〔軒猿〕とも呼ばれていたらしい。
それで、当ブログでは、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 享年33歳)は、〔軒猿〕とした。

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2010.03.17

一橋家(3)

吉宗は、後継将軍の予備候補筋として田安家一橋家をたてるとき、役職者は幕府から出向させることとした。

綱吉家宣が、将軍職についたときに、大量の家臣を幕臣にした例を忌避したかったのであろう。
とはいえ、自分に随行してきて家人(けにん)となった紀州藩士は、多くを小納戸や小姓などの側近にふりむけてはいる。

享保20年(1735)9月1日、一橋家の始祖・宣尹(のぶただ 幼名・小太郎)の伝役(もりやく)につけた2人のうち、小納戸から引きあげた山本越中守茂明(しげあきら 56歳 300石)も、出身は紀州藩・小十人頭(300石)であった。
家人となっても、家禄は300石のままで、吉宗の小納戸役を19年間務めた。
伝役となり、やっと1000石に加増された。
我慢強い性格であったのであろう。

伝役が家老と職名を変えたのは、宣尹が10万石の領地を下賜された延享3年(1746)で、このときから、役料が幕府から1000俵、一橋家から1000俵の計2000俵が供されることになった。

ただし、山本茂明は家老の役料がきまる5年前の寛保元年(1741)に62歳で、もう一人の伝役・先手頭からの建部(たけべ)甚右衛門広次(ひろつぐ 63歳 800石)は7年前の元文4年(1739)に卒しているから、この役職は受けていない。

が、一橋家の伝役は3000石高であったから、両者とも家禄は1000石にあがってい、足高(たしだか)2000石をうけていたろうから、実収入はさして差はなかった。

さて、山本家だが、『寛政譜』にあるとおり、三河国のどこかで、(むろ)を称していたらしいが、分家かなにかのとき、山本に改めた。
身上がはっきりしているのは、頑固、武勇の将・本田百助信俊(のぶとし)に属していた弥三郎茂成(しげなり)からである。
のち、茂成は家康の長男・岡崎三郎信康に配され、信康が切腹させられるはめになると、家康の麾下に復することを潔しとしなかったというから、茂成も三河武士らしい一徹者であったといえる。

茂成の次男と孫が紀伊家に任え、その4代目が茂明である。

伝役という役目がら、家政と外交のほとんどが課されていた上、茂明のもうひとつの仕事は、吉宗の人柄を伝えることであったろう。

たとえば、紀伊家の三男として吉宗は将軍・綱吉から、越前の丹生(にう)に3万石の封地が与えられたが、実収は5000石がやっとの土地であった。
津波による被災者がでたとき、急遽、仮屋を設け、衣服・食糧を与え、
「天災によって弱者となったものは乞食ではないのだ。ねんごろに救いの手をつくせ」
上の者は倹約に意をつくし、しもじもをいつくしむという例で、治世者のこころえを話したのである。

こんなことも話した。
近習の少年が宿直(とのい)の夜、外出して夜明けに戻った。
監督者が懲罰に付すべきだと憤怒していたのを知った吉宗は、左右の衆を遠ざけてからその監督者を呼び、
「その小姓は、日ごろ、武芸に励んでいるそうだな? 弓などは名人級とか聞いたが---」
「はい。身をいれて修練しております」
「では、こんどのことは許してやれ。世に全徳の者というのはなかなかいないものだ。一失あれば一得もあるのが人というものである。一善があれば一過はゆるすべきであろう。その少年のやったことは聞かなかったことにし、以後、宿直をしないようにいましめるだけですましてやれ」

同じ年ごろだったときの祖父・吉宗の人柄を伝えるかずかずの逸話を、宣尹がどう受け止めたかがわかる記録は目にしていない。
徒労であったかもしれない。

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(山本越中守茂明の個人譜)


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2010.03.16

一橋家(2)

8代将軍・吉宗の男子たちのことを書いている。

赤坂の藩邸で生まれた第1子は男子で、長福丸(ながとみまる のちの家重)と名づけられたことはすでに書いた。
母親は、紀伊家家臣・大久保家のおんなで、お須磨の方であった。
長福丸を産んで3年後に逝った。

第2子も男子で、正徳5年(1715)11月21日に、赤坂の藩邸で生まれ、小次郎(のちの田安家の始祖・]宗武 むねたけ)と名づけられた。
母親は、藩士・竹本家のおんなで、お古牟こま)であった。
母親は出産から2年後に逝った。

第3子も男子で、享保6年(1721)閏7月15日(『実紀』)、本丸の大奥で生まれ、小五郎(のちの一橋家の始祖・宗尹 むねただ)と名づけられた。
母親は、『一橋徳川実紀』は浪人・谷口長右衛門正次(まさつぐ)の次女・お(うめ のちにお久)としている。
の方は、出産3ヶ月後に逝った。


享保15年(11730)11月15日、この日、右衛門督宗武(16歳)に田安の官邸をつかわされ新造あるをもて。小普請石野左近将監に。その事奉るべき旨命ぜらる(『実紀』)

延享3年(1746)9月14日食邑10万石賜る(『田安徳川 家記系譜』)
 摂津 西成郡ほか3郡 1万3000石余
 和泉 大島郡       1万3000石余
 播磨 加納郡       1万2000石余
 甲斐 山梨郡八代郡  3万石余
 武蔵 入間郡ほか2郡 1万7000石余
 下総 槙尾郡ほか2郡 1万5000石余


どうしてこの記事をいれたかというと、『一橋徳川系図』にこうした記録が記されていないからである。

と思ったら、『新稿 一橋徳川実記』(徳川宗敬 1983.3.31)の、延享3年(1746)9月15日の項に、

将軍御座所において、田安宗武と共に領地下賜の申し渡しあり、宗尹、播磨、和泉、甲斐、武蔵、下総、下野諸国において十万石を受く。

とあった。

ちゅうすけ注】延享3年は、長谷川銕三郎が生まれた年だから、鬼平ファンがこころしておくべき年号の一つである。


享保20年9月1日の『徳川実紀』に、こんな記述があった。

先手頭建部(たけべ)甚右衛門広次(ひろつぐ 63歳 800石)、小納戸山本越中守茂明(しげあきら 56歳 300石)ともに小五郎(15歳)の伝役(もりやく)とせられ加秩あり。各千石になりて、勤仕の間ともに三千石になさる。

小太郎は、この年の9月23日に元服しているから、一橋家を立てたのも、この時期とみてよさそうだ。
あるいは、伝役がつけられた1日か。

2人の伝役の教育が、宗尹の精神形成にいくぶんかの影響をもたらしたことは疑うべくもなかろう。
あすからは、この2人の伝役に触れてみたい。

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2010.03.15

一橋家

一橋家の始祖は、吉宗の3男・:刑部卿宗尹(むねただ 享年44歳)であることは、いうまでもない。
母は、紀州藩士で、吉宗とともに藩邸からニノ丸入りした谷口長右衛門正次(まさつぐ)の次女・お(うめ のち久とも 享年22歳)であった。

(のち)は、吉宗の母堂・浄円院(於由利 ゆりの方 享年72歳)にしたがって大奥に仕えていたとき、最初に、幼逝した源三、2年後の享保6年(1721)閏7月15日に小五郎(のちの宗尹)産み、3ヶ月後に卒した。

うわさばなしだとおもうが、お須磨の方が赤坂の藩邸で長男・長福(ながとみ のちの家重)丸を産んで2年後に26歳で病没したため、幼い長福丸のためにと、吉宗は、縁者のむすめを求めるように家臣にいいつけた。

候補にあがったのが、大久保八郎五郎忠直(ただなお)の長女であったが、美人といえなかったので家臣が躊躇していたところ、吉宗は、
「健康でさえあればいい」
懐任となった。

吉宗の女性観を示すもう一つの有名なエピソードがある。
将軍となって江戸城入りしたとき、大奥にいたおんなたちの中から、美人50名を書き出すように命じた。

すわこそと、大奥の女たちはいろめきたった。

ところが、選び出された50名の美人たちを、家元へ返すようにいいつけたのである。
家臣がいぶかると、美人なれば嫁にとの引く手もあまたであろう、不器量だと縁どおくなりがちであると教えたという。

実話かどうかは保証のかぎりではない。

ただ、大奥の経費節減のスローガンとしては気がきいているし、とりわけの美人でない側としては、溜飲がさがる話ではある。

ことのついでに、吉宗の次男・宗武田安家始祖)の母親・おこまをフォローしてみた。
なかなか見つからない。
徳川諸家系譜 第1 徳川幕府家譜 柳営婦女伝系 』で、於古牟(こま)の方をそうと納得するまでに3時間も要した。

公文書なのに、宗武の母と書いないのである。

御部屋於古牟之方 竹本茂兵衛正長女、享保元丙中年御本丸え入、其後称御部屋様、同八癸卯年ニ月廿ニ日於御本丸御逝去、葬池上本門寺え、同月廿三日御出棺、此日送葬、
 御法名 本徳院殿妙亮日秀大姉

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(赤○=於古牟(こま)の方の個人譜)

赤坂の藩邸(中屋敷)から本丸へ入ったお手つきの女性は、おこま一人であったという人もいる。

も、上記『柳営婦女伝系』には享保元年に大奥入りしているように記されているが、これは疑わしい。

吉宗の生母・浄円院お由利の方)が和歌山から江戸城西丸へ移ったのは、享保3年(1718)5月1日である。
藪 内膳頭忠通(ただみち 40歳=享保3年 300石 のち5000石)が迎えに行っている。

参照】2010年3月11日[一橋家老・新庄能登守直宥(なおずみ) () 藪 家の家譜の忠通の項

浄円院付きの女中であったとすると、大奥入りはこのときとなる。
源三小五郎の懐妊とも歳月があう。

柳営婦女伝系』に記されているとおり、赤坂の藩邸ですでに側妾になっており、浄円院の江戸下がりでそのお付女中というあつかいになったとも推察もできないことはないが。

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2010.03.14

お富の方(2)

家康がご三家---尾張家紀伊家水戸家をたてて、徳川の血筋の保全をはかったことは、小学生でも、高学年になればしっていよう。
---といいきっていいか、どうか、身近に小学生がいないから、自信はあまりない。

八代・有徳院吉宗)が、将軍のスペア供給源として田安家一橋家のニ卿をたて、家重がさらに清水家をたてて三卿としたことも、ちゅうすけ年代では常識なのだが、いまの若い人はどうなのだろう。

吉宗の側室のひとり・お菊(きく)の方(のち、お久とも)が産んだ源三(幼折)、小五郎のうち、吉宗にとって四男にあたった小五郎が一橋家の始祖・徳川宗尹(むねただ)である。

お菊は、浪人谷口長右衛門正次(まさつぐ)の次女と『寛政譜』に記されている。

お菊の弟・新十郎正乗(まさのり)は、小五郎の生誕12年後の享保18年(1733)に27歳で召され、小五郎のお付となり、稟米300俵をたまわった(のちに500石)。

これから推察するに、お菊源三を産んだのは17歳前後か。
小五郎
のときは19歳前後ということであろうか。

小五郎改め宗尹が、宝暦元年(1751)33歳のときに、細田助右衛門時義 ときよし 200俵)のむすめ(17,8歳か)に産ませたのが豊之助、のちの治済(はるさだ)である。

宗尹は明和元年(1764)12月下旬に44歳で薨去、治済は14歳で家督。

明和4年(1767)、治済(18歳)は、京極上総太守公仁親王の姫・在子を正室として迎えるが、彼女は子をなさないまま、3年後に薨じた。

お富が側室となったのはそのあととおもわれる。
安永2年(1773)10月3日に長男・豊千代(のちの家斉 いえなり)が生まれた。
安永8年(1779)の将軍の:継嗣・家基(いえもと)の急逝で、家斉が、家治の養子となり、西丸へはいったのは天明元年(1781)5月18日、8歳のときであった。

安永6年(1777)9月21日に三男・雅之助(のちの斉隆)誕生。

このあいだの女子(早世)と次男・力之助が安永6年5月15日に生まれている。
次男を産んだのは丸山氏のおんなである。

このあと治済は、77歳までのあいだに5子を得るが、産婦はお富の方ではないので省略する。

紀州藩士のむすめであるお富の方が、将軍・家斉の生母として権勢をふるうのは、いまよりもずっとあとである。

ちゅうすけの休むに似た思案は、大奥にいたお治済の目をひきつけ、その側室となって一橋家の奥へはいったとき、ある危惧を予感した田沼主殿頭意次(おきつぐ)が、一橋の北詰に茶寮〔貴志〕を建て、里貴(りき)を女将として送りこんだのではないかとの妄想のようなものであった。

参照】2007年11月27日~[一橋治済] () () (


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2010.03.13

お富の方

鬼平犯科帳』には、大奥へ忍びこんだ盗賊は登場しないから、すっかり安心していた。
じつをいうと、大奥は苦手なのである。
テレビ・ドラマにはよくあつかわれ、視聴率もけっこうとるみたいだが、ちゅうすけはその種の番組はみないから、生半可な知識では顰蹙をかうのがおちだとおもってきた。

池波さんも、文庫巻11[]で、あっさり、

「大奥にはな、将軍のお手がついた女どもが何人もいて、それぞれに子を生み、生まれた子の行方も、生んだ女の行方も、いつしか知れず、消え果ててしまいうこきとがあるそうな---」

こう書いて、深くは触れない。

ところが、ひょんなことから、知識のない大奥に触れなければならなくなった

一橋の北 詰の火除け地に開いた茶寮〔貴志〕の女将・里貴(りき 30歳)と、平蔵宣以(のぶため 29歳)が躰をあわせてしまったのである。
それも一回きりとかならそのまま見過ごすのだが、どうやら、平蔵は、光を透きとおらせるほどに青白い肌の里貴魅せられたらしい。
二度、三度の交合ではおさまらなくなった。

しかも、それに〔貴志〕が、紀州衆の猟官がらみのかけひきの場につかわれている気配なのである。
もちろん、平蔵は安っぽい正義感をふりかざす青年ではないから、そのことは傍観しているにすぎない。
が、里貴がそれではすましてくれそうもなくなったきた。

〔貴志〕という茶寮の狙いはなんだと思うかと、正面きって問うてきたのである。

「まさか、左近衛権中将(一橋治済 はるさだ 24歳)さまの、男としての寝床でのちからをのぞきみるためではあるまい」
「それが、まさか、でなかったら、なんとなさいます」
「ぷっ。冗談でいってみただけだ」
「去年、お(とみ)の方が、豊千代(とよちよ)さまをお産みになりました」

豊千代は、のちの将軍・家斉(いえなり)であり、平蔵が出仕した西丸ののちの主でもあった。

2年前、江戸城の大奥の女中をしていたおを、治済がたってと望んで側室にもらいうけた。
は、紀州藩邸から柳営にはいった有徳院吉宗)にしたがった、岩本八郎大夫正房(まさふさ 300俵)の曾孫である(紀州藩士の時代は150石)。
諸書は、内膳正正利(まさとし 51歳=安永3年 のち2000石)のむすめと記している。
正利は、正房の3男で、3代目にもなった。
したがって、おは孫であり、曾孫でもある。

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佐藤雅美さんは『田沼意次 主殿の税』(人物文庫)で、おは不器量だが、将軍・家冶の手がついていたとしているが、いまのところ、ちゅうすけは手元に、おの容姿に関する史料はない。

正利の正妻は、

「大奥の老女・梅田の養女」

とあり、おの項にも、

「母は老女・梅田の養女。一橋中納言治済卿につかへ、将軍家のご母堂たり」

大奥の老女が不器量なむすめを養女にとることは少ないのではないかと推測するのは、素人考えであろうか。

Wikipediaの お富の方の項には、大奥で治済が見とめたとある。

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2010.03.12

一橋家老・新庄能登守直宥(なおずみ)(4)

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  ★     ★     ★


「たったいま、おもいついたのでいうのだが、ご老中・田沼主殿頭意次 おきつぐ 56歳 相良藩主)侯も、ご舎弟の故・能登守意誠 おきのぶ 享年53歳 800石)も、有徳院吉宗)さまにしたがって江戸城入りなさったのはご先代で、主殿頭さまも、能登さまも、いってみれば、ご家人(幕臣)としては2代目ということになる」

平蔵(へいぞう 29歳)をいい分をうけた里貴(りき 30歳)も、そうおっしゃると、寄合の藪 主膳正忠久(ただひさ 55歳 5000石)も2代目だと証言した。

有徳院さまのお側をおつとめになった有馬兵庫頭氏倫うじのり 享年68歳 1万石)家は5代目だし、加納(遠江守久通 ひさみち 享年76歳 1万石)さまのところは2代目半です」
「なんだい、その2代目半というのは?」
「2代目の久堅(ひさかた)さまは、まだ64歳なのに、大岡出雲守忠光 ただみつ 享年52歳 2万石)さまのご次男の久周(ひさのり 22歳=安永3年)さまがご養子におはいりになったものですから、すっかりお老(ふ):けこみになったとの噂です」
「それで、2代目半とは、世間の口の毒はきついというか---}

ちゅうすけ注】このときから21年後の寛政7年(1995)5月6日---平蔵が没する4日前、将軍・家斉(いえなり)は、宣以の病状が重いことを知り、見舞いとして、渡来の超高貴秘薬・〔瓊玉膏(けいぎょくこう)〕をお側・加納遠江守久周に預けた。
長谷川家からは、嫡子・辰蔵加納家へ参上し、拝領した。
2006年6月25日[寛政7年5月6日の長谷川家

里貴は、ほかに数人の高禄の紀州衆の名をあげた。

西丸の書院番頭をつとめている渋谷隠岐守良紀(よしのり 50歳 3000石) 2代目
徒の組頭の桑山内匠政要(まさとし 52歳 1000石) 3代目 
西丸の小納戸組の市川十次郎清移(きよのぶ 37歳 1000石) 3代目

「拙は、有徳院さまが8代をお継ぎになってから数えると、4代目となる。は、ははは」
里貴は、平蔵が軽く笑った真意をはかりかねたように、小首をかしげて瞶(みつめ)た。

田沼侯は別として、紀州衆も、2代目以降ともなると、少々のことでは家禄は増えないから、役高の多い役職をあさるということだな」
「そういうことで、さまのお働きが重宝ということでしょう」
「茶寮〔貴志〕の働きは、そんな単純なことではあるまい?」
「なんとお察しですか?」
里貴の瞳が、澄みきった。

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一橋家老・新庄能登守直宥(なおずみ)(4)

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「たったいま、おもいついたのでいうのだが、ご老中・田沼主殿頭意次 おきつぐ 56歳 相良藩主)侯も、ご舎弟の故・能登守意誠 おきのぶ 享年53歳 800石)も、有徳院吉宗)さまにしたがって江戸城入りなさったのはご先代で、主殿頭さまも、能登さまも、いってみれば、ご家人(幕臣)としては2代目ということになる」

平蔵(へいぞう 29歳)をいい分をうけた里貴(りき 30歳)も、そうおっしゃると、寄合の藪 主膳正忠久(ただひさ 55歳 5000石)も2代目だと証言した。

有徳院さまのお側をおつとめになった有馬兵庫頭氏倫うじのり 享年68歳 1万石)家は5代目だし、加納(遠江守久通 ひさみち 享年76歳 1万石)さまのところは2代目半です」
「なんだい、その2代目半というのは?」
「2代目の久堅(ひさかた)さまは、まだ64歳なのに、大岡出雲守忠光 ただみつ 享年52歳 2万石)さまのご次男の久周(ひさのり 22歳=安永3年)さまがご養子におはいりになったものですから、すっかりお老(ふ):けこみになったとの噂です」
「それで、2代目半とは、世間の口の毒はきついというか---}

ちゅうすけ注】このときから21年後の寛政7年(1995)5月6日---平蔵が没する4日前、将軍・家斉(いえなり)は、宣以の病状が重いことを知り、見舞いとして、渡来の超高貴秘薬・〔瓊玉膏(けいぎょくこう)〕をお側・加納遠江守久周に預けた。
長谷川家からは、嫡子・辰蔵加納家へ参上し、拝領した。
2006年6月25日[寛政7年5月6日の長谷川家

里貴は、ほかに数人の高禄の紀州衆の名をあげた。

西丸の書院番頭をつとめている渋谷隠岐守良紀(よしのり 50歳 3000石) 2代目
徒の組頭の桑山内匠政要(まさとし 52歳 1000石) 3代目 
西丸の小納戸組の市川十次郎清移(きよのぶ 37歳 1000石) 3代目

「拙は、有徳院さまが8代をお継ぎになってから数えると、4代目となる。は、ははは」
里貴は、平蔵が軽く笑った真意をはかりかねたように、小首をかしげて瞶(みつめ)た。

田沼侯は別として、紀州衆も、2代目以降ともなると、少々のことでは家禄は増えないから、役高の多い役職をあさるということだな」
「そういうことで、さまのお働きが重宝ということでしょう」
「茶寮〔貴志〕の働きは、そんな単純なことではあるまい?」
「なんとお察しですか?」
里貴の瞳が、澄みきった。

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2010.03.11

一橋家老・新庄能登守直宥(なおずみ)(3)

「その薄着で、寒くはないのか?」
里貴(りき 30歳)は、わざと襟元を開いて白い乳房をさらし、
「寒いといったら、暖めてくださいますか?」
逆に問い返した。

(これで、ほんとうに、武家の内室であったのだろうか)
一瞬のおもいが表情にあらわれたらしい。

「はしたないとおおもいになるかもしれませんが、(てつ)さまだから、甘えているのですよ」
「まだ、終わっていないといったではないか。今宵は、新ご家老の新庄能登( 直宥(なおずみ 53歳 700石)さまへ頼みごとをしておられたという、さまのことを話してくれるはずではなかったのか?」

主膳正 忠久 ただひさ 55歳 5000石)の父・忠通(ただみち)は、八代将軍・吉宗の側近となった紀州衆のなかでは、異例に昇進した一人である。

もちろん、田沼主殿頭意次(おきつぐ 55歳 相良藩主)という例外はある。
紀州藩時代でも江戸藩邸で重きをなしていた有馬四郎右衛門氏倫(うじのり)と加納角兵衛久通(ひさみち)の1万石は別格である。

この2家のほかに、幕臣となって5000石の高碌を給されたのは、有徳院吉宗)の生母・浄円院お由利の方)の実家筋で甥・巨勢(こせ)六左衛門至信(ゆきのぶ)がその一人。

別格はもう一家ある。
長福丸(のちの将軍・家重)の生母・於須磨の実家・大久保の甥・八郎五郎往忠(ゆきただ)の5000石が、それである。

赤坂の藩邸で長福丸に小姓として任え、とともにニノ丸へ入った高井左門信房(のぶふさ)も加増がつづき、最終的には6000石を知行した。

つまり、藪家高井家はニノ丸3人衆と呼ばれ、閨閥ではなかった。

そのあたりのところまでは、平蔵もこころえていた。
しかし、いまは家治の世である。
吉宗からすでにニ代さがっている。
寵児も実力者も黒幕も代替わりしているはずであった。

「長年、ご用人衆をお勤めになっていた成田八右衛門勝豊 かつとよ)さまが、去年の6月、老齢を理由に辞されたことはご存じございますか? ご用人と申されても、100俵月俸10口と少碌なお方でしたからお目からこぼれていたことでしょう」
「老齢というが、お幾つであったな?」
「去年、67歳とか。享保13年(1728)から一橋さまへおはいりですから、かれこれ45年もお勤めだったようです」
「その後釜を、紀州勢でということだったのかな?」

新家老の新庄能登は、番頭上首の末吉善左衛門利隆(としたか 48歳 300俵)に訊いたうえで返事すると応えたらしい。
とうぜんの答弁である。
実務者の思惑を無視しては、いまの武家の社会はやっていけない。

長谷川家は、元今川方といっても、駿州・田中城を守っていたときに武田信玄勢の猛攻にあい、城を捨てて浜松へ走った。
しかし、譜代の者たちからは、今川衆とみられないでもない。
譜代の三河衆は、100年以上も経ているのに、今川義元氏真にいい感情をもっていない。
したがって、元今川衆の結束は堅くない。

紀州勢の結集力は、すごいな)
実感であった。
しかし、いまの平蔵にとって、紀州勢は、目の前の里貴ひとりといってよい。

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(末吉善左衛門利隆の個人譜)


     ★     ★     ★


『週刊池波正太郎の世界 13』[仕掛人・藤枝梅安 三]が送られてきた。

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東海道・藤枝宿は、『鬼平犯科帳』の盗人たち---〔瀬戸川〕の源七、〔五十海(いかるみ)〕の権平などの出身地だし、市の南部には、幕臣としての長谷川家の祖にあたる紀伊(きの)守正長がまもっていた田中城もあるので、10回近く訪問した。
梅安生まれたことになっている、東海道筋・伝馬町の神明社の拝殿の左手、アジサイの植樹のかげに、地元の梅安ファンの手で「生誕の地」という木碑が立てられているが、花どきには、アジサイが邪魔してかくれている。


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2010.03.10

一橋家老・新庄能登守直宥(なおずみ)(2)

一橋さまも、紀州方からのご家老がいなくなられて、お困りであろう」
平蔵(へいぞう 29歳)の問いかけるような言葉に、里貴(りき 30歳)は表情を変えなかった。

「着替えてきます」
隣室へ消えた。
部屋は、通いの手伝いの老婆・お(やす 60がらみ)によってほどよくあたためられていた。

先任の設楽(しだら)兵庫頭貞好(さだよし 66歳 2150石)は高齢の域にちかづきつつある。
老眼がすすみ、書状を手にすると、眼鏡をあちこち、しばらく、さがす。
耳もややとおくなっているようだ。
聞きなおすことが多い。
話し手のほうへのりだすようにする。
頭に衰えはさしてないみたいだが、言葉がくどくなった。

田沼意誠(おきのぶ 享年53歳 2000石)の生前は、なにごとも控え目にしており、譜代衆との窓口とこころえているふうであった。

後任の家老・新庄能登守直宥(なおずみ 53歳 700石)は、目付(1000石格)、普請奉行(2100石格)を経てきた能吏である。
家老職につく前は、将軍・家治の日光参詣を見こしての駅路の補修を監督していた。
勝手(会計)方にも明るい。

設楽家老は、自分分より一まわり以上も若い新庄に期待をよせた。

もともと新庄家は、近江国坂田郡(さかたこおり)新庄に城をかまえていたための姓であった。
のちに同郡朝妻(あさづま)の城へ移った。

関ヶ原のときには石田三成側についたふりをし、伊賀国上野城にこもって意を徳川家康へ通じた。
その功で常陸・下野2国に3万300石余を領しえた。
新家老の新庄家は、その分家で両番の家格である。

ちゅうすけ注】新庄能登守の家の菩提寺は、東京文京区の喜運寺と『寛政譜』にあった。奇縁といおうか、長谷川平蔵宣以の前任の火盗改メれ・堀 帯刀秀隆の墓が現存する寺でもある。
ただし、新庄家の墓域が現在しているかどうかは、未確認。

「ですから、さまがお会いになっているのですよ」

主膳正忠久(ただひさ 55歳 5000石)は、家重にしたがってニノ丸入りした仁の継嗣である。
大身であるために、紀伊衆の頭目格にまつりあげられ、はやばやと役を離れ、衆のためにあれこれと骨惜しみをしないで動いている。

藍地の寝衣のうえから綿入れを羽織った里貴は、おわかりでしょうに---といった口調であった。
「ごめんなさい。まだ、すっかり終わっているわけではないのです」
「なにが? あ、そうか、それなら、話だけにしよう」
「つまりません。せめて---」
手をとり、乳房にみちびく。

そのまま、掌で覆い、
さまの役目が、まだ、よくわからぬ」
一橋さまのところへの紀州衆の増員とご加増のお願いです」

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(藪 主膳正忠久の個人譜)

 

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