一橋治済(4)
故・後藤一朗さん『田沼意次 ゆがめられた経世の政治家』 (センチュリー・ブックス 1971.9.20)が、在野の研究家らしく、田沼意次(おきつぐ)を追い落とした張本人は一橋治済(はるさだ)と決めて、その陰謀の一つとして、次のような縁組リストを掲載している。
え? 男子17人、女子7人!
と驚いた。
いったい、何人の側女に産ませたの---と、急いで『徳川家諸家系譜 巻3』を取り出して、気がついた。
なにも、治済が産ませた子とはかぎるまい、孫もいるだろうと。
それで、内室と子を産んだ側女を数えてみた。
『徳川家諸家系譜』の治済の項には、「治済九子有り」と。
つまり、『系譜』には、男子のみで、女子は記されていない。このことがわかっただけでも、『系譜』を開いてみた甲斐があった。
男子は3人の側女が産んでいる。岩本氏、丸山氏、中村氏。
次男斉国(なりくに)の内室は左大臣藤原治孝の娘・隆子は、嫁いで2年で薨じている。享年18歳。斉朝は実子かどうか不明。父親の斉国も19歳で卒。
後藤さんは女子のことをなにで調べたのだろう。独学なのだから、すごい探索力だ。
9人の男子のうち、3人は夭折、あとの4人も18歳から20歳で卒している。
すなわち、9男児のうち、生存したのは3人。一覧リストのうち、将軍となった家斉(いえなり)、斉匡(なりまさ)、斉敦(なりあつ)。
子がいれば、継嗣以外は養子にし、嫁にやるわけだから、治済だけが特記すべきとは思えないのだが。
後藤さんの推測は---、
ほとんどの親藩大名家へ養嗣子としてはいる余地があったということにも疑問が生じる。ひそかに黒い魔手が廻ってあらかじめ工作され、養子相続のやむをえない状態に作為されたともおもえる。(略)
そういう推理なら、20歳前に死んだ治済の男子6人にも、魔手がおよんだといわないと、片手落ちではあるまいか。
ということで、リストはメモとしての記録ということに。
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