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2007.11.27

一橋治済

後藤一朗さんに『今日の相良史話』(相良町教育委員会 1975.9.20)がある。
南榛原農協のバックアップで、有線放送で流した地元史を、活字化したもの。刊行は1984年刊『田沼意次◎その虚実』(清水新書)に先立ち、、田沼まわりのデータの採集に励んでいた時期のものといえる。

当書に2月20日の項は、「一橋治済(はるさだ)」にあてられている。治済の命日と、『徳川諸家系譜』には、たしかに、文政10年(1827)のこの日、77歳薧とある。法謚最樹院。

(ちゅうすけ注:)将軍の実父というだけで、『徳川諸家系譜』は「薧」の字をふっているが、いささか疑念のあるところ。

のちに唱えた「一橋幕府説」のあらすじが平易に話されているので、要点を引用してみたい。
治済は11代将軍・家斉(いえなり)の実父であり、宝暦元年(1751)の生まれで、長谷川平蔵宣以(のぶため)より5歳年少の陰の実力者だから、どこかでからんだかもしれないではないか。

相良の町が最も繁栄した時代から、田沼藩の解体と相良城の解体と破却を命じ、この地を混乱疲弊のドン底に陥入れた陰の大物が、一橋治済であることはあまり知られていません。そればかりか、旧田沼の所領地をそのまま約三十年間、おのれの手に握り、波津に一橋陣屋を作り、厳しい取立てによって民心の離反は甚だしく、一揆騒動の頻発した政治不信時代を作ったのも彼の時のことです。その命日が、文政10年(1827)の今日です。

(ちゅうすけ注:)一橋家は、始祖・宗尹(むねただ 第四子 1721~1749 44歳)の寛保元年(1741)に、播磨・泉・甲斐・下総・下野に10万石相当の地を授かっていた。その甲斐の痩地に変えて、肥沃な相良を治済が欲したということらしい。これに、後藤さんは陰謀めいたものを察知したのであろう。

この一橋家というのは八代将軍吉宗(よしむね)が、長子家重を九代将軍と定めたあと、妾腹の宗武(むねたけ)と宗尹に、田安家と共に立てさせた新家です。この家々は御三卿といい、御三家とは違って一国一城の主ではなく、単に将軍家に世嗣が絶えた場合、優先して後継者の出せる特権だけを持っていました。従ってそれなき限り、一生涯飼い殺しで終わる家柄です。大層な野心家だった一橋家の当主治済が狙いをつけたものはそれは何だったでしょうか。

田沼意次が失脚したのは68歳の天明6年(1786)---治済が36歳の壮年。将軍家へ送りこんだ家斉は14歳。
この年、意次)を支持していた10代将軍・家治(いえはる)が薧じ、政変が一気に加速する。
が、『今日の相良史話』は、10年ほど、記述を遡行させる。

安永8年(1779)のこと、十代将軍の一人息子、当時十八歳の家基(いえもと)のなぞの死をみましたが、その翌年、一橋治済は、長男家斉をその跡へ養子に入れました。(略)

ちゅうすけ注:)この、養子選定は、意次が中心になって選んだことはよく知られているところ。この時の治済意次の関係を明確にしないと、上の文章は誤解をまねきかねまい。しかし、治済憎しの念の強い後藤さんは、そのあたりを気にもとめない。
記述は、突然、天明6年の将軍・家治の病死へ飛ぶ。「これは何人かの毒殺とうわさされました」とうわさを引用する。

治済は幼君の後楯---私設の大御所となって政治の実権を握りました。
ここに於いて一橋治済は、田沼意次をはじめ、田沼の息のかかった吏僚を罷免し、それまでの進歩的な田沼政治を否定する、超保守的な封建政策を指向した寛政改革に突入するのです。(未完)

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