一橋家(2)
8代将軍・吉宗の男子たちのことを書いている。
赤坂の藩邸で生まれた第1子は男子で、長福丸(ながとみまる のちの家重)と名づけられたことはすでに書いた。
母親は、紀伊家家臣・大久保家のおんなで、お須磨の方であった。
長福丸を産んで3年後に逝った。
第2子も男子で、正徳5年(1715)11月21日に、赤坂の藩邸で生まれ、小次郎(のちの田安家の始祖・]宗武 むねたけ)と名づけられた。
母親は、藩士・竹本家のおんなで、お古牟(こま)であった。
母親は出産から2年後に逝った。
第3子も男子で、享保6年(1721)閏7月15日(『実紀』)、本丸の大奥で生まれ、小五郎(のちの一橋家の始祖・宗尹 むねただ)と名づけられた。
母親は、『一橋徳川実紀』は浪人・谷口長右衛門正次(まさつぐ)の次女・お梅(うめ のちにお久)としている。
お梅の方は、出産3ヶ月後に逝った。
享保15年(11730)11月15日、この日、右衛門督宗武(16歳)に田安の官邸をつかわされ新造あるをもて。小普請石野左近将監に。その事奉るべき旨命ぜらる(『実紀』)
延享3年(1746)9月14日食邑10万石賜る(『田安徳川 家記系譜』)
摂津 西成郡ほか3郡 1万3000石余
和泉 大島郡 1万3000石余
播磨 加納郡 1万2000石余
甲斐 山梨郡八代郡 3万石余
武蔵 入間郡ほか2郡 1万7000石余
下総 槙尾郡ほか2郡 1万5000石余
どうしてこの記事をいれたかというと、『一橋徳川系図』にこうした記録が記されていないからである。
と思ったら、『新稿 一橋徳川実記』(徳川宗敬 1983.3.31)の、延享3年(1746)9月15日の項に、
将軍御座所において、田安宗武と共に領地下賜の申し渡しあり、宗尹、播磨、和泉、甲斐、武蔵、下総、下野諸国において十万石を受く。
とあった。
【ちゅうすけ注】延享3年は、長谷川銕三郎が生まれた年だから、鬼平ファンがこころしておくべき年号の一つである。
享保20年9月1日の『徳川実紀』に、こんな記述があった。
先手頭建部(たけべ)甚右衛門広次(ひろつぐ 63歳 800石)、小納戸山本越中守茂明(しげあきら 56歳 300石)ともに小五郎(15歳)の伝役(もりやく)とせられ加秩あり。各千石になりて、勤仕の間ともに三千石になさる。
小太郎は、この年の9月23日に元服しているから、一橋家を立てたのも、この時期とみてよさそうだ。
あるいは、伝役がつけられた1日か。
2人の伝役の教育が、宗尹の精神形成にいくぶんかの影響をもたらしたことは疑うべくもなかろう。
あすからは、この2人の伝役に触れてみたい。
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コメント
一橋家の封地のうちの3万余石は、tsuukoの静岡県にもかかわりがあったんです。
田沼候が失脚したあと、その領地であった相良周辺の豊な3万余石が、甲斐の地3万石余と取り替えられたのです。
まあ、一橋家の家老たちがたく動いたこととおもいますが、治済公も一枚かんでいたかも。
投稿: tsuuko | 2010.03.16 06:04
>tsuko さん
コメントくださった件、じつは2年来の追跡リサーチに決めていたテーマの一つでした。
一橋治済の動きと、お書きのことから、ことあるごとに注目していましたが、今回、有用な史料を借り出せたので、わくわくしながら読みふけっています。
ご支援、感謝。
投稿: ちゅうすけ | 2010.03.16 20:07