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2010.03.18

一橋家(4)

辻 達也さん編『新稿 一橋徳川実記』(1983.3.31)から、享保20年(1735)9月を引く。

朔日 小納戸 ・山本越中守茂明(しげあきら 56歳 300石)・先手頭 建部(たけべ)甚右衛門広次(ひろつぐ 63歳 800石)、 共に小五郎(のちの宗尹 むねただ 15歳)伝役(もりやく)に任じられ、加増を受け、各1000石となる。
格式・足高(たしだか)は田安伝役のとおり三千石高。広次叙爵して大和守と称す。また近習を用人と改む。

二十三日 小五郎元服し、将軍吉宗の偏諱(へんき)を賜うて、徳川宗尹と名のり、従三位左近衛中将に叙任せられ、刑部卿を称す。

同書、寛保元年(1741)十一月
十五日 一橋邸を受け取る。
二十ニ日 一橋邸へ移るにつき、将軍より唐銅獅子香炉、つい朱布袋香盆、松桜高蒔絵檜箱等の道具を拝領す。

同十一月
二十五日宗尹、老中・松平乗邑(のりむら)、若年寄・本多忠統(ただむね)の案内にて一橋邸へ移る。 


さて、建部家である。
先祖は近江国で伊庭氏であったという。

ちゅうすけのつぷやき】近江の伊庭? 記憶がある。近江八幡生まれの〔伊庭(いば)〕の紋蔵(もんぞう 32歳)という無法な盗賊を仕立てたことがあった。
2008年10月31日[〔伊庭(いば)〕の紋蔵]
いや、本筋とはかかわりがないから、リンクなさるまでもない。

_80家紋は四ッ目結(ゆい)であったというから、とうぜん、佐々木氏かかわり。
池波小説のファンなら、『剣客商売』のヒロイン・佐々木三冬がこの紋のついた小袖を着ていたことをご記憶であろう。
四ッ目結は、近江の佐々木氏の家紋である。

_80_2もっとも、建部本家は、佐々木氏をはばかり、州浜に変えた。
分流である甚右衛門広次のところは、どうどうと丸に四ッ目結を使っていた。

能筆の家柄であった。
それを買われ、2代前が家光に祐筆として仕えた。

広次のもっとも重い役目は、筆頭家老として、一橋家の家政の赤字を、幕府からの賜金で埋めることであったろう。
ある学究の試算によると、11年後の延享3年に下賜された10万石の封地からのあがりが、五公五民という過酷きわまる重税で、一橋家はやっととんとん、四公六民だと大赤字であったと。

広次のもう一つの役目は、当主・小五郎(のちの宗尹 むねただ 15歳)に、神祖・家康の挿話を語りきかせることであった。

弘治2年(1556)、家康15歳。駿河で元服。今川義元の許しをえて、亡父の法会、家臣との対面のため岡崎城へはいった。
本丸には、今川から城代として付けおれていた山田新右衛門などがいたので、
「ここは祖先よりの旧城であるが、自分はまだ年少であるから二ノ丸を使い、万事、新右衛門どののご意見をうかがって---」
この礼をこころえた挙措に、義元も感服したと。

岡崎へ戻ってのことというから、家康、19歳か20歳の梅雨前であろう。
鷹狩りをもよおしたとき、苗床の水田で泥まみれになってはたらいていた農夫に目をやった家康は、
「彼はまさしく臣下の近藤某---」
供の者に呼ばしめた。
近藤とすれば、君主に見られたくない姿なので、わざと顔にも泥していたのだが、仕方なく、野道においていた小刀を腰にしてご前へ出た。
「恥ずかしがるでない。予の所領がすくないために、苦労をかけておる。しかし、いつまでも苦労をさせはしない。きっと報いる。それまで耐えてくれ」
家康の目には涙があった。
近藤の頬を涙が伝っていた。
供の者もいずれも袖をぬらしていた。


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いつものように『週刊 池波正太郎の世界 14』[真田太平記 三](朝日新聞出版)がとどいた。

「インタビュー」は鬼平もので猫どのを演じる沼田 爆さん。さすがにこころきいた老練な語り口。
お江(ごう)はもちろん、甲賀組の〔草の者〕だが、真田武田信玄に仕えたときの忍びの者は、〔軒猿〕とも呼ばれていたらしい。
それで、当ブログでは、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 享年33歳)は、〔軒猿〕とした。

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