〔尻毛(しりげ)〕の長右衛門(2)
「お手間をとらせるもんじゃあ、ござんせん」
そう言って、香具師(やし)の元締(もとじめ)・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 59歳)のところの若い者頭格・今助(21歳)が銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)を案内したのは、御厩(うまや)の渡しの舟着き前の、小粋な茶店であった。
【参照】2008年8月22日~〔木賊〕の林造と今助 (A) (B) (C)
【ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻1[浅草・御厩河岸]で、密偵・豆岩(いわごろう 35,6)が出しているのが、その後に、火盗改メが買い取り、豆岩にまかせた、これである。
「元締の、コレがやっている店でして---そのおつもりで---」
今助が小指を立ててみせた。
先客があった。
尾行(つ)けていった久栄を、巧みにまいた2人づれである。
今助が2人を紹介する。
年かさ---といっても小柄だから若くみえるが25歳---は〔五井(ごい)の亀吉(かめきち)、格下---といっても年齢は24歳だが---ふうのほうを〔尻毛(しっけ)の長助(ちょうすけ のちの長右衛門)と。
亀吉は、細面の色の黒い小男だが、目であいさつをしただけで、あとはそっぽを向いていた。
長助のほうは、鉄之助の顔をまじまじと見つめ、記憶をたどっていたが、
「ああ、あのときのお武家さん---」
とおもいだした。
「美濃の尻毛(しっけ)村の生まれなのですが、この毛深さなもので、みんなが穿(うが)った気になり、〔しりげ〕と呼んでております」
そうは言い条、さほどに屈託していない。
「ご主人どのは、その後、お変わりなく?」
銕三郎は、長助の頭(かしら)の〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ)が巨盗であることは、〔盗人酒屋〕の主(あるじ)・〔鶴(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)から聞いていたが、さも、大店の主人とおもっているように尋ねた。
【参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
【参照】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
お頭---と言いかけた長助も気がついて、
「お---お蔭をもちまして、主人も達者にしております」
お店者のように答える。
「あの節は、みやこへおのぼりのようでしたが---いまは、どちらに?」
きわどい質問であったが、銕三郎はおもいきって口にしてみた。
「みやこからは、すぐに、蕨(わらび)宿に戻っております」
「ご無事でなによりでした。あのときにいただいたお教えは、肝に銘じていると、お伝えください」
「お2人は、面識がおありだったんで?」
今助が不思議がった。
「去年の春、主人のお供をして東海道をのぼったときに、六郷の渡し舟でごいっしょしてね。手前の主人がこちらへ煙草をすすめになすったが、こちらはおやりにならなくて---」
「あの節は、不調法で失礼しました」
「なんの、なんの。主人があとでお誉めしておりました。このごろの若いお武家に似合わず、お堅いお人と---」
「長谷川さまは、手めえどものの、ヤットーの師範なのですよ」
今助が明かした。
「亀吉兄ぃの言いつけでやしたが、先生のお顔を立てて、密偵のむすめは、放免しましたんで---」
「ほう。あのお女中が密偵と---。どちらの?」
銕三郎は、腹の奥で笑いながら、とぼけて訊いてみる。
亀吉が、不気味な目つきで銕三郎の顔をなめた。
「どちらの密偵か、それを吐かせようとしたとろへ、先生のお出ましで---」
「多分、火盗---」
今助がいいかけたのへ、亀吉がかぶせた。
「わしらが、賭場へ行くものと見たのでしょうよ」
「そりゃあ、うちの親分のお客人なら、手なぐさみもあり、です」
今助が巧みに引きとる。
女将らしい、30歳前の年増が、お茶を給仕にあらわれた。
今助と、いわくありげに目くばせをかわし、銕三郎に茶をすすめた。、
「小波(こなみ)と申します。〔木賊〕のお頭同様に、ごひいきに---」(歌麿 小浪のイメージ)
流し目がいかにも艶っぽい。
(〔木賊〕の林造は躰のほうが、そろそろ、いうことをきかなくなっている年齢(とし)ごろだが、このおんなの躰をなぐさめいるのは、今助? まさか? もし、そうだとすると、今助のしっぽをつかんだことになる。あとあと、使えそうだ)
銕三郎は、そんな気ぶりはちらっとも見せず、
「あのお女中を、なぜ、密偵と見破りましたか?」
銕三郎の問いかけには、亀吉が答えた。
「柳橋をわたったところから、ずっと尾行(つ)けてきたんでさあ」
「柳橋でお気がついたということですね」
(やっぱり、素人には無理なんだ)
「あの、大仰な頭巾でさあ。気がつかないほうがどうかしてる」
「あんな人目につきやすい頭巾すがたで尾行(つ)けたとすると、下(げ)のげの密偵ですな」
「まったく---」
亀吉が、意味ありげににやりとと笑う。
長居すると、うっかり、〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 29歳)の名をこぼしそうにおもい、
「いや。〔五井〕どの、〔尻毛(しっけ)〕どのの、せっかくのご詮議の邪魔をしたようで、まことに慙愧のいたり。どうか、軽率をお許し願いたい」
【参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
これで引きとるつもりであったが、なんと、〔五井〕の亀吉に引きとめられた。
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