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2005.07.07

〔駒場(こまんば)〕の宗六

『鬼平犯科帳』文庫巻2の所載の[蛇(くちなわ)の眼]で、頭の平十郎配下の1人。合鍵づくりの達人。
(参照: 〔蛇〕の平十郎の項)
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年齢・容姿:30歳。容姿の記述はないが、蝋型がとれなかったためにかなりの重さになる蔵破りの諸道具を運ぶから、筋骨はたくましいはず。
生国:池波さんは、〔蛇〕の平十郎の配下として4人を列記している。
 志度呂(しどろ)の金助(35歳)
 片波の伊平次(40歳)
 (参照: 〔片波〕の伊平次の項)
 駒場の宗六(30歳)
 鶉(うずら)の福太郎(25歳)
(参照: 〔鶉〕の福太郎の項)
4人のうち、〔片波〕と〔駒場〕にルビがふられていないのはなぜなのかを、かんがえてみた。たぶん、(かたなみ)(こまば)は、ほかに読みようがない、と編集部が判断したか。
しかし、馬を移動用・戦闘用にたくさん使っていた戦国から江戸時代へかけて、放牧したり飼育したりするための「駒場」は、それこそいたるところにあって、たいてい地名になっていたはずである。
考えていたら、鬼平熱愛倶楽部のメンバーである〔みやこ〕のお豊さんから、武田信玄がみまかった信州・下伊那の駒場(こまんば)ではないかとのご教示をうけた。
信濃(しなの)国伊那郡(いなごうり)駒場(こまんば)村(現・長野県下伊那郡阿智町駒場)。
池波さん愛用の吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房 明治33~)には、「駒場(こまんば) 今会地村とあらたむ」とある。
さらには、近年は(こまば)と呼ぶむように法制できまっていると、町役場で教わった。

探索の発端:〔蛇〕の平十郎の項に記したので、その一部を再録。
鬼平と平十郎が出会ったのは寛政3年(1791)初夏で、本所・源兵衛橋ぎわの蕎麦屋〔さなだや〕において。
そこで冒頭に記したような視線を交わしあい、鬼平のほうは(油断のならぬ怪しい奴)としかおもわなかったが、平十郎は相手を鬼の平蔵と察知した。
日本橋・高砂町で〔印判師・井口与兵衛〕の看板をあげている〔蛇〕の平十郎は、浜町堀をはさんで斜向(はすむか)いの道有屋敷の金蔵を狙っていた。

〔駒場〕の宗六は、蔵破りの諸道具の手当てと手入れにかかりきっていた。

これより前の事件---文庫巻1に所載の[座頭と猿]で逃げ隠れていた座頭・彦の市が女に会いに現われて逮捕され、〔蛇(くちなわ)〕一味の盗人宿が相州・小田原宿の北の部落・上之尾にあることを白状した。

結末:上之尾へ馬で急行、待ち構えていた鬼平以下の火盗改メに、全員逮捕、死罪。
平十郎だけは過去の残虐な所業もふくめて、市中引き回しのうえ火刑。

つぶやき:(こまば)を採るか、(こまんば)にするかで、ずいぶん迷った。
で、(こまば)の宗六、(こまんば)の宗六---と、何回も口に出してみた。そのうちに(こまんば)の宗六のほうが、語感がよくなってきた。舞台のせりふまわしは語感だから。
あとになってだが、口合人の〔鷹田〕に平十に、(たかんだ)とルビをふった例もあることだし、とも牽強付会。

明治座の舞台で、〔蛇(くちなわ)〕の平十郎が、
「〔こまんば〕の、逃げろ!」
と叫んでいる場面も目に浮かんでき、ぜったいに、(こまんば)だと確信できた。

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コメント

「こまんばの逃げろ」って本当に語感がいいですね。舞台の情景が目に浮かびます。

池波さんのお好きな武将といわれる武田信玄の最後については、病死とか戦場の怪我が元とか、色々説があり、終焉の土地も様様ですが 一般的には、信濃の駒場(こまんば)と書かれているのが多いです。
現下伊那郡阿智村大字駒場(こまんば)です。

この地は温泉が付近にあったり、宿場町でもあったので、捨てがたいと思ったのですが。

投稿: みやこのお豊 | 2005.07.07 19:29

>みやこのお豊さん

貴重なご教示、かたじけなく。

伊那街道・「駒場(こまんば)」は、たしかに、武田信玄の終焉の地でした。

『夜の戦士 下』(角川文庫)p359に、元亀3年4月10日の夕暮れに武田軍団が信州・駒場(こまんば)へ到着した---とあります。この長篇は、1962.1.16からほぼ1年にわたって『宮崎日日新聞』ほかに連載されています。『鬼平犯科帳』に先立つこと6年年です。

『忍びの風 一』(文春文庫)p262にも、「信州・駒場(こまんば)」の章が立てられています。この長篇は、1970.12.16から翌々年8.6まで『静岡新聞』ほかに連載されたものです。

投稿: ちゅうすけ | 2005.07.08 03:48

小冊子『あふちの里 駒場の史跡』より、こまんばの項をお送りします。

駒場(こまんば)

江戸時代および明治14年~22年は、「駒場村」といわれた。古く奈良・平安時代には、古代東山道の宿場「阿智駅」がおかれた場所と推定され、それも駅馬30匹という全国でも最大規模の駅であったことが「延喜式」などの古文献にみえ、神坂峠という天下の難所をこえたてきた都人がほっとした安堵の思いで一夜の泊りをした場所と思われるのに、意外にも「駒場」という地名は古代~中世の史料の中に見つからない。
俗に太閤検地といわれる天正19年(1591)の検地帳に「一上四百ニ十八石七斗六升三合ニ勺 駒場村」と記されたのが公的文書の初出である。また私文書では、武田信玄の家臣御宿(みしゅく)監物の書状に、武田信玄の死去を「終に信州駒場に於て、黄泉(こうせん)の下属紘の砌、勝頼公を枕頭へ近づけていわく---」とあるのが天正3~10年頃の文書で、武田信玄終焉の地論考の証拠史料とされ、「駒場」の地名の初出と思われる。
ほかに浪合で落命された尹良(いくよし)親王を襲ったのが「駒場小次郎、飯田太郎と名乗りて、尹良(いくよし)君ら襲い奉る(浪合記)」というような室町時代初期の話もあるが、浪合記は江戸時代後期に書かれたものとして、歴史的価値に疑問がもたれている。
しかし、江戸時代中期の「信州伊那郡郷村鑑」には「関ノ駒場」と記され、俗謡の中には「花の駒場(こまんば)」と歌われていて、古い関跡を暗示したり、華やかな宿場の様子を連想させている。
また「駒場」の読み方は、江戸時代~明治ころきでは専ら「こまんば」で、その後になって「こまば」というようになったかと思われていたが、弘化3年の春、武田信玄の戦跡を尋ねて来た美濃中津藩の島田良助定恒の紀行文に、「二十ニ日(三月)浪合ヲ発シ七曲峠ヲ渡リ、大野ヲ経、小野川ヲ渡リ、駒場ニ至レリ。(信州ノ俗、此地ヲコマンバト唱ヘリ、然ルニ此ノ者コマバト云ヘリ)」とあるのをみると、江戸時代から「こまんば」と「こまば」の二様に呼ばれていたことがわかる。

投稿: 阿智教育委員会 酒井 | 2005.07.21 13:55

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