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2005.07.06

〔牛子(うしこ)〕の久八

『鬼平犯科帳』文庫巻23は長篇[炎の色]で、密偵おまさと〔荒神(こうじん)〕の2代目を継いだ女賊お夏が出会う。これに、〔峰山(みねやま)〕の初蔵一味がからむ。
(参照: 女密偵おまさの項 )
(参照: 〔荒神〕のお夏の項)
(参照: 〔峰山」〕の初蔵の項)
〔牛子(うしこ)〕の久八は、〔峰山〕一味。

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年齢・容姿:中年。おだやかな口調。
生国:武蔵(むさし)国入間郡(いるまこうり)牛子村(埼玉県川越市牛子)
頭の〔峰山(みねやま)〕の初蔵が丹後(たんご)国の生まれなので、上方かとおもったが、どこにでもありそうな地名なのに、近畿・西国にはなかった。
宮城県伊具郡丸森町にあったが、おまさがつれていかれた盗人宿が千住大橋より上流ということで、川越近辺の出身とみた。

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千住大橋 宮城村は川上(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

探索の発端:〔峰山〕の初蔵から、、〔荒神〕一味と組んでやるお盗めを手伝うように声をかけられた密偵おまさを、送り迎えの舟で目隠しをしたのが〔牛子〕の久八であった。

結末:荷舟で箱崎町2丁目の醤油酢問屋〔野田屋〕のかたわらへ乗りつけてきた〔峰山〕一味は〔牛子〕の久八も、〔荒神〕一味とともに、待ち構えていた火盗改メと船手方・向井将監の手の者たちに逮捕されたが、〔峰山〕の初蔵は鬼平に斬って捨てられた。

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新大橋と三ッ又 富士の方角の川筋に箱崎町2丁目
(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

つぶやき:〔峰山(みねやま)〕の初蔵は、〔荒神(こうじん)〕一味の幹部級〔天徳寺〕の茂平を調略して、寝返らせていた。もし、逮捕がなければ、〔荒神」のお夏は、もっと痛いおもいをしていたのではなかろうか。池波さんによる、盗人仲間の調略の結末を見たかった。

埼玉県川越市 市役所観光課 渡辺 さんからのリポート

「牛子村」は、明治22年(1889)4月1日、同村を含む8ヶ村が合併して、南古谷村となりました。
昭和30年4月1日、南古谷村を含む9ヶ村が川越市に合併、現在の市域となりました。牛子は当市の南東に位置しています。
なお、上記は川越市立博物館で確認したものです。

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コメント

ご照会のありました件、次のとおりです。

1.「牛子村」が川越市に合併されたのは、明治22年4月1日、同村を含めて8ヶ村が合併し、南古谷村となる。
昭和30年4月1日、南古谷村を含む9ヶ村が、川越市に合併、現在の市域となる。

2.合併されたときの、「牛子村」の人口と、主たる産業については、牛子村当時の文献が未整理であり、現在は不明です。

3.牛子の位置について。川越市の南東に位置します。

上記につきましては、観光課では把握しておりませんので、川越市立博物館で確認したものです。

投稿: 川越市経済部観光課長 | 2005.07.06 13:01

懇切な情報を、ありがとうございました。

角川の『地名大辞典』によると、元禄期の村高88石、「天保郷帳」は131石。
化政期の家数28軒。
とあります。農業が主たる産業だったようですね。

投稿: ちゅうすけ | 2005.07.06 15:50

思い出したんです。
昨年の10月23日「熱愛」倶楽部は「流星」の舞台新河岸川コースをウオーキングいたしましたが、その時配られた地図に「牛子」が載っていたのを。

「福岡河岸記念館」から「養老橋」を渡り、「連光寺」へ向かって、新河岸川の土手を歩きましたが、その少し上流の位置に「牛子」がみえます。

新河岸川には江戸の花川戸と川越の仙波を結ぶ物資輸送の中継地として37の河岸場が設置されていますが、「牛子河岸」もそのひとつです。

投稿: みやこのお豊 | 2005.07.07 15:14

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