カテゴリー「012松平定信」の記事

2012.01.06

「朝会」の謎(6)

天明5年(1785)---

田沼政権からの権力奪取の密議をすすめる定信(さだのぶ 28歳)は、6月1日に帰府すると、さっそくにも吉田藩(豊橋)主・松平伊豆守信明(のぶあきら 26歳)に会ったろう。

定信は『宇下人言(うげのひとこと)』に、信明をこう月旦(評)している。
もっとも同書は老中首座を解任されたあとで記したものだから、天明5年から10年ほどものちのことでもあり、信明が老中首座として定信の遺志(?)をうけついで幕政をきりもりしていたことも考慮にいれて読むことも留意しなければならない。

松平伊豆守は明敏で人あたりがよろしい。
才は徳にまさるといえようか。
予はいつも、高望みして理想にはしってはいけないよと忠告していたが、効きめはあったのであろうか。
予にはいつも虚心坦懐に訊いてくれていたが。
予が至らないところを補い、うしろざさえとなってくれてもいた。

豊橋市史 第二巻』(1975)が意外な史実を載せている。

すなわち、これまで、信明の年齢は『寛政重修諸家譜』にある、

---宝暦十年(1760)生る。

そのまま信じて試算し、天明5年には数えで26歳としてきた。
(わざわざ、「歳」の字をあてて数え年齢をにおわせているつもり。満年齢の場合は「才」ですます)

市史』は「大河内家譜」と墓碑の文化14年(1817)歿、享年55歳を引き、ほんとうの生年は宝暦13年(1763)で、公儀への諸届けには3歳ゲタをはかせていたと。

ゲタをはかせた理由(わけ)は、父・信礼(のぶうや)の正室を迎えるまえの閨房ごとにあった。
いささか長めiの引用になるが、『市史』から。

松平信礼は、はじめ板倉内膳正勝承(かつつぐ 陸奥福島 3万石)の家臣・村雨八郎左衛門忠武の女清見(のちに清岩院とよばれる)を側室とした。
彼女は、3女(注1)もうけた後、宝暦13年(1763)2月10日、江戸谷中の下屋敷で男子を出産した。
この男子が後の信明であり、幼名を春之丞といった。
信礼に宝暦12年6月、黒田大和守直純(上野・館林 3万石)の女で本多伯耆守正珍(まさよし 駿河・田中 4万石)の養女となっていた芳を正室に迎え、3女(注2)をもうけたが、男子に恵まれず、房次郎(注3 後に松平信武 または信邦)が生まれたのは信礼没後の明和7年(1770)12月のことであった。
大河内松平家としては正室よりの嫡男の出生を待っていたらしいが、明和4年の出産が女子であり、また当主の信礼の健康状態から考えて、また信礼が家督を継いだ時でもあり、同5年に庶腹の春之丞を嫡子とすることに踏みきったのである。
信礼が同7年に没して信明が跡を継いだ後に、正室に男子が生まれたのは実に皮肉なことであった。
 注1 静=秋田信濃守千季妻、五百=夭折、禎=加納備中守久周妻
 注2 鶴年=松浦壱岐守清妻、秀=黒田大和守直英妻、喜鶴=永井日向守直進妻
 注3 房次郎は寛政11年(1799)30才で杉浦丹後守正勝(丹波・相模で8千石)へ養子

参照】正室の養父・本多伯耆守正珍2007年6月19日~[田中城しのぶ草] () (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)
田中城は、長谷川平蔵の祖・紀伊守正長が今川方の武将として守った城。

信明房次郎の実年齢差は6歳でしかない。
人の運命とは、些細な差が大きい面もたぶんにあろう。
もっとも、房次郎の性格・識見・人品について『市史』は言及していないし、正室派がおこしそうになったお家騒動についても触れていない。

つづいて『市史』から引く。

信明が継嗣となったことは、上のような幸運があったのであるが、それまで信明の出生は幕府にも届けられていなかった。
庶子の出生が届け出られぬことはままあり、ある程度の年令に達してから、虚弱であったが丈夫になったので
届け出るという「丈夫届」が出されることが多い。
大河内家でも明和5年に立嫡に先立ち、丈夫届を出したのである。

 十二月三日、妾腹の男子春之丞、今年九歳となり、生まれつき虚弱の故をもって届けなかったが、唯今はやや壮健になったと、(老中)・松平周防守康福(やすとみ)へ届けでた。(『大河内家譜』)  
   
信明の幼時の虚弱については、後の公儀への届け出にもしばしば現れるが、実際に虚弱であったかどうかは、右の丈夫届の性格からみてもそのまま信じてよいかどうかははなはだ疑問である。

しばしば行われたという「丈夫届」なるものを、ちゅうすけは初めて目にしたが、いまの戸籍届は、もっと頑固で融通がきくまい。
市が編纂した『市史』ゆえ、ちゅうすけのような不埒な感慨を記すはずはないが。

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2012.01.05

「朝会」の謎(5)

宇下人言(うげのひとこと)』に、天明5年(1785)6月の定信(さだのぶ 28歳)の参勤・参府を待っていたと書かれていた11名の心友(しんゆう)の譜代大・小名のうち、役についていたのは奏者番の松平(大河内)伊豆守信明(のぶあきら 26歳 吉田藩主 7万石)ただ一人であったことを、どう解釈すればいいか。

不満組の集まりとみなすか、田沼政権から軽んじられていた名門たちとみるか。

高澤憲治さんが『国史学 第176号』(2002.03)に寄せた[松平定信の幕政進出工作]に掲出されている定信が親交をむすんだ大名たちの名簿には27名があげられている。
うち5名は、定信が政権に就いた天明7年(1787)以前に逝去したか致仕しており、その後も幕府の要職についたのは、先記の本多弾正少弼忠籌(ただかず 47歳 泉藩主 2万石)、戸田采女正氏教(うじのり 32歳  大垣藩主 10万石)のほかは、加納備中守久周(ひさのり 33歳 八田藩主 1石3000石)ぐらいである。

あとの譜代大・小名の藩主は5代さかのぼった100藩主中、せいぜい奏者番か寺社奉行が数人、所司代が2家に3名いるにすぎない。

数少ない英邁な心友の藩主のなかで、とりわけ実力の持ち主とおもわれるのが、知恵伊豆・信綱を祖にいただく伊豆守信明である。

前年の天明4年12月24日に譜代大・小名の出世のとば口である奏者番に任命されていた。
この役は20名前後いて、4名が寺社奉行を加役(兼帯)する。

寺社奉行は定府が義務づけられているが、奏者番は参勤交代がある。
吉田藩の参勤は、子、寅、辰、午、申、戌にあたる年の6月と定められていた。

天明5年(1785)は巳年だから、きまりでは信明は6月1日には江戸を離れていなければならなかった。
が、役に不慣れだから在府して習熟したいと願いでて、許可されていた。
目的は、定信との謀議を凝らすためであった---と前掲の高澤さんは推測する。
豊橋市史 第二巻』の「松平大河内信明とその時代」もその説をとる。

天明5年6月の時点の奏者番を先任順に書きだしてみる。
氏名(藩 石高 年齢=天明5/同=拝命時 加役 ○=定信親派)

 堀田相模守正順(まさあり 佐倉 11万石 41歳/31歳 寺社)
 阿部備中守正綸(まさとも 福山 10万石 40歳/29歳 寺社)
 井上河内守正定(まささだ 浜松 6万石 32歳/21歳 寺社)
 秋元摂津守永朝(つねとも 山形 6万石 39歳/37歳)
 松平玄幡頭忠福(ただよし 小幡 2万石 44歳/33歳)
 松平伯耆守資永(?)
 土井大炊頭利和(としかず 古河 7万石 37歳/31歳)
 水野左近将監忠(卯を割り県)(ただかね 唐津 6万石 42歳/36歳)
 青山大膳亮幸完(よしさだ 八幡 4.8石 34歳/28歳)
 松平和泉守乗定(のりさだ 西尾 6万石 34歳/30歳 寺社)
 稲葉丹後守正諶(まさのぶ 淀 7.4万石 41歳/37歳)
○牧野備前守忠精(ただきよ 長岡 7.4万石 26歳/22歳)
 松平右京亮輝和(てるやす 高崎 8.2万石 36歳/34歳)
 板倉肥前守勝暁(かつとし 安中 3万石 59歳/57歳)
 松平能登守乗保(のりやす 岩村 3万石 41歳/39歳)
○板倉左近将監勝政(かつまさ 備中松山 5万石 29歳/28歳 寺社)
 西尾隠岐守忠移(ただゆき 横須賀 3.5万石 40歳/39歳)
○植村右衛門佐家長(いえなが 高取 2.5万石 29歳/28歳)
○松平(大河内)伊豆守信明(のぶあきら 26歳/25歳)

天明5年の上記18人の平均年齢は、37歳。
拝命時のそれは、32..3歳。

まあ、こういう数字遊びからは、具体的な人物像は浮かびあがってこない。
とりわけ、池波鬼平のように、佐嶋忠介木村忠吾沢田小平次おまさ彦十、おといった鬼平側のキャラや盗賊のひとりひとりの風貌・人柄が鮮明に描かれている『犯科帳』を読みなれているファンにとっては、大名の名前の羅列は無味乾燥ともおもえる。

明日はもうすこし、松平伊豆守信明の人物像にせまってみよう。


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2012.01.04

「朝会」の謎(4)

 臨時の朝会あり。松平越中守定信をはじめ参観十五人。(日記)

徳川実紀』の天明5年(1785)6月18日の項(第10巻 p776)に上に引いた一行が唐突にあり、諸書がこのことに触れているのを目にしていないので、素人のくせにこだわっている。

というのは、定信(さだのぶ)はそれから半年後に、宿願の溜間(たまりのま)詰という破格の栄誉を手にいれているから、それとかかわりがあるか否かを、これから半年か1年ほどかけて折りにふれ、検索してみようというわけである。

天明5年6月1日に、定信が領地の白河から江戸へ帰りつくと、待ちかまえていたように盟友たちが歓談を求めてきたと『宇下人言(うげのひとこと)』に自述していることは元日の項に引いておいた。

面談を乞うたと書かれている大名小名が天明5年6月に参府していたかどうかから検討をはじめている。

宇下人言』に名があがっている若手譜代大名のひとりが戸田采女正氏教(うじのり 32歳 大垣藩主 10万石)である。

この大名についての月旦じみた『宇下人言』の文章は、

戸田の人となりはいたって弁才もあり、よく物にかんにんするの性あり。
妻はなはだ好忌なり。これをよく遇して、ことしはその好忌の性もやみて、関雎(かんすい)の徳をなせりと。
ちゅうすけ注 関雎とは、夫婦仲がいたってむつまじいことをいう)
これ又政をよくしてつねづね予にさまざまのことをたずね問いたり。
予、国にいれば、たよりごとに文してしかじかはいかんせん、この事はいかがにせんとて、つねづねいいこし給えり。

氏教は宝暦4年(1754)、ときの館林藩主で老中筆頭であった松平右近将監武元(たけちか 44歳=宝暦4)の五男として生まれた。
母は藩士(?)・種村氏のむすめ。

ちゅうすけ注 五男ではあるが3人の兄は育ってないから現実には次男あつかい)

15歳の明和4年(1768)に、大垣藩主・氏英(うじひで 享年40歳)の末期養子に迎えられた。

好忌がはげしかったと、なんとも生ぐさいいいまわしで書かれている内室は氏英の四女で、ひょっとしたら氏教よりも1,2歳上だったのかもしれない。
(このあたりは、地元の史家の方のご教示を得たい)

家付(といっても脇腹)のむすめとして育った奥方は、長女を身ごもったころに氏教が家臣(?)・鈴木某のむすめを偏愛したので妬心をもやしたともかんがえうる。
第2、3、4、5子は鈴木某のおんなが産んでいる。

あるいは定信のことを嫌っていたか。

宇下人言』を読むと、心友と書いているのはほとんど、定信に教えを乞うた仁ではある。
定信は生来の教え好きなのか、あるいは自許心が強かったのであろう。

一方の氏教、譜代名門大名の出世のとっかかりである奏者番は寛政元年(1789)で36歳と遅くはなく、寺社奉行兼帯が同年の11月、側用人がその半年後、さらに老中がほとんど半年後であるから、定信の引きが強かったと想像できる。
悪妻の側としても定信をうとんじてばかりはいられなかったろう(笑)。

氏教は老中を53歳の没年まで、足かけ26年間も勤めた。
定信の老中首座は足かけ7年とあっけなかった。
このあたりに、政治家としてのあくの強弱を感じるのは、ちゅうすけのみであろうか。

さて、天明5年6月に氏教が在府していたかどうかだが、江戸から西方の外様大名は子、寅、辰……と隔年の春の参府である。
しかし譜代大名は半分ずつ隔年に6月か8月に参勤するのがきまりだが、大垣藩はどうであったか。
よしの冊子』(『随筆百花苑 巻8 p163)は、天明8年4月以降---同月10日か8月29日までの中ごろに、戸田侯の参府を記している。
同年は申(さる)であった。
定信の組閣は前年の6月、そして氏教の奏者番は翌寛政元年(1789)の6月18日、寺社奉行の兼任は同年11月24日。


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(戸田氏教の個人譜)

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2012.01.03

「朝会」の謎(3)

泉藩(福島県いわき市泉)の藩主・本多弾正少弼(しょうひつ)忠籌(ただかず)については、人足寄場がらみで当ブログで紹介したことが2,3回あった。

参照】2007年2月23日[人足寄場の専用舟
2007年9月2日[隠密、はびこる

藩財政の建てなおしのために、自ら、朝晩は米飯のみ、昼は一菜で範をしめしたことはすでに紹介した。

元文4年(1739)12月8日の生まれで、嫡母は松浦肥前守篤信(あつのぶ 享年22歳)の三女で、のち離婚。
(よそごとながら、22歳で逝った篤信は11男8女をもうけていたように『寛政譜』が記している)

忠籌(幼名・雄之進 ゆうのしん)が16歳で家督(1万5000石)したものの、父・忠如(ただゆき)が遠江・相良から泉へ転封したときの費用などによる借財が大きくたまっていた。

前記の節約ぶりで、27年後の天明元年(1781 43歳)には、借金を完済していたばかりか、1万両(16億円)の蓄財もできていた。

定信(さだのぶ)が接触をもとめてきたのは、このころであろうか。

参照】2012年1月2日[「朝会」の謎] (

というのは文化元年(1804)の『武鑑』に、泉藩の参勤交代での参府は子、寅、辰、午、申、戌の6月とあった。
これを天明年間にあてはめると、2、4、6、8年となる。

いっぽう、定信の白川藩のそれは、卯、巳、未、酉、亥の5月だから、
同じく天明年間においてみると、1、3、5、7年となる。

つまり、定信が家督した天明3年(1783)10月16日以降だと在府のときには、忠籌はほとんど泉にい、2人はかけちがってばかりであったということになる。
2人が顔をあわせえたのは1ヶ月あるかなし。

これまで目にした定信かかわりの諸書がまったく触れていない『徳川実紀』による「朝会」の謎]に気づいたのは、一昨日であった。

参照】2012年1月1日[「朝会」の謎] (

これでもっとも可能性が高いのは、定信の家督以前……定信が田安の屋敷か白川藩の上屋敷にいたときと推察しているのだが、どんなものであろうか。

ついでに指摘しておくと、『宇下人言』に名をつらねていた10人前後の若手譜代大名の参勤についてはまだ調べていない。

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これからいって、心友(しんゆう)の何人かには、かけちがいの藩主がいたにちがいない。

それはともかく、定信は2年後に宿老(老中)、少老(若年寄)を組閣したとき、「勝手(財政)は本弾どの、政治はわれ---」との方針をうちたてた。

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(本多弾正少弼忠籌の個人譜)


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2012.01.02

「朝会」の謎(2)

問題の天明5年(1785)6月(陰暦 以後同じ)---1日に、定信(さだのぶ 28歳)は藩庁のある城下町・白河から江戸へ帰ったといささか美化ぎみの自伝『宇下人言(うげのひとこと)』にある。

国入りのために江戸を発ったのは前年の6月27日であった。
飢饉にくるしんでいた領民のことをおもんぱかり、行列はきわめて簡素にしていたという。

帰府を待ちかまえていたように、「飢饉に餓死者をださなかった政道のこと」「どうすればそれができたのか」「よい藩政とは」などと訊いてきた信友(しんゆう)の諸侯の名をあげている(年齢は天明5年現在)。

松平(形原)牧野備前守忠精(のぶみち 24歳 亀岡藩主  5万石)
本多弾正少弼忠籌(ただかず 47歳 泉藩主 2万石)
本多肥後守忠可(ただよし 44歳 山崎藩主 1万石)
戸田采女正氏教(うじのり 32歳 大垣藩主 10万石)
松平(大河内)伊豆守信明(のぶあきら 26歳 吉田藩主 7万石)
堀田豊前守正穀(まさざね 24歳 宮川藩主 1万3000石)
加納備中守久周(ひさのり 33歳 八田藩主 1石3000石)
牧野備前守忠精(ただきよ 26歳 長岡藩主 7万4000石)
牧野佐渡守宣成(ふさしげ 22歳 舞鶴藩主 3万5000石)
松平(結城)越後守康致(やすちか 34歳 津山藩主 5万石)
奥平大膳大昌男(まさお 23歳 中津藩主 10万石) 

このうち、2年後に定信が老中首座となってから老中となったのは、松平信明、本多忠籌(格)、戸田氏教である。

譜代大名で有能とみなされた仁が登用される寺社奉行には、戸田氏教、牧野忠精が任じている。

年長の泉侯・弾正少弼忠籌を勇偉高邁な仁とみなし、定信のほうから交際を求めた。
その品格の一つとして、家治(いえはる)の嗣子・家基(いえもと)が18歳で急死したとき、忠籌が50日のあいだ酒肴を断ち、朝から夜まで麻上下で端座して喪にふくしたことをあげている。

つねづねの倹約ぶりも定信の意にかなっていたようである。
飢饉のときには、朝夕は米飯のみ食し、昼だけ一菜をつけたと感じいって記している。
このことは、『よしの冊子』であげられた逸事に拠っているようにもおもえる。

すなわち、帝鑑間で弁当をひらくと、菜がひしこの醤油煮だったので、隣りあわせた大名が「なんというものか?」と訊き、「ずんと下魚で値もいたって安い」
「食べたことがないので味見させていただきたい。ほう、存外の味ですな。して、値は?」
「一升が32文(1300円)ばかり---」
この一件に、定信はいたく感服したという(『随筆百花苑・巻8』 p122)

要するに、定信ごのみの人で、しかも定信に欠けていた実経済のこころえがあった仁といえようか。

ほかにも田安家の存続を理由に、三家と一橋治済(はるさだ 35歳)との接触を深めるためにも、譜代大名の支持をはかっていたともおもえる。

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2012.01.01

「朝会」の謎

明けましておめでとうございます。
本年も、よろしくご指導ください。


陶芸家の會田雄亮さんからいただいた今年の「」です。

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ちゅうすけが隅田公園で迎えた日の出。黄金の竜となってあなたに福をおとどけするために隅田川をわたっています。
浅草寺の山号---金竜山の、これが由縁かも。


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ご挨拶もそこそこ、元旦そうそうから、赤面の不見識をさらします。


徳川幕府の正史ともいわれている『徳川実紀』で、不思議な一行を発見した。

天明5年(1785)6月18日の項(正編の第10巻p776)---

 臨時の朝会あり。松平越中守定信をはじめ参観十五人。(日記)

日本歴史の専門家でもないちゅうすけには、まず、「朝会」がなんだかわからない。
「参観」もなんのことやら。
「十五人」の氏名も記されていない。

実紀』に松平定信が初めて登場したのはいつかと、とりあえず、手元の『徳川実紀索引 人名編 下巻』、

 松平
  定信(賢丸・越中守)

の項をひらいてみると、初出は、
 溜間(格)(正編)10 p786
前記の半年後---天明5年12月朔日、
 
 松平越中守定信、これより後、出仕の時は溜間(たまりのま)に候し、
 月次は白木書院、五節には黒木書院にいでて拝賀すべしと命ぜらる。
 これ宝蓮院尼(田安宗武夫人)申請はるるによれり。
 さればその家の例とはなすまじと仰下されぬ。

人名編』索引作成の総責任者・杉本 勲さんの「序」によると、「幕政史研究に重点を置いて選択・編修を行った」とことわってあるから、 天明5年6月18日の項の採択が洩れていることをうんぬんしてはいけない。

実記』の安永3年3月11日には、

 松平越中守定邦をめして、大蔵卿治察(一橋)の弟賢丸をやしない、むすめにめあわせよと命ぜられる。

とあるが、このときに賢丸であって越中守ではなかったということにしておこう。

参照】2010年3月29日[松平賢(よし)丸定信

さて、容易に手さぐりできそうな文言からと、まず、焦点をあてたのが、

(日記)

実記』の正編第1巻の巻頭に、引用史料の略称の解説があるだろうと見こんだ。
あったことは、あった。

使われた史料--393ヶ、うち「日記」とついたものが41ヶ。
慶長日記』や『明暦日記』、『吉良家日記』や『水戸日記』をはずしていくと、残ったのは『御日記』だが、悲しいかな、これをらたしかめる手立てがおもいつかない。

あとは、溜間詰(たまりのまづめ)をかちとるまでのー定信の動きをあらっていくしかなさそうだ。
ことしの目標の一つがこれになりそう。

正月早々からの失敗告白---

素人というか、ものしらずは情けない。
3.11で崩壊したままの書庫にはいったら、小宮木代良さん『江戸幕府の日記と儀礼史料』(吉川弘文館 2006)が散乱した書籍群の隙間から呼びかけるように顔をだしていた。
購入したまま、しまっていたらしい。

巻頭に『実紀』に(日記)とあったら「幕府祐筆所日記」のことだと教示されているではないか。
もっとも、そうだとわかっても、そのそれがおいそれと検分できる立場にはない。
小宮木さんは、東京大学史料編纂所助教授 2006現在)である。
ことしは、小宮先生の著作を渉猟することからはじまる---といっておこう。

参照】2010年3月22日~[平蔵宣以の初出仕] (
2006年7月2日[松平定信『宇下人言

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2010.03.29

松平賢(よし)丸定信

雑談の態(てい)で、田沼主殿頭意次(おきつぐ 56歳 相良藩主)が、ふと、洩らした。
「われと、本多紀品(のりただ 61歳)どのには遠すぎる昔のことゆえ、はずすとして、お若い本郷伊勢どのと銕三郎(てつさぶろう 29歳)どのに思いだしてほしいのは、17歳の男子のなにの強さを話してくださらんか。いや、自分のことでなく、友人の話でもいいのじゃが---」
女性の召使いたちは、その前に退室を命じられていた。

田沼とともに、本多采女紀品(のりただ 61歳 2000石)、西丸目付・佐野与八郎政親(まさちか 43歳 1100石)がさりげなく微笑しながら、本郷伊勢守泰行(やすゆき 30歳 2000石)に視線を注いだ。

西丸・小姓組頭取の伊勢守泰行は盃を膳へもどし、端正な面持ちを引きしめ、
「知人のことでもいいとのお言葉でしたから---姓名の儀はお許しいただくとしまして---」

話したのは、一橋小川町の生家の隣家の次男の少年のことであった。
16歳のころから、召使いをつぎつぎと手ごめにし、ついに親から見放され、家を出、湯島天神下の娼家のおんなと素裸の躰をしばりあって相対死して果てた。
「そのように、17歳の性欲を解きはなって死んだその少年が、うらやましくて仕方がありませんでした。嫡男に生まれていなかったら、手前もやっていたかもしれません」

平蔵は、14歳のときに得た初体験を話した。

駿州・田中藩の前藩主・本多伯耆守正珍(まさよし)侯のお考えを実現させるために東海道をのぼり、三島の宿で、町を見て廻ろうとしたとき、本陣{樋口}の主・伝左衛門の手配で25歳の後家と出会い、男になったと。 

参照】2007年7月14日[仮(かりそめ)の母・お芙佐ふさ)] () (

「10歳ごろから、好みのおんなをみると、澱(おり)みたいなものが躰のどこかに溜まっていくような感じをおぼえておりました。それが、後家になったばかりのその人に、やさしく導かれ、おんなの秘処とは、こんなにも繊細で、微妙で、滑らかで、快いものかと、おどろきました」

「想い描いていたとおりであったか?」
源内が訊いた。
「いえ。想像していたものより幾層倍も甘美でした。そして、あそこへの放出の発作が静まると、4年間積もってでいた澱が、きれいさっぱり消えておりました」

「ほう。14歳のときにな。なんともしあわせなご仁じゃ」
意次が感嘆した声で応じた。
(てつ)どののお父上ができすぎておられたのです。なみの父(てて)ごでは、そうはまいりませぬ」
佐野政親が保証した。

「しあわせかどうか。おんなの秘処があれほどに甘美と知ってしまうと、あとの辛抱がむつかしくなります。自力のは味けのうて---」
みんながうなずきながら 軽い笑い声をたてた。

「で、つぎに本物の甘美を手にしたのは?」
「18歳になってすぐのときですから、17歳としてもよろしいかと---」
「ふむ---」
意次がうながした。

参照】2008年1月1日~[与詩(よし)を迎に] (12) (13) (14) (15) (26) (27) (28) (29) (30)  (41

「あの齢ごろでは、小半時(30分)も熄(やす)めば、もう、満ちておりました」
「相手次第だが---」
本多紀品が、茶々をいれる。

本多さまも、さようでしたか?」
平蔵が逆にからかった。
「年寄りをいじめるでない」
紀品が笑いながらたしなめた。

「いや。ご馳走ばなしであった。ところが、17歳の男子で、妻をあてがわれて、抱かないご仁がいてな」
意次は言葉をにごしたが、平蔵には、白河藩主・松平越中守定邦(さだくに 47歳 11万石)の心痛だと察しがついた。
養子に乞われ、その姫を正室にあてがわれた田安家賢丸(よしまる 17歳)が、この1ヶ月、田安邸を出ていかない。
つまり、定邦の姫と同衾していないようなのである。

参照】2010年3月21日[平蔵宣以の初出仕] (

意次源内に、
「媚薬になる草はないものか」
と問い、
「鯨の睾丸でも煎じて呑ませるのですな」
みんなが笑った。

それからしばらく、金力をつけている商人たちの話題に移り、座が終わった。

それぞれが退出するとき、意次が、
平蔵どの。さしつかえなければ、寸時、とどまってほしい」

本多紀品、本郷伊勢守、佐野政親、平賀源内へあいさつし、言われたとおりに待っていると、みんなが門を出る間あいをはかり、意次が、しみじみとした口調で、
「平蔵どの。里貴(りき 30歳)を可愛がってやってくだされ。あれは、ふしあわせなおなごゆえ」


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(久松松平 始祖 定邦・定信(養子の項))


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2006.11.17

田沼派閣僚への退陣要求

月刊『日本歴史』(吉川弘文館)2006年5月号の「歴史手帖」欄に、辻 達也さんが[松平定信の書簡の中から]と題して、田沼失脚後も老中に居座っていた、田沼派の松平周防守康福(岡崎 5万4000石)と水野出羽守忠友(沼津 3万石)を追い出すについて、水戸と尾張に話をもちかけ、一橋治済を引きこんで成功する一連の手紙のことを書いている。

定信としては、松平康福と水野忠友を追い出して、自分の盟友を閣僚に入れなければ、自分色が出せないから当然の運動だが、老中につづいて、側用人、勘定奉行や町奉行などにも手をつけねばならないから、定信としては、必死のおもいだつたろう。

Photo_248
松平武元歿後の田沼政権の閣僚たち

松平右近将監武元(たけちか)のことを書いたが、彼の五男は、美濃10万石の戸田家へ養子に入り、定信内閣の老中に抜擢されている。

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2006.07.28

トップの情報源

営業所長に命令するのは営業本部長か担当常務だ。
よほど小さな企業は別として、一営業所長が社長からじかに評価されることはない。

徳川幕府では、老中大目付国政と諸藩に関与し、若年寄と目付は幕臣を監督・監察した。

長谷川平蔵番方(武官)系の先手組頭兼火盗改メだから、組織図的には老中とは直接にはつながらない。

しかし老中首座松平越中守定信長谷川平蔵の関係は異例だった。
定信平蔵評価をくだしたのだ。

両人は人足寄場の創設・運営でつながった。
老中が焦眉の急の案件―江戸市中にはびこっている無籍人対策をもとめたとき、無宿人などにかかわっては家名に傷がつくとばかりに、幕臣たちは聞かぬふりをきめこんだ。

ちょっと解説を加える。幕臣の監察は目付の仕事、江戸町人は町奉行の管轄、僧侶や神職は寺社奉行、農民は勘定奉行がさばく……のがきまり。のこるは無宿人――これは火盗改メの範疇。
だから平蔵が応じざるをえなかった。

平蔵は人足寄場の建議書を老中へ呈出し、定信が受諾。創設を命じた。

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隅田川河口の石川島の人足寄場跡の標識板

P6190027
再開発して高層マンションが建ちならぶ人足寄場跡

このあたりの経緯を、〔定信〕の二字をバラして表題とした半自伝『宇下人言』 (岩波文庫)にこう書いている。

  無宿人対策をもとめたところ、盗賊改メの長谷川なにがし
 がやりますと申しでた。石川島の葦地を埋め立て、そこに無
 宿人を収容、手に職をつけさせて社会へ戻すという。
  できてみると、たしかに無宿人や盗賊が減った。
  長谷川の功績だが、彼は功利をむさぼるがゆえに山師との
 評もあった。それを承知でまかせたのは、そういわれるほど
 の者でなければ創設はおぼつかないと思案したから。

ねらいとしていた無宿人や盗賊が減ったのだから、平蔵は大功績だ。
それを「長谷川なにがし」などととぼけた表現でいうのは失礼千万。『宇下人言』の中で名前をぼかした記述はここだけだ。
「山師」も定信側の隠密の報告書の評を鵜呑みにしたもの。

これまでの歴史家には定信びいきが多いが、ぼくは下情(かじょう)がわかっていない理想家肌のお坊っちゃん政治家と断じている。鬼平ファンゆえの極言だとしても。

隠密たちは当初、田沼時代に職についた人たちのアラをさがすべく、定信側――すなわち家柄派から取材した。

平蔵は、むしろ実力派。官吏としては並みはずれすぎるほどにアイデアが豊かだが、杓子定規派の口にかかるとその言動は「山師」「謀計者」「姦物」となってしまう。

もっとも、2年、3年とたつにつれて平蔵を見る目がたしかになった隠密もでてき、プラス評価へと変った。

が、そのころには定信のほうが隠密のずさんな聞き込みに興味を失い、レポートを読まなくなっていた。

平蔵と定信のケースは、第一印象のこわさの反面、トップがたしかな情報源を持つ重要さを示唆する。

つぶやき:
講じている各文化センターの[鬼平]クラスで、田沼意次の政策の革新性と、定信内閣の凡庸さを説くと、学校ではそうは習わなかったと、困惑される。
S_5革新派の次には保守派が権力をにぎるのは、古今東西の通例ともいえようか。
定信政治を、冷静に評価したのが、藤田 覚教授『松平定信』(中公新書 1993.7.25)である。
鬼平ファンを自認している方に、一読をおすすめする。

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2006.07.02

松平定信『宇下人言』

岩波文庫にも誤植があることを知り、「ふーん。なるほど」とおもった。。

S_4
松平定信『宇下人言・修行録』(2004.2.24 第9刷)
書き手は、いわずと知れた、田沼意次を政権の座から引きずりおとして、門閥家柄派の保守内閣を組閣した老中・首座定信(白河藩主)である。

タイトルの「宇下人言(うげのひとこと)」は、をウカンムリと下、をニンベンと言にわけたほどの自意識過多気味の自伝といってもいい。

[人足寄場]について述べたp118に、享保のころより(農村を捨てて江戸へ流れ込んできた)無宿人がふえていたので、その対策を---、

 志ある人に尋ねしに、盗賊改をつとめし長谷川何がしこころみ
 んといふ。

その「長谷川何がし」に(宣雄・火付盗賊改)と注が附されているが、これは鬼平の父親のイミナで、鬼平のほうは宣以(のぶため)。

宣雄は冷や飯・厄介者組だったのに、長谷川家の当主で従兄・宣尹(のぶただ)が若くして病没したので、急遽、子(銕三郎、のちの平蔵宣以)連れで入り婿・養子となった。

それにしても、長谷川平蔵のことを「長谷川何がし」として、きちんと名を附さないのは失礼きわまる。
この自伝で「何がし」呼ばわりしているのは、ここだけなのである。
定信の田沼意次系ぎらいの心情のあらわれか。

問題の箇所の前後を引用しておく。

 享保之比(ころ)よりしてこの無宿てふもの、さまざまの悪業
 をなすが故に、その無宿を一囲に入れ置侍(はべ)らばしかる
 べしなんど建議もありけれど果さず。
 その後養育所てふもの。安永の比にかありけん、出で来にけれ
 どこれも果さず。

 ここによって志ある人に尋ねしに、盗賊改をつとめし長谷川何
 がしここめみんといふ。

 つくだ島にとなりてしまあり。これを補理して無宿を置、或は
 縄ない、又は米などつきてその産をなし、尤(もっとも)公用
 とし、米金一ヶ年にいかほどと定めて給せらる。

 これによて今はけ無宿てふ者至て稀也。巳前は町々の橋
 ある処へは、その橋の左右につらなりて居しが、今はなし。

ということは、人足寄場長谷川平蔵の手腕によって大きな成果をあげたわけである。その功績アル仁を、「長谷川何がし」と記す定信の神経はなんなんだろう。

上の文章のあと
 
 いずれ長谷川の功になりけるが、この人功利をむさぼるが故
 に、山師などいうなることもあるよしにて、人々あしくいふ。

山師とか姦物という言葉を老中・定信に吹き込んだのは『よしの册子(ぞうし)』に収録されているリポートを書いた隠密たちである。
そのころ、隠密たちは、定信が喜びそうな話を提供するアンチ田沼派での取材をもっぱらとしていた。
そうでなければ、定信のヨイショ組のところ。

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