「朝会」の謎(6)
天明5年(1785)---
田沼政権からの権力奪取の密議をすすめる定信(さだのぶ 28歳)は、6月1日に帰府すると、さっそくにも吉田藩(豊橋)主・松平伊豆守信明(のぶあきら 26歳)に会ったろう。
定信は『宇下人言(うげのひとこと)』に、信明をこう月旦(評)している。
もっとも同書は老中首座を解任されたあとで記したものだから、天明5年から10年ほどものちのことでもあり、信明が老中首座として定信の遺志(?)をうけついで幕政をきりもりしていたことも考慮にいれて読むことも留意しなければならない。
松平伊豆守は明敏で人あたりがよろしい。
才は徳にまさるといえようか。
予はいつも、高望みして理想にはしってはいけないよと忠告していたが、効きめはあったのであろうか。
予にはいつも虚心坦懐に訊いてくれていたが。
予が至らないところを補い、うしろざさえとなってくれてもいた。
『豊橋市史 第二巻』(1975)が意外な史実を載せている。
すなわち、これまで、信明の年齢は『寛政重修諸家譜』にある、
---宝暦十年(1760)生る。
そのまま信じて試算し、天明5年には数えで26歳としてきた。
(わざわざ、「歳」の字をあてて数え年齢をにおわせているつもり。満年齢の場合は「才」ですます)
『市史』は「大河内家譜」と墓碑の文化14年(1817)歿、享年55歳を引き、ほんとうの生年は宝暦13年(1763)で、公儀への諸届けには3歳ゲタをはかせていたと。
ゲタをはかせた理由(わけ)は、父・信礼(のぶうや)の正室を迎えるまえの閨房ごとにあった。
いささか長めiの引用になるが、『市史』から。
松平信礼は、はじめ板倉内膳正勝承(かつつぐ 陸奥福島 3万石)の家臣・村雨八郎左衛門忠武の女清見(のちに清岩院とよばれる)を側室とした。
彼女は、3女(注1)もうけた後、宝暦13年(1763)2月10日、江戸谷中の下屋敷で男子を出産した。
この男子が後の信明であり、幼名を春之丞といった。
信礼に宝暦12年6月、黒田大和守直純(上野・館林 3万石)の女で本多伯耆守正珍(まさよし 駿河・田中 4万石)の養女となっていた芳を正室に迎え、3女(注2)をもうけたが、男子に恵まれず、房次郎(注3 後に松平信武 または信邦)が生まれたのは信礼没後の明和7年(1770)12月のことであった。
大河内松平家としては正室よりの嫡男の出生を待っていたらしいが、明和4年の出産が女子であり、また当主の信礼の健康状態から考えて、また信礼が家督を継いだ時でもあり、同5年に庶腹の春之丞を嫡子とすることに踏みきったのである。
信礼が同7年に没して信明が跡を継いだ後に、正室に男子が生まれたのは実に皮肉なことであった。
注1 静=秋田信濃守千季妻、五百=夭折、禎=加納備中守久周妻
注2 鶴年=松浦壱岐守清妻、秀=黒田大和守直英妻、喜鶴=永井日向守直進妻
注3 房次郎は寛政11年(1799)30才で杉浦丹後守正勝(丹波・相模で8千石)へ養子
【参照】正室の養父・本多伯耆守正珍2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)
田中城は、長谷川平蔵の祖・紀伊守正長が今川方の武将として守った城。
信明と房次郎の実年齢差は6歳でしかない。
人の運命とは、些細な差が大きい面もたぶんにあろう。
もっとも、房次郎の性格・識見・人品について『市史』は言及していないし、正室派がおこしそうになったお家騒動についても触れていない。
つづいて『市史』から引く。
信明が継嗣となったことは、上のような幸運があったのであるが、それまで信明の出生は幕府にも届けられていなかった。
庶子の出生が届け出られぬことはままあり、ある程度の年令に達してから、虚弱であったが丈夫になったので
届け出るという「丈夫届」が出されることが多い。
大河内家でも明和5年に立嫡に先立ち、丈夫届を出したのである。
十二月三日、妾腹の男子春之丞、今年九歳となり、生まれつき虚弱の故をもって届けなかったが、唯今はやや壮健になったと、(老中)・松平周防守康福(やすとみ)へ届けでた。(『大河内家譜』)
信明の幼時の虚弱については、後の公儀への届け出にもしばしば現れるが、実際に虚弱であったかどうかは、右の丈夫届の性格からみてもそのまま信じてよいかどうかははなはだ疑問である。
しばしば行われたという「丈夫届」なるものを、ちゅうすけは初めて目にしたが、いまの戸籍届は、もっと頑固で融通がきくまい。
市が編纂した『市史』ゆえ、ちゅうすけのような不埒な感慨を記すはずはないが。
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