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2007.07.01

田中城しのぶ草(13)

ようやく、日の出がはじまるらしい。
それまでの暁闇に黒ずんでいた大川(隅田川)の川面に、色がついてきた。
対岸の石川島の樹々も目覚たように、梢からそよぎはじめている。
用人や若党、家僕・家婢の幾人かが門の外まで見送りにでている。
長谷川平蔵宣雄(のぶお)と妻同然のお妙は、旅立つ銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぷため)と老僕の太作に、鉄砲洲ぞいに明石橋(寒さ橋)までつき添った。

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明石橋(別名・寒さ橋 『江戸名所図会』 塗り絵師・ちゅうすけ)

「なに、田中城下まで48里(192km)じゃ。寺崎までを往還したとおもえばよい」
涙ぐみはじめているお妙にいいきかすように宣雄がいう。お妙は、上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎郷の名主の娘である。太助も知行地・寺崎の農家から奉公に来て数十年になる。

宣雄はさらに、銕三郎を引き寄せて、そっとささやいた。
「太作はもう50をこえている。万事、太作のあゆみにあわせるようにな」
「ご安心ください、心得ております」

(銕三郎たちの旅程は、とりあえず、↓を参考にしていただこうか)。
東海道五十三次---広重&分間延絵図(1) 日本橋→江尻宿

書院へもどった宣雄は、きのう、銕三郎にいった駿河大納言(忠長)のことを考えた。

家康の次男・結城秀康(ひでやす)と忠直(ただなお)、第6子の上総介(かずさのすけ)忠輝(ただてる)、そして駿河大納言忠長(ただなが)などを指して、徳川氏の血液には、狂的要素が混入していたなどというのは、後世の研究家の指摘で、宣雄には関係ない。

忠輝にしても、忠長にしても、うまくすれば将軍になれたという不満が高じた狂気といえないこともない。

忠長は、甲府に幽閉されていたとき、金地院崇伝(すうでん)や南光坊天海を頼って、老職たちに俊悔の情を披瀝しているにもかかわらず、高崎で自裁に追いつめられた。
老職たち---酒井雅楽頭忠世(ただよ)、土井大炊頭利勝(としかつ)、青山大蔵大輔幸成(ゆきなり)たちは、家光を危険にさらす種は、どんなことがあっても除くという決意を変えなかった。
つまり、徳川の永続を期しているのだ。この方針は、いまの老中も変えていまい。
いってみれば、幕府の戦略である。

この戦略を心得た上で戦術を立てることが、長谷川家の安泰をはかることにつながる。

忠長公の駿府城時代の逸話で、こんなことが伝わっている。
忠直の実弟にあたる幸松丸は、秀忠が脇腹に生ませた子で、正室の怒りを恐れた秀忠は、譜代の下総・多胡の藩主・保科弾正忠正光に押しつけた。
信州・高遠(3万石)に転封になった翌寛永6年(1601)、19歳になっていた幸松丸は正之(まさゆき)として、秀忠に認知してもらうことを忠長に頼みにきた。
そのとき忠長は番士たちをすべて遠ざけて一人で会った。
ところが、正之が帰るときには、番士たち全員に見送らせた。
その処置を不思議がった近習が、忠長にわけを質(ただ)したところ、下総の田舎育ちゆえ不調法なところを家臣たちには見せたくなかったのだが、会ってみると、どうしてどうして、利発で礼にかなっていたので安堵し、皆に見送らせたのだと。

つまり、そこまで気くばりができる忠長が、狂気のふるまいをどのていど実際にやったのか、記録はすべて権力者側のものだ。疑念がわく。

ちなみにいうと、慶長13年(168)、保科正之は高遠から山形20万石へ移っている。

忠長の悲劇を頭からふりはらった宣雄は、登城の衣服に着替えはじめた。
陽はすっかり上っている。
銕三郎たちは、もう、品川宿を越えたろうか。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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コメント

書庫の蔵書(っていえるほどのものは、すでに湘○堂古書店に騙りとられている。この古書店、組合を除名になったらしい。被害者はぼくだけではないようだ)を覗いていたら、買った記憶も薄れている徳富蘇峰『近世日本国民史』(講談社文庫)が10冊ほど出てきた。

この人が、8畳間を2部屋書斎にあてた---それほど、著作が情報加工になってきたということを『ワープロ書斎術』(講談社新書 1985.3.20)ほんの1行書くために買ったらしいという記憶がよみがえった。

中の1冊---『徳川幕府統制篇』(1983.1.10)に、駿河大納言忠長の始末の記録が相当量、載っていて、助かった。

『江戸時代と近代化』(筑摩書房 1986.11.10)は、署名のシンポジュウムをまとめたものだが、その中で、谷沢永一先生が『近世日本国民史』には独自に集めた史料が多く使われていること、その史料の読み手を蘇峰は4人かかえていたことをぶちまけていた。
うーん、史料の読み手、ねえ。
そういう便利な人がいてくれるとねえ。

投稿: ちゅうすけ | 2007.07.01 02:49

そういう便利な人を抱えていなくては仕事が正確にはかどらないですね。

投稿: みやこのお豊 | 2007.07.01 06:31

この頃の長谷川宣雄の屋敷は鉄砲洲だったのですね。
「江戸切り絵図」で父宣雄と母お妙が銕三郎を見送った明石橋までの道をたどりながら、現在の地図を眺めてみました。今は隅田川テラスに沿った散策路あたりでしょうか。

投稿: みやこのお豊 | 2007.07.01 16:44

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