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2007.10.13

田中城しのぶ草(21)

昨夕だった。
長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人組頭)を、書物奉行所の中根伝左衛門正雅(まさちか 300俵)が、鉄砲洲の屋敷までわざわざ訪ねてきた。
伝左衛門は、当年71歳の高齢であり、その屋敷は牛込逢坂(おうさか)上横町だから、ずいぶんと遠回りである。

玄関まで出迎えた宣雄は、恐縮しきっていた。
「これは、これは---。お使いをいただけば、参上いたしましたものを---」
「なに、城内でたしかめたら、長谷川どのは非番で、ご登城なさっていないということでしたのでな」
「明日は登城いたしましたのに---」
「いや、明日は、手前の方が非番で---」

玄関先ですみそうもない話らしいと伝左衛門の表情から察した宣雄は、とにかく書院へ通した。
「ご依頼のあった松下大膳亮忠重が判明いたしましてな」
「それは、それは---」
「それが、代わりの者に届けさせるわけには参らぬ方と知れましたゆえ、自身で参りました次第」

伝左衛門は、懐から袱紗の袋をだし、眼鏡を抜いて紐を耳にかけてとめた。
もうこの頃には、鉄枠にギヤマンを磨いた半玉を入れた眼鏡が作られていた。
「これなしでは、手前のような老骨には、書物奉行所は勤まりませぬ。いや、まさに書物奉行助役(すけやく)とでも名づけてやりたいほどの重宝もので」
伝左衛門は苦笑まじりにそういい、つづいて、宣雄が前に預けた田中城代の名書きの写しを出して広げる。

慶長14年(1609)12月- 頼宣領
元和5年(1520)7月-  幕領 
           城代 大久保忠直・忠当、酒井正次どの
寛永元年(1624)8月-  忠長領 
           城代 三枝伊豆守守昌、興津河内守直正どの
寛永8年(1631)6月   幕領 
           城代 松下大膳亮忠重、北条出羽守氏重どの

「先日、書き間違いではないかと申しあげたこの松下大膳亮忠重どのですが、あの時、城主になられた松平(藤井)伊賀守忠晴(ただはる 2万5000石)侯の線もあるやに推量しました」
「そのように承りました---」
「その松下松平の筆間違いという思いつきがきっかけとなり、権現さま(家康)さま時代の松平家をあたってみましたら、なんと---」
「いらっしゃいましたか」
「いらっしゃいました、桜井松平大膳亮忠重(ただしげ)侯」
「桜井松平---」
「さようです。長親(ながちか)君の庶子で内膳正を名乗られて、三河の桜井の地を賜っておられた松平信定(のぶさだ)侯を祖とされた桜井松平家、その7代目の忠重侯でした」
「ほう---」

ちゅうすけのつぶやき】宮城野昌光さん『古城の風景 1]』(新潮文庫 2008.04.1)に桜井城址と信定が載っている。

「ただ、忠重侯は城代はいっときのことで、のち、上総・佐貫藩1万5000石の藩主となられ、寛永10年に田中城主・2万5000石で帰ってこられました」
「城代もお勤めになられたが、むしろ、ご藩主のほうが長かったと---」
「2年のちには掛川城主にご転になっていますが---いや、お目にかかってお話し申したかったのは、このことではありませぬ。ご当主が遠江守忠名(たたあきら)侯---」
「宝暦元年(1751)に33歳だかで摂津4万石・尼崎藩主をお継ぎになった---」
「さようです。徳川ご一族でもあり、尼崎侯であられるお方の家譜は、許可を得ずして人目に触れさせることは好ましくないご定法になっていることはご存じのはず---」

その定法のことは、宣雄も承知していた。
松平(桜井)大膳亮忠重のことを、目的はどうあれ、中根伝左衛門に依頼したということが洩れると、目付の下役などに痛くもない腹をさぐられかねない。
それで、伝左衛門は口どめをするために、自ら訪ねてはきてくれたわけだ。

宣雄は、酒肴の用意をいいつけて、中根伝左衛門の好意に報いることにした。

ちゅうすけ注:】
『寛政譜』から桜井松平の家譜と、大膳亮忠重遠江守忠名の譜を参考までに掲げる。
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参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (22) (23) (24) (25)


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