田中城しのぶ草(6)
その夜、長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、息・鉄三郎が写してきた、田中城しのぶ講の招待予定者の名簿を眺めていた。
このところの毎夜の習慣のようになってしまっている。
記された人名を見すえていると、幕府の仕置き(政治)の歴史が透けてみえてくる。
松平大膳亮忠告(ただつぐ)殿 18歳 4万石
水野織部中忠任(ただとう)殿 26歳 唐津6万石
北条出羽守氏重(うじしげ)殿 断家 3万石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)殿 71歳 横須賀3万5千石
酒井河内守忠佳(ただよし)殿 74歳 5000石
土屋能登守篤直(あつなお)殿 33歳 土浦4万5千石
太田摂津守資次(すけつぐ)殿 45歳 大坂城代3万2千石
内藤紀伊守信興(のぶおき)殿 40歳 棚倉5万石
土岐美濃守定経(さだつね)殿 22歳 沼田3万5千石
田中城しのぶ講を思い立った本多伯耆守正珍(まさよし)侯にしたところで、前年、らちもない言いがかりをきっかけに老中職を棒にふり、いまは中屋敷に蟄居の身である。
ということは、幕府内においての口きき力はほとんど望めないということだ。
そんな立場の前高官にすり寄ってくる大名・大身がいるだろうか。
それと、も一つ、自分はなったことも夢にみたこともないが、大名という人たちは、いまの自国が大事で、はるかな昔(いにしえ)に先祖が一時的に領していた土地に郷愁を覚えるものだろうか。
出自の地ではなく、幕府のつごうでくるくると移転させられ、やどかりのようにいっとき領した土地である。
土岐美濃守定経侯---本多正珍どのが申しておられた---沼田藩と田中藩が入れ替わったと。
もしやすると、定経侯は、田中城でお生まれになったのかも。つまりは、本腹でなくご内室のお子ということになるが---正室に嫡子がいないばあい、国元のご内室がお生みになった男子でも家する例は少なくない。
宣雄は、自分が厄介(次男以下)のさらなる厄介(未婚の子)だったことを思い出して苦笑した。そういえば銕三郎も未婚の子だ。
宣雄は、だんだんに気が滅入ってくる。
(こんなことではいけない。本多侯はともかく、銕三郎がせっかく調べてきたものなのだから、それなりに結果をださないことには---あれが初めて責任を感じてやった仕事なのだ)
気をとりなおして、もう一度、名簿に目を戻した。
いまの田中城主・本多家のすぐ前の城主だった土岐家の家譜。
土岐家譜2 緑○=田沼藩主・定経
田中城主でもあった土岐伊予守頼殷(よりたか)
おなじく頼殷の嫡子として田中城主だった丹後守頼稔(よりとし)
(土岐家の当主・定経)
【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)
| 固定リンク
「090田中城かかわり」カテゴリの記事
- 田中城しのぶ草(11)(2007.06.29)
- 田中城ニノ丸(3)(2008.12.28)
- 田中城ニノ丸(2008.12.26)
- 田中城ニノ丸(4)(2008.12.29)
- 田中城ニノ丸(5)(2008.12.30)
コメント
土岐定経の譜に、「田中に生る」とあります。
正室は、徳川への人質同然に、江戸の上屋敷にいるわけで、田中城にはご内室、すなわち参勤交替で国許へ帰って滞在したときの女性から売れたということ。
土岐頼稔(よりよし)の「大坂に生る」も、常識的に考えると、大坂妻ということになりそうだが、大坂城代が妻子ともに下坂するのかどうかは、未確認。
京都町奉行はどうなんだろう。
池波さんは、銕三郎宣以と身重の久栄もいっしょに京都の役宅へ入ったように書いているが、銕三郎はともかく、久栄は調べる必要がありそうだ。
投稿: ちゅうすけ | 2007.06.24 17:08