カテゴリー「209長谷川 伸」の記事

2007.04.02

「もう聞くことはないのか!」

佐藤隆介さんは、ある時期、池波さんにぴったりつき添って、その言行を書き留めた貴重な人である。
池波ファンにとっては、池波さんの素顔に、もう一歩近づく手だてといえようか。

ちょっとオーヴァーにいうと、辞書製作者の碩学サミュエル・ジョンソンと、その言行を記録したジェイムズ・ボズウェルの関係に似ている。

100_33佐藤隆介さんのお仕事の一つに『男のリズム』(角川文庫 1979.12.20)の巻末解説がある。
いや、佐藤さんは、文庫になった池波さんの小説やエッセイの多くに、丁寧な解説文を寄せているから、とりたてていうほどのことはないのだが、『男のリズム』のそれは、ちょっと調子が違う。
冒頭に、自分の生の声をぶつけているのだ。

電車の座席で、マンガ雑誌を読みふけっている若者に、
「きみは明日死ぬかもしれないんだよ---」
と言ってみてやりたい衝動をおぼえるというのだ。

人間は、生まれたときから死へ向かって日々歩いている---が、池波哲学の一つであることは、ファンならみんな知っている。
佐藤さんは、それをじかに池波さんの口から聞いている生き証人である。
佐藤さんの哲学の一部になっているから、若者に言ってやりたくもなるのであろう。

『男のリズム』の[最後の目標]という章に、

私の師匠・長谷川伸(はせがわしん)は、生前、よく私に、
「君、もうすぐに、ぼくはあの世へ行っちまうんだよ」
と、いわれた。
これは、御自分が生きている間に、もっと聞きたいことはないのか、と、いうことなのだ。

昭和38年6月11日に長谷川伸師が逝き、すぐあとの追悼号ともいえる『大衆文芸』(1963年8月号)に、池波さんは[先生の声]と題し、こうも書いている。

「君ねえ、ぼくなんか、いつ、ひょっくりと死ぬかも知れないんだよ。聞くことがあるんなら今のうちだよ」
にこにこと言って下さっているうちは、よかったが、対座して話題につきると、
「もう聞くことはないのか!」
きびしく、言われた。

これを書いたとき、池波さんは40歳。長谷川伸師の享年79。
40歳になっても教えを乞える師がいるなんて、人生の幸せの時ともいえ、うらやましい。

長谷川伸という師は、自分の体験したことであれ、温めている小説のテーマであれ、門下の人には惜しむことなく明かしたと、エッセイ『石瓦混肴』にある。

長谷川伸師が聖路加病院の病室で亡くなったとき、池波さんは玄関ホールまではかけつけたが、病室へは、あえて入らなかったという。
師の尊顔は、生き生きしていたときの思い出だけで十分---と決めていたからだと。

そうそう、J・ボズウェルが書きとめたS・ジョンソンのこんな言葉が、『オクスフォード引用句辞典』に入っていて、英語圏の人はよく、引用する。
「ロンドンに飽きたら、人生に飽きたに等しい」

ぼくも、〔ロンドン〕を〔『鬼平犯科帳』〕に置き換えて、ときどき使っている。

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2007.03.31

[女掏摸お富]と くノ一

_2_2[2-3 女掏摸(めんびき)お富〕は、『オール讀物』1968年(昭和43)10月号に発表された。
長谷川平蔵が46歳、従兄弟の三沢仙右衛門は53歳の寛政3年(1791)の初夏の事件。ヒロイン女掏摸・お富25,6。

池波さんは、[女掏摸お富]の3年前の1960年、 『週刊朝日別冊 秋風特別号』[市松小僧始末]という、実在していた掏摸を短篇に仕上げている。
100_30ネタの出所は、三田村鳶魚[五人小僧]( 『泥棒づくし』河出文庫 1988.3.4)の市松小僧であろう。
初代佐野川市松が着た黒白の石畳模様がゆえんの市松模様を身につけていたことからの〔二つ名(異称)〕であると。
それほど華奢で小粋なイケメンだったらしい。

池波さんの師匠筋の長谷川伸さんには、青年時代に市松小僧のような美貌の掏摸の友人がいた。
若い女のように美人だったから〔くノ一〕が渾名(あだな)だった。
師が1928年(昭和3)に書いた[舶来巾着切]は、この〔くノ一〕を主人公とした戯曲である。
ついでに記すと、戦後に流行った女忍者を「くノ一」と呼んだのは、美少年〔くノ一〕を主人公にすえた長谷川伸さんの一連の小説や戯曲に由来している。

〔二十六日会〕〔新鷹会〕の勉強会で、長谷川伸師はおしげもなく、自分の体験をすべて公開したとエッセイ『石瓦混肴』にある。

捨て子だったお富を拾い育ててくれた掏摸一家の元締(もとじめ)・〔霞〕の定五郎が課した修行---どんぶりに盛った砂の中へ2本の指を出入りさせて鍛える掏摸の基本技なども、長谷川伸師から聞きもしたろう。
また、師の初期の巾着切もの小説や[舶来巾着切][掏摸の家]などでも学んだであろう。

長谷川伸師の書きものを読むと、池波さんがこの師から得たものは、はかりしれないほどあることがわかってくる。
池波さんに会得する強い意志が備わっていたからであることは、いうまでもない。

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2007.03.29

〔新鷹会〕の勉強法

長谷川伸師の没後1年余、七保(なお)夫人が、活字になっていない草稿があるといって門下の村上元三さんたちへ示されたのが『石瓦混肴』と表題のついた紙塊である。私家版としてまとめられた。

〔新鷹会〕〔二十六日会〕の勉強法が、こんなふうに書きとめられている。

私どもの勉強のやり方の一つに、批評はいらない、必要とするものは”助成”の案の持ち寄りである、というのがある。
一番いいことは、立派な批評と、人それぞれの助成案とが、抱きあわせになって出ることだが、かなり大人でないとこれは出来ない芸なので、作品の助成に主力をそそぐ、というやり方を専らやってきた。

(かなり大人でないと---)というところで、胸にトゲがささったように痛みをおぼえた。
じつは、二十代前後に、ある同人誌のメンバーだった。
月1回だか隔月だかに合評会を持った。
痛烈、苛酷な批評が行き交った。いや、批評というのもおこがましい。50年の歳月をおいていま振り返ると、揚げ足取り同然の、幼稚な批判の山積みにすぎなかった。
その試練のなかから、よくもまあ、谷沢永一さんや開高健くん、向井敏くん、牧羊子さんが世にでたものだ。

もし、長谷川伸師のような方が、合評会をいましめ、指導してくださっていたら、もっと多くの作家や詩人や歌人が育っていたかもしれない。若気のいたり、痛恨の反省---いまさら追っつかないのだが。

120_10 〔新鷹会〕〔二十六日会〕が池波正太郎という作家の成長に、どれほど資したか、想像している。
いや、長谷川伸というふところのひろい師の恩恵がなによりの栄養であったろう。

( 『石瓦混肴』は、朝日新聞社刊『長谷川伸全集』第12巻(1972.5.15)に収録されている。図版は同巻の扉)。

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2007.03.27

〔新鷹会〕を退会

「いままで発表した作品のうち、小説では一回目と二回目に直木賞候補になった[恩田木工(もく)]と[信濃太名記]それに今度受賞した[錯乱]に愛着がある」(読売新聞・1960.7.30 文化欄)

未収録エッセイ集『おおげさがきらい』(講談社文庫 2007.03.10)に収められている小文である。

注記にあるように、この稿は1960年(昭和35)ものものだから、池波さん37歳、戯曲から小説へも手を染めるようになって5年目がすぎたあたりで、作品数だってわずかだった。

直木賞の候補となった作品が掲載された媒体を記してみる。

101001956年下期  [恩田木工]  『大衆文芸』
1957年上期  [眼(め)]    『大衆文芸』
      下期  [信濃大名記] 『大衆文芸』
1958年上期  [秘図]      『大衆文芸』     
1959年下期  [応仁の乱]   『大衆文芸』
1960年上期  [錯乱]     『オール讀物』

受賞作の[錯乱]の外は、すべて〔新鷹会〕が発行元の『大衆文芸』に発表されている。(写真は2006年10月号)

このことは、池波さんがいかに勤勉な書き手だったかを示すとともに、会員からは、『大衆文芸』を占有しすぎるといった陰の声がささやかれていただろうと、推測させる。

『大衆文芸』への掲載は、月1回の勉強会へ作品を持参、長谷川師ほか全員の前で朗読。先達のきびしい質問・批評・助言・講評を経て掲載決定---というきわめて公平におこなわれていたと聞く。

だから、掲載作品数が多い池波さんがねたまれる筋合いないはず。
しかし、功名心を秘めた若者たちのこと、それだけ羨望心も強かったのであろう。

130_8そこのところを察していたらしい長谷川伸師とのあいだに、こんな会話があったことを、未収録エッセイ第4集『新しいもの 古いもの』(講談社 2003.6.15)の[亡師]に書き残している。

あれは、(長谷川伸師が)亡くなる一年ほど前のことだったろうか---。
奥さんと三人で世間話をしているときに、これも突然、師が、
「君ね。もし、ぼくが死んだあとで、みんな(門下生)が研究会をつづけて行くようなら、君は七保(なお 奥さん)とだけのつきあいに給え」
と、いわれた。
このため、私は師が亡くなられると同時に、門下生たちがつくった財団法人(新鷹)からはなれた。
「旦那さまは、なぜ、あんなことをあなたにおっしゃったのかしら?」
「さあ---?」
と、その後も未亡人を訪ねるたびに、二人していろいろ考えたあげく、そのこたえを二つ三つ出してみたが、亡師の本当の意中は、いまもってわからない。(季刊『劇と新小説』第1号 1975.11 [長谷川伸先生追悼紙碑)。

七保未亡人も、〔新鷹会〕の会員で池波さんと仲がよく、作品のテレビ化に力をつくした市川久夫プロデューサーからも、また、勉強会のあと、池波、市川両氏とともに喫茶店で勉強会の二次会をやった新田次郎さんからも、推測を聞くことは、もう、できなくない。

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2007.03.26

観世音菩薩

朝日文庫『小説の散歩道』(1987.4.20)に収められている、[長谷川伸]とタイトルされたエッセイは、すでに引用した。
(1961年10月記)と注記されている。長谷川伸師が逝去する1年8カ月前だ。

私ははじめに戯曲をやって、自分の作品が三つ四つ上演されるようになってから、今度は小説の勉強を始めた。
そのころ、ひどいスランプになったことがある。あまりに自信を失い、ひょろひょろと先生のところへうかがったとき、先生は発熱して寝ておられたが、すぐに起き上がって茶の間へ出てこられた。
(ぼくは、何という無茶な、図々しいまねをしたものだろうか---)
先生は、ぼくがつくったウタだと言われて、左のようなウタを示された。

 観世音菩薩が一体ほしいとおもう五月雨ばかりの昨日今日

何日も机の前にすわりつづけ、書けなくて、ここに観音像の一つもあったらすがりつきたいほどだ、という作家としての苦悩をよんだものであった。
「ぼくだってだれだって、みんなそうなんだよ、元気を出したまえ」
私は、勇気を得た。

池波さんにとって、長谷川伸師は、単に脚本や小説を書くための先達・指導者以上の存在だったことが、これでわかる。
そう、父親がわり以上---人生の師であった。

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観世音菩薩像だが、茶の間---新鷹会の会場でもあった八畳の間の、明かりとりの窓の前に、いま、安置されているのが、ウタが読まれたあとに、求められた観音像であろうか。

池波さんのスランプに関連し、朝日新聞社刊『長谷川伸全集』第12巻(1972.5.15)の「付録月報」の写真を思いだした。

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1938年(昭和13)に撮影とキャプションが付されているから、池波さんが入門する10年以上も前の、長谷川夫妻と飼い犬が写されている。場所は二本榎の長谷川邸。
ワン公は柴犬。

何かの雑誌に掲載されていたこの写真を池波さんは、ある感慨をもって目にしたと推測しているのだが。
というのは、『鬼平犯科帳』[9-4 本門寺暮雪]、〔凄い奴〕との石段上での決闘で、長谷川平蔵は窮地に立たされる。
その切り抜け策に難渋していた池波さんは、柴犬に救われたと書いている。
長谷川伸師と遊んでいる柴犬のこの写真が、ひらめかなかったとはいえまい。

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2007.03.25

『一本刀土俵入り』

池波さんの未収録エッセイ集『おおげさがきらい』(講談社文庫 2007.3.10)に[先生の声]と題した短い文章がある。 新鷹会の『大衆文芸』1963年(昭和38)6月号に掲載されたものだ。
『大衆文芸』は、いうまでもなく、生前の長谷川伸師が刊行の赤字をほとんど補填していた、新人作家を育てるための月刊誌だった。

十何年も前のことになるが---。
先生が戦後初めての大患を切りぬけられた翌年の夏のことだったとおもう。

「十何年も前」というと、池波さんが三十歳寸前---劇作の勉強に身をいれていた時期であろう(いずれ、『長谷川伸全集』全16巻 朝日新聞社を借り出して、年次を確認してみよう)。
40歳年長の伸師は70歳前。

不忍池畔にあった文化会館で鶴蔵一座が興行していた[一本刀土俵入り]を、故・井原敏さんと池波さんを伴って観に出かけた。3枚の切符は、長谷川伸師が買った。

ご自分の芝居を見るためのキップを買われたのだ。

池波さんは、わざわざ、この一行を添えている。

100_27300本近くある長谷川伸師の脚本のうち、『瞼の母」『関の弥太っぺ』『沓掛時次郎』『一本刀土俵入り』 は、地方の劇場や旅回りの劇団で、とりわけ多く上演されていると、橋本正樹さんが長谷川伸師の脚本6本を収録のちくま文庫『沓掛時次郎・瞼の母』(1994.10.24)の巻末解説で明かす。

それらの一座や芝居小屋は、長谷川伸さんに脚本使用料をほとんどはらわないらしいとも。
それを、長谷川伸師は、「彼らの生活の糧となっているのなら、いいじゃないか」と黙許なのだと。

だから、この不忍池での鶴蔵一座へも、来意を告げれば、座長自身がすっ飛んできて案内したはず。それを、仰々しいし、かえって演じるたちを緊張させてしまうとおもんぱかり、客席のすみに席を求めたことを、池波さんは言っているのだ。

こうした気くばりを、若かった池波さんは、長谷川伸師から学んだ。

Photo_321すこしそれるが、2度にわたって紹介した、長谷川伸師のたくましい太ももと池波さんの体格のこと。
長谷川伸師の筋肉

『生きている小説』(中公文庫 1990.w3.10)iに、[一本刀土俵入り]という章がある。
長谷川伸さんは、若いころ、食べていく手段の一つのつもりで、幕内の稲川政右衛門へてし入りを懇望して追っ払われた経緯を告白し、この体験がのちに[一本刀土俵入り]を生んだと回想している。

そのころの長谷川伸二郎(本名)青年は、力仕事で鍛えた体格に、お相撲になるほどの自信があったのだ。
その筋肉が、初対面の池波さんをおどろかせた。

さらに、[先生の声]は、こう、つづけられている。

「ぼくが君ちたちにあげるものの中から、君たちの身につくものがあって、それを生かしてくれることは嬉しい。だがね、それは、あくまでも、君たち独自の個性の中で生かしてくれなくっちゃアいけないりだ。それでなくてはなんにもならない。このことをよくおぼえておいてくれたまえよ。人間としても、個性を失ったらダメだよ」

仕事の師は身近にいる。が、人生の良師たる人には求めなければ出会えない。。

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2007.03.24

長谷川伸師の筋肉 2

池波さんが、長谷川伸氏を師とした経緯を、エッセイ[長谷川伸] (『小説の散歩道』(朝日文庫  1987.4.20)から引いた([長谷川伸師の筋肉]
2007.3.19)。

100_26書庫の片隅から『青春忘れ物』(中公文庫 1970.8.10)が出てきた。
池波さん自身の[文庫版あとがき]によると、1967年(昭和42)から翌年秋にかけて『小説新潮』に12回連載され、1969年(昭和44)の早春に毎日新聞社から単行本ででている。

しかし、講談社版『完本池波正太郎大成 別巻』の年譜からは、『小説新潮』連載の記録がすぽっと抜けているようなので、[恩師]が掲載された月号を特定できない。いつか、『小説新潮』の編集部に確認を依頼したい。

[恩師]によると、長谷川伸師から戯曲の指導を受けようとおもいたった池波青年は、

それには先ず、何よりも新しい自分の脚本を持参して見ていただかねばならない。
半年ほどの間にニ篇の脚本を書き、手紙を差しあげておいてから、私は二本榎の長谷川邸へおもむいた。
むろん、先生にお目にかかるつもりはなく、ただ脚本を持参して、
「おひまの折にお読みくださいまして、いろいろとお教えいただけましたら---」
そのつもりであった。

この部分は、[長谷川伸]では省略されている。
さらに、玄関へ入り、奥さんの応対があった。

私は先生にお目にかかるつもりで来たのではない、と何度も遠慮したが、声をききつけたらしく、いきなり奥から長谷川氏があらわれた。(略)
「脚本は読んでおく。その上で、もう一度やって来給え」
と、氏はいわれた。
私は頭から水をかぶったような汗で、しどろもどろに何をいったのかおぼえていないけれども、そのとき長谷川氏は私の頭から足もとを凝と見まわし、
「君はよい体をしているねえ」

そのときの池波さんは、青年らしく痩せてはいたが、長谷川伸師から「均整がとれている」「ぼくの若いときと、体つきがよく似ているよ」と認められた。

エッセイ[恩師]は、長谷川伸師が下帯ひとつで応対したのは、それから数カ月後のこととしている。

眼前にある伸師のたくましい〔ふともも〕を見、
(60歳を越えた人の筋肉ではない)

池波青年がおどろいたところまで、2007年3月19日の記に書いた。
なんだか、おさらいをしたみたいになった。不手際、申しわけない。

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2007.03.23

『日本敵討ち異相』

100_25手元の中公文庫の長谷川伸『日本敵討ち異相』は、1974年(昭和49)5月10日に初版が出ている。
『中央公論』の連載は1961年(昭和36)12月号から翌年の12月号までの13篇。
企画・担当したのは、同誌の編集者だった綱淵謙錠さんと、文庫の解説でわかる。

単行本は、連載が終わった2年後の1963年(昭和38)だったらしいことを、池波さんが『図書新聞 (1963.4.13)へ寄せた書評で推察。書評はエッセイ集『おおげさがきらい』(講談社 2003.2.15)に収録されている。この年、池波さん40歳。

長谷川伸師は、この年の6月11日に、肺気腫による心臓衰弱で、聖路加病院で亡くなっている。享年79歳。
したがって、師は、病室で3年前に直木賞を受けた愛弟子の書評---というより讃辞の文を読んだとおもわれる。

この1冊におさめられた十三篇は、いずれも「敵討ち」を扱ったものだが、この小説が、中央公論に連載されているころ、私は毎月の発売日が待ち遠しかったものだ。
私どものように、時代小説を書いているものにとっては、著者のような大先達が、毎月々々、この短篇によってしめされた作家としての熱情と含蓄(がんちく)のふかさに、つくづくとおしえられることが多かったからである。

赤穂浪士による敵討ちが『忠臣蔵』という名で親しまれているように、日本人は仇討ちが好きである。
いや、復讐物語好きは、日本人にかぎらない、お隣の大陸にも欧米にもそのテの話は数知れないほどある。

ただ、江戸期の武士の敵討ちには、いくつかの決まりがあり、その決まりをめぐって当事者たちの人生の悲哀や蹉跌が生じた。そこに仇討ち小説がいまなお生まれる素地がある。

池波さんも、師の著作の書評の5年前(1958)に、日本3大仇討ちのヒーローの一人---[荒木又右衛門] (新潮文庫『武士の紋章』に収録)を発表している。

Photo_319直木賞を受賞した1960年(昭和35)には、歌舞伎『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』に材をとった[実説鏡山-女仇討事件] (PHP文庫『霧に消えた影』に収録)と、[うんぷてんぷ](角川文庫『仇討ち』に収録)を執筆。
その後、独立短篇だけでも20篇近く、長編も『堀部安兵衛』(角川文庫)と『おれの足音』(文春文庫)があり、師の無形の先導による好篇も多い。

『日本敵討ち異相』にもどる。
1968年に出た新装版には、新鷹会の会長を永く勤めた故・村上元三さんが跋文を寄せ、「いつも筆の早い先生が、この中の一篇を書くために、およそ一週間かかっている。そのあいだ、いつもは柔和な先生の顔が、わたしたちにもこわいほど変っていた」と。

池波さんも、「これらの作品の資料となったものは、生半可(なまはんか)なものではない。二十余年間もあたためられ、機会あるごとに調査がつみかさねられ、徹底した追及のもとにあつめられたものだからだ」と、その労を偲ぶ。

長谷川伸師邸の書庫を覗く機会が幾度かあったが、集められた地誌の多さと史料にはいつも嘆息した。
(地誌の棚だけは写真に収めた)。

この膨大な地誌からも、題材がひろわれたのであろうか。

中央公論の誌上を飾ったのは13篇だが、戦時中、「空襲のサイレンを聞くと土中に埋め、解除のサイレンを聞くと掘り出した」と著者自身が打ち明ける”敵討ち”もの370件の中から、「異質のものばかり選」ばれた13篇である。「異質なものと言ったのは、人間と人間とがやった事を指しています。それは現在の人間と人間とがやっている事と、共通していたり相似であったりだと言うことです。そうして又、現代人が失った清冽なものだってあります」

Photo_320【つぶやき】[うんぷてんぷ]で、ヒロインの娼婦お君が、逃亡かたがた熱海へ湯治としゃれたとき、〔本陣今井半太夫〕の前を通って本町へ。
雁皮紙の製造元でもあるこの〔本陣今井半太夫〕は、その後、『鬼平犯科帳』ほかにもしばしば登場する。
池波さんがこの名を目にしたのは『江戸買物独案内』だとおもうが、文政7年(1824)刊のこの史料・全2,622枠を採録した『江戸町人の研究 第3巻』 (吉川弘文館)は、[うんぷてんぷ]の1960年よりも15年ほど後に刊行されている。
とすると池波さんは、どこで〔今井半太夫〕の名を見たのだろう。長谷川伸師の書庫に『江戸買物独案内』の現物があったのだろうか。

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2007.03.22

長谷川伸師邸の書庫

エッセイ[長谷川伸]は、最初、『新年の二つの別れ』(朝日新聞社 1977.6.10)の巻頭に置かれた。
5年後に出た、これもエッセイ集『一年の風景』(朝日新聞社 1982.9.30)とあわせて、朝日文庫『小説の散歩道』に収録。初出誌・紙は、いまのところ、わからない。

[長谷川伸]にこんな箇所がある。

先生の指導をうけるようになってから、私は、かなりあつかましかった。どんな社会にも、それぞれの順序、しきたりみたいなものがあるのだろうが、新米の私は、書庫の本をかってに見せてもらつたり、今から考えると冷や汗の出るような質問をくどくどやったり、ただもう、がむしゃらにぶつかっていったものだ。

書庫の本について、池波さんが、どこかに、こんなことを書いている。
貸し出し・返却ノートを自分で勝手につくり、そこに記載さえすれば、書庫から黙って持ち出していい---との許しを長谷川伸師から得たというのである。

ある時、長谷川伸師が、同じ新しい会員の市川久夫さんに、
「池波が長谷川平蔵に目をつけたらしい」
と漏らした。
市川さんは、大映の制作担当の責任者だった川口松太郎さんから「[26日会][新鷹会]に入れてもらい、勉強してこい」と派遣され、のちに『鬼平犯科帳』のプロデューサーとなった仁である。
市川さんは、この長谷川伸師の寸言によって、池波さんへ「長谷川平蔵のテレビ化は、オレがやる」と約束した。

長谷川伸師邸の書庫には、史料や日本中の地誌が、それこそ、ほとんどそろっていた。

で池波さんが、三田村鳶魚 『江戸の白浪』(早稲田大学出版会 1934)とか『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』を持ち出しているのを、借り出し簿から目ざとく見つけ、そう類推されたのであろうか。

いや、それらの史料を読んだあと、池波さんのほうから、
「長谷川平蔵について書かれたものは、もっと、ないのでしようか?」
と問うたのかもしれない。

長谷川伸師は、
「そういえば、『江戸会誌』のどこかに、書かれていたような---」

と推理したのは、明治23年6月号の[長谷川平蔵の逸事]と題された短い記事が、鬼平の性格を形づくる手がかりになっているからだ。

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『江戸会誌』明治23年6月号表紙

10年以上も前に、NHK文化センターでもっていた[鬼平]クラスの受講者だったN氏が、それを国会図書館で見つけて、コピーをくださった。

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[長谷川平蔵の逸事](左ページ下段。右上からは人足寄場の紹介)

[長谷川平蔵の逸事]
長谷川平蔵は其の名未考。禄は四百石。居宅は本所菊川町にあり。
先手弓頭より盗賊火付改へ出役し、天明八年十月より寛政七年五月、病で没するまでおよそ八ヶ年の間これを勤む。
もとより幹事の才ありしゆえ、松平樂翁の遇を得てその意を承りて人足寄場を創設せしこと、または盗賊探検などのことには幾多の逸事あり。

「幹事の才あり」は、リーダーの素質と熟練があったということ。つまり、鬼平をすぐれたリーダーとして造型すればいい、リーダーとは芝居の演出者だ---池波さんはそう考えたろう。

150_6これを確かめるために、平岩弓枝さんの許しをもらって長谷川伸師の書庫へ入り、3冊に合本・装丁された『江戸会誌』を見つけたときは、われしらず、快哉を叫んだ。

長谷川伸師の示唆にしたがい、池波さんは、[長谷川平蔵の逸事]を読んでいたのだ。

長谷川伸邸書庫
↑クリックで、覗くことができる。

【つぶやき】ゆうに万を越える貴重な蔵書は、長谷川伸師の歿後、専門の司書の手で分類され、図書カードがつくられた。
完成後、整理された書庫を見た池波さんは、「伸先生の体臭が薄れたようで、ちょっぴり寂しい」との感想をどこかに書いている。

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2007.03.21

長谷川伸師と新鷹会

池波さんに、長谷川伸師が、小説も書くようにとすすめたのは、いつごろであろう。

長谷川伸師がその費用の大半を提供していたと推察できる『大衆文芸』の1954年(昭和29)10月号に第1作『厨房(キッチン)にて』が掲載されているから、多分、この年(かその前年)に、小説の勉強会である〔新鷹会(しんようかい)に参加したのではあるまいか。
池波さん31歳。

 〔新鷹会〕のホームページは、当会は「新しい文学の創造を目指し」て、昭和14年(1939)に発足した〔15日会〕がそのはじまりである、としている。
『大衆文芸』が会誌のような形で一般にも発売され、戦後、復刊された。

ちなみに、池波さんの直木賞候補となった数篇および受賞作の[錯乱]も、同誌に発表されたものである。

すぐれた新人を育てるというこのほかは私心のない長谷川伸師の念願がわかっていたからこそ、戦後の会にも、山手樹一郎、山岡荘八、大林清、土師清二、鹿島孝二、戸川幸夫、村上元三などのベテラン陣が、例会に手弁当で出席したのであろう。

例会は、長谷川伸師邸の1階の8畳の客間と、それにつながる6畳をぶちぬいて開かれた。
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(その2間を見学する鬼平熱愛倶楽部のメンバー)。

床の間の真ん中に長谷川師。その左右にベテラン陣が並んでいたと語るのは、家屋の管理をまかされている佐藤さん。
池波さんや新田次郎さん、のちに鬼平テレビ化のプロデューサーをつとめた市川久夫さん、平岩弓枝さんらの新人は、廊下に近い席だったとも。

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『新・私の歳月』(講談社文庫 1992.10.15)に収録されている[絵筆と共に]から引用。

二十八歳(1956)のときの新橋演舞場における処女上演以来、よき師、よき先輩と友人にめぐまれ、新国劇を中心にした芝居の世界における仕事でも、おもい残すことはい。
その後、私は小説の勉強をはじめた。
これは亡師・長谷川伸の強いすすめがあったからだ。
私は生涯、芝居の世界で生きて行くつもりだったから、なかなかに足を踏み出せなかった。
「芝居だけでは食べて行けないよ」
いつになく、先生は執拗(しつよう)にすすめられた。
いまにしておもうと、ただ、食べて行けないという一事だけで、先生は小説を書けとすすめられたのではないような気がする。

エッセイは、いつ、どの媒体に掲載されたものか。文庫には初出リストがつけられていない。なんとしたこと!
先行した『私の歳月』(講談社文庫 1984.6.15)には巻末に初出リストが掲載されているというのに。

池波さんのエッセイは膨大な数ある。直木賞受賞から急に増えている。その人生行路の厚みに、読み手が熱い興味を寄せている証しといえようか。

例の『完本池波正太郎大成 別巻』の年譜をあたることにした。
『新・私に歳月』は、同題の単行本(講談社 1986.5.10)の文庫化である。
手間惜しみをして、1986年から遡行。
1分とかからなかった。1985年1月号の『波』(新潮社のPR誌)に発表されていた。

長谷川伸師は、池波さんの中に、物語作家としての才能が隠されていることを見抜かれたのであろう。

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