観世音菩薩
朝日文庫『小説の散歩道』(1987.4.20)に収められている、[長谷川伸]とタイトルされたエッセイは、すでに引用した。
(1961年10月記)と注記されている。長谷川伸師が逝去する1年8カ月前だ。
私ははじめに戯曲をやって、自分の作品が三つ四つ上演されるようになってから、今度は小説の勉強を始めた。
そのころ、ひどいスランプになったことがある。あまりに自信を失い、ひょろひょろと先生のところへうかがったとき、先生は発熱して寝ておられたが、すぐに起き上がって茶の間へ出てこられた。
(ぼくは、何という無茶な、図々しいまねをしたものだろうか---)
先生は、ぼくがつくったウタだと言われて、左のようなウタを示された。
観世音菩薩が一体ほしいとおもう五月雨ばかりの昨日今日
何日も机の前にすわりつづけ、書けなくて、ここに観音像の一つもあったらすがりつきたいほどだ、という作家としての苦悩をよんだものであった。
「ぼくだってだれだって、みんなそうなんだよ、元気を出したまえ」
私は、勇気を得た。
池波さんにとって、長谷川伸師は、単に脚本や小説を書くための先達・指導者以上の存在だったことが、これでわかる。
そう、父親がわり以上---人生の師であった。
観世音菩薩像だが、茶の間---新鷹会の会場でもあった八畳の間の、明かりとりの窓の前に、いま、安置されているのが、ウタが読まれたあとに、求められた観音像であろうか。
池波さんのスランプに関連し、朝日新聞社刊『長谷川伸全集』第12巻(1972.5.15)の「付録月報」の写真を思いだした。
1938年(昭和13)に撮影とキャプションが付されているから、池波さんが入門する10年以上も前の、長谷川夫妻と飼い犬が写されている。場所は二本榎の長谷川邸。
ワン公は柴犬。
何かの雑誌に掲載されていたこの写真を池波さんは、ある感慨をもって目にしたと推測しているのだが。
というのは、『鬼平犯科帳』[9-4 本門寺暮雪]、〔凄い奴〕との石段上での決闘で、長谷川平蔵は窮地に立たされる。
その切り抜け策に難渋していた池波さんは、柴犬に救われたと書いている。
長谷川伸師と遊んでいる柴犬のこの写真が、ひらめかなかったとはいえまい。
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コメント
なんだか、長谷川伸ご夫妻が、まるで役宅での長谷川平蔵、久栄と『クマ』に見えて来ますねぇ。
投稿: ぴーせん | 2007.03.26 21:41
>ピーセンさん
いわれてみると、まったく、そのとおりです。驚きました。
投稿: ちゅうすけ | 2007.03.27 12:11
『長谷川伸全集 第二巻』(朝日新聞社 1971.11.15)の村上元三さんの巻末解説に、長谷川伸師の言葉として、
「わたしは信仰心も何もなく、自家用の言葉でいえば光明心があるだけだ。光明をどこかに在りと思う、そのこころもちのことである。(中略)観世音菩薩がどのくらいに説き分つべきものかをすら知らないが、何となく好きだ。いつかは一体安置したいと思っているが、なかなか果たせない」
と引いたあと、芝白金の自宅には、書斎に木彫りの観世音が1体、客間の床の間に銅の観世音が一体、それぞれ安置されていた。
つまり、写真に収めた観世音菩薩像は、銅製のなのだ。
投稿: ちゅうすけ | 2007.04.06 15:09
「熱愛」でお宅をご訪問した時、管理の方からお話を伺ったあの部屋に観音像ありました。
池波さんが勉強会に参加されていた時分からこの観音像はこの客間に置かれていたのでしょうか。
緊張し修練の場には相応しい救いの観音様なのですね。
長谷川伸ご夫妻と芝犬の写真は本当に平蔵とクマを彷彿とさせますが、実際の池波さんは犬はお好きだったのでしょうか、動物の出てくる小説って他にもあっただろうかと今思い出しているところです。
投稿: みやこのお豊 | 2007.04.09 01:01
『剣客商売』で、[たま]って猫の出てくる篇があります。
エッセイによると、池波さんのところの飼い猫が糸口になって篇ができあがったと。
それと、伊三次の[猫じゃらしの女]。
投稿: ちゅうすけ | 2007.04.10 07:50