〔新鷹会〕を退会
「いままで発表した作品のうち、小説では一回目と二回目に直木賞候補になった[恩田木工(もく)]と[信濃太名記]それに今度受賞した[錯乱]に愛着がある」(読売新聞・1960.7.30 文化欄)
未収録エッセイ集『おおげさがきらい』(講談社文庫 2007.03.10)に収められている小文である。
注記にあるように、この稿は1960年(昭和35)ものものだから、池波さん37歳、戯曲から小説へも手を染めるようになって5年目がすぎたあたりで、作品数だってわずかだった。
直木賞の候補となった作品が掲載された媒体を記してみる。
1956年下期 [恩田木工] 『大衆文芸』
1957年上期 [眼(め)] 『大衆文芸』
下期 [信濃大名記] 『大衆文芸』
1958年上期 [秘図] 『大衆文芸』
1959年下期 [応仁の乱] 『大衆文芸』
1960年上期 [錯乱] 『オール讀物』
受賞作の[錯乱]の外は、すべて〔新鷹会〕が発行元の『大衆文芸』に発表されている。(写真は2006年10月号)
このことは、池波さんがいかに勤勉な書き手だったかを示すとともに、会員からは、『大衆文芸』を占有しすぎるといった陰の声がささやかれていただろうと、推測させる。
『大衆文芸』への掲載は、月1回の勉強会へ作品を持参、長谷川師ほか全員の前で朗読。先達のきびしい質問・批評・助言・講評を経て掲載決定---というきわめて公平におこなわれていたと聞く。
だから、掲載作品数が多い池波さんがねたまれる筋合いないはず。
しかし、功名心を秘めた若者たちのこと、それだけ羨望心も強かったのであろう。
そこのところを察していたらしい長谷川伸師とのあいだに、こんな会話があったことを、未収録エッセイ第4集『新しいもの 古いもの』(講談社 2003.6.15)の[亡師]に書き残している。
あれは、(長谷川伸師が)亡くなる一年ほど前のことだったろうか---。
奥さんと三人で世間話をしているときに、これも突然、師が、
「君ね。もし、ぼくが死んだあとで、みんな(門下生)が研究会をつづけて行くようなら、君は七保(なお 奥さん)とだけのつきあいに給え」
と、いわれた。
このため、私は師が亡くなられると同時に、門下生たちがつくった財団法人(新鷹)からはなれた。
「旦那さまは、なぜ、あんなことをあなたにおっしゃったのかしら?」
「さあ---?」
と、その後も未亡人を訪ねるたびに、二人していろいろ考えたあげく、そのこたえを二つ三つ出してみたが、亡師の本当の意中は、いまもってわからない。(季刊『劇と新小説』第1号 1975.11 [長谷川伸先生追悼紙碑)。
七保未亡人も、〔新鷹会〕の会員で池波さんと仲がよく、作品のテレビ化に力をつくした市川久夫プロデューサーからも、また、勉強会のあと、池波、市川両氏とともに喫茶店で勉強会の二次会をやった新田次郎さんからも、推測を聞くことは、もう、できなくない。
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