カテゴリー「089このブログでの人物」の記事

2012.05.12

天明7年5月の暴徒鎮圧(4)

ここまでおつきあいいただいた鬼平ファンの中には、あの若衆髷(まげ)の扇動者とその男を護衛している坊主頭はどうなったとお訊きになる向きもあろう。

参照】2006年4月26日[長谷川平蔵の裏読み

このエビソードは、じつは『夕刊フジ』の連載のために調べた。
架空の話ではない。
ところが、今回、あらためて調べなおそうとしたら、原典が見つからない。
3.11の地震で崩壊した書斎を修復もしないで、なんとかスペースをみつくろいパソコン机を置いていたが、それもそのままにして入院、手術。
あと、緩和ケアーをすすめやすくするために、家族の居住区に小さな仕事場兼病室をしつらえて移った。
史料を保管している書庫は元のところのままなので、手元には数少なくしか置いていない。

しかも、ちゅうすけ自身は病気の進行で体力が激衰し、このブログのコンテンツを5行書いては横手のベッドに寝ころんで息づかいが正常に回復するのを待ってはまたパソコンに向かう。

今回、弓の2番手と6番手が詰めた伝通院組の担当区割りの打ちこわしには姿をみせなかったということにしていただきい。


言い訳はこのくらいにして、打ちこわしが徳川幕閣に与えた影響について触れたい。

再度の依頼で恐縮だが、5年前、2007年8月31日の当ブログ[先手組に鎮圧出動指令]を再見していただけないだろうか。

このところ、騒擾(そうじょう)の経緯をめぐっていささか新記述を加えているので、5年近く前のコンテンツとドッキングしていただくと事態がはっきりしてこよう。

事態――そう、天明7年(1787)5月の江戸城内の気配である。

参照】、2007年8月31日[先手組に鎮圧出動指令

この風聞書が徳川宗家に保存されていたことから、御庭番に隠密を命令したのは、田沼意次とその派の横田筑後守準松、本郷大和守泰行らに距離を置いていたただひとりの側衆・小笠原若狭守信喜と推理している。(深井雅海「天明末年における将軍実父一橋治済の政治」)

家斉(いえなり 15歳)とともに本城へ移った用取次ぎ・小笠原若狭守信喜(のぶよし 69歳 7000石)については、入院中の3月にけっこう長く言及した。

参照】201234~[小笠原若狭守信喜] () () () () () () (

5年前に小笠原信喜に登場してもらったときには、天明の政変にこれほど大きな影響を及ぼした幕閣とは予想もしていなかった。

いまではすっかり手垢にまみれた「想定外」という言葉が、ちゅうすけにとってはこのご仁にぴったりといえる存在になっている。

田沼意次(おきつぐ 69歳)が不本意な依願免職の形で身を引いたこのとき、本城で田沼派の首領格として派閥をささえていた横田筑後守準松(のりとし 54歳 9500石)を、信喜が追い落としたのである。

江戸の打ちこわしの収束策の検討の場で、横田準松が少年将軍・家斉へ事態を正しく奏上していなかったと責め、免職をいいわたしたのであった。

これは、一橋治済の暗躍によりご三家の要望として、松平定信(さだのぶ 30歳 白河藩主 11万石)を老職にくわえるように老中会議へ送ったところ、徳川一族の者を幕閣にいれてはならぬという九代将軍・家重(いえしげ)の遺志に反するとの、家重の意向の拡大解釈を理由に拒否されていたのを粉砕す地雷となった。

小笠原信喜は、庭番による打ちこわしの風聞書も、打ちこわし頭取格の男が目安箱へ投げいれた意見書も横田準松へ何気ないふりで手わたしていたのであるから、その内容を家斉に告げなかったのは、たしかに責められてもしかたがない。

横田の失脚により、打ちこわしの約1 ヶ月たらずののちの6月19日に定信は宿願の老職となることができた。


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2012.05.11

天明7年5月の暴徒鎮圧(3)

騒擾(そうじょう)は5日目――5月24日の午前中に熄(や)んだ。

とはいえ、先手の10組が詰所を引きはらったのは、7日目の夕刻で、出し遅れた出動命令のぶざまを糊塗(こと)するかのように、平静にもどった町中を2日間、巡行しているのも、なんとなく滑稽であった。

組の指揮は6番手の組頭・松平庄右衛門親遂(ちかつぐ 60歳 930石)にまかせた平蔵(へいぞう 42歳)は、本城・控えの間で少老(若年寄)の一人・井伊兵部少輔直朗(なおあきら 41歳 与板藩主 2万石)とひそかに対面していた。

直朗は、平蔵が暴徒の一隊の惣代・掛川藩浪人の吉田喜三郎(きさぶろう 30がらみ)とつなぎ(連絡)をつけ、そこから集団の惣代たちと頭取の談合にむすびついたことを手柄と認めてくれた。

「頭取やらとかの意見書は目安箱に入っておりましたか?」
「入っておったが、ご用取次の小笠原どのが封もきらずにお上へおとどけになった」
小笠原さま……_」
「そう、若狭守信喜 のぶよし 69歳 7000石)どのとすれば、大老・井伊掃部頭直幸(なおひで 59歳 彦根藩主)どのにとどけ、同僚先任の横田筑後守準松(のりよし 54歳 6000石)どのへ預けたらしい」

このとき、堺、淀、伏見、大津、駿府、甲府、奈良などの幕府直轄の地でも打ちこわしが起きている(竹内 誠『寛政改革の研究』(吉川弘文館)しらせを受けていた井伊大老は、暴徒頭取の意見書に事件終焉の糸口をみたであろう。


また、打ちこわされた江戸の米穀店500店、参加した江戸・下層民の数は24組、延べ5000人と概算されているが、刑に処されたのは42人で、しかも裏長屋住まいの細民がほとんどとの記録がのこされている。

刑も追放がほとんどで、農民一揆の発頭人の重刑にくらべると、ごくごく軽かった。


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2012.05.10

天明7年5月の暴徒鎮圧(2)

(たち)朔(さくぞう 37歳)が社務所に会談場所の借り受けの交渉にいっているあいだ、平蔵(へいぞう 42歳)は御手洗(みたらし)場で待ちながら、梅雨もよいの空を眺めていた。

騒擾(そうじょう)集団の惣代という30男が、筆頭与力・小津時之輔(ときのすけ 48歳)が左手に保持していた革たんぽ棒に目をとめた。

「こんどの打ちこわし対策用に、特別にあつらえさせたたんぽ棒だ」
平蔵が気軽に解説すると、惣代は驚いた顔になり、
「何ヶ月も前からこのことを予想していたのか?」

「そうだ。いや、想見したのはわれではない」
「だれだ? 聴かせてくれ――」
「知りたいか?」
「知りたい」

「なれば、おことから名乗れ」
ちょっと逡巡したが、
「遠州浪人・吉田喜三郎(きさぶろう)」
「相良ではあるまいな?」
「ちがう。掛川だ」

「このことあるを想見なさったのは、相良侯だ」
「いつだ?」
「2年前だったかな」

「それで、長谷川うじがたんぽの内に穂先をくるんだ槍を考案なさったのか?」
「穂先をくるんだ? 革ぶくろの中にあるのは綿だけだ」
「なんと――!」
「このことは、戦さではなかろう? 食っていけないことを公儀と世間に訴えているだけであろう。そういう衆を斬ったり突いたりするわけはなかろう? そのために、わざわざ綿入れのたんぽ棒をつくらせた。たぶん、大坂の町奉行所でも、こたびはこの棒をつかっているはずだ」

参照】2012年4月6日~[将軍・家治の体調] (3) (4) (5

次席が、席の用意ができたと告げにき、社務所の控えの間へ移ってからも、しばらくは革たんぽ棒の話題がつづけられた。
長谷川うじ。ご一統がお進みになるときに、鈴音のような鳴り物がする、あれは――?」
「景気づけの出囃子(でばやし)さ」
「出囃子――?」

「お化けだって登場するときには音を背負ってあらわれる。そこで、組衆が帷子(かたびら)の下にもう1枚まとっておる鎖帷子(くさりかたびら)の右腕に小鈴を100ヶほどもつけ、腕を振るたびに音を発するようにし、長谷川組の出番をしらせる」
「恐れいりました。長谷川うじにとっては、出役(しゅつやく)も遊び同然ですな」

「いや。そのようにはおもっておらぬ。おことたちにはご公儀に訴えたい必死の訴状があろう。その気持ちに対する拍手と受け取ってもらえると、あの鈴の音もなかなか風流に響こうか」

惣代を自称した遠州浪人・吉田がくずれた表情で平蔵を見すえた。
「ご公儀の中にも、長谷川うじのようにわれらを見てくるれる仁がおるのですか?」

「富商のとめどない欲肥(こ)えにはご公儀もほとほとあきれかえっていても、それを止める手だてが 見つからぬ。おことたちのこたびのやりようは、おことたちでなければできなかったことだとおもう士も少なくはなかろう。
とにかく、このあたりでおことたちのいい分をとりまとめて評定所の目安箱へ投げ入れ、しばらく結果を待ってはいかがであろう」

騒擾を起こして以来、やっと話しが通じる幕吏と出会えたとおもったのであろう、吉田惣代も首をたてにふり、惣代・頭取の談合にはかってみるといった。

平蔵が得た感触では、相当に上のほうから仕組まれた騒動というだけで、その正体まではうかがえなかった。

 


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2012.05.09

天明7年5月の暴徒鎮圧

4昼夜におよんだ江戸の打ちこわしのおおよそを過去のコンテンツから、ざっと復習したい。

参照】2007年8月29日[堀 帯刀秀隆
2007年8月30日[町奉行曲渕甲斐守景漸(かげつぐ)]


先手10組にようやくに出動命令がくだったのは、23日の朝であった。

火の見櫓からの手旗により、水道橋から小石川金杉水道町へむかっている一団があるとの知らせが告げられた。
平蔵(へいぞう 42歳)は、鎖帷子(くさりかたびら)を着こんだ2番手の与力・同心と小者らの20人の右腕をうち振らせながら、6番手の組の20人を指揮して安藤坂へと急いだ。

先頭の長谷川組の20人が腕を振るごとに、姿の見えない鈴の合奏が町にひびくので、なにごとかと通り筋の家々がわざわざ表へ飛びだして見送った。

中には、鈴にあわせて手拍子を打ちながら、後ろからついてくる若者や子どももいた。

安藤坂にさしかかると、平蔵が号令をかけた。
「速脚(はやあし)!」

革たんぽつきの槍棒を小脇にかいこんだ40人が走ると、右腕の鈴の音とともに大軍団が駆けている喧噪が通りを貫いた。

「銭鬼(ぜにおに)!」
「欲呆(よくぼ)け!!」
「人でなし!」

口ぐちにののしりながら、いまにも竜門寺門前町などに5軒ほど点在していた米穀店の表板戸を破ろうとしていた暴徒が鈴の音に、手をとめて鎮圧隊のほうをみた。

「売り惜しみ屋!」
「おお。そういう打ちこわし屋へ申しつける。お上はこの3日間、そこもとらとの話しあいの機会をさぐってきたが、ひとりとして名乗りでてこぬ。ここには惣代はおらぬのか」
陣笠に火事装束の平蔵が呼びかけた。

暴徒が静まり返った。
「われは、先手・弓の2番手組と6番手組の総大将・並(なみ)の長谷川平蔵という者だ。そちら側のいい分を聴こうではないか」

一団の中から、まともの衣装の男がでてき、平蔵の前に立った。

「おことが惣代か?」
30男がうなずいた。
「よし、牛天神(うしてんじん)さんの席をかりて話しあおう。話がおわるまで、みなの者を境内の日陰で休ませてやれ」

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牛天神 諏訪神社 『江戸名所図会』 塗り絵師:(ちゅうすけ)


社務所へ先にたって歩む平蔵に、6番手組の筆頭与力・小津時之輔(ときのすけ 48歳)と2番手組の次席与力・(たち) 朔蔵(さくぞう 37歳)がたんぽ棒を手に従った。

30男の惣代には、10代とおもえる前髪の少年がついていた。

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2012.03.16

愛馬・月魄(つきしろ)の妄想(3)

「良医といえば、手前のところの裏店で貧しい者には診立(みた)て代の請求をおくらせてやっている拓庵という先生がいます。診療と薬代はほとんど医書の支払いにあてているらしいく、着物も食事も粗末なもので、近所の者は拓庵じゃなく、漬物のほうの沢庵先生とおもっています」
音羽(おとわ)の重右衛門(じゅうえもん 59歳)が洩らした。

多岐(たき)元簡・もとやす 32歳)の顔がほころび、
「その沢庵先生、越後なまりがありませんか?」
「ありますどころか、すっかり越後弁です」
「それじゃあ、笹野さんだ」

元簡によると、拓庵は新発田(しばた)藩(10j万石)の藩医の三男で、医学館の元の塾名・躋寿館(せいじゅかん)時代に遊学にきていたが、そのころから粗衣貧食で医書の虫であったという。
藩主の手がついた侍女が産んだ双子の一方が藩医にもらわれたとのうわさもあったらしい。

紋次(もんじ 43歳)どんに、かわら板のタネになるかどうか、あたってもらいましょう」
〔箱根屋〕の権七(ごんしち 54歳)がうまくおさめ、元簡が、
「父に、拓庵先生の蔵書の一部を買いあげるように申しておきます」

沢庵先生の蔵書の中に稀書でもあれば話はできあがりですな」
^平蔵がしめた。


奈々(なな 19歳)が剛(つよ)すぎ――といったのが月魄(つきしろ)のことだとわかったときには、奈保(なほ 23歳)どのも先生もほっとしていたぞ」
腰丈の閨衣(ねやい)で、いつものように右膝を立てて冷や酒の盃を傾けている奈々は、自分の発言が座を立たせたことなどけろりと忘れてい、
「そやかて、奈保はんのとこ、いっしょになって5年も過ぎてはるのに、先生いうたら、昼間の診察のときでも、おさまjらんいうて、居間にかけこんできはるんやって---」

「それはさんにかぎるまい。われは昼間はお城につめておるからそうはいかぬが、奈々をとつぜん抱きたくなることがときどきあるぞ」
「うれしい」
奈々が膝をたたんだ。
閨へ移りたいというしぐさであった。

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このごろの月魄は、奈々に裸で乗ってもらいたがった。
裸でとは、奈々のことではない。
鞍をつけない月魄の背に---である。

もちろん、奈々は野袴なしなので、またいだ奈々の内股と無毛に近い秘所がじかに月魄の背に接する。
奈々も月魄のなめらかな毛並みを感じるが、月魄のほうはそれ以上にしっとりした女躰の肌の感触に酔うらしい。
「局部がのびてくる」
馬丁・幸吉(こうきち 20歳)の観察であった。

「月魄も5歳だ」
「人間なら---?」
平蔵の指がわれ目をまさぐる。

「20歳の男(お)の子といえる。雌馬を経験させてやらねばな」
「雌馬を知ったら、うちのこと、忘れてしまうんとちがう?」
「それと奈々のとは、別ごとであろう」

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2012.03.15

愛馬・月魄(つきしろ)の妄想(2)

問いかけた当人でもないのに思いあたるふしでもあったか、奈保(なほ 23歳)の面にみるみる朱がさした。
それをみとめた夫の多岐(たき)安長元簡 (もとやす  32歳)が狼狽ぎみに、
「うーむ」

奈々。そのことは、宴が果ててから先生にじっくりお教えをうけるとよい」
平蔵(へいぞう 41歳)がたしなめると、奈々(なな 19歳)はあっさり、
「そやね」
首をすくめ、空(から)になった銚子をもつと帳場へ去った。

雰囲気を察した音羽(おとわ)一帯の香具師(やし)の元締・重右衛門(じゅうえもん 59歳)が、話題を元へ戻す。
「佐久間町の先生。先刻お口になさりかけた、『(ごう)、もっと剛(つよ)』の刷り増しに代わるもののおこころあたりでございますが、いかような---?」

「廻り貸本の衆としても本の損料だけでは動きますまい。やはり、あとを引く売り薬の利が目当てでしょう。それには、病人を多くつくることです」
「病人をつくる---?」

「人というものは財ができると陽よりも陰(いん)の兆(きざ)しというか、不幸のタネをさがす生き物です。達者そうにみえても躰にこんな不具合がありそう---そう、たとえば、膝が痛むことはないか、寝つきはいいか、心の臓がときたま早く打つことはないか、肌の色が冴えないといわれたことはないか、便は毎日あるかと訊かれると、二つや三つはたちまちおもいあたるものです。そういう不具合を教えてそれにそなえる薬を教える本があれば、一家に1冊そなえ、無理にゆとりをつくって薬を求めましょう」

「しかし、薬を卸す先生のほうは、いつ売れるかも知れない薬を大量に用意しておくことになりかねないが---」
平蔵が心配した。

「いえ、医学館で用意する薬はいくつかだけで、これは塾生の小遣いかせぎにつくらせます。ほとんどの薬は貸し本屋と地元の薬舗との話しあいにすればよろしい。本が医学館の編集ということだと薬舗仲間からは文句はでないはずです」

「おお、そのための躋寿館(せいじゅかん)あらため医学館でもありましたか」
権七(ごんしち 54歳)の感心した口ぶりにおっかぶせて平蔵が、
先生。躋寿館(せいじゅかん)が幕府の医学館と改まったこと、なにかの美談にことよせて紋次(もんじ 43歳)どんのところの[かわら板]にお披露目させないとな」

「さすがさん。いいところへ気がおつきになった。父(元悳(もとのり))法眼は、塾名改称の祝賀の宴を考えております。その席で名医か良医を褒賞することを提案してみましょう」

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2012.03.14

愛馬・月魄(つきしろ)の妄想

天明6年(1786)年が明け、長谷川家はつつがなく一つずつ加齢した。

平蔵(へいぞう 41歳)
久栄(ひさえ  34歳)
辰蔵(たつぞう 17歳)
(ゆき    19歳……じつは25歳
 津紀(つき)   3歳)
(はつ     15歳)
(きよ      12歳)
銕五郎(てつごろう 4歳)
(たえ     61歳)
与詩       29歳) 

奈々(なな    19歳)  

  
正月10日の夕刻、多岐(たき)安長元簡 医師夫妻(もとやす 32歳とお奈保(なほ 23歳)が茶寮〔季四〕に顔をみせていた。
平蔵がお祝いに招いたのである。

お祝いというのは、火災で焼失した躋寿館(せいじゅかん)を多岐家が自費で再建した医師養成所が、昨日、名を医学館とあらため、幕府の正式機関と公認されたからであった。

当時34歳だった平蔵躋寿館とかかわりができたのは、火盗改メの組頭・(にえ)安芸守正寿(まさとし 39歳=当時 300石)を介しての奇遇であった。

参照】2010年12月12日~[医学館・多紀(たき)家] () () () () () (

こうして平蔵は、多岐安長元簡と知りあった。

参照】2010年12月18日~[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] () () () () () () () (

里貴(りき 35歳=当時)も、元簡奈保を引きあわせた。

(ごう)、もっと剛(つよ)』の板行で、平蔵元簡の仲がもっと深まっただけでなく、町駕篭〔箱根屋〕の権七(ごんしち 54歳)や香具師(やし)の大元締・〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 59歳)たちともつながった。

参照】2011年12月23日~[別刷り『剛、もっと剛(つよ)く』] (1) ( () () () () (

今宵はお祝いということで、権七重右衛門も招かれている---というより、2人が元簡に相談をもちかけたいということで、平蔵が気をきかせた。

:献酬がひとわたりすんだところで権七が、平蔵に問いかけるふりでく口火をきった。
長谷川さま。あちこちの元締衆が廻り資本屋たちからの強い要望としてあげてきとるのは、『(ごう)、もっと剛(つよ)』の刷り増しです。
もちろん、当初に一刷りで刷り増しは一切なしと釘をさされておりますが、お客の声は天の声でして---」

平蔵はちらりと元簡に視線を走らせ、
「安さんの躋寿館(せいじゅかん)が念願かなって公けの医学館に格上げになったお祝いの席で、刷り増しの件を持ちだすとは権らしくもない---」

「申しわけありません」
ぼんのくぼをかいて引きさがった形の権七を、
「いや、人の慾に、まだ---はあっても、もう---はないのが、昔からのいいつたえです。刷りましの代わりになるものをなにか考えてみましょう」
元簡がとりなした。

「ところで多岐先生。男はんの精を剛(つよ)める八味地黄丸がよしとして、精を弱める漢方はおまへんの?」
訊いた女将・奈々を、怪訝な---といわんばかりに奈保が瞶(みつめ) た。

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2011.12.22

道中師・〔磯部〕の駒吉

建部大和(守広殷(ひろかず 58歳 1000石)の一行が品川の方へ発(た)つと、後を追うように〔磯部(いそべ)〕の駒吉(こまきち 40男)一味も去った。

それまで賑やいでいた大木戸あたりから人が四散し、ぽっかり穴があいたように静寂になった。

月魄(つきしろ)を楯にして身をひそめていた平蔵(へいぞう 40歳)は、松造(よしぞう 34歳)ともに店前の縁台に腰をおろし、〔磯部〕の駒吉の生まれや盗法にのあれこれを仕入れはじめた。

生まれは相模国高座郡(こうざこおり)磯部村(現・神奈川県相模原市磯部)、20歳になる前から道中師として腕をふるっていた。

旅籠に宿泊し、湯に浸(つか)っている客に相棒が話しかけて引きとめてるあいだに忍びこんで荷物から金めのものを盗み、外で待っている別の相棒へ渡したり、道中で親切めかして相客になり、酒をおごって眠らせておいて仕事をするとか、あらゆる悪知恵をつかっていたらしい。

「東海道はわが家の庭同様にこころえております、いえ、それほどに通暁しているってことでございます」
「すると、今日、仕事をするのは保土ヶ谷宿だな?」

平蔵は、駒吉の身になって手順を考えてみはじめた。

建部禁裏附が最初の泊する保土ヶ谷宿の本陣・苅部清兵衛の様子をおもいだしていた。

最も近い東海道の旅といえば、天明2年(1782)の嶋田宿の往還であったが、のぼりは事情があって藤沢宿泊まりであった。

参照】2011年4月21日~[古川薬師堂 ] () (
2011年月23日[〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛] (

帰路は、嶋田宿の本陣の若女将・お三津がいっしょだったために、保土ヶ谷宿では離れがある旅籠をお三津が選んでいた。

参照】2011年5月21日[[化粧(けわい)読みうり]西駿河板

その前は、記憶がさだかではないが、安永元年(1772)、京都西町奉行として赴任する亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)に先行、京上りをしたときだが、脇本陣の〔藤屋〕四郎兵衛芳に泊まった。
出仕前の身分の銕三郎(てつさぶろう 27歳=当時)には、保土ヶ谷宿に一軒しかない本陣・〔苅部〕は敷居が高すぎた。

26年前、老中を退(ひ)いていた駿州・田中藩主の本多伯耆守正珍(まさよし 50歳=当時 4j万石)の使いで東海道を上ったときにはそれぞれの宿で本陣に泊まるように父が事前に送金してくれていた。
三島宿で本陣・〔樋口〕の隠し子で若後家になったばかりのお芙沙(ふさ 25歳)と縁ができた。

いや、その前、18歳のときに与詩(よし 6歳)を迎えに駿府(現・静岡市)まで往復したが、私用がらみの旅であったから脇本陣づたいのような旅であったな。
それに、三島宿から藤枝までは阿記(あき 22歳)づれであったし---。
(われの旅には、どういうわけか、おんながからむから奇妙だ。女躰の記憶のほうが鮮明でもある)

顔は見覚えはあるが、20年も前に見かけただけなので声をかける間もなく、急ぎ足でとおりすきた先手・弓の7組の同心3名につづき、荷車を引いた小者たちや、修験者や職人ふうに変装したとおもわれる一群も西へいそいでいた。
歩き方が、ふつうではなかった。
荷車の長持には、刺股(さすまた)などの捕り物武具が隠されているのであろう。

ほどなく、次席与力・高遠(たかとう)弥之助(やのすけ 43歳)が姿をあらわし、月魄に目をとめ、すぐに縁台の平蔵に気づき、寄ってきた。

「なにか、おこころにとまりましたか?」
さすがに勘ばたらきがいい。

「道中師の一味は、本陣・〔苅部〕から1丁とは離れていず、人目につきやすいところへ放火して騒ぎをおこすでしょう。
事前にひそかに問屋場の役人たちに通じておき、火消し組の出の手配をなさっておおきになるとよろしい。〔苅部〕には、あらかじめ引き込みがはいっていましょう。おんなかもしれません。ここ2ヶ月に新しく雇われた者を洗いだし、今夜の動きに注意なされい」
「2ヶ月におかぎりになった理由(わけ)は?」
建部さまの発令がそのころだからです」

「そのあたりから狙いを---?」
「公卿衆への高価な贈り物と路銀が狙いと見ました。路銀は帳場に預けず、同行している内与力に持たせて脇本陣に宿泊させる手もあります」


平蔵の読みどおりに放火があり、〔磯部〕一味はほとんど逮捕された。

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2011.12.05

武具師〔大和屋〕仁兵衛

「どうであろう、〔大和屋〕。鎖帷子(くさりかたびら)の一種だが、鎖を帷子に縫いつけるのではなく、鎖を衣服のように着た上から上衣を羽織りたいのだが---」
平蔵(へいぞう 40歳)から相談をもちかけられた〔大和屋仁兵衛(にへえ 55歳)は、かたわらの息子・市兵衛(いちべえ 32歳)をかえりみた。

「お申しこしの衣服のごとくに躰にそってしなやかに着こなすとしますと、方寸(3cm平方)ごとの鎖枠を胴なり腕なりに添うようにつなぎあわせることになります」
市兵衛が宿題の答えをのべた。

数奇屋河岸・西紺屋町2丁目の武具・馬具師〔大和屋〕は、かねてから長谷川家に出入りしていた。
先代の亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)がつくらせた鞍を、月魄(つきしろ)の躰形にあわせて調整したのも〔大和屋}であった。

Photo_2
(赤○数寄屋河岸の武具商〔大和屋〕 『江戸買物独案内〕)

西丸・徒(かち)の組頭としての職席手当てとでもいうべき足高(たしだか)の春の支給分300両(4800万円)を蔵宿・〔東金(とうがね)清兵衛(せえべえ 40前)がとどけてくれたのを機iに、老中・田沼意次(おきつぐ 67歳)からかけらけていた謎に応えることにした。

参照】2011年11月29日[〔東金(とうがね)屋〕清兵衛の相談ごと] () 
2011年9月11日[老中・田沼主殿頭意次の憂慮] (

「われの組子30人分と、われとわれの家士5名、それと愛馬・月魄のものもふくめ、130両(2080万円)でまかにってほしい」
「はい---」
「なに、われの注文分は、われのふところから出る。しかし、ご公儀もわれの組子らの鎖帷子を見、すぐに発注があろうから、損はさせない。ご公儀には、2割増しの見積りをいっておく」
「よろしゅうに---」

袖口に藤の枝花をあしらった上着と裾を縛った下短袴は、里貴(りき 逝年40歳)がよくつかっていた尾張町の恵美寿屋であつらえた。

できあがった鎖衣と帷子は、組子にはわたさず、長谷川家の蔵にしまわれ、出番がきたのは、2,年後の天明7年(1787)の江戸騒擾事件のときであった。

参照】2006年4月26日[長谷川平蔵の裏読み
2006年4月27日[天明飢饉の暴徒鎮圧を拝命] 

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2011.12.04

〔東金(とうがね)屋〕清兵衛の相談ごと(5)

「昨日は、かえってご迷惑をおかけしました」
東金(とうがね)清兵衛(せえべえ 40歳まえ)が、采女ヶ原の〔酔月楼〕の座敷でひれ伏した。

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采女ヶ原馬場 『江戸名所図会』 塗り絵師;ちゅうすけ)

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(采女ヶ原の料亭〔酔月楼〕 『江戸買物独案内』)

馬場でのどよめきが流れてくることで知られているここで待っていることを、西丸の退出口で松造(よしぞう 34歳)にささやかれた平蔵(へいぞう 40歳)が、座につくなりであった。

「どうもない。後家どのは酔いつぶれ、侍女たちが寝所へ運んだわ。あれで、着物下はけっこうな肉置(ししお)きらしく、手こずっておった」
五十後家のあられもない姿態をおもいだしたように、平蔵が笑いながら打ちあけた。

信じがたいといった表情の清兵衛に、
「あの屋敷内で世間の思惑どおになってみよ。うわさはたちまちのうちに青山はおろか、番町までひろまろう」
平蔵はそれがくせの片えくぼで茶化した。

ありようは、
「35歳からこっち、男を絶ってきたも同然。里貴(りき 逝年40歳)どのがお相手と睦んでいらっしゃる閨(ねや)ごとを想いやっただけで躰中の血が騒ぎたて、迷いは深まるばかりでした」
からまれたのを、矢つぎばやに酌をし、躰がままならなくした。

里貴が病死したことまでは耳にとどいていなかったことも幸いした。

告白どおりに35歳からといえば、脇腹が嫡子・孫三郎(まごさぶろう 17歳)を出産してからということになる。
亡主・江原与右衛門胤親(た,ねちか 享年45歳)も親戚も、よくも10数年、嫡子産まずの於曾乃(その)を我慢したものともいえる。
江戸の武家社会の美談の一つにあげてもいい。
ふつうなら、3年で離縁されていても苦情はいえない。

もちろん、孫三郎の生誕後であっても、於曾乃が男の子を産めば家督は正妻の子の権利というきまりになっていた。

お家騒動の火種もそんなところから始まる。

孫三郎の誕生、そのあとも母胎の異なる矢つぎばやの2男4女で、お曾乃は名ばかりの正妻になってしまった。

「で、孫三郎どのの生母はいかがなされたのかな? 内室の地位をのぞまれなかった?」
「お上にとどけられるような格の女性(にょしょう)ではなかったと聴いております」

「腹は借りもの---とは、いいえておる」
「はい」

しかし、平蔵は6k;k実母・(たえ 61歳)に同情していた。
知行地の村長(むらおさ)・戸村家のむすめであっても武家ではないから、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)は、家督後も内室としては届けでられなかった。

金をつめば、どこかの武家の養女という形もとれたであろうが、父母ともにその必要を認めなかった。
子は、銕三郎(てつさぶろう)きり恵まれなくても、睦まじい夫婦(めおと)でありつづけた。

孫三郎どののお母ごは、いまでもお屋敷内に---?」
「いえ。若さまが3歳のときに病歿なされました」
「やっぱりな---」
「はぁ---?」
「大名や武家にはよくあることだ。お家騒動の根を事前に絶っておくことがな」
(たかが400石の家禄であっても、われが長谷川家で生きつづけられたのは、父上のいうにいわれぬご配慮のお蔭であろう。さいわいい、継母は生命の灯が2年しかもたなかったが---)

参照】2006年5月28日[長生きさせられた波津

「それで、長谷川さま。これから、もし、江原の後家さまから、お招きがありましたら、どのように---?」
「おお、そのことよ。〔東金屋〕のためなら、幾度でも出向くぞ。しかし、お招きはなかろうよ、名を重んずれば---いや、女性(にょしょう)という生きものはいつでも己(おの)れのほうが正しいから、この平蔵など、とるに足らない軽輩であった、とさげすんでござろうよ」

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