先手組に鎮圧出動指令
天明7年(1787)5月20日から24日におよんだ江戸町民による打ち壊しの時期を、深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』 (吉川弘文館)の第3編[第3章 徳川幕府御庭番の基礎研究]は、成り上がり組・田沼意次(おきつぐ)一派と、門閥家柄重視組・松平定信(さだのぶ)一派の、政権権力をめぐるせめぎあいの渦中であったと見ている。
この騒乱鎮圧に、月番の町奉行所も火盗改メ・堀 帯刀組(先手弓一番手)も無能であったことを、同著が御庭番の風聞書であきらかにしている文書は、すでに引いた。
2007年8月29日[堀 帯刀秀隆]
2007年8月30日[町奉行・曲渕甲斐守景漸]
そして、町奉行所は機動隊ではない。大がかりな鎮圧訓練もしていなければ、装備も備えていなかったと思える。
火盗改メは、本来は戦闘軍団であるべき先手組から選ばれるが、その組頭が番方(武官系)では役料が最出頭の1500石であるために、幕府後期ともいえる天明期には、ほとんど終身職の気配になっていた。
ちなみに、堀 帯刀はこのとき51歳と、平均よりも若いほうに属していたが、組の戦闘力の劣化はいなめなかった。
ついでだから、長谷川平蔵宣以(のぶため)が先手(弓の2番手)の組頭に抜擢されたのは、騒擾の前年で41歳であった。
このときの、長谷川組を除く33組の組頭の平均年齢は65.2歳と高齢化しており、最長老は82歳、次老が77歳、三老は74歳であった。若手は平蔵をのぞくと46歳が最年少。在職年は平均で7.9年。
そうした中から、暴徒鎮圧が発令された10組は、若手の組頭が選抜されたといっても、リストを見るとおわかりのように、かなり齢をくっている。
(氏名につづく数字が出動発令の天明7年の年齢。平均55.4歳)
弓組
長谷川平蔵宣以 のぶため 42 400石
松平庄右衛門穏光 やすみつ 60 730石
筒組
安部平吉信富 のぶとみ 59 1000石
柴田三右衛門勝彭 かつよし 65 500石
河野勝左衛門通哲 みちやす 64 600石
奥村忠太郎正明 まさあきら56 600石
安藤又兵衛正長 まさなが 60 330俵
小野治郎右衛門忠喜 ただよし 54 800石
武藤庄兵衛安徴 やすあきら46 510石
鈴木弾正少弼政賀 まさよし 48 300石
リストの順序は、 『続徳川実紀』天明7年5月23日の記述順である。
長谷川平蔵が代表のように先頭にあげられているのは、2つの理由による。
まず、弓組は筒(鉄砲)組よりも格が上であること。実戦では鉄砲だろうが、古来からの弓馬の道ということで、格式は弓術のほうが高くおかれている。
2つ目は、長谷川平蔵のほうが、年齢も家禄も上の松平庄右衛門よりも4ヶ月早く先手組頭に着任していること。すなわち、同職の場合は先任順にならぶのが恒例なのである。
2006年4月27日[天明飢饉の暴徒鎮圧を拝命]
2006年4月26日[長谷川平蔵の裏読み]
ついでに書いておくと、小野治郎右衛門は、小野派一刀流の家元の末。
さて、御庭番の風聞書---例によって現代文に置きかえる。
一 このたび、仰せつけられたお先手組は、めいめいの了見次第の趣きによってばらばらに行動していて、足並みが揃っておらないように聞いております。下命を受けた10組のうち、怪しげな者を見かけ次第に捕えたのは、ようやく2組だけとの噂であります。残りの組は、いちおう昼夜町々の所々を警戒に回っているようであります。
なんともしまらない軍律というか、作戦指令である。この時期の先手組は若年寄の指揮下にいたわけだから、若年寄たちも平和ぼけしていたとしかいえない。
それはともかく、深井雅海さんは、この風聞書が徳川宗家に保存されていたことから、御庭番に隠密を命令したのは、田沼意次とその派の横田筑後守準松(のりとし 54歳 9500石)、本郷大和守泰行(やすゆき 33歳 2000石)らに距離を置いていたただひとりの側衆・小笠原若狭守信喜(のぶよし 70歳 7000石)と推理している。
この御庭番を駆使する命令権は松平定信に引き継がれたとも。
史料として、小笠原信喜の個人譜を掲げておく。
礼法を家伝とする小笠原家には3流れがあり、1は武田家から徳川へ。
これは、信濃から今川、徳川から、紀州侯。吉宗について江戸へ来た小笠原である。

(小笠原若狭守信喜の個人譜)








その孫・相模守正亮---伊豆守正虎(まさとら)五男だが、いろいろあって出羽・山形藩主に。その時代に藩財政を立て直すなど、藩政改革才腕を示したと、『新編物語藩史 第3巻』(新人物往来社 976.3.1)の(当時・明治大学教授の)木村礎さん[佐倉藩]にある。
徳富蘇峰『近世日本国民史 堀田正睦』5巻(講談社学術文庫 1981.2.10~ )の第4巻[安政条約締結篇]の末尾に、「幕府の中心においてさえも、開国を好まぬものは、皆無ではなかった。否、真実の開国論者は、幕府当局側においてさえも、むしろ少数であった」と、少ない支持者の中での開国であったこと、また、内には「将軍継嗣問題---水戸斉昭(なりあき)の第七子・一橋慶喜(よしのぶ)の擁立派と、紀州・慶福(よしたみ)の擁立派の対立があった中でのむずかしい政局運営であったことをあげている。
また別に、佐藤雅美さん『開国 愚直の宰相・堀田正睦』(講談社文庫 1997.11.15)もある。



ところが、近くの区の図書館で偶然に手にした、『新編物語藩史 第五巻』(新人物往来社 1975.7.1)に、(当時、誠心女子大学助教授)高牧 実さん執筆の[八幡藩]に、知りたかった経緯はほとんど書かれており これですますことに、ずるをきめこんだ。












吉宗は、紀州藩士出の200余名のうち、半数を側近に配置したと、深井雅海(まさうみ)さん『徳川将軍政治権力の研究』(吉川弘文館)にある(のちに御庭番と呼ばれた薬込組出身の17家もこの中に含まれる)。







深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』
賀川隆行さん『江戸幕府御用金の研究』(法政大学出版局 歴史学研究叢書 2002.3.7 7700円+税)

I氏がわざわざ電話で、「田沼意次はかなり強硬な意見を持って評定所の評議へ参画した史料がある。深井雅海氏『徳川将軍権力の研究』がそれ」と教えてくださった、「郡上八幡一揆の五手掛で審議をした一人---寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ)が書きのこした『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)』 を引用しよう。
『崩れゆく鎖国』の目次の一部





実はこの事件の審議の前後から田沼意次(おきつぐ)が評定所に参加するようになり、この責任者たちの処分には彼の意向がかなり反映されていたらしいから、これを田沼時代の幕開けとする見方もある。(こういう面から郡上騒動を扱った本では、大石慎三郎著『田沼意次の時代』がよい手引き書)。
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