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2007年8月の記事

2007.08.31

先手組に鎮圧出動指令

天明7年(1787)5月20日から24日におよんだ江戸町民による打ち壊しの時期を、深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』  (吉川弘文館)の第3編[第3章 徳川幕府御庭番の基礎研究]は、成り上がり組・田沼意次(おきつぐ)一派と、門閥家柄重視組・松平定信(さだのぶ)一派の、政権権力をめぐるせめぎあいの渦中であったと見ている。

この騒乱鎮圧に、月番の町奉行所も火盗改メ・堀 帯刀組(先手弓一番手)も無能であったことを、同著が御庭番の風聞書であきらかにしている文書は、すでに引いた。

2007年8月29日[堀 帯刀秀隆]
2007年8月30日[町奉行・曲渕甲斐守景漸]

そして、町奉行所は機動隊ではない。大がかりな鎮圧訓練もしていなければ、装備も備えていなかったと思える。
火盗改メは、本来は戦闘軍団であるべき先手組から選ばれるが、その組頭が番方(武官系)では役料が最出頭の1500石であるために、幕府後期ともいえる天明期には、ほとんど終身職の気配になっていた。
ちなみに、堀 帯刀はこのとき51歳と、平均よりも若いほうに属していたが、組の戦闘力の劣化はいなめなかった。

ついでだから、長谷川平蔵宣以(のぶため)が先手(弓の2番手)の組頭に抜擢されたのは、騒擾の前年で41歳であった。
このときの、長谷川組を除く33組の組頭の平均年齢は65.2歳と高齢化しており、最長老は82歳、次老が77歳、三老は74歳であった。若手は平蔵をのぞくと46歳が最年少。在職年は平均で7.9年。

そうした中から、暴徒鎮圧が発令された10組は、若手の組頭が選抜されたといっても、リストを見るとおわかりのように、かなり齢をくっている。
(氏名につづく数字が出動発令の天明7年の年齢。平均55.4歳)

弓組

長谷川平蔵宣以   のぶため 42  400石
松平庄右衛門穏光  やすみつ 60  730石

筒組

安部平吉信富    のぶとみ 59 1000石
柴田三右衛門勝彭  かつよし 65  500石
河野勝左衛門通哲  みちやす 64  600石
奥村忠太郎正明   まさあきら56  600石
安藤又兵衛正長   まさなが 60  330俵
小野治郎右衛門忠喜 ただよし 54  800石
武藤庄兵衛安徴   やすあきら46  510石
鈴木弾正少弼政賀  まさよし 48  300石

リストの順序は、 『続徳川実紀』天明7年5月23日の記述順である。
長谷川平蔵が代表のように先頭にあげられているのは、2つの理由による。
まず、弓組は筒(鉄砲)組よりも格が上であること。実戦では鉄砲だろうが、古来からの弓馬の道ということで、格式は弓術のほうが高くおかれている。
2つ目は、長谷川平蔵のほうが、年齢も家禄も上の松平庄右衛門よりも4ヶ月早く先手組頭に着任していること。すなわち、同職の場合は先任順にならぶのが恒例なのである。

2006年4月27日[天明飢饉の暴徒鎮圧を拝命]
2006年4月26日[長谷川平蔵の裏読み]

ついでに書いておくと、小野治郎右衛門は、小野派一刀流の家元の末。

さて、御庭番の風聞書---例によって現代文に置きかえる。

一 このたび、仰せつけられたお先手組は、めいめいの了見次第の趣きによってばらばらに行動していて、足並みが揃っておらないように聞いております。下命を受けた10組のうち、怪しげな者を見かけ次第に捕えたのは、ようやく2組だけとの噂であります。残りの組は、いちおう昼夜町々の所々を警戒に回っているようであります。

なんともしまらない軍律というか、作戦指令である。この時期の先手組は若年寄の指揮下にいたわけだから、若年寄たちも平和ぼけしていたとしかいえない。

それはともかく、深井雅海さんは、この風聞書が徳川宗家に保存されていたことから、御庭番に隠密を命令したのは、田沼意次とその派の横田筑後守準松(のりとし 54歳 9500石)、本郷大和守泰行(やすゆき 33歳 2000石)らに距離を置いていたただひとりの側衆・小笠原若狭守信喜(のぶよし 70歳 7000石)と推理している。

この御庭番を駆使する命令権は松平定信に引き継がれたとも。

史料として、小笠原信喜の個人譜を掲げておく。
礼法を家伝とする小笠原家には3流れがあり、1は武田家から徳川へ。
これは、信濃から今川、徳川から、紀州侯。吉宗について江戸へ来た小笠原である。

Photo
(小笠原若狭守信喜の個人譜)

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2007.08.30

町奉行・曲渕甲斐守景漸(かげつぐ)

天明7年(1787)5月20日前後の、暴徒による江戸の商家打ち壊しのときの、月番町奉行は北の曲渕甲斐守景漸(かげつぐ 1650石)であった。

記憶力のいい、あるいは、長谷川平蔵の史実に興味の強い方なら、曲渕甲斐守景漸---いや、当時は曲渕勝次郎景漸という名前に覚えがあるはず。
宣以(のぶため)の父・平蔵宣雄(のぶお)が小十人(こじゅうにん)組頭に栄転(宝暦8年 1758)して、しきたりにしたがって先任の組頭たちを東両国の料亭〔青柳〕に招待したときに、宴が果ててから、舟に誘った仁である。

2007年5月29日[宣雄・小十人組頭を招待]
2007年5月30日[本多紀品と曲渕景漸]
2007年5月31日[本多紀品と曲渕景漸(2)]
2007年6月10日[羽太(はぶと)求馬正尭(まさかみ)]

曲渕勝次郎景漸は、小十人組頭を1年半で終え、宝暦9年(1759)1月には目付、明和2年(1765)には大坂町奉行(46歳)、同6年(1769)には江戸へ呼び戻されて北町奉行(50歳)に栄進。

天明7年5月の騒擾事件のときは58歳の分別ざかりであった。

深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』 (吉川弘文館)の第3編[第3章 徳川幕府御庭番の基礎研究]から、御庭番の風聞書に報告され北町奉行の評判を、現代文に書き換えて引用する。

一 このたび、町方(町人)たちが騒ぎたてた件は、はなはだご公儀を憚らず、恐れながら、ご威光も薄く、あれこれ宜しくありませぬ。上様の噂なども口にして、なんとも恐れおおいことであります。全町奉行の取り扱いが悪かった故と、もっぱら風聞しております。

一 町奉両人(南は山村信濃守良旺 たかあきら 59歳 500石)のうち、別(わ)けても曲渕甲斐守 (景漸)の風聞はよろしくありません。暴徒町人たちの取り鎮めは町奉行の手にあまり、お役目を果たしておりらぬといっています。
取り鎮めのために、町奉行、与力、同心がつぎつぎに現場にむかいはしますものの、騒ぎ立てている者たちの中へ入って召し取ることは一切なく、騒ぎにまぎれて小さな盗みや挙動の不審な者だけを逮捕しているにすぎません。騒動の現場には寄りつきもしないとのことです。
まあ、逮捕した者の中には、騒擾煽動者に近い者もいるようですが、騒ぎの中へ飛び込んで召し捕ってはおりませぬので、町人たちの風評もまことにもってよろしくありません。
そのくせ、打ち壊しのあった跡へ現れるのですから、鎮圧にはまったくならず、役柄に似合わないと、もっぱらの評判です。
こんどの騒動については、前ぶれのようなものを感じた与力の中から、甲斐守へうちうちの報告をしたようですが、奉行はまったく採り上げなかったそうです。そのときに手を打っておれば、かほどの騒ぎにならなかったわけで、もってのほかの大騒動になったのは、町奉行のあれこれの手違いが多かったためと取りざたされております。

いやはや、30代の小十人組頭のころの、目から鼻へ抜けるような俊敏さ---というより、出世に目のなかった目はしの利きようは、まったくうかがえない。

2006年9月26日[町奉行・山村信濃守良旺(たかあきら)]

まあ、町奉行もそうだが、奉行所の与力、同心たちの逃げ腰ぶりも目にあまるとはこのこと。捕物帳にでてくる捕り方と似てもにつかない。これが史実---ほんとうの姿というのでは、あまりに情けない。

そんなこんなで、北町奉行の曲渕甲斐守景漸は、騒擾が鎮まった6日後の6月1日には早くも町奉行を免じられて、西丸の留守居に左遷されている。御庭番のリポートの威力も恐ろしい。

とはいえ、町奉行所は機動隊ではない。そういう大がかりな鎮圧訓練もしていなければ、装備も備えていなかったと思える。あったのは、1人か2人の悪人逮捕用の捕り道具であったろう。

機動隊といえば、火盗改メである。堀 帯刀秀隆(ひでたか)の組はどうであったか、非常出動命令をくだされた先手の10組はどうであったか、その風聞書もある。

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2007.08.29

堀 帯刀秀隆

堀 帯刀(たてわき)秀隆(ひでたか)は、火盗改メ方の長官として、本役を天明5年(1785)11月15日(49歳から、同8年(1788)年9月28日(52歳)まで勤めて、長谷川平蔵宣以(のぶため)と交替した。

任期中の明和7年5月に、暴徒による江戸打ちこわし事件がおきた。
暴徒の鎮圧に、町奉行所も火盗改メの堀組(先手・弓・第1番手)も役に立たないというので、幕府は、組頭が比較的若い先手組10組に出動命令を出したことは、これまでに記している。

このところずっと引用してきた深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』 (吉川弘文館 1991.5.10)の第3編に[第3章 徳川幕府御庭番の基礎研究]があることも、2007年8月12日[徳川将軍政治権力の研究]第1回目に報告しておいた。

郡上八幡藩の農民一揆についての、田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入の報告がおわったので、第3章の御庭番についての史料を拾い読みしてみたら、なんと、長谷川平蔵に関連する記述がかなり多い。
しかも、これまで見たこともない史料が少なくない。
御庭番の史料は、著者の勤務先である徳川林政研究所が所蔵する、徳川宗家が保管していた「御庭番手続書」とか「御庭番勤方心得之儀中申上置候書付」などだが、将軍や側衆の命令で、町奉行所や火盗改メを探索した報告書もある。

たとえば、天明7年5月の江戸打ち壊し騒動の直前の、堀 帯刀秀隆についての風聞ものを現代文に置き換えてみる。

一 先手組頭・火盗改メ長官の堀 帯刀は、このほど、「用米」という札を立て、神田三河町辺の米屋から米百俵ばかりを車に積んで、さほど離れてはいない裏猿楽町の自分の屋敷へ引きとった由。そのとき、同心3人が大八車に付き添っていた。
(府内が米価の暴騰と米の売り惜しみで困っているときに)、なんともあやしげな所業である。
堀 帯刀には、かねてから、カネづまりによる、とかくの噂があった。とてもじゃないが、米100俵も一度に買えるような家計ではない。
打ち壊しの噂を耳にした米屋が、危険を感じて、へ依頼、預かったのであろうとのもっぱらの噂である。

これでは、悪人取締りの火盗改メが、どうにも処置なしである。
が、幕閣が、火盗改メにまで隠密をつけて風聞をさぐらせているのだから、世も末といえようか。

ところで、この江戸打ち壊し事件のときに、探索を命じられた御庭番のひとりが梶野平九郎炬満(のりみつ)である。この梶野家の『寛政譜』を掲出しておく。
内容を読むためではない。吉宗が将軍として江戸城へ入ったとき、紀州藩の薬組から召された17家の1家である梶野家の当主が、代々、御庭番の職についていることを見るためである。

Photo
(赤○=平九郎炬満 緑○=歴代の当主で御庭番。家譜は寛政期までだが、職務は幕末までつづいている)

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2007.08.28

田沼時代についての若干の覚書

郡上八幡の農民一揆の裁決への、側衆・田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入・再審の詳細と、本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・田中藩主 4万石)の老中罷免のくわしい経緯は、ついに分明しなかったが、雅兄氏から示唆をいただいたので、全文を掲載する。(雅兄は、古来からの最高級の雅称)。

田沼意次について、幕府官僚の中でも幕末期に特別の光彩を放った川路(左衛門尉)聖謨(としあきら)が時の権力者の水野越前(忠邦 ただくに 老中 遠州・浜松藩主 6万石)に語った言葉は、深井氏のみでなく多くの歴史家が引用しているが、最近出た藤田覚氏『田沼意次』(ミネルヴァ書房2007年)でも、田沼評価での一種の基準として使われている。

深井氏もその全部を紹介しているわけではないので、次に原文(『遊芸園随筆』吉川弘文館「日本随筆大成」第1期23 167~168ページ)の読み下し文をあげておく。
 
五月九日、(水野)越前守(忠邦)どのと御物語の序でに、近来の執政の優劣を評して申しけるは、田沼主殿頭(意次 おきつぐ)どののご事世によろしからず申し候えども、よほどの豪傑にはをはしけり。ただいま享寛(享保・寛政)のご政事ご改正のころに向かひ、かく申さむはいかがの様に候えども、さりながらその証のこれあり候故、お聴(きき)に入れ候にて候。

(田沼)主殿頭どのもお側ご用人よりご老中にならせられ候。初めは必ず世にも称え奉り候御人にこそ候べき。そのわけは宝暦八年の金森(兵部少輔頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石)の一件にて、本多伯耆守(正珍 駿州・田中藩主)どの(老中)お役召し放たれ、金森ならびに本多長門守(忠央 ただなか 若年寄 当時寺社奉行 遠州・相良藩主 1万5千石)のお願に相成りたる、みな主殿頭殿の手に成りけるものと見え候ところ、右のご政事はよほどよく出来たる様に、その頃の書物(ここは資料類の意味)ども見候ても存ぜられ候様にござ候。
【割注】「評定所に金森一件の帳面あり。阿部伊予守(正右 まさすけ 寺社奉行 芸州・福山藩主 10万石)家に、その頃寺社奉行にて取り扱ひ候書留の帳面これあり候。右等によりても、主殿頭どのの躰(てい)はほぼ知るるなり。」

そのほか、同時代に石谷備後守(清昌 きよまさ 500石のち300石加増)を挙げ用ひられけるに、同人世に勝れたるよき奉行にて、今にいたり候まで、佐渡も長崎もご勘定所も、備後守の跡を以てよりどころとする事にて、備後守正直の豪傑なるはおしはかれ候事に候。同人をかくまでに遣われたるは、そのおん身にも正直の豪傑のお心ありたるなるべし。

しかるに上の御覚えもよろしく。天下靡かずといふことなきにいたって、いつか驕慢の気起こりて、その弊ついに松平(松本の誤記)伊豆守(秀持 ひでもち 勘定奉行 500石)がごとき、利口にて御用弁よきものを用ひられ候故、用は足り候へども無利(無理)なることのみ多く、人しらず人望を失ひて、終りには世にもうとみはてられ候て、天明末年のお姿とはならせられたり。

今の人は主殿頭どの全終(終わりを全うする)ならざるによりて、奢侈賄賂のことは田沼時代などといひて、主殿頭どのを以て骨髄よからぬ人のごとくにいふは、気の毒千万なることとと存ぜられ候。

これ畢竟ひとたび天下の権を取り給ひて、誰たがふものなきより驕慢の気は甚だしくなりて、日々に私心専らに成り行き、良心は失ひはててをこなる御事ども多くなり候故に、後世よりはよきことはことごとくに捨て、悪事のみいふことになり候かに候。

それと申し候も一心の置き所よりとは申しながら、平よりお用ひの人に、ご用立ち候より、貞実のものをお撰びなされ候はば、少しはご諫言をも申し、身を捨てまじく候へども、お気の障る位の儀は申し候て、相保ち申すべく候へども、末に至りては利口にてご用弁よきもののみお用ひ故、後年はともかくも先ず当時のご一応そのほかの事のみに流れ行きて、主殿頭の相輩も大いに衰へたるものかと存ぜられ候と申し候ところ、至極もっともなる心附きに候由(越前守どのが)仰せられ候事。

I氏の見解
この中で川路が金森一件の裁きを批評する際に参照している資料は、評定所にある帳面と、阿部伊予守の家にある書留の帳面の二つだが、深井氏が指摘するように後者は例の「御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)」に違いない。
評定所に保存されていたという帳面は多くの調書を含んだ公式の記録だろうが、天保以降三度にわたる江戸城の焼失の際に失われた可能性が高い。
つまり、川路は今日見るよりもずっと詳細な記録を読みこなした上で、この事件に対する田沼の処理の見事さを賞賛していると考えられる。

ところで、川路のこの文章は多くの先学が引用しているのだが、彼がなぜこうした重要な記録にアクセスできたか、またどんな関心から過去の事件や政策を調べようとしたか、などに触れた研究はない。

まず勘定所の記録等については、天保2年(1835)に勘定組頭、同6年(1839)に勘定吟味役に任命されているから、勤勉な彼のこととて資料類を丹念に研究した可能性は十分あるだろう。
問題は金森一件である。上記の水野越前との物語の時点では、川路は小普請奉行になっていたが、その程度の役職では評定所の記録に触れることは許されるわけがない。
(若い時に評定所の書記役をしていたこともあるが、過去の重要書類を勝手に見る権限はもちろんない)。また、備後福山藩10万石の阿部家の秘録を見せてもらうなど、言い出すこともはばかられるはずだ。

謎を解く鍵は〝仙石騒動〟にある。
複雑怪奇なこの事件を簡単に要約するのは難しいが、当面の問題に必要な範囲で述べる。

その頃但馬出石藩(5万8000石)では、財政危機を乗り切る方策での重商主義的積極派と保守派の激しい対立が起こり、一門家老同士の根深い抗争が続いていた。

たまたま若い藩主政美(まさよし)が病没した後、後継をめぐるお家騒動もからんで、争いは泥沼化し、その中で、積極派の仙石左京が実権を独占する。

左京は実子小太郎の妻に幕府老中・松平(周防守)康任の姪を迎えていたが、幕府組織を動かすのにこの閨閥を利用したらしい。

一門の反対派・仙石弥三郎の用人の神谷転がたまたま左京の幕府要人を抱き込んでの陰謀を知り、国元の親友の河野瀬兵衛に急報したが、それを察知した左京は河野を捕らえて処刑し、さらに神谷を情報源と見て捜索する。

あやうく江戸藩邸を出奔し、虚無僧に身をやつして普化宗の本山の小金井の一月寺に潜んでいた神谷は、左京派の要請を受けた町奉行所の手で外出中に捕縛された。虚無僧(普化僧)の特権をたてに寺側は神谷の身柄引き渡しを要求したが、老中・松平康任の権勢をはばかる奉行所はこれを拒否し、幕府を巻き込む騒動になった。

ここで寺社奉行の井上(河内守)正春(まさはる 陸奥・棚倉藩主 5万石)からこの件の調査を命じられたのがその下で吟味物調役をしていた川路で、隠密の間宮林蔵も使って綿密な調べを行った彼は、神谷の忠誠を認め、逆に仙石左京の江戸召還と審問を進言したが、町奉行や勘定奉行は容易にはこれを認めようとしなかった。

情勢の突然の急変をもたらしたのは将軍・家斉の介入で、事件の吟味は寺社奉行の手に移されることになり、家斉の信頼する寺社奉行・脇坂(中務大輔))安董(やすただ 播州・辰野藩主 5万1000石 )の下で調査の実権は川路の手にゆだねられたのである。

この時に川路は、脇坂から直接に伝えられた将軍の上意を受けて、あらゆる資料を調査したはずで、特に幕府の要職を巻き込んだ騒動の判例として、郡上騒動の一部始終は徹底的に研究したに違いない。
老中のからむ事件と知れてからはいわゆる五手がかりの合議となり、左京の獄門など関係者の重罪のほかに、郡上騒動以来の世情を騒がす幕閣内の処分もあって、一件落着となった。
こうした経緯で川路が郡上一件の記録に当たったとすると、今日のわれわれよりはるかに多くの正確な記録を利用できたはずで、その上に立って田沼の主導権を認め、その裁きの優秀さを賞賛しているということを、十分考慮しなければいけないと思う。

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2007.08.27

徳川将軍政治権力の研究(11)

田沼主殿頭意次(おきつぐ)が介入することになった、郡上八幡藩の農民一揆の評定所での再吟味の次第を、深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』 (吉川弘文館)の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]から、『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)を引用しながら、背景を記述している。

『御僉議御用掛留』の記録者は、寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 36歳 10万石)。

2007年8月26被日[徳川将軍政治権力の研究(10)]に引用した寛政8年(1758)10月15日の条の『御僉議御用掛留』は2条あり、これは後の条である。

一 九ッ過隠岐(西尾隠岐守忠尚 老中末座 遠州・横須賀藩主 70歳 3万5000石)殿退出済、五人残り居候処、主殿殿御逢候由春作申聞、羽目之間江五人一同出候処、書上ケ之内石井丹下(本多正珍用人)事、尋今少シ可有之候旨年寄衆被申候、其趣主殿殿より被申候様先刻左衛門尉(酒井左衛門尉忠寄 老中 出羽・庄内藩主 55歳 13万石)殿も被仰候哉、定メテ御達も可有之与被申候故、先刻其趣相模(堀田相模守正亮 まさすけ 老中首座 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)殿・左衛門尉殿退出懸委細御手前様より可被仰聞旨一通り被仰聞候由申候、扨石井丹下事、何レニも近江守(大岡近江守親義 ちかよし 当時、勘定奉行 2120石余)を兵部少輔(金森頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石 51歳)頼、次郎九郎(青木次郎九郎安清 やすきよ 美濃郡代)江頼候義存、伯耆守(本多伯耆守正珍 まさよし 駿州・田中藩主 49歳 4万石)へ一通申聞耳へ入候事ニ候得共、近江守並豊後守(曲渕豊後守英元 ひでちか 当時勘定奉行 60歳 1200石)抔御預ケニも成候程之義ニも成候得者、其節ニ者心附候而伯耆守へも可心附義ニ候、其節ニも心附方ニ而伯耆守もケ様ニ者被成間敷義ニも可有之哉、左候得者、丹下(石井)取計ニ而ケ様成筋ニ候得者、又今少シ御咎メも可懸候、何レニも此所尋候様ニと年寄衆も被申候由被申候ニ付、委細承知仕候、明日呼出可相尋旨申候(後略)

氏が添えてくださった<読み下し>文---。

一 九つ過ぎ隠岐(西尾隠岐守忠尚 ただなお 老中末座 遠州・横須賀藩主 70歳 3万5000石)どの退出済み、五人残り居り候処、主殿どのお逢い候由春作申し聞り、羽目の間へ五人一同出で候処、書き上げの内石井丹下(本多正珍用人)こと、尋ね今少しこれあり候旨年寄衆申され候、その趣主殿どのより申され候様先刻左衛門尉(酒井左衛門尉忠寄 老中 出羽・庄内藩主 55歳 13万石)どのも仰せられや、定めてお達しもこれあるべしと申され候故、先刻その趣相模(堀田相模守正亮 まさすけ 老中首座 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)どの・左衛門尉どの退出懸けに委細お手前様より仰せ聞けらるべき旨一通り仰せ聞けられ候由申し候、さて石井丹下こと、何れにも近江守(大岡近江守親義 ちかよし 当時、勘定奉行)を兵部少輔(金森頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石 51歳)頼み、次郎九郎(青木次郎九郎安清 やすきよ)へ頼み候義と存じ、伯耆守(本多伯耆守正珍)へ一通り申し聞け耳へ入れ候ことに候えども、近江守並びに豊後守(曲渕豊後守英元 ひでちか 当時勘定奉行 60歳 1200石)などお預けにも成り候ほどの義にも成候えば、その節にも心附き候て伯耆守へも心附くべき義に候、その節にも心附方にて伯耆守もかようには成るまじく義にもこれあるべきや、左候うば、丹下(石井)取り計らいにてニかよう成り筋に候えば、又今少しお咎めも懸かるぺく候、何れにもこの所尋ね候様にと年寄衆も申され候由申され候につき、委細承知仕り候、明日呼び出し可相尋ぬ旨申し候(後略)。

誤読をおそれず、現代文に置き換える。

午後の1時前、老中末座で老齢の西尾隠岐守忠尚(ただなお 遠州・横須賀藩主 70歳 3万5000石)侯の退出をお見送りしたあと、評定所の五手掛(ごてがかり 寺社奉行、町奉行、勘定奉行公事方 大目付、目付)の5人が居残っていたところ、田沼主殿頭どのが逢いたいとの伝言を、同朋(城中の茶坊主)・春作がもたらした。
5人、頭をそろえて羽目の間(城中配置図8月19日)へ控えた。
田沼どのが言われるには、書き上げ書のうち、石井丹下(たんげ 前老中 駿州・田中藩主 本多伯耆守正珍 まさよし 用人)のこと、いますこし尋問するように年寄(老中)衆が申されたのは、自分からの指示と、先刻、老中・酒井左衛門尉忠寄(ただより 出羽・庄内藩主 55歳 13万石)侯も仰せられたと思う。
あらためてお達しもされようとも申され、先刻老中首座・堀田相模守正亮(まさすけ 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)侯、酒井左衛門尉侯が退出がけに、委細は田沼主殿頭さまからお聞きするようにいわれた。
さて、石井丹下のことだが、郡上八幡藩主・金森兵部少輔頼錦 よりかね)から頼まれた、当時、勘定奉行だった大橋近江守親義(ちかよし 2120石余)が、郡代・青木次郎九郎安清(やすきよ)へ処置を頼んだ件と知って、その旨を一通り、藩主で老中だった本多伯耆守の耳へ入れていた。
この事件に関係した前勘定奉行・大岡近江守親義曲渕豊後守英元(ひでちか 60歳 1200石)もすでに役を免じられてお預けになるほどの大きな事件に発展しているのだから、その節、本多伯耆守もことの重大さに気づくべきであった。

もし、気づいて適当に処置していれば、本多伯耆守も老中罷免・逼塞といった処分にはならなかったはずで、そのことを思えば、用人の石井丹下の取り計らいのまずさにも原因があるから、いま少し吟味してみる必要があるなと、老中方も申されていると田沼意次どのが申された。
委細承知仕りましたとご返答し、明日、丹下を呼び出して尋問いたしましょうと申しあげた。

『徳川将軍政治権力の研究』における『御僉議御用掛留』の引用はこれで終わっている。
これでは、前にも記したが、本多伯耆守の老中罷免・逼塞の罪状の所以は、じつのところ分明しない。著者の深井さんとすれば、田沼介入の経緯があきらかになればいいわけである。

ものごとを人間的のしがらみ的に見る当方とすれば、納得できない。もちろん、資料がないところは、しかるべく、想像でおぎなうしかない。これは学術論文でも歴史書でもなく、単に、長谷川平蔵父子の言行を想像しているたわごとにすぎないのだから。

『御僉議御用掛留』に、なんということもなく、老侯・西尾隠岐守忠尚の名前がでた。いうまでもなく、同姓のぼくとは無縁の殿さまである。この老侯の孫・隠岐守忠移(ただゆき)が、田沼意次の三女を室に迎えたことはいつか記した。
『鬼平犯科帳』では、文庫巻4[敵(かたき)]に、この藩の北本所の下屋敷が登場する。〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵の盗人宿がその前にあった。隠岐守忠移の時代である。

後学の方のために、『寛政譜』から、西尾家家譜と老侯の個人譜を掲示しておく。

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(赤○=忠尚 緑○=忠移)

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2007.08.26

徳川将軍政治権力の研究(10)

えんえん、郡上八幡藩の農民一揆にこだわっているのは、理由(わけ)が2つある。
1つは、この事件の評定所での再吟味を示唆した田沼主殿頭意次(おきつぐ)は、その再裁許をめぐって評定所へ出座、これを契機に幕政に発言権を強めていったといわれていること。
長谷川平蔵父子宣雄宣以 のぶため)の才幹を認めて引きたてたのが田沼意次だからである。

もう一つは、その田沼意次の提案になる再裁許で、老中職を免じられた本多伯耆守正珍(まさよし)が領知していた田中城は、長谷川家の祖・紀伊守(きのかみ)正長(まさなが)が今川時代に城主だった因縁による。

その郡上八幡藩の農民一揆の評定所での再吟味の次第を、深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』 (吉川弘文館)の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]から、『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)を引用しながら、背景を記述している。

『御僉議御用掛留』の記録者は、寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 36歳 10万石)。
もっとも、『徳川将軍政治権力の研究』 は、題名どおり、側衆たちが将軍の威名を借りて権力をふるっていく視点で考究されており、たとえば、本多伯耆守正珍が、なぜ、失脚しなければならなかったかといった、政治の裏の事情は明かされていない。これは、類推するしかない。

さて、宝暦8年(1758)年10月15日の『御僉議御用掛留』。この日分は2条あり、まず、先頭分。

一 非番箱出候ニ付中之間へ出候処、左衛門尉(酒井左衛門尉忠寄 ただより 老中 出羽・庄内藩主 55歳 13万石)殿五人江可有御逢旨仰被候由三阿弥(奥山 同朋頭)申聞、溜りへ相模守(堀田相模守正亮 まさすけ 老中首座 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)殿・左衛門尉殿御出、五人出候処、金森兵部少輔(頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石 51歳)一件之内、此間書上候内、本多伯耆守(正珍)家来石井丹下吟味書之内、此上尋候而申上義有之候、委細者主殿殿江御談被置候、後刻同人可被申候間可承候、明日寄合も有之候間、被仰聞候旨被仰聞、奉畏候旨申候

氏が添えてくださった<読み下し>文---。

一 非番箱出で候につき中の間へ出で候処、左衛門尉(酒井左衛門尉忠寄 ただより 老中)どの五人へお逢いあるへき旨仰せられ候由、三阿弥(奥山 同朋頭)申し聞け、溜りへ相模守(堀田相模守正亮 まさすけ 老中首座)どの・左衛門尉どのお出で、五人出で候処、金森兵部少輔(頼錦 よりかね 郡上藩主)一件の内、此の間書上げ候内、本多伯耆守(正珍)家来石井丹下吟味書の内、この上尋ね候て申し上ぐべき義これあり候、委細は主殿どのへ御談じ置かれ候、後刻同人申さるべく候間承るべく候、明日寄合もこれあり候間、仰せ聞けられ候旨仰せ聞けられ、畏まり奉り候旨申し候。

誤読をおそれず、現代文に置き換える。

非番ながら箱出なので中の間へ詰めたところ、老中・酒井左衛門尉忠寄(ただより 出羽・庄内藩主 55歳 13万石)の伝言を同朋頭の奥山三阿弥(さんあみ)が持ってきた。それで、評定所・五手掛の5人が溜まりの間で、酒井左衛門尉忠寄侯、堀田相模守正亮侯にお逢いした。
用談の向きは、郡上藩主・金森兵部少輔(頼錦 よりかね)にかかわる一件(農民一揆と石徹城 いとしろ)の内でも、(10月10日にうかがってすぐに)先日書き上げた中にある、本多伯耆守(正珍)家来・石井丹下(たんげ)の吟味書について、さらに尋問してご報告するべきことがあれば、委細は田沼主殿頭どのへお話しおきいただけば、のちほど同人から承ります。幸い、明日、寄り合いがありますれば、お仰せの趣は慎重に承りますと、申しあげた。

ここに名の出た、酒井左衛門尉忠寄は、郡上八幡藩の農民たちが、藩相手ではラチがあかないと参府した代表たちの駕籠訴を受領した老中で、この一件の推移には大いに関心をもっていた。

なお、『寛政譜』の個人譜を読むと、領内の農民に慕われていた模様である。その善政ぶりはあらためて調べてみたい。

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2007.08.25

徳川将軍政治権力の研究(9)

深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』 (吉川弘文館)の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]から、評定所での郡上八幡の農民一揆の再吟味・幕閣処分に、御側でしかなかった田沼主殿頭意次(おきつぐ)が列座してくる経緯を、『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)を引用しながら、推測している。

『御僉議御用掛留』の記録者は、寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 36歳 10万石)。

宝暦8年(1758)10月10日の項(前回の引用分10月7日から3日後)。

一 相模守(堀田相模守正亮 まさすけ 老中首座 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)殿御廻り之御入懸ケ可有御逢旨、春阿弥(山本 同朋頭)申聞、御入懸ケ新番所前溜江出候処、(中略)右序ニ御内々伺候、石井丹下(本多伯耆守正珍 ただよし 田中藩主の用人)詰り之処、金森(兵部少輔頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石 51歳)家来宇都宮東馬(江戸用人)外用事ニ而参候節、領分之義青木次郎九郎(安清 やすきよ 美濃郡代)江頼候義、雑談ニ申候ヲ伯耆守(本多正珍)江咄仕候、其節合之挨拶ハ無之由申候、右之通ニ候得者、通例者相尋候而引合之趣朱書等ニも仕候義ニ御座候得共、此儀者矢張其儘にて書上可申哉、御内々伺候由申上候処、先ツ其通りニ可致候、夫ニ付主殿へも御談候事も有之、今日可被成御談候由被仰候ニ付、右之評議ハ昨日主殿頭も承知ニ候由申上候処、左候ハハ可被御談候、其趣も可被仰哉と被仰候ニ付、左様可被成由申上候、丹下ハ先ツ其通仕置可申哉申上候処、其通可致旨被仰候

氏が添えてくださった<読み下し>文---。

一 相模守((堀田相模守正亮 まさすけ 老中首座 下総・佐倉藩主)どの御廻りの御入り懸けにお逢うあるべき旨、春阿弥(山本 同朋頭)申し聞け、御入り懸ケ新番所前溜へ出で候処、(中略)右序でに御内々に伺い候、石井丹下(本多伯耆守正珍 ただよし 田中藩主の用人)詰まりの処、金森(兵部少輔頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石 51歳)家来宇都宮東馬(江戸用人)外の用事にて参り候節、領分の義を青木次郎九郎(安清 やすきよ 美濃郡代)へ頼み候義、雑談に申し候を伯耆守(本多正珍)へ咄に仕り候、その節合の挨拶はこれなき由申し候、右の通りに候えば、通例者は相尋ね候て引合之趣朱書等にも仕り候義にござ候えども、この儀はやはりそのままにて書き上げ申すべきや、御内々に伺い候由申し上げ候処、先ずその通りに致すべく候、それにつき主殿へも御談し候こともこれあり、今日御談なさるべく候由仰せられ候につき、右の評議は昨日主殿頭も承知に候由申し上げ候処、左候わば御談なさるべく候、その趣も仰せられらるべきやと仰せられ候につき、左様なさるべき由申し上げ候、丹下は先ずその通仕置申すへきやと申し上げ候処、その通致すぺき旨被せ仰せられ候。

誤読をおそれず、現代文に置き換える。

恒例の行事である、老中首座の堀田相模守正亮 まさすけ 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)どのの、正午の本丸内のお廻りの、最後のところで逢って話を聞こうとおっしゃっている旨、同朋頭の山本春阿弥(はるあみ)から伝言があった。それで、最終コースの新番所前の溜まりのところでお待ちしていた。(中略)
ついでなので、内々に伺ったこと。
老中を免ぜられた本多伯耆守正珍(まさよし)の用人・石井丹下(たんげ)を詰問したところ、郡上八幡藩主の金森兵部少輔頼錦 よりかね 51歳)家臣で江戸用人・宇都宮東馬(とうま)がほかの用事で来訪したとき、領内の一揆について美濃郡代・青木次郎九郎安清 やすきよ)へ頼んだことを、話のついでに聞いたので、そのことを主人・本多正珍の耳へ入れたと。ただ、宇都宮東馬は、この件についてわが藩主へ特別に頼んだということではなかった。
そういうわけなので、通例ですと、尋問して結果、この儀は引き合い(とりあげない)の旨を朱書きにするところですが、そうはしないで、そのまま書き上げてたほうがよろしいか、内々にお伺いすると申しあげたところ、まず、その通りにするように。
それについてだが、田沼主殿頭意次へも話すこともあるので、今日、話してみると仰せられたので、この評議は、昨日、田沼主殿頭どのもご出席の上で承知なされていると申しあげたところ、それならば、田沼主殿頭からお上へ達するであろうが、その点は聞いているかとお問いかけなので、そうなされるであろうと申しあげた。
で、石井丹下のことは、まず、そのまま書き上げるように仕置きするべきでしょうか、と申しあげたところ、そうしなさいと仰せられた。

この時点で、田中藩主・本多伯耆守正珍は、すでに、老中を罷免されている。
『寛政譜』正珍の個人譜に記されているところでは「御むねに応ぜざるにより」とだけあり、<御旨>の内容はわからない。

『徳川実紀』も、宝暦8年9月2日の条に、

宿老本多伯耆守正珍がはからふ事ども御旨にかなはずとて職ゆるされ。鴈(かりの)間の座班にかへさる。

とあり、「10月28日条参照」と割注されている。で、その日の条。

此日前の宿老本多伯耆守正珍在職の日。金森兵部少輔頼錦が封地の農民等。領主の命令をいなみ。不良のふるまひはつのりしに。頼錦もとより正珍にちなみあれば。内々とひはかりし事ありし時。頼錦が家士等正珍の家士等とひが事どもはからひしをも。正珍聞きながらふかく糾明もせず。同列にもかたらはず。等閑にすて置きしにより。あらぬ浮説さへ出来たり。かれといひこれといひ。重職の身ににげなき事とて逼塞を命ぜらる。
(このあと、若年寄・本多長門守忠央(ただなか)や勘定奉行・大橋近江守親義(ちかよし)などの罪状が記されているが、それは後日に)。

家士同士がやった「ひが事」とはなにかが明記されていない。まあ、推察では、図られたということであろうか。

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2007.08.24

老中たち

御用部屋で、老中たちが現役の老中・本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・田中藩主 49歳 4万石)を裁いたのが、郡上八幡の農民一揆事件である。

2007年8月23日[徳川将軍政治権力の研究(8)]に、ときの老中首座・堀田相模守正亮(まさすけ 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)の個人譜を掲示した。

宝暦8年の老中のリストを、 『柳営補任』から引いておくのも、当時の背景への理解を深めよう。
順序は『補任』にあるとおり。氏名列の年齢は宝暦8年)

首座
堀田相模守正亮(下総・佐倉藩主 47歳 10万石)
 任・延享2年(1745)12月12日(36歳) 大坂城代から
老中
松平右近将監武元(たけちか 上州・館林藩主 
 46歳 6万1000石)
 任・延享3年(1746)5月15日(34歳) 寺社奉行から
本多伯耆守正珍(駿州・田中藩主 49歳 4万石)
 任・延享3年(1746)10月25日(37歳) 寺社奉行から
酒井左衛門尉忠寄(ただより 出羽・鶴岡藩主 55歳 
  10万8000石)
 任・寛延2年(1749)9月28日(46歳) 譜代席から 
西尾隠岐守忠尚(遠州・横須賀藩主 70歳 3万5000石)
 任・延享3年(1746)5月13日(58歳) 西丸老中から 
 (延享4年大御所様つき
  大御所崩御につき寛延4年(1751)から老中末座)

西丸老中
秋元但馬守凉朝(すけとも 武州・川越藩主 42歳 7万石)
 西丸若年寄から

さて、堀田家だが、徳川政治史に名を残した藩主が5人いる。
武門ではほとんど書きあげるほどのことはない。

まず、加賀守正盛(まさもり)---家光の側近くに仕え、佐倉藩11万石を領した。慶安4年(1651)、家光に殉士死。44歳。美男でもあったか。
その嫡子・上野介正信(まさのぶ)---貧している幕臣へ自領を分けてほしいと上申して無断で帰国。断絶。延宝8(1680)年、家綱の死を聞いて、配所・徳島で自裁。

正盛の三男・筑前守正俊(まさとし)---生後すぐ春日局の養子となり、幼年時代を大奥で送る。家綱の小姓となり、のち、上州・安中藩主(2万石)。さらに古河藩主(7万石)。大老(13万石)。
禄があがるにつれて、正信の奇行によって浪人せざるを得なかった家臣たちを探しては再雇用につとめたという。
貞享元年(1684)、江戸城内で若年寄・稲葉石見守正休(まさやす)に刺殺された。

_120_3その孫・相模守正亮---伊豆守正虎(まさとら)五男だが、いろいろあって出羽・山形藩主に。その時代に藩財政を立て直すなど、藩政改革才腕を示したと、『新編物語藩史 第3巻』(新人物往来社 976.3.1)の(当時・明治大学教授の)木村礎さん[佐倉藩]にある。
老中に就任後、下総・佐倉藩(10万石)。宝暦2年(1752)、佐倉宗五郎100年祭を行う。

これから一気に江戸末期へ飛ぶから、長谷川家には直接のかかわりがなくなる。

堀田備中守正篤(まさひろ 改め正睦 まさよし 下総・佐倉藩主  11万石 老中上座)
_100徳富蘇峰『近世日本国民史 堀田正睦』5巻(講談社学術文庫 1981.2.10~ )の第4巻[安政条約締結篇]の末尾に、「幕府の中心においてさえも、開国を好まぬものは、皆無ではなかった。否、真実の開国論者は、幕府当局側においてさえも、むしろ少数であった」と、少ない支持者の中での開国であったこと、また、内には「将軍継嗣問題---水戸斉昭(なりあき)の第七子・一橋慶喜(よしのぶ)の擁立派と、紀州・慶福(よしたみ)の擁立派の対立があった中でのむずかしい政局運営であったことをあげている。

_100_2また別に、佐藤雅美さん『開国 愚直の宰相・堀田正睦』(講談社文庫 1997.11.15)もある。
しかし、このブログは、家重家治家斉の時代の長谷川家まわりを書いている。
幕末はまだずっと遠い。

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2007.08.23

徳川将軍政治権力の研究(8)

2007年8月19日[徳川将軍政治権力の研究(5)]に引用した、宝暦8年(1758)10月7日付の『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)には、もう1項目あった。

一 御用番退出相済候後、田沼主殿殿被出、羽目之間ニ而被逢候、先刻之趣相模守(堀田相模守正亮 まさすけ 老中首座 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)殿とも被談候処、右之趣ニ而ハ何レニも長門(本多長門守忠央 ただなか 西丸若年寄 事件当時・寺社奉行 遠州・相良藩主 51歳 1万5000石)一存にも無之、一統江咄も有之候得者、長門者引分之分へ入可然候、明日相模守殿内伺致候様被申、左候得者、最初願書消印之義も拘り候と被申候(後略)

氏が添えてくださった<読み下し>文---。

一 御用番退出相済み候後、田沼主殿どの出でられ、羽目の間にて逢われ候、先刻の趣相模守(堀田正亮)どのとも談ぜられ候処、右の趣にては何れにも長門(本多忠央)一存にもこれにく、一統へ咄もこれあり候ことに候えば、長門は引き分けの分へ入れて然るべく候、明日相模どの内伺いたし候様申され、左候えば最初願書消印の義も拘り候と申され候(後略)。

誤読をおそれず、現代文に置き換える。

老中の方々が退出され、御用部屋へ入っていた田沼主殿頭意次(おきつぐ)どのも出てこられたので、羽目の間で打ち合わせした。主殿頭どのが申されるには、先刻報告を受けた、本多長門守忠央(ただなか )が寺社奉行時代に、八幡藩から相談された、濃州・郡上郡の石徹白の事件のことを、長門守はほかの寺社奉行一統(青山因幡守忠朝 ただとも 51歳 丹後・篠山藩主 5万石と、鳥居伊賀守忠孝 ただたか のち忠意 ただおき 寺社奉行 43歳 下野・壬生藩主 3万石)へも話したかどうかについて阿部伊予守正右(ただすけ 寺社奉行 備後・福山藩主 36歳 10万石)が確かめた結果、一統へも咄をしいるとのことなので長門守は引き分:け分に入れてよかろうと、明日、老中首座・堀田相模守正亮(まさすけ 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)どののお耳にも入れ、伺ってみようと申され、そういうことだから最初の願書の消印の義もこだわると申された(後略)。

上記の文中にも現れた---「引き分け分」とさらに「下附」について、2007年8月19日[徳川将軍政治権力の研究(5)]に意味が不明と端書きをしておいたら、氏がわざわざメールをくださって、

引き分けは石徹白の一件との切り離し=分離の意味ではないか。この件を切り離せば、罪は軽くなる。下附はよくわからないが、付属の書類のことかも。出来(しゅったい)=完成という言葉からすると書類のようなものが考えられるが?

とのこと。

さて、主殿頭意次が明日内伺いに行く老中首座・堀田相模守正亮の個人譜と、堀田家『寛政譜』を掲示しておく。家祖は、堀田加賀守正盛(まさもり)の三男(久太郎 のち正俊 まさとし)で、春日局の養子として幼年期を大奥でおくっているほどの有力者。

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2007.08.22

新編物語藩史 八幡藩

田沼主殿頭意次(おきつぐ)が介入した、石徹白(いとしろ)の『白山中居(ちゅうきょ)神社』(岐阜県郡上市白鳥町石徹白2-48 URL)をめぐる紛争の詳細を知るために、岐阜県立中央図書館へ資料を読みに行く計画を立てていた。
地元のことは地元の図書館---という体験を、静岡県立中央図書館で経てきたからである。

_120ところが、近くの区の図書館で偶然に手にした、『新編物語藩史 第五巻』(新人物往来社 1975.7.1)に、(当時、誠心女子大学助教授)高牧 実さん執筆の[八幡藩]に、知りたかった経緯はほとんど書かれており これですますことに、ずるをきめこんだ。

郡上八幡に農民一揆が発生する寸前の宝暦2,3年(1752,3)ごろ、おなじ金森家の領内・大野郡白鳥村の白山中居神社でも、神主の上村豊前と社家(氏子?)のあいだで紛争が起きていた(先の記事の石徹白豊前は上村豊前に訂正)。
要因は、村人のあいだに浄土真宗の門徒になる家がふえ、村民の寄進による道場を建てようとしたのに対し、神主の豊前が京都の吉田家の後援を請い、村の支配権を確立しようとしたことにある。
豊前から賄賂などを受けた八幡藩寺社奉行・根尾甚左衛門は、「手代・片重半助を石徹白へ派遣し、杉本左近をはじめとする主だった社人に対し、今後は上村豊前に従うようにと命じた」

奉行の支持をうけた豊前は、神社の山林の造営用神木から社家所有の木まで伐採をはじめたので、反豊前派は採伐の停止を藩庁へ嘆願したが聞き入れられなかった。
幕府の寺社奉行・本多長門守忠央(ただなか)へ訴状した左近らは、金森兵部少輔頼錦(よりかね)が藩主の郡上八幡藩へ引きわたされた。
八幡藩は、12月に反対派89軒を飛騨国白川方面へ追放。503名の老弱男女は雪中を放浪の末、飢餓・凍死した者72名におよんだ。

美濃国厚見郡芥見村(現・岐阜市)に潜んで機をねらっていた左近は、宝暦6年(1756)8月、江戸へ下って、登城する老中・松平右近将監武元(たけちか)へ駕籠訴、しかし、管轄は寺社奉行と、本多長門守忠央へ引き渡される結果に終わった。
それでも反豊前派は、箱訴を4度もやるなど初志を貫いた。

箱訴とは、八代将軍・吉宗が創始したという、評定所前の目安箱のことであろう。投書は厳封のものを将軍が直披することになっていた。

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(赤○=評定所 近江屋板 池波さんが愛用していたのは、これ)

反豊前派の投書は、とうぜん、側御用の田沼意次の目に触れる。将軍が懸念しているという口実のもとに、本多長門守忠央が調べられる。
[八幡藩]も、「幕府は左近派四度目の箱訴の前日、郡内の農民騒擾および石徹白事件を評定所で取り上げ始めていた」と記している。

こうして、2007年8月12日の[徳川将軍政治権力の研究]につながったのである。

石徹白事件の関係者の結末を引用する。

幕閣側
・本多長門守忠央 当時、寺社奉行 領地召し上げ 預け
       忠央の養子・兵庫は改易
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八幡藩側
・根尾甚左衛門 家老 死罪
・片重半助    手代 死罪

白山中居神社側
・上村豊前    神主 死罪

社家側
・杉本左近    30日の押込
 ほに数名が処罰

幕府にとっては重罪にあたる農民一揆を田沼意次は、悪人というものが存在している石徹白事件の再吟味の形で、側面から端緒をつかむ作戦だったようである。

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2007.08.21

徳川将軍政治権力の研究(7)

農民一揆で仕置が悪かったと処分された郡上藩々主・金森兵部少輔頼錦(よりかね 宝暦8年46歳)の、『寛政譜』の個人の項から、2007年8月20日[徳川将軍政治権力の研究(6)]に、以下の文を引いた。

「さきに石徹白の社人を追放せしとき、家臣等曲事ありしをもしらず。また石徹白豊前が悪事を訴えるものありしを、豊前が罪をも糾問せざるにより、争訴いよいよ止ず」
じつは、次のあと数行も、引用すべきであった。

「これ等のことは、官に達して裁断をも願ふべきのところ、豊前が罪明白なり。しかるにこれをしらずして、多くの社人を追放せし結果、かたがた其罪軽からずとて領地を収められ南部大膳大夫利雄にながくめしあづけらる」

「これ等---」は、石徹白(いとしろ)紛争と農民一揆をさしているとみていいが、ここでは名ざしされている豊前について、分かったことを書き留めておく。

この豊前とは、「白山中居(はくさんちゅうきょ)神社」(岐阜県郡上市白鳥町石徹白(いとしろ)2-48 URL)の神主で、石徹白豊前がその姓名である。
再審査による裁決は、死罪。ただし、社家たちとの紛争の明細は、いまのところ、依然として不明である。現地の郷土史家の方のご教示をいただきたいところ。

白山中居(はくさんちゅうきょ)神社のことは、社地の支配権に属する争いのようなので、評定所というより寺社奉行の管轄であろう。

2007年8月19日[徳川将軍政治権力の研究(5)]に、深井雅海さんの同著(吉川弘文館)の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]から引用した、『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ) の宝暦8年(1758)10月7日の分にも、この件を、『御僉議御用掛留』を書きとめていた阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 寺社奉行 36歳 10万石)が、当時、寺社奉行だった本多長門守忠央(ただなか 遠州・相良藩主 51歳 1万5000石)が、同役の青山因幡守忠朝(ただとも 51歳 丹後・篠山藩主 5万石)と、鳥居伊賀守忠孝(ただたか 43歳 下野・壬生藩主 3万石)へ事の次第を報告したかどうかを確認していいる。

この件についての鳥居伊賀守忠孝の返答は、記録には書きとめられていないが、自分の屋敷だったか、いまは大坂城代になっている井上河内守正賢(まさよし 当時、寺社奉行 岩城国平藩主 2万6000石 宝暦6年大坂城代 宝暦8年:34歳)どのの邸宅だったか、記憶は定かでないが、そう、自分の屋敷に寄り合った時だったように思うが、話しを聞いたような記憶がある---であった。

ここで名前が出た井上河内守正賢は、『寛政譜』では正経(まさつね)となっている。

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上掲の個人譜に、

(大坂城代だった宝暦8年)10月4日、めされて江戸にまいるの中途にして、親族本多長門守忠英の誤記)、金森兵部頼錦が事に坐し、出仕をとどめられらるるの告をきき、参府して潜居するのところ、11月19日ゆるさる。

「親族本多長門守忠央とある。井上河内守正経の父・河内守正之(まさゆき)の正妻が忠央のすぐ上の実姉なのである。したがって、正経にとって忠央は外叔父にあたることになる。もちろん、正経の父の正妻の子ではない。

個人譜にあるとおり正経は、奏者番は28歳、寺社奉行兼帯は翌年、大坂城代が32歳、京都所司代が34歳、老中は36歳とい速さだから、相当に切れものだったのだろう。42歳で卒しているため、田沼意次としては、名門の強力ライバルの一人が消えてほっとしたか。

それにしても、本多長門守忠央の処罰を聞いて、さっと自発的に謹慎するあたりの気の利かせ方はみごと。こういう身の巧みな処し方は、だれが教えるのだろう。父・正之は、正経が13歳の時に卒している。

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2007.08.20

徳川将軍政治権力の研究(6)

まずもって、お詫びから始めなければならない。

郡上八幡の宝暦期における農民一揆で3万9000石を召し上げられた上に改易された、藩主・金森兵部少輔(頼錦(よりかね)の『寛政譜』の個人の項を読み返していて、気づいたのが、次の文章---。
 
「さきに石徹白の社人を追放せしとき、家臣等曲事ありしをもしらず。また石徹白豊前が悪事を訴えるものありしを、豊前が罪をも糾問せざるにより、争訴いよいよ止ず」

これは郡上八幡の農民一揆とは別件であろうから、田沼意次(おきつぐ)の評定所出座とは関係がきわめて薄いと判断して見逃していた。

ところが、『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)には、しばしば、石徹白の文字が現れる。
で、図書館で平凡社版『日本歴史地理地名体系 岐阜県の地名』で、白山南麓、石徹白(いとしろ)川の支流・宮(みや)川右岸に鎮座する下社「白山中居(はくさんちゅうきょ)神社」(岐阜県郡上市白鳥町石徹白(いとしろ)2-48 URL)が問題の地とわかった。
白山信仰による白山参道として、加賀馬場(鶴来白山比咩神社)、越前馬場(勝山平泉寺)、美濃馬場(白鳥長滝寺)がひらかれ、「白山中居神社」は美濃側のその下社である。

石徹白騒動は、神主側と社人との争いであったが、大石慎三郎さんは『田沼意次の時代』(岩波現代文庫)でさらりと、郡上八幡農民一揆側と社家側が裏で通じていた気配もあった、と推測を記している。これも読み飛ばしてしまっていた。

なお、この訴訟事件については、さらに史料をあたってみたい。

ところで、読み直した金森兵部少輔頼錦の個人譜を掲げる。_360

正徳3年(1713) 生
延享4年(1747) 奏者番 35歳

奏者番は、若手有望の大名が指名される、幕閣への幹部候補生ともいえようか。つぎは寺社奉行を兼帯し、才能・識見・人格がみとめられると---つまり、上への受けがよいと---大坂城代、京都所司代、若年寄、さらに運がよければ老中も夢ではない。

文人・趣味派の頼錦が、付き合いに心がけたとしても、無理はないが、無理したのは資金である。重役たちは、軍資金を増税によってまかなおうとして、農民一揆に直面した。
全国、いたるところで一揆はおきていたが、郡上藩の重役たちは、その処理をあやまった。

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2007.08.19

徳川将軍政治権力の研究(5)

深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』 (吉川弘文館)の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]から、評定所での郡上八幡の農民一揆の再吟味・幕閣処分に、御側でしかなかった田沼主殿頭意次(おきつぐ)が列座してくる経緯を、『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)を引用しながら、推測している。

『御僉議御用掛留』の記録者は、寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 36歳 10万石)。

宝暦(ほうりゃく)8年(1758)10月7日の項---。
(この1ヶ月前の9月3日、田沼意次は、側衆の身分のまま、評定所の詮議に出座し3奉行の筆頭役である寺社奉行の次に座して諸事を審議し、寺社奉行と同様の資格で発言するよう、将軍・家重から下命されている)。

一 田沼主殿殿江申込と存候処、羽目之間にて吟味役江逢候ニ付中之間ニ扣居、相済候跡へ罷出、此間被仰聞候義因幡守(青山因幡守忠朝 ただとも 寺社奉行 51歳 丹後・篠山藩主 5万石)・伊賀守(鳥居伊賀守忠孝 ただたか 寺社奉行 43歳 下野・壬生藩主 3万石)承候処、石徹白一件金森兵部少輔(頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石 51歳)方ニ而裁許之義長門守(本多長門守忠央 ただなか 当時、寺社奉行 遠州・相良藩主 51歳 1万5000石)へ聞合之節、長門守同役江相談義伊賀守者成程覚罷在候、留ニハ留落シ候哉相不見へ不申候得共、伊賀守宅か河内(井上河内守正賢 まさよし 当時寺社奉行 岩城国平藩主 2万6000石 宝暦6年大坂城代 宝暦8年:34歳)殿宅之内伊賀守宅と覚候寄合ニ而咄シ有之、最初ヲ不存候事故長門守方ニ而存候事候間相談ニも及間敷之処、一通咄候而挨拶申遣候事之由長門守申候と覚罷在候、留ニハ落候故見へ不申候へ共、慥ニ覚罷在候由申聞候、因幡守ハ是も留ニハ落候哉見へ不申候得共、寄合ニ而候哉、
御城ニ而候哉、評定所ニ候哉、何レニも一寸咄ハ有之事様ニ覚候旨申聞候、右之通伊賀守ハ慥ニ覚候趣ニ相聞候、両人共ニ留ニハ落候哉見へ不申由申聞候段申候、左候得者咄も有之事と被存候、其趣ニ候ハハ、弥長門守ハ引分伺候分へ入候而可然候、今日相模守(堀田相模守正亮)殿へも被談候御退出後又々可被申聞候、扨引分候伺書出シも早く出来候様致度ものニ御座候、御用日続キ候共、又者御用日跡ニ而成共、続キ候而寄合も有之、早々上リ候様可然被申候ニ付、随分其心得ニ罷在候、最早下附は出来可申候、相懸りへも可申談旨申候

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(江戸城本丸の御用部屋付近図 緑○=羽目の間 青○=中の間
深井雅海さん『図説・江戸城をよむ』原書房 部分)

氏が添えてくださった<読み下し>文---。

一 田沼主殿どのへ申し込むべくと存じ候処、羽目の間にて吟味役と逢い候に付き中の間に控え居り、相済み候跡へまかり出づ、この間仰せ聞けられ候義因幡守(青山因幡守忠朝 ただとも 寺社奉行)・伊賀守(鳥居伊賀守忠孝 ただたか 寺社奉行)に承り候処、石徹白一件金森兵部少輔(頼錦 よりかね)方にて裁許之義、長門守(本多長門守忠央 ただなか 当時、寺社奉行)へ聞き合わせの節、長門守同役へ相談義伊賀守はなるほど覚え罷りあり候、留(記録)には留め落し(書き漏らし)候や相見え申さず候えども、伊賀守宅か河内(井上河内守正賢 まさよし 当時、寺社奉行 岩城国平藩主 2万6000石 宝暦6年大坂城代 宝暦8年:34歳)どの宅の内、伊賀守宅と覚え候寄合にて咄シこれあり、最初を存ぜず候ことゆえ長門守方にて存じ候こと候間、相談にも及ぶまじきの処、一通り咄候て挨拶申し遣し候ことの由長門守申し候と覚え罷りあり候、留には落ち候ゆえ見え申さず候へども、たしかに覚え罷りあり候由申し聞け候、因幡守はこれも留には落ち候か見え申さず候えども、寄合にて候や、御城にて候や、評定所に候や、いずれにも一寸咄はこれあり事様に覚え候旨申し聞け候、右の通り伊賀守はたしかに覚え候趣に相聞き候、両人ともに留には落ち候や見え申さざる由申し聞け候段申し候、左候えば咄もこれある事と存ぜられ候、その趣に候はば、いよいよ長門守は引き分け伺い候分へ入れ候て然るぺ゛く候、今日相模守(堀田相模守正亮 老中首座)どのへも談ぜられ候て、御退出後またまた申し聞けられるべく候、さて引き分け候伺、書き出しも早く出来(しゅったい)候様致したきものにござ候、御用日続き候とも、又は御用日跡にてなりとも、続き候て寄合もこれあり、早々上リ(たてまつり=提出し)候様然るべくと申され候につき、随分その心得に罷りあり候、もはや下附は出来申すべく候、相懸り(同役)へも申し談ずべき旨申し候。

誤読をおそれず、現代文に置き換える。

田沼主殿頭意次どのへ面会を申しこもうと思っていたところ、城中の羽目の間で手前・阿部伊予守正右は、吟味役に逢ったので、中の間に控えることにした。
御用を終えられた主殿頭どのが見えたので、まかりでて、先日(10月3日 [徳川将軍政治権力の研究(3)])で申しつかった件を報告した。

それは、金森兵部少輔(頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石 51歳 奏者番)の領内で起きた、白山中居(ちゅうきょ)神社の神主側と社人側とのいわゆる石徹白訴訟を相談された、当時の寺社奉行・本多長門守忠央(ただなか 遠州・相良藩主 51歳 1万5000石)は、同役の青山因幡守忠朝(ただとも 51歳 丹後・篠山藩主 5万石)どのと、鳥居伊賀守忠孝(ただたか 寺社奉行 43歳 下野・壬生藩主 3万石)どのへ事の次第を報告したかどうかを確認するようにとの件である。
この件について、鳥居伊賀守忠孝どのは、記録には書きとめられていないが、自分の屋敷だったか、いまは大坂城代になっている井上河内守正賢(まさよし 当時、寺社奉行 岩城国平藩主 2万6000石 宝暦6年大坂城代 宝暦8年:34歳)どのの邸宅だったか、記憶は定かでないが、そう、自分の屋敷に寄り合った時だったように思うが、話しを聞いたような記憶がある。
あれは、本多長門守どのが受けた相談事であるし、そもそもの事の起こりを承知していなかったから、相談にもおよぶまいということだったような。まあ、一通りの報告でしたな。
いや、記録されていないから、確かなことはいいかねるが、記憶の隅にひっかかっているようなと。
青山因幡守忠朝どのほうも、記録されていないことゆえ、寄り合いでだったか、城中でだったか、評定所でだったか、しかとは憶えていないが、簡単に聞いたような気がするとのこと。
以上のとおりで、鳥居伊賀守どのはたしかに聞いたといっておりますが、両人とも、記録には落ちているといっております。
でありますから、本多長門守は引き分け(中止?)伺い分へ入れてよろしいかと、
その引き分け伺いですが、書き出しも早くできるよういたしたいものです。評定所でのご僉議(せんぎ)の御用日がつづいても、御用日の跡になっても、つづいての寄り合いもありますゆえ、そうそうに提出してしかるべきかと。もう、引き下げはできないでしょう。同役へも、その旨申しておきますと申しのべた。

【不明】「引き分け」と「下附き」の裁判用語の意味不明。小学館『古語大辞典』にも記載がない。

ところで、これまで引用した『御僉議御用掛留』は、国立公文書館内閣文庫蔵「濃州郡上郡一件御僉議御用掛留」によっているが、これを書きとめた寺社奉行・阿部伊予守正右は、徳川の重臣・阿部本家、家康に仕えてから数えて八代目当主---名流の藩主らしく、30歳の若さで奏者者、4年後には寺社奉行兼帯という重用ぶりである。
『御僉議御用掛留』は本人の直筆というより、祐筆の手になるものとおもうが、感情を抑えた事実のみを書き残そうとする態度は立派。もし、直筆とすると、なおのこと立派。
のち、西丸の老中を経て本城の老中へ。

もし、領国・福山の有志の方から、正右侯の人となりでもコメントしていただけるとありがたいのだが。

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『御僉議御用掛留』の引用はあと数日つづく予定)


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2007.08.18

徳川将軍政治権力の研究(4)

2007年8月16日 [田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入]に、八代将軍・吉宗の政治力を支えた、紀州藩士出の2人の側衆について触れた。
有馬兵庫頭氏倫(うじのり 当初1300石、のち1万石)と、加納近江守久通(ひさみち 当初1000石、のち1万石)がそれである。
深井雅海(まさうみ)さん『徳川将軍政治権力の研究』(吉川弘文館)は、
第1編・第3章[享保前期における「御用取次政治」
            ---加納久通と有馬氏倫の役割を中心に---
で、両名が将軍・吉宗と老中たちへの、公事・仕置についての上申・下達を中継ぎした種類と件数を公開。

さらに、
第2編・第3章[紀州藩士の幕臣化と享保改革]の第2節[紀州藩出身者と吉宗政権]の最初の項[有馬久通と有馬氏倫理ら吉宗側近]
で、総括するように、『徳川実紀』正徳6年(1716 享保元年)5月16日を引き、「藩邸供奉の執事有馬四郎右衛門氏倫・加納角兵衛久通して、中次の事つかさどらしめ(今御用取次の濫觴なり)」たとしている。

もっとも、紀州藩出身の幕臣たちの出頭人であった有馬兵庫頭氏倫は享保20年(1735)に68歳で、加納近江守久通も寛延元年(1748)に76歳で卒したことも、前記[田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入]に記し、俊才イケメン・田沼主殿頭意次が、紀州勢の希望の星に擬せられたと推測した。

[田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入]には、加納近江守(のち遠江守)久通の孫・遠江守久周 (ひさのり)が長谷川平蔵宣以に関わったことともに、加納家『寛政譜』久通の個人譜も付した。

公平を期するために、重くなるが、有馬家『寛政譜』と兵庫頭氏倫の個人譜を掲示しておきたい。

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ちょっと横道にそれるが、有馬姓に、21万石・久留米藩の末裔で、直木賞作家で[四万人の目撃者]という球場ミステリーを残した有馬頼義(よりちか)さんの縁者かなと『寛政譜』の前後に目を通したら、はたして、そうであった。
いや、ミステリー小説では記憶がない人のほうが多かろう。競馬の有馬記念の名称の所以(ゆえん)といっておこう。
もちろん、出身は摂津国有馬郡。本家の『寛政譜』は省略。

掲示したのは、播磨国三木の城主・則頼(のりより)の息・豊氏(とようじ)の三男・頼次(よりつぐ)が立てた有馬家で、頼宣(よりのぶ)に仕えたところから。

氏倫の個人譜の母の出自を見ていただきたい。
建部(たけべ)宇右衛門光延(みつのぶ)が女」とある。

建部の本家は、お家流の家元である。能筆のゆえに家康の祐筆(書記)に召されてもいる。書の手跡が遺伝するかどうかは知らないが、紀伊藩では信じられていたのかも知れない。
吉宗が側衆に取り立てた一因が氏倫の手跡だったとも推測してみたい。もちろん、才智のすぐれていたことのほうが優先するが。

こんなふうに横道を遊ぶことも、長谷川平蔵宣以の史実探索の楽しみの一つである。
もっとも、お家流コンプレックスがすぎると笑われれば、それもそうだとしか答えるしかないが。

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2007.08.17

徳川将軍政治権力の研究(3)

深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』 (吉川弘文館)の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]から、評定所での郡上八幡の農民一揆の再吟味・幕閣処分に、御側でしかない田沼主殿頭意次(おきつぐ)が列座してくる経緯を、『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)を引用しながら、推測している。

『御僉議御用掛留』の記録者は、寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 36歳 10万石)。

宝暦(ほうりゃく)8年(1758)10月3日の項---。
(この1ヶ月前の9月3日、田沼意次は、側衆の身分のまま、評定所の詮議に出座し寺社奉行の次に座し、諸事を審議するように、将軍・家重から下命されている)。

一 主殿殿内々我等(阿部伊予守正右 寺社奉行)江被申候者、石徹白之儀、金森(兵部少輔頼錦 よりかね 郡上藩主 3万9000石 51歳)より長門(本多長門守忠央 ただなか 西丸若年寄 前職・寺社奉行)方へ裁許之相談有之候迄此間内々申候通、同役江相談有之而挨拶有之候事ニ候得者一統之儀ニ而越度も軽く其通事候間、長門(本多長門守忠央)ハ一向に引分伺候方へ入可然旨、我等内々ニ而因幡(青山因幡守忠朝 ただとも 寺社奉行 51歳 丹後・篠山藩主 5万石)殿、伊賀(鳥居伊賀守忠孝 ただたか 寺社奉行 43歳 下野・壬生藩主 3万石)殿江承り候而、一統相談有之候事候ハ、最早兵部(金森兵部少輔頼錦)・長門(本多長門守忠央)ハ其儀ニ而ハ不相尋候而可相済、長門(本多長門守忠央)は引分ケ候方へ入可然候、昨日其段相模守(堀田相模守正亮 老中首座)殿とも御談候間、内々承合候而其趣ヲ相模守殿江申上可然被申候故、致承知候、承可申候、承候ハハ先ツ相模守殿江不申以前ニ又々可申上由被申候

氏が添えてくださった<読み下し>文---。

一 主殿どの内々我等(阿部正右)へ申され候は、石徹白の儀、金森より長門(本多忠央 当時寺社奉行)方へ裁許の相談これあり候まで、この間内々申し候通り、同役へ相談これありて挨拶これあり候ことに候えば、一統の儀にて越度(おちど)も軽くその通りのことに候間、長門は一向に引き分け伺い候方へ入れて然るべき旨、我等(阿部)内々にて因幡(青山因幡守忠朝 寺社奉行)どの、伊賀(鳥居忠孝 寺社奉行 43歳)どのへ承り候て、一統相談これあり候こと候わば、もはや兵部(金森頼錦)・長門はその儀にては相尋ねず候て相済むべく、長門は引き分け候方へ入れて然るべく候、昨日その段相模守(堀田正亮)殿どのとも御談じ候間、内々承り合い候てその趣を相模守どのへ申し上げて然るべくと申され候故、承知いたし候、承り申すべく候、承り候わばまず相模守どのへ申さる以前にまたまた申し上ぐべき由申され候。

誤読をおそれず、現代文に置き換える。

田沼主殿頭(とのものかみ)どのが内々に、我等---阿部伊予守正右(寺社奉行)へ申されたのは、郡上藩預かり地の白山中居(ちゅうきょ)神社の神主側と社人側との訴訟の件は、郡上藩主・金森兵部少輔頼錦(よりかね 3万9000石 51歳)から、当時の寺社奉行・本多長門守忠央(ただなか 54歳 現・西丸若年寄 遠州・相良藩主 1万5000石)へ依頼をしていることはわかっているが、裁許の落ち度も軽く、まあ、そんなことなので、この件に関しての本多長門守忠央は、引き分け伺いの部へ入れてよろしかろう。
ただし、我等---阿部伊予守としては、同役・寺社奉行の青山因幡守忠朝どの(ただとも 寺社奉行 51歳 丹後・篠山藩主 5万石)と鳥居伊賀守忠孝どの(ただたか のち忠意 ただおき 寺社奉行 43歳 下野・壬生藩主 3万石)へ、この件について、本多長門守から相談があったかどうかを確認して、その結果を老中首座・堀田相模守正亮どのへ報告しなければなるまいが、その前に、自分(田沼主殿頭)へ報告してくれ、とまたまた申された。

老中・堀田相模守正亮へ報告をあげる前に、自分へ報告するようにといっているが、意次はその時、将軍家が案じておられるから---と前置きしていると思うが、阿部伊予は意識的かどうか、その念辞を書き落としている。
門閥派の無意識の抵抗であろうか。

【謝辞】
氏からのご教示に対して。

ブログ(8/15)の中で、現代文の説明に、「廻り」を意味不明としてありましたが、これは老中の毎日の行事として、九つ時(正午ごろ)に、
御用部屋→奥土圭(時斗)之間→土圭之間次→中之間→
羽目之間→山吹之間→鴈之間脇の廊下→菊之間→
芙蓉之間縁頬→芙蓉之間→表右筆部屋脇の廊下→中之間→
土圭之間次→奥土圭之間
と巡回することになっていたので、その間にどこかで待ち受けて用談をすませるわけです。
時代によってちがいますが、家重の頃は人事や重要案件の伝達は芙蓉之間、通常の書付の上申下達は黒書院溜之間、新番所前溜もしくは羽目之間が使われたようです。
以上については深井雅海氏『図解・江戸城をよむ』(原書房 1997)を参照。

月番の老中だけですか、それとも、老中首座? あるいは、登城している老中全員?

さっそく、近くの図書館へ行き、深井雅海さん『図説 江戸城よむ』(柏書房 1997.3.10 \3,014)を借りてきた。
_1502007.08,15に紹介しておいた
平成3年現在の著者略歴のうち、変っているのは、
〔おもな著書〕欄---
『徳川将軍政治権力の研究』(吉川弘文館 1991年)
『江戸城御庭番』(中央公論社 1992)などがある。

上段は、いま紹介中。下段も個人的には読んでみたい本。

ところで、2007.08.13『御僉議御用掛留』にあった[口奥]についても本書は、大表(表向)と奥(中奥)の境界を口奥といい、坊主が控えていると。

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2007.08.16

田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入

宝暦元年(1751)6月、33歳の吉宗が、紀州藩主から第8代将軍として江戸城へ入ったとき、200名前後の紀州藩士を幕臣へ取り立てたという。
これだけ多数の藩士を連れることができたのは、小藩の藩主だった綱吉と違い、紀州藩が55万石の大藩だったからであろうか。
その中の1人に、田沼意次の父・意行(もとゆき)がいた。

祖先は、藤原氏の系統で、下野国安蘇(あそ)郡田沼邑(むら)に住し、田沼姓を称したということになっている。
子孫が武田家に仕え、勝頼の没落により、信濃を飄泊ののちに徳川頼宣の家臣として紀州に住んだが、意行の父・義房が病気になって辞し、和歌山城下に閑栖していた---と『寛政譜』には記されている。
とにかく、意行は叔父・田代七右衛門に養われて、紀州侯となった吉宗の家人となり、その江戸城入りのときに小姓となったと同譜はいう。
家禄は300石。のちに300石加増されて小納戸の頭取となった。

Photo_2吉宗は、紀州藩士出の200余名のうち、半数を側近に配置したと、深井雅海(まさうみ)さん『徳川将軍政治権力の研究』(吉川弘文館)にある(のちに御庭番と呼ばれた薬込組出身の17家もこの中に含まれる)。

郡上八幡の農民騒動の再吟味にかかわるまでの意次の年譜をつくってみた。

享保4年(1719)     生
   17年(1732) 14歳 拝謁
   19年(1734) 16歳 西丸(のちの家重)小姓
               父・意行卒(47歳) 
   20年(1735) 17歳 家督
元文2年(1737) 19歳 従五位下主殿頭 叙勲
延享2年(1745) 27歳 本城勤仕
   4年(1747) 29歳 小姓組番頭
               諸事を執啓見習い
寛延元年(1748) 30歳 1700石加増 計2000石
宝暦元年(1751) 33歳 御側  諸事を執啓
    5年(1755) 38歳 3000石加増
    8年(1758) 41歳 5000石加増
               評定所出座を拝命

つまり、宝暦8年9月3日の評定所出座を拝命とともに、家禄1万石の大名と同格の家禄になったということ。
と同時に、宝暦元年に歿した吉宗のあと、元紀州藩士たちの面倒を見る責任の一端---というより、大きな部分を期待され、政治的権力の掌握へむかって志を立てたともいえそうである。それには、家重の後ろ盾を十分に援用しはじめたといってもおかしくはないのでは---。

というのも、吉宗が江戸城へ入った時に雇従し、側衆となって吉宗の政策の浸透をはかった有馬兵庫頭氏倫(うじのり 当初1300石、のち1万石)は、享保20年(1735)に68歳で卒していたし、同じく御側となった加納近江守久通(ひさみち 当初1000石、のち1万石)も、寛延元年(1748)に76歳で亡くなっていたからである。意次に期待がかかっていた。

幕府の権力をにぎるということは、将軍・側衆として幕臣・大名家への人事に間接的介入、評定所一座に加わって政策の立案と公事(くじ)裁決、勘定奉行所を押さえて幕府財政の掌握などがある。
宝暦8年9月3日の、意次の評定所への出座と主導は、上記の意味で大きかったと見る。

一方、老中や若年寄を独占していた開府以来の門閥派から見ると、意次が評定所で郡上八幡の農民一揆に関係した幕僚を重罰に処することは、火中の栗をあえて拾ってくれるようなものだったのかもしれない。

ついでなので加納家『寛政譜』と、久通(ひさみち)の個人譜(赤○)。
緑○は孫・久周(ひさのり)は、家斉から平蔵宣以に下賜された秘薬〔瓊玉膏〕を預かり、辰蔵がうけとりに加納邸へ参上した。寛政7年(1795)5月6日の長谷川家
Photo

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2007.08.15

徳川将軍政治権力の研究(2)

氏ご推薦、田沼意次(おきつぐ)の政治力浸透を指摘した、深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』 (吉川弘文館 1991.5.10)から、第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]に紹介されている、『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)』を引用しながら、評定所での郡上八幡の農民一揆の再吟味・幕閣処分について、紹介している。

その前に、同書に掲載されている、深井雅海さん(平成3年現在)の略歴を---。

1948年、 広島県に生まれる
1971年、 国学院大学文学部史学科卒業
現在、財団法人徳川黎明会徳川林政史研究所主任研究員、国学院大学・中央大学専任講師
〔主要論文〕
「天明末年における将軍実父一橋治済の政治的役割(徳川林政史研究所『研究紀要』昭和56年度、1982年)

さて、『御僉議御用掛留』の宝暦8年9月22日の項。

一 泉州(依田和泉守政次 町奉行 57歳 800石)被申候由、廻り之節相模守(堀田相模守正亮 老中 下総・佐倉藩主 47歳 10万石)殿御逢候而書上ケ先ヅ相分り候由被仰候、石井丹下(本多伯耆守正珍用人)・伊藤弥一郎(金森家江戸家老)とかく不相分候、品ニ寄候而者御僉議(せんぎ)之手段ニ候間、於牢屋敷与力共静ニ為尋可申哉与相懸りと咄合候、品ニ寄御内意も可伺与申事ニ候旨被申上候処、夫ニ者及間鋪、幸田沼主殿殿被出候事候間、申談候而可然被仰候旨被申聞(後略)

氏が添えてくださった<読み下し>文---。

一 泉州(依田和泉守政次)申され候由、廻りの節相模守(堀田相模守正亮)どのにお逢い候て、書き上げまず相分かり候由仰せられ候、石井丹下(本多伯耆守正珍用人)・伊藤弥一郎(金森家江戸家老)とかく相分からず候、品により候てはご僉議(せんぎ)の手段に候間、牢屋敷において与力どもに静かに尋ねさせ申すべきやと、相懸かり(詮議の同役)と咄しあい候、品により(将軍の)ご内意も伺うべくと申すことに候旨申し上げ候処、それには及ぶまじく、幸い田沼主殿どの(評定所に)出でられ候ことに候間、申し談じ候て然るべしと仰せられ候旨申し聞けられ(後略)。

誤読をおそれず、現代文に置き換える。

5手掛の一人である北町奉行・依田(よだ)和泉守政次(まさつぐ)が申されたことであるが、廻りの節(意味不詳)老中・堀田相模守正亮(まさすけ)どのにお逢いしたので、郡上藩の農民一揆の件についての老中ご用部屋へ差し上げてある経過報告書のことをお尋ねしたところ、一同回読して了解したとおおせられた。
そこで、申し上げたのは、田中藩主・本多伯耆守正珍(まさよし 4万石 49歳)の用人・石井丹下(たんげ)と郡上八幡藩主・金森兵部少輔頼錦(よりかね 3万9000石 51歳)の江戸家老・伊藤弥一郎の言っていることが、どうもはっきりしません。
ことによっては詮議の手段を変えて、牢屋敷で与力に静かに尋問させてはどうかと、詮議の相役と咄しあっております。ついては、将軍家(家重)のご内意を伺ってみては---と思っております、と申し上げたところ、老中は、「それには及ばない、幸いに、お側の田沼主殿頭意次(おきつぐ)どのが評定所一座に加わったているのであるから、田沼どのに話してみられるとよろしい」とのお返事であったと。

深井さんは、ここまでに開陳した史料(『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)』)で、「まず第一に注目すべきは、7月20日条8月10日条にもみられるように、五手掛(ごてがかり 3奉行に大目付と目付が加わる)のメンバーが老中酒井忠寄から郡上騒動の再吟味を命じられた当日(7月20日)や、田沼が評定所出座を命じられる(9月3日)前に、すでに田沼は五手掛の中心メンバーである依田(町奉行)・菅沼(勘定奉行)両名や阿部(寺社奉行)に吟味心得を申し聞かせていることである。これは、田沼の説明に、<此度之義者甚御疑懸り候事>とあるように、将軍家重の意向をうけてと思われるが、とくに、評定所一座(の者)が関わっていても<少シも無用捨(ようしゃんなく)>とか、<品ニより是ハと存候儀茂出申候而も差略有之間鋪」といった基本的な吟味心得を、老中でなく一介の側衆にすぎぬ田沼」が五手掛のメンバーに要求している点。
「第二に注目すべきは、田沼が評定所に出座するようになった後、(9月22日の条---すなわち、上記)老中首座の掘田正亮も五手掛を指揮する権限を事実上田沼に委ねていることである」

田沼意次の狙いは奈辺にあったのであろう?   

ご参考までに、堀田相模守正亮の『寛政譜』を。_360
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青年藩主の出世コース---奏者番→寺社奉行→大坂城代→京都所司代→老中 と、順当にすすんでいる。 
この間に、要領、礼儀、信用、取捨選択、判断、社交、妥協、危機管理能力などを体得していくのだろう。

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2007.08.14

大橋家から来た久栄(2)

2007年8月13日[大橋家から来た久栄]に掲げた、久栄(小説で鬼平の妻女に池波さんが与えた名。史実では不詳)の実家・大橋与惣兵衛親英(ちかふさ)『寛政譜』を再掲出する。

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大橋家系の分家の分家である与惣兵衛親英は、3代目だが、じつは黒田左太郎忠恒(ただつね 廩米200俵)の三男で、養子に入った仁。

分家の大橋与惣右衛門親宗(ちかむね)のニ女が、綱吉の祐筆に召された黒田左太郎忠恒の妻女となってから、大橋家と縁続きになった。
久栄の長姉が黒田家へ養女として貰われているのも、その縁である。
長姉が養女にいったのは、与惣兵衛の先妻が病死したためともおもわれる。

次姉は、養子に迎えた夫の2人ともが、病気を理由に縁組を解消して実家へ戻っている。
本家の近江守親義(ちかよし)の勘定奉行としての不始末---というか、田沼意次によって処罰されたことが離縁のほんとうの理由かもしれない。それぞれの親類が、田沼に睨まれることを危惧したのでは---。

久栄は、次姉の女性としての不運をいたましく感じていたろう。

大橋与惣兵衛親英は、元文2年(1737)の24歳から、西丸の納戸番として出仕した。
5年後の寛保2年(1742)には、西丸の新番組へ転入し、19年間つづけて勤めている。

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が西丸・書院番士として出仕したのは寛延元年(1748)だから、顔をあわせた機会は幾度もあったろう。
郡上八幡の農民一揆の始末についての処分がきまった宝暦8年(1758)9月、宣雄が小十人組頭へ栄転したときには、祝辞を贈ったかもしれない。
「ご子息・銕三郎どのは13歳でしたな。うちの久栄は、6歳になりましてな」

小説では、長谷川家は本所入江町、その隣が大橋家となっているが、長谷川家が築地・鉄砲洲から南本所三ッ目通りへ引っ越したのは、銕三郎が19歳の明和元年(1764)。大橋家は、ずっと、下谷和泉橋通りである。

2人を結びつけたのが、父同士の縁なのか、ほかに結びの神がいたのか、まだ、憶測がついていない。

さて、宝暦8年9月13日の『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)に戻る。
この記録は、寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 36歳 10万石)が書き留めていたものである。
深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』(吉川弘文館)の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]から、引用させていただいている。

一 泉州(依田和泉守政次 町奉行 57歳 800石)、我等(阿部伊予守正右)・野州(菅沼下野守定秀 勘定奉行 60歳 1220石)へ内々被申候者、昨日(9月12日)主殿殿被仰候者、御僉議(せんぎ)方の儀何とぞ御役人之分早く片附候様可致迚、石徹白其外ハ手間取可申候得共、何とぞ御役人之方片附候様可然、品ニ寄兵部(金森頼錦)者残り候而も外御役人之分早く済候様ニと被仰候由被申聞

氏が添えてくださった<読み下し>文---。

一 泉州(依田和泉守政次)、我等(阿部伊予守正右)・野州(菅沼下野守定秀)へ内々申され候は、昨日主殿どの仰せられ候は、ご僉議(せんぎ)方の儀何とぞお役人の片付け候様いたすべしとて、石徹白そのほかは手間取り申すべく候えども、何とぞお役人の方片付け候様然るべく、品により兵部(金森頼錦)は残り候ても外のお役人の分早くすみ候様にと(将軍が)仰せられ候由(田沼が)申し聞けられ候。

誤読をおそれず、現代文に置き換えてみる。

一 北町奉行・依田和泉守政次(まさつぐ)どのが、手前、阿部伊予守正右(まさすけ)と勘定奉行(公事方の)菅沼下野守定秀)(さだひで)どのに耳打ちされるには、昨日(9月12日)、城内で御側御用の田沼主殿頭意次(おきつぐ)どのが、かようなことを申された。
「いま再僉議(せんぎ)している件だが、なんとしても、幕閣の分を早く片付けられたい。白山神社がらみの石徹白や農民がらみのことはゆっくりと手間をかけてもいいが、幕閣の処分は早々に裁決までもっていくようにとお上(将軍家)も望んでおられる。取調べで、事件の当の郡上藩主・金森兵部少輔頼錦(よりかね)にかかわることが残っても、それはおいてあとまわしでいいから、幕閣たちの分をとにかく急ぐようにとの、お上の仰せである」

田沼主殿頭意次はすでにリポートしたように、9月3日に、お側用人の身分で、幕府の最高裁判所ともいうべき評定所へ出座して審議に加わるように発令されている。
着座は3奉行の筆頭である寺社奉行の次、町奉行の上、発言も寺社奉行同等の資格となっていた。
あとにも先にも、このような権力を与えられた側衆はいない。

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2007.08.13

大橋家から来た久栄

深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』(吉川弘文館)の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]から、評定所での郡上八幡の農民一揆の再吟味・幕閣処分に、御側でしかない田沼主殿頭意次(おきつぐ)が列座してくる経緯を、『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)を引用しながら、推測している。

『御僉議御用掛留』の記録者は、寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 36歳 10万石)。

宝暦(ほうりゃく)8年(1758)8月10日の項---。

一 今日、口奥良筑ヲ以田沼主殿殿申込候而御退出後暫〆御出、羽目之間ニ而掛御目候、此度之御僉議之義共段々申上、追而百性方尋之義心得等之義伺、とかく真直ニ相分り候様第一ニ候、領主御咎附候者百性重ク成候義ニも有之間鋪、又先達而之通ニ軽く突留候と申儀ニも有之間鋪、とかく中分之処残り不申相当ニ有之様然、猶又趣茂候ハハ可被申聞候、替り候儀も有之候ハハ被仲聞鋪候、左候ハハ右被仰候通ニ可心得候、惣体吟味事品ニ寄軽く突留り候事も可有之候へ共、此度之義者甚御疑も有之事ニ候間、残り不申様可然候、品ニより是ハと存候儀茂出申候而も差略有之間鋪事候由被仰聞、何分ニも正道に相分り候様可申合被申候

氏が添えてくださった<読み下し>文---。

今日、口奥良筑をもって田沼主殿どのへ申し込み候て、御退出後暫くしてお出で、羽目之間にてお目にかかり候、この度のご僉議の義ども段々申しあげ、追って百姓方お尋ねの義心得などの義伺ひ、とかく真直ぐに相わかり候様第一に候、領主お咎め付き候は百姓重くなり候儀にもこれあるまじく、又先達ての通りに軽く突き留め候と申す儀にもこれあるまじく、とかく中分の処残り申さず相当にこれある様然るべく、なお又趣も候はば申し聞けらるべく候。替わり候儀もこれあり候はば仰せ聞けられまじく候、左候はば、右仰せられ候通りに心得べく候、惣体(そうたい→そうじて)吟味は事品により軽く突き留り候こともこれあるべく候えども、この度の儀は甚だお疑い(将軍の疑い)もこれあることに候間、残り申さざる様然るべく候、品によりこれはと存じ候儀も出で申し候ても、差略これあるまじきことに候由仰せ聞けられ、何分にも正道に相わかり候様申し合わすべく申され候(田沼がいった)。

誤読をおそれず、現代文に意訳。

今日、手前、阿部伊予守正右が、確認しておきたいことがあったので、口奥(たぶん同朋の)良筑を通じて田沼主殿頭どのへ面談を申し入れたところ、ご退出後しばらくして、城内の羽目の間でお目にかかることができた。
そのとき、このたびのご僉議(せんぎ)の経緯についていろいろご説明を申しあげた。
さらに、農民側の吟味についても、お尋ねがあり、僉議にあたっての心得などもお伺いした。
田沼どのがおっしゃるには、とにかく、だれもが納得がいくよう、まっとうであることが第一である。領主へのお咎めに対する気遣いから、百姓たちへの処罰が重くなってはいけない、また、先だっての裁決のように適当なところで打ち止めにしてはいけない、再吟味して、事実をすべて申しのべるように調べつくすことが肝心。
お上(将軍・家重)は、先の結果を承認なされてはいない。
まあ、吟味というものは、事と次第によっては軽めに打ち切ることもあろうが、この件の僉議については、お上もご疑念をお漏らしになっているのであるから、手抜きや妥協、えこひいきなどがあってはならない。だれが見ても正道---という取調べを申し合わせてやってほしいと申された。

その結果の一つが、勘定奉行(公事方)の大橋近江守親義(ちかよし)の処分であろう。
宝暦4年(754)4月9日に、顕職である長崎奉行から上記へ栄進。
この〔大橋〕の姓に見覚えがあった。そう、鬼平こと、長谷川平蔵宣以(のぶため)の妻女(小説では久栄)の実家の姓である。
彼女が長谷川家へ婚じたのは、宝暦8年のこの再僉議から、15,6年ほどのちだが。

それで、『寛政譜』をあたってみた。やはり---であった。大橋近江守は本家。

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(青=近江守親義 緑=久栄の父親・与惣右衛門親英 赤=久栄)

肥後国山本郡大橋の出自とある。
早くから家康に仕え、大坂の陣とか関ヶ原の戦いにも参陣している。家禄2120石。
3代目の次男が分家(400石・廩米200俵)。その分家から廩米200俵を分けてもらって家を立てたのが久栄の実家の大橋家
男子運が悪くて、戸主は全部養子だが、そのことはのちほど。

『寛政譜』は、近江守親義が家禄を召し上げられた理由をこう記している。

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(宝暦)8年10月29日、金森兵部少輔頼錦(よりかね)が所領の農民等騒動せしとき、(寺社奉行の)本多長門守忠央(ただなか)が申旨あるにまかせ、頼錦がたのみうけがい、配下に属する美濃郡代青木次郎九郎安清に書をあたへ、安清をのれが所存を記して其処置をこふのときも、頼錦が内存の趣を以てよろしくはからふべき旨、返書に及びしかば、安清彼の農民等を糺問するにいたる。これによりて農民等不平を抱き、公に訴へ、そのこと評議あるのときも、安清に示せし事はつつみて申述ず。再応糺明せらるるに及びてもなをこれを陳じ、只におのれが非をおほはんとせし条、重職のものの所為にあらずとて、相馬弾正少弼尊胤にながくめし預けらる。

この処罰は、3人の息子たちにもおよび、当然、断家。

ということは、世間の白い目は、久栄の実家・大橋与惣右衛門親英(ちかひで)にも向けられたろう。
久栄、この年には6歳。

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2007.08.12

徳川将軍政治権力の研究

氏ご推薦、田沼意次(おきつぐ)の政治力浸透を指摘した、
_90深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』 
(吉川弘文館 1991.5.10)
目次の一部
第1編
第4章 御用取次田沼意次の勢力伸長
  はじめに
  第1節 郡上藩宝暦騒動吟味と田沼意次
  第2節 藩の幕閣裏工作と田沼意次
      1 宝暦9年秋田藩国目付下向延引願
        1件
      2 宝暦12年薩摩藩拝借金1件
      3 宝暦14年(明和元年)秋田藩銅山
        山上知1件
  おわりに
第2編
第3章 紀州藩士の幕臣化と享保改革
  はじめに
  第1節 紀州藩士の幕臣団編入事情
  第2節 1 有馬氏倫・加納久通ら吉宗側近
       2 小納戸頭取の新設
       3 御庭番の創設
       4 井沢弥惣兵衛と年貢増徴策 
  おわりに
第4章 享保改革期の勘定方役人
    ---出自の分析を中心に---
  はじめに
  第1節 正徳期の勘定方役人
  第2節 享保改革期の勘定方役人
  おわりに
第5章 田沼政権の主体勢力
    ---紀州藩出身幕臣の動向と関連して---
  はじめに
  第1節 享保改革と紀州藩出身幕臣の動向
  第2節 宝暦・天明期における将軍側近役人の特質
       1 将軍側近役人の出自分析
       2 田沼意次と評定所
  第3節 紀州藩出身幕臣と勘定奉行
       1 勘定奉行石谷清昌・安藤惟要
       2 田沼期経済政策との関係
  おわりに
  (中略)
※個人的な興味から(御庭番の家々の『寛政譜』一覧と婚姻関係図をつくっているので)
第3編 将軍専制権力機構の確立
第3章 徳川幕府御庭番の基礎研究
    ---その隠密機能を中心に---
  はじめに
  第1節 御庭番の創設と御庭番家筋
  第2節 御庭番の職務内容
      1 表向きの勤務
      2 内密の御用
      3 遠国御用と幕政
  第3節 御庭番の昇進
  おわりに

引用・アップの『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ) は上記の深井雅海(まさうみ)さん『徳川将軍政治権力の研究』の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]からである。

宝暦(ほうりゃく)8年(1758)7月20日の項(つづき)。
記録者は、寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 36歳 10万石)。
この日、郡上八幡の農民一揆を再吟味するようにとの下命があったらしい。

一 野州(菅沼下野守定秀 勘定奉行 60歳 1220石)内々被申候者、昼程泉州(依田和泉守政次 まさつぐ 北町奉行 57歳 800石)・野州江田沼主殿殿御逢之節被仰候趣承り由被申候、泉州物語り承り候て申候、其節右一件者寺社奉行行掛り候哉御尋候、泉州御答ニ者最初長門殿(本多長門守忠央 ただなか 相良藩主 当時寺社奉行 54歳 1万5000石)・豊後(曲渕豊後守英元 ひでちか 当時勘定奉行 60歳 1200石)懸り候ト被申候故、野州被申候者却而一座へ下り候者一座一統之事ニ候、御渡之節之月番三人先おもニ取計候得共一同之事ニ候、最初御渡候も長門殿・泉州・豊後申候由被申上候与内々物語有之

氏が添えてくださった<読み下し>文---。

一 野州(菅沼下野守定秀)内々申され候は、昼ほど泉州・野州へ田沼主殿どのお逢いの節仰せられ候趣承り(候)由申され候、泉州物語り承り候て申し候、その節右一件は寺社奉行懸かり候やお尋ね候、泉州お答えには、最初長門どの(本多長門守忠央、当時寺社奉行)・豊後(曲渕豊後守英元、当時勘定奉行)懸かり候と申され候故、野州申され候は、却って一座へ下り候は一座一統のことに候、お渡りの節の月番3人まずおもに取り計らい候えども一同のことに候、最初お渡り候も長門どの・泉州・豊後申し候由申しあげられ候と、内々物語これあり。

誤読をおそれず、現代文に意訳してみる。

きょう、五手掛のメンバーの一人である勘定奉行の菅沼下野守定秀(さだひで)どのが、寺社奉行を拝命している私(阿部伊予守正右)へ内々で申された。
それは、今日の昼すぎに側御用の田沼主殿頭意次どのから連絡があって面談したとき、お上(家重)のお言葉をつたえると申された由。
このことは すでに町奉行・依田和泉守政次どのから耳打ちされたとおりであるが、その席で田沼どのは「この一件の吟味に、寺社奉行は加わっているのか」とお尋ねになった。
町奉行の依田どのが「当初の吟味には、いまは若年寄へご栄進だが、当時は寺社奉行だった本多長門守忠央どのと、いまは大目付で、当時は勘定奉行を務めておられた曲渕豊後守英元(ひでちか)どのも加わって評定していました」とお答えになった。
(注:依田和泉守政次は宝暦3年から明和6年まで 1753~69 北町奉行 )

そこで、前年の宝暦7年6月から公事方の勘定奉行に補された菅沼下野守定秀(さだひで)どのが「この吟味には、事件の関係者も入っておりますが、この後は、その関係者をはずして、月番3人のみで評定をするようにします」と付け加えた。
つまり、当時寺社奉行だった本多長門守と、勘定奉行だった曲渕豊後守をはずすといったのである。

この事件の再審は、農民側や郡上藩主・金森兵部少輔頼錦(よりかね)とその一統の審議はあとまわしでいい、幕閣側の処罰を田沼意次はせかした。その結果は、2007年8月1日の[田沼主殿頭意次]に記したとおりである。

本多伯耆守正珍(まさよし) 老中罷免 伺之上差控 
 (駿州・田中藩主 4万石 49歳)
本多長門守忠央(ただなか) 若年寄罷免 領地公収
 (遠州・相良藩主 1万石 54歳。御預け)
曲渕豊後守英元(ひでちか) 大目付罷免 閉門
 (1200石 68歳)
大橋近江守親義(ちかよし) 勘定奉行罷免 改易
 (2120余石 御預け)

なお、郡上八幡一揆の概要は、
2007年5月15日本多伯耆守正珍の蹉跌
2007年5月16日本多伯耆守正珍の蹉跌(その2)

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2007.08.11

江戸御用金の研究など

氏の手紙にあった、
_120賀川隆行さん『江戸幕府御用金の研究』(法政大学出版局 歴史学研究叢書 2002.3.7  7700円+税)
目次の一部
第1章 宝暦(ほうりゃく)期の大坂御用金
    1 御用金の上納と町拝借金
    2 明和3年の10年賦直証文
    3 安永6年の年賦証文
    4 宝暦御用金の歴史的位置
第2章 天明5年の大坂御用金と対馬藩
    1 御用金政策の発令と撤回
    2 御用金の実施状況
    3 対馬藩の御用金の借入
第3章 天明3年の融通御貸付銀と高崎藩
    1 鴻池両替店と高崎藩
    2 公儀御貸付銀と高崎藩
   (以下略)

上州・高崎藩といえば、田沼意次(おきつぐ)が老中時代に、その首座だったのが藩主・松平右京太夫輝高(てるたか 8万2000石)だった。
絹一揆を誘発した絹糸貫目改所(けんしかんめあらためしょ)を容認したのも松平輝高だから、藩財政の逼迫と関係があるのかもしれない。いずれ、ゆるりと熟読したい。 
    
それよりも、高崎藩といえば、 『寛政譜』にある、平蔵宣以の妹---女子 実は松平大学頭家臣三木忠大夫宣雄(のぶお)にやしなわれて水原近江守保明(やすあき)に嫁す---とある、三木忠大夫が高崎藩士の公算が高いのである。

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しかも、辰蔵の妻女もこの仁とつながりがある。

_120_2氏がわざわざ電話で、「田沼意次はかなり強硬な意見を持って評定所の評議へ参画した史料がある。深井雅海氏『徳川将軍権力の研究』がそれ」と教えてくださった、「郡上八幡一揆の五手掛で審議をした一人---寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ)が書きのこした『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ) を引用しよう。

宝暦(ほうりゃく)8年(1758)7月20日の項。

一 泉州(依田和泉守政次 町奉行 57歳 800石)内々被申候者、昼程田沼主殿殿御逢被仰候者、此度之義者甚御疑懸り候事、近江(大橋近江守親義 勘定奉行 2120石)一座之事候得共、少シも無用捨吟味可有心得事、寺社奉行茂かかり候事に候間、申迄も無之候得共、右之通故被仰候由被仰候、為心得被申聞候由被申候

氏が添えてくださった<読み下し>文---。

一 泉州(依田和泉守政次)内々申され候は、昼ほど田沼主殿どのお逢い仰せられ候は、このたびの義は甚だお疑い懸かり候こと、近江(大橋近江守親義)一座のことに候えども、少しも容赦なく吟味心得あるべきこと、寺社奉行もかかり候ことに候間、申すまでもこれなく候えども、右の通り故仰せられ候由仰せられ候、心得のため申し聞けられ候由申され候

主語を省いている文章なので、当事者にはわかっても、第三者には理解しにくい。誤読をおそれず、現代文に訳してみる。
記録者は、寺社奉行・阿部伊予守正右(備後・福山藩主 36歳 10万石)。

五手掛の一人である町奉行・依田和泉守どのが内々で申されたのだが、今日の昼すぎに側御用の田沼主殿頭意次どのにあったとき、次のようにいわれた。
このたびの郡上八幡の農民一揆にともなう老中・酒井摂津守忠寄(ただより 出羽・庄内藩主 55歳 13万石)へ禁令の駕籠訴(かごそ)などをいたした件、お上(家重)はいろいろ疑問をお持ちであるから、勘定奉行・大橋近江守親義(ちかよし)など一党がからんでいるようだが、いささかも容赦することなく、厳正に吟味するようにと。
寺社奉行だった現・若年寄の本多長門守忠央(ただなか 相良藩主 54歳 1万5000石)もからんでいるやに聞いているが、かまわずに仕置きするようにと仰せられている。さよう心得て評定をつくすよう、お上は望んでおられる。

同日の記帳がもう一項あるが、それは明日。
家重は、若年からの酒色がたたって痴呆に近かったといわれている。それなのに、意次家重の意向といっているのは、心に期するところがあったのであろうか。

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2007.08.10

≪日本の歴史≫『崩れゆく鎖国』

2007年8月1日の[田沼主殿頭意次]に、学友の氏の講義録から、

実はこの事件の審議の前後から田沼意次(おきつぐ)が評定所に参加するようになり、この責任者たちの処分には彼の意向がかなり反映されていたらしいから、これを田沼時代の幕開けとする見方もある。(こういう面から郡上騒動を扱った本では、大石慎三郎著『田沼意次の時代』がよい手引き書)。

を引用。

氏説に異を唱える気持ちはさらさらないが、意次が評定所の式日に席につらなるように下命されたのは宝暦8年9月3日ともとれる記述が、意次『寛政譜』にある。
裁決は、9月14日である。席につらなった早々に意見を述べるほど、諸事に慎重で思慮深い意次が向こう見ずな発言をするとは、ちょっと信じられないのだが。

と、いささか向こう見ずな私見を記した。
これを読んでくださった氏から、電話で「いや、そうではなく、田沼意次はかなり強硬な意見を持って評定所の評議へ参画した史料がある。深井雅海氏『徳川将軍権力の研究』(吉川弘文館 1991.5.10)に、郡上八幡一揆の五手掛で審議をした一人---寺社奉行・阿部伊予守正右(まさすけ)が書きのこした『御僉議御用掛留』が引かれいる。送るから、読むといいよ」と教えられた。学友とはうれしいものだ。
関連ページに添えて、手紙があった。

深井雅海氏『徳川将軍政治権力の研究』田沼関係の抜すいを同封します。
『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)は重要な史料なので、別に<読み下し>を作って添えました。
なお、ご参考までに、田沼時代前後の概説としては、集英社版≪日本の歴史≫シリーズの(14)『崩れゆく鎖国』がもっともすぐれていると、私は考えます。著者は経済史家の賀川隆行氏で、『江戸幕府御用金の研究』(2002年)という大著の著者でもあります。三井文庫の研究員として、故中井信彦氏の指導もうけていた手がたい研究者ですが、前記の概説書は政治や文化にも目くばりがきいていて、あなどりがたい本だとおもいます。
ついでに、故中井信彦氏の『転換期幕藩制の研究』(1971)は、江戸中~後期の政治史と経済史の統一的把握を試みた記念碑的著作で、未だにこれを越えるものは出ていないと思いますが、史学界ではまだ十分な評価をうけていない気がします。

ふつうなら、ぼくなんかの視野の外にある本たちである。さっそく、図書館へ走って、予約を入れた。

まず、集英社版≪日本の歴史≫シリーズ。賀川隆行さん『崩れゆく鎖国』(1992.7.8 2400円)が区内の別の図書館からとどいた。
著者略歴
1947 福井県に生まれる
1973 財団法人三井文庫研究員 現在に至る
1975 一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学のち社会学博士
専攻 日本近世経済史

_120『崩れゆく鎖国』の目次の一部
 第1章 田沼意次の時代
     1 吉宗の政治
     2 混迷する藩政
     3 田沼政権下の政治状況
     4 天明の大飢饉
 第2章 全国市場と長崎貿易
     1 米の流通市場
     2 絹・木綿・水油
     3 長崎貿易
     4 銀山・銅山・たたら製鉄
 第3章 洋学と世界認識
     1 『解体新書』の翻訳
     2 地理学・天文学と世界認識
     3 蝦夷地探検
     4 安永・天明期の町人文化
 第4章 寛政の改革
     1 松平定信政権の誕生
     2 寛政の改革
     3 学問と出版の統制
     4 関東農村の立て直し
 (以下略)      

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2007.08.09

銕三郎、脱皮(5)

「ふむ。駿河を旅なされてきたと---」
井上立泉(りゅうせん)は、温和な微笑をうかべながら、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)が持参した父・宣雄(のぶお)の書状と、小田原土産の〔ういろう〕を受けとった。

銕三郎は、父から、井上立泉先生にも〔ういろう〕をお届けしておくように---と指示されたのである。
「薬のご研究に、なにかと役立とうほどに---」
宣雄はそういい、いっしょに手渡す手紙をしたためた。
それを今日、銕三郎が芝・新銭座町の井上宅へ届けた。

立泉は、宣雄とほぼ同年齢といっていい。亡父の跡を継ぐようにして、西丸の表番医になったのが、一昨年の33歳の時であった。
立泉の嫡男・茂一郎銕三郎と年齢が近かったことから、男の子の躰の変化をめぐって、西丸の書院番組にいた宣雄と、親しく口をきくようになっていた。

「ふむ。有名な〔ういろう〕とは、珍重々々」
立泉は、さもうれしげに、笑顔を銕三郎にむけていった。
なに、〔ういろう〕のような売薬は、これまでに10数名から旅帰りみやげとして貰っている。しかし、銕三郎を落胆させないために、大げさに喜んでみせている。

しばらく、待てような。息・茂一郎の帰宅もまもなくゆえ、と立泉は、診療部屋へ引っ込んだが、すぐに戻ってきて、
「お父上からの書簡に、ついでだから五躰の診察を---とある。診てしんぜようほどに、浴衣に着替えられよ」

診察部屋へ入ると、横になるようにいわれ、見習いの医生の手で帯紐を抜かれた。
首、肩、胸、腹---と触診。
「ふむ。大人への兆しの、股間の芝生も、なかなかに生えそろってきましたな。しかし、なんだな。一線をはさんで、左右になびくように生えそろっている乙女のほうが、風情はまさるな。男の子のは、勝手気ままな生えぶりだからの」
冗談のようなことを口にしなが、毛をちょっとつまんでから、指先で股のつけ根をつっと押す。
「こんどは、うつ伏せになって---」
背中から腰を触診し、ふくらはぎを掌でつかむ。
「ふむ。歩き疲れはとれているようだ。結構々々」
ぽん、と尻をたたいて、おしまいになった。

帰りぎわに、医生が書き写したという『和漢三才図会』の甘草(かんぞう)の記述を渡された。
「お父上は、本草学にくわしい平賀源内(げんない)どのにお会いになり、本草に興味をもたれたのだそうな。〔ういろう〕の薬剤をお尋ねでの。甘草がほとんどといってよく、あとは朝鮮人参とか陳皮(ちんぴ)などが少量---としたためておきました。甘草は、いまでは、多くの藩の薬園で栽培されておりましてな」
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2_360

「ご勉学も大いに結構なれど、餅は餅屋、とお伝えくだされ」

銕三郎は、そのことよりも、立泉のいった、乙女のそれは、「一線をはさんで、左右になびくように生えているいる」との言葉のほうを、頭の中でくり返していた。
供の太助の話しかけにも、生返事しか返さないので、太助も黙ってしまった。
芙沙のは、一線を指でやさしくなぞっただけで、しかと見たわけではなかった。
そんなことにまでは気がまわらなかった。
仮りに気がついたとしても、外に置かれた行灯の芯が短くしてあったから、蚊帳(かや)越しの薄暗い明かりでは、芝生の目のなびきぐあいまで確かめられたかどうか。
抱かれ、つきあげられ、ゆすられ、互いに高まっていった感触は、いまもおぼえているが。
(もう再会することはかなうまいが、せめて、割れこんだ線だけでも、目にとどめておきたかった)

立泉から父・宣雄への書状に、
(淋疾のことはご放念されてよかるべし)
とあることを、銕三郎は知らない。

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2007.08.08

銕三郎、脱皮(4)

「ほう。信香院へも、熊野神社へも詣でてきたとな」
長谷川讃岐守正誠(まさざね)は、感に堪えたような声をあげた。
牛込(うしごめ)納戸町の4070石の屋敷である。
報告しているのは、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)。駿州・田中藩城下へ行ったついでに、瀬戸川下の小川(こがわ)まで足をのばしたことを告げた。

長谷川家は、藤原秀郷(ひでさと)の末裔が大和国の初瀬(はせ)へ移り住み、長谷川を称したことになっているが、歴史に名をだすのは、駿河国の小川の豪族・法栄長者としてである。
最近、小川城の遺跡が発掘され、今川家の支配下にあったことが証明された。
『小川町史』によると、小川城が大永6年(1521)、水野吉川多々羅山内らの謀反によって落城、熊野へ落ちた長谷川元長(もとなが)が、今川義元(よしもと)のもとへ立ちもどった時に、熊野権現から3社を勧請・祭祀したことになっている。

また、信香院は、法永長者の孫とも曾孫ともいわれている紀伊守(きのかみ)正長が、弟・藤五郎とともに遠州・浜松郊外の三方ヶ原で戦死したその遺体を葬ったと。
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(信香院の山門)。

「したが、大叔父さま。その墓は、150年のあいだに見るかげもなく朽ちておりました。銕三郎、悲憤の念にくれましたこと、申すまでもございません」
銕三郎としては、餞別を1両ももらっている手前、慷慨して見せざるをえない。

長谷川家の者として、悲しいのお。どうであろ、三郎助。わが家で墓石を新しく建立しては---」
正誠が、養子の正脩(まさむろ)に問いかけた。正誠はすでに致仕していて64歳。じつは正誠も分家(500石)からの養子で、正脩は実弟である。正脩は49歳。まだ、お上に召されていない。
「当家が手配するのはいと易(やす)きことなれど、ご本家の小膳正直(まさなお)どのの面子(めんつ)もありましょうほどに---」

けっきょく、正誠正脩も動かず、信香院に紀伊守<strong>正長の墓を新しく建立したのは、正脩の嫡子・栄三郎正満(まさみつ)の時であった。さらに後日談をいうと、銕三郎(平蔵宣以)の次男・正以(まさため)が正満の養子に入って4070石の長谷川家を継いだ。

「それにしても、銕三郎は、こたびの旅で、見違えるほどの若者ぶりになったものよのう」
軽い咳をおさえながらいう正誠の背を、正脩夫人がさする。
「大叔父さま。持参いたしました〔ういろう〕は、咳にも即効がございまようです。早速に温湯(ぬるまゆ)でお召しください」
すすめながら銕三郎は、三島でのあの夜、噴射して果ててかぶさった背中を、お芙沙がやさしく爪を立てながら愛撫してくれた感触を思いだしていた。
と、とつぜん、股間にきざしてきたので、あわてて辞意を告げる。

【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙] (2)

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2007.08.07

銕三郎、脱皮(3)

みやこのお豊さんから、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以)が、餞別返しに求めてきた、小田原名物の 虎屋の〔ういろう〕について、以下のようなコメントとともに、貴重な素材をお貸しいただいた。

銕三郎のお土産は小田原の透頂香「ういろう」ですね、東海道を往来する諸大名はもとより庶民もあの薬を求めて道中の常備薬やお土産としてし諸国に知れ渡っていたようです。

今でも小田原の旧街道国道1号線沿いに『東海道名所図会』そのままの八つ棟造りのお城のようなお店があり、薬コーナーとお菓子コーナーにわかれています。

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(秋里籬島『東海道名所図会』  小田原・虎屋 絵師:春暁)

銕三郎が購いに行ったときも、上の絵にあるように、天守閣じみた破風づくりを載せた店構えであったろう。『東海道名所図会』は、こうも記している。「北条氏綱の時、京都西樋洞院錦小路外郎(ういろう)という者、この地へ下り、家方透頂香(とうちんこう)を製して氏綱に献ず。その由緒は、鎌倉建長寺の開山大覚禅師、来朝の時供奉し、日本へ渡り、家方をこ弘(ひろ)む。氏綱これを霊薬とし、小田原に八棟の居宅を賜り、名物として世に聞ゆ---」 八っ棟づくりのゆえんだな)。

同店---外郎(ういろう)藤右衛門の概歴はこうも詳述。
「わが祖先は、支那台州の人陳氏延祐といい、元の順宗に仕え、大医院とり、礼部院外郎(礼部院という役所の定員外の郎)という役であったが、明が元を滅すと二朝に仕えることを恥じてわが国に帰化して陳外郎(ちんういろう)と称した。その子宗奇が後小松天皇の御代・足利義満の命に応じて明国に使いしたて家方の〔霊宝丹〕を伝えた。効能顕著であったから、朝廷、将軍家をはじめ皆これを珍重した。これにより、時の帝より透頂香の名を賜った(後略)」

薬の「ういろう」は銀色の極小粒の仁丹のような丸薬であらゆる症状に効能があるといわれています。

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(虎屋のリーフレット。銕三郎は印籠は求めない。それぞれの家が家紋入りのを持っているからである)。

西川柳雨は『川柳江戸名物』で、虎屋外郎の江戸の支店は両国横山町角にあったとしているが、『江戸買物独案内』には、その薬名はない。たぶん、類似薬を触れ売りしたのであろう。

虎の威をかりて外郎売りあるき
虎の威を五種香売りもちっと借り

小田原の店で買ってきたということで、信用されたとおもう。
店の屋号は虎屋、 『図会』にも描かれているように、虎の絵の衝立が飾られていた。

リーレットの歌舞伎絵は、市川団十郎家の[ういろう]売り。

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2007.08.04

銕三郎、脱皮(2)

翌日も、江戸は、からりと晴れた。
そういえば、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)が東海道を往復した10日間も、曇り日こそあったが、雨は降らなかった。

銕三郎は、帰着の報告にことよせて、餞別返しに、土産の妙薬「ういろう」を配ってあるくことにした。
供は、太作である。

銕三郎は、
(きのうは、父上(平蔵宣雄)にあまりにもそっけなくしすぎたかな)
いささか反省していた。ありていにいうと、三島でのお芙沙とのことがあって、父の目を見ていられなかったのだ。

「父上から、何か仰せがあったか?」
「何か---とおっしゃいますと?」
「その---三島、でのことだ」
「若さま」
太作が、はたと、足をとめた。
場所は、これから訪れる長谷川家の本家・小膳正直(ただなお)の番町の家に近い、城の西・千鳥ヶ渕の傍(はた)で、人通りが絶えている。
「----」
「殿さまは、こうおっしゃいました。そのことは、父子といえども、あからさまにしてはならぬ男の子の秘事であろう、と---」
「ふむ」
「さらに、奥方さまには内緒にしておくように、と」
「おお。ありがたい」
「したがいまして、太作は、すべてを忘れることにいたしました。若さまも、お忘れなさりませ」
「忘れがたい。忘れたくない。したが、太作の申すとおりにする」
「男と男の約束でございますぞ。すべては夢の中のこと」
「夢なら、覚めたくはないがの」
「若ッ!」
「愚痴であった。許せ」

一番町新道(現・千代田区三番町6あたり)にあった長谷川小膳(のち太郎兵衛)正直(1450余石)の本家から餞別のお礼に廻ることになったのは、
「餞別をいちばん多くはずんでくれた、納戸町の長谷川久三郎正脩(ただむろ 4070余石)どのから廻ろう」
という銕三郎の提案を、太作がぴしゃりと退け、
「家禄は違っても、ご本家はご本家でございます。いかなるときも、順をおまちがえなすってはなりませぬ」
ここでも、銕三郎は、大人への脱皮をさせられ、九段坂下から千鳥ヶ渕へやってきたのである。

西丸小十人頭の小膳は城詰中で、夫人の於左兎(さと 45歳)が土産を受け取り、
「しばらくお目にかからぬうちに、銕三郎どのは、なにやら、すっかり、大人びてまいられましたな」
お世辞とも、本音ともつかぬ口ぶりでいった。
分家の子といえども、家督する長男に対しては、於左兎といえども礼をつくす。
銕三郎は、玄関の式台だけで、早々に引き上げた。

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2007.08.03

銕三郎、脱皮

銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの鬼平こと平蔵宣以 のぶため)に、なにか起きたのかな?」
父親らしい気の遣い方で、宣雄(のぶお 41歳)が太作(50歳)に訊いた。

銕三郎は、田中藩領内への旅から帰着し、調べてきた歴代の田中城代の名簿を父親に差しだすと、
「城代家老の遠藤百右衛門さまが、父上に、くれぐれもよろしゅう、とのことでございました」
そういったきり、疲れているので、小川(こがわ)湊の報告は日を改めて---といい、自分の部屋へ引きこもってしまったのである。

「殿さま。銕三郎さまは、さなぎから成虫におなりになりました」
「ほう。それはめでたい。もろもろの手くばり、ご苦労をかけた。して、いずこで?」
「三島でございます。本陣の---」
「待て、太作。このことは、父子といえども、あからさまにしてはならぬ男の子の秘事であろう。少年の殻から無事に脱皮したということだけわかれば、それでよい」
「はい」

「相手方に懐妊などということが明らかになった時にのみ、父親として責任をとればよかろう」
「そのようなことは、起きはいたしませぬが---」
「このこと、奥には内緒にな」
「承知いたしました」
「女親というのは、男の子を、いつまでも子どものままでおきたがる」
「はい」

二人は、目を見合わせて笑った。主従としてというより、男同士として。
「これは、お預かりしていた費(つい)えの残りでございます」
「それは、そちへの謝礼金としておいてくれ」
「いえ、それは---。せっかくお志でございますれば、ありがたく頂戴しておきます」

銕三郎は、自分の部屋に戻って、ひっくり返った。
やはり、わが家はいい。
身のまわりに、餞別をくれた親類への土産をころがしている。荷がかさばらないようにと、小田原の「ういろう」にしておいた。

三島宿からの帰りの道中ずっと、銕三郎は躰の奥深いところで、変化が起こりつつあるのを感じていた。
二度目の合歓をお芙沙(ふさ 25歳)が避けたわけを類推しているうちに、もしかしたら、あれは、これからの武家生活に訪れる蹉跌と、それに耐えなければならないことを悟らせてくれる、お芙沙の、文字どおりの母心だったのかもしれないと、考えられるようになってきていた。

(お芙沙は、仮(かりそめ)の母親と、幾度も念を押していたなあ)
そう思うと、お芙沙の嫋嫋(じょうじょう)とした姿態のなかに感じられた、彼女の悲しみにも同情できた。

(一人前の男になるということは、こういうことなのだな)
銕三郎は、一気に大人の仲間入りができたように思えた。
(よし。明日から、また、道場で稽古だ)

どうやら、こんどの旅は、宣雄が、銕三郎にそれとなく脱皮をさせるためのものであったようだ。

参考:お芙沙との経緯]
 仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)
 〔荒神(こうじん)の助太郎(3)
 仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)

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2007.08.02

松平武元後の幕閣

いわゆる[田沼時代]を、何時からいつまでとみるかは、史家によっていろいろである。
老中首座・松平右近将監武元(たけちか)の没後以降とする見方も、一理ある。
武元は、享保の改革を主導した8代将軍・吉宗から後事を託されていたから、いかに田沼に構想があっても、武元の了解なしでは腕がふるえなかったとも見られるからである。
そこで、武元没後の幕閣リストをつくってみた。

青○=松平武元
赤○=田沼意次
緑○=田沼意知
黄○=松平康福 娘が意知の室

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ながめているだけで、さまざまな妄想が、雲のように湧いてきて、飽きないが、ほかの人はどうなんだろう。


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2007.08.01

田沼主殿頭意次(おきつぐ)

あとさきになるが、氏の講義録の書き出しは、こうである。

郡上騒動から生まれた田沼政権

江戸中期に郡上八幡を中心に大きな騒動が起こって、天下をゆるがしたことがある。これが近年〔郡上一揆』という映画になって上映され、多くの人の共感をよんだ。

【参考】映画『郡上一揆』

江戸後期には、この騒動よりもはるかに多数の農民を巻き込んだ一揆や騒動は全国各地に頻発しているが、その中でも、これは暴発的な破壊行動を極力避け、権力の中枢部に対して整然として道理に訴える活動を展開した点で、極めて政治的に成熟した農民運動だったし、またそれに対応した幕府側が最高の政治機関である評定所で審議を行い、農民側の中心人物の処刑という重い罰を課した他に、郡上藩の取り潰しとか、老中や勘定奉行を含めた幕臣たちの処罰といった異例の結末によって、ほかの百姓一揆とは全く違う特別な意味があった。

幕閣・藩主側の処罰を、『柳営補任』から拾って記す。

本多伯耆守正珍(まさよし) 老中罷免 伺之上差控 
 (駿州・田中藩主 4万石 49歳)
本多長門守忠央(ただなか) 若年寄罷免 領地公収
 (遠州・相良藩主 1万石 54歳。御預け)
曲渕豊後守英元(ひでちか) 大目付罷免 閉門
 (1200石 68歳)
大橋近江守親義(ちかよし) 勘定奉行罷免 改易
 (2120余石 御預け)

金森兵部少輔頼錦(よりかね) 領地公収
 (美濃・郡上八幡藩主 3万9000石 51歳
  御預け 家臣追放)
 
この処置について、氏は、

_110実はこの事件の審議の前後から田沼意次(おきつぐ)が評定所に参加するようになり、この責任者たちの処分には彼の意向がかなり反映されていたらしいから、これを田沼時代の幕開けとする見方もある。(こういう面から郡上騒動を扱った本では、大石慎三郎著『田沼意次の時代』がよい手引き書)。

I氏説に異を唱える気持ちはさらさらないが、意次が評定所の式日に席につらなるように下命されたのは宝暦8年9月3日ともとれる記述が、意次の『寛政譜』にある。
裁決は、9月14日である。席につらなった早々に意見を述べるほど、諸事に慎重で思慮深い意次が向こう見ずな発言をするとは、ちょっと信じられないのだが。
しかも、金森頼錦の罪状は、農民への重税を課そうとしたことに端を発している。

氏は、こうも書いている。

反抗する百姓たちを押さえるために幕府の老中や勘定奉行・郡代まで巻き込んだから、、幕閣の中の農業改策観の対立へと発展し、この機会に(吉宗主唱による)享保改革以来の重税派人脈を新政策推進派の中心だった田沼が追い落として、商業流通への課税に重点を移すという幕府政治の重要な転換が図られていったのである。

「追い落とし」ということであれば、老中を罷免された本多伯耆守正珍も農民への重税派ということになるが、田中藩の徴税がはたしてそうであったかは、まだ、調べていない。
本多長門守忠央の相良藩についても同然である。

あえて私見を述べると、老中首座・松平右近将監武元(たけちか)が、いまだ健在の時期である。武元は、吉宗の信任をえて、享保改革政策の継承まかされていたはず。
意次もそのことは十分に心得ていたろう。
武元が卒する21年後の安永8年(1779)までは、急激な政策転換は果たせなかったかともおもうのだが。
あるいは少なくとも、昨日の日記に記した、石谷豊前守清昌(きよまさ)の勘定奉行着任の宝暦9年(1759)9月までは---。
 

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