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2007.08.21

徳川将軍政治権力の研究(7)

農民一揆で仕置が悪かったと処分された郡上藩々主・金森兵部少輔頼錦(よりかね 宝暦8年46歳)の、『寛政譜』の個人の項から、2007年8月20日[徳川将軍政治権力の研究(6)]に、以下の文を引いた。

「さきに石徹白の社人を追放せしとき、家臣等曲事ありしをもしらず。また石徹白豊前が悪事を訴えるものありしを、豊前が罪をも糾問せざるにより、争訴いよいよ止ず」
じつは、次のあと数行も、引用すべきであった。

「これ等のことは、官に達して裁断をも願ふべきのところ、豊前が罪明白なり。しかるにこれをしらずして、多くの社人を追放せし結果、かたがた其罪軽からずとて領地を収められ南部大膳大夫利雄にながくめしあづけらる」

「これ等---」は、石徹白(いとしろ)紛争と農民一揆をさしているとみていいが、ここでは名ざしされている豊前について、分かったことを書き留めておく。

この豊前とは、「白山中居(はくさんちゅうきょ)神社」(岐阜県郡上市白鳥町石徹白(いとしろ)2-48 URL)の神主で、石徹白豊前がその姓名である。
再審査による裁決は、死罪。ただし、社家たちとの紛争の明細は、いまのところ、依然として不明である。現地の郷土史家の方のご教示をいただきたいところ。

白山中居(はくさんちゅうきょ)神社のことは、社地の支配権に属する争いのようなので、評定所というより寺社奉行の管轄であろう。

2007年8月19日[徳川将軍政治権力の研究(5)]に、深井雅海さんの同著(吉川弘文館)の第1編・第4章 [御用取次田沼意次の勢力伸長]から引用した、『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ) の宝暦8年(1758)10月7日の分にも、この件を、『御僉議御用掛留』を書きとめていた阿部伊予守正右(まさすけ 備後・福山藩主 寺社奉行 36歳 10万石)が、当時、寺社奉行だった本多長門守忠央(ただなか 遠州・相良藩主 51歳 1万5000石)が、同役の青山因幡守忠朝(ただとも 51歳 丹後・篠山藩主 5万石)と、鳥居伊賀守忠孝(ただたか 43歳 下野・壬生藩主 3万石)へ事の次第を報告したかどうかを確認していいる。

この件についての鳥居伊賀守忠孝の返答は、記録には書きとめられていないが、自分の屋敷だったか、いまは大坂城代になっている井上河内守正賢(まさよし 当時、寺社奉行 岩城国平藩主 2万6000石 宝暦6年大坂城代 宝暦8年:34歳)どのの邸宅だったか、記憶は定かでないが、そう、自分の屋敷に寄り合った時だったように思うが、話しを聞いたような記憶がある---であった。

ここで名前が出た井上河内守正賢は、『寛政譜』では正経(まさつね)となっている。

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上掲の個人譜に、

(大坂城代だった宝暦8年)10月4日、めされて江戸にまいるの中途にして、親族本多長門守忠英の誤記)、金森兵部頼錦が事に坐し、出仕をとどめられらるるの告をきき、参府して潜居するのところ、11月19日ゆるさる。

「親族本多長門守忠央とある。井上河内守正経の父・河内守正之(まさゆき)の正妻が忠央のすぐ上の実姉なのである。したがって、正経にとって忠央は外叔父にあたることになる。もちろん、正経の父の正妻の子ではない。

個人譜にあるとおり正経は、奏者番は28歳、寺社奉行兼帯は翌年、大坂城代が32歳、京都所司代が34歳、老中は36歳とい速さだから、相当に切れものだったのだろう。42歳で卒しているため、田沼意次としては、名門の強力ライバルの一人が消えてほっとしたか。

それにしても、本多長門守忠央の処罰を聞いて、さっと自発的に謹慎するあたりの気の利かせ方はみごと。こういう身の巧みな処し方は、だれが教えるのだろう。父・正之は、正経が13歳の時に卒している。

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