[御所役人に働きかける女スパイ] (2)
三田村鳶魚翁[御所役人に働きかける女スパイ](中公文庫 鳶魚江戸文庫⑧『敵討の話 幕府のスパイ政治』 1997.4,18)から、引用している。
女スパイの嫁入り
内命を受けて赴任する山村信濃守は、一切を胸底に収めて、黙々として着京した。
内命の次第を知っているのは、幕閣からの通達によって、所司代土井大炊頭利里(としさと 52歳 古河藩主 7万石)ただ一人だけだ。
【参考】2009年9月4日[備中守宣雄、着任] (3)
2009年7月15日~[小川町の石谷備後守邸] (1) (2)
山村は同僚の東町奉行酒井丹波守にさえ漏さない。
もとより隠密の御用なのだから、手付きの者にも言わない。組下の与力・同心には、いずれも数代京住の輩ゆえ、いかなる縁故があって、御所役人へ漏洩せぬとも限らぬ。
【ちゅうすけ注】このことは、銕三郎の禁じ手の一つでもあったことは、これまでに記した。
探索の要員としては江戸から、前職・目付の下役だった腕利きの徒(かち)目付、小人目付を内々に上京させたという。
そうだから、隠密御用で入洛した連中は、夜陰人静まった頃でなければ山村信濃守のところへ忍んで来ることをしないほどであった。
こうして、着任後の半年を、江戸から隠密御用で来ている人々と共に、懸命な捜索につとめたけれども、何の甲斐もない。さすがに山村信濃守も手段方法に尽き果てて、命令の仕様もなく、隠密方も工夫才覚が断えて、献策する者もなくなってしまった。
ここで、女スバイ案が登場する。
京都と大坂を結ぶ水路の淀川ぞいで、いまは枚方市にとりこまれている楠葉の里の出身の徒目付・中井清太夫の名は、上掲・[小川町の石谷備後守邸] (2)にあげておいた。
鳶魚翁の筆を借りると、
今度上京した御徒目付中井清太夫、この清太夫は河内楠葉の郷士の倅で、親父仁右衛門が利口な当世向きの男だから、如才なくその向々へ取り入って、倅清太夫を御普請役(四十俵五人扶持)に採用してもらった。
微禄にもせよ、河内の在郷から、大名衆にでも抱えられることか、新規お召出しというので、天下様の御家来、御直参にあり付いたのだ。
才覚者の仁右衛門の倅だけに、清太夫も才走った上手もの、身上も富裕だから、賄賂も惜しげなく遣う。
たちまちに御徒目付(百俵五人扶持)に進んだ。御徒目付は骨の折れる役で、その代り働き振りも見せられる。
御用向きが広く、何と限らず勤めて出なければならぬから、この場は御目付支配の中での大役で、励み場といった。
鳶魚翁は、見てきたような書きぶりだが、さて、原典どおりなのか。
その原典がなにだったのかは、不明である。
清太夫も、今度の上京には御勘定(百五十俵、御目付と同等で、この役からお旗本の列に入る)の格式であった。
清太夫の故郷河内の楠葉に、実弟中井万太郎がいる。この万太郎に、当年二十一歳になる娘、美人でもあり怜俐なものであった。
その頃にしては、嫁期を逸していた。
言い分のない女なのに、なぜか縁遠い、その縁遠いのを疵にして、持参金を多く付け、御所役人へ嫁にやる。
公家の諸大夫などという連中は、江戸の御家人と、貧乏は御同様だが、根性の綺麗でないことは比較にならない。
女房喰いは、ほとんど常習になっている。
田舎の物持から来る持参嫁は大喜び、彼等が咽喉を鳴らす代物だ。
清太夫は姪(めい)女に、伯父が一期の浮沈、中井一家の興廃、さては大切な隠密御用の次第を委細に申し含めて縁付ける。
これは女探偵の嫁入り、妻になって夫の悪事を探る。思えば人倫を破壊する運動だ。
差し当って、伯父が姪女を残虐するのだ。
鳶魚翁も、清太夫の案は人道にもとるとは非難しているが、[御所役人に働きかける女スパイ]の初所載は『随筆 江戸の噂』(春陽堂 1926)だから、冗談めかしていうと日本人はまだ『007ロシアから愛をこめて』(1957)の洗礼をうけていなかった。
この事件を小説にした諸田玲子さん『楠の実の熟すまで』(角川書店)は、さすがに女性の目で、いまと゜きの若い読者には愛のない結婚は受け入れられまいと、ヒロインの女スパイ・利津(りつ 21歳)と、入婚相手の御所役人・高屋遠江守康昆(こうこん 40歳)のあいだに、慕情といつくしみのこころをかよわせている。
【参照】2009年8月10日[ちゅうすけのひとり言] (36)
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[命婦(みょうぶ)、越中さん]
『幕末の宮廷』
『翁草』 鳶魚翁のネタ本?
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コメント
ご無沙汰しました。
面白くなってきましたねえ。
鳶魚翁は必ずしも史実のに忠実ではなかったのかも知れませんね。
まあ、上からきちんと手当の出る学者さんとは異なり、売文業者の一人ですから、面白く書かないと売れない。そのあたりは、講談師と大きくは違わなかったのでしょうか。
しかし、ちゅうすけさんのこれは、タダで提供されているブログです。タダなのに、おもしろい話が提供されるというのは、どう考えたらいいのか、混乱します。
いや、とにかく、禁裏役人の汚職というのは、最近の千葉県庁の事件もあることで、税金意識の低さは江戸期もいまも似たようなものなんですね。ということは、古今東西ということかなあ。
投稿: 左衛門左 | 2009.09.21 05:54
>左衛門佐 さん
しばらくぶりでした。
目利きの左衛門佐さんに、「面白い」とご評価していただいて、安堵です。
テレビからの鬼平ファンの方々には、ちょっぴり歯ごたえがある話題かな---と案じています。
でも、この話も史実ですから。
明日、この話は最高潮です。ご期待ください。
投稿: ちゅうすけ | 2009.09.21 08:23